投稿日時:2006/03/16(Thu) 23:57

おなまえ:管理人(樋田昌志)
Eメール:toyoda@avis.ne.jp
タイトル:京都・奈良辺りの痴犬どもへの破折 1

寧楽寺法論の検証と破折が一通り終了した。
が、その内容を投稿している間に、今回の創価学会側法論者と関係があると見られる、京都・奈良辺りの大変知能の低そうな痴犬が大層下劣な書き込みをヒステリックに続けていた。

内容的には実に軽佻浮薄ではあるが、現場の普通の青年部クラスの妄執がよく表れているので、今後の破折の便の為に完全に粉砕しておく。

この痴犬らの恥論を粉砕し切ったらそれもまとめて「寧楽寺法論の検証と破折 2」としてアップする予定である。
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> 投稿日時:2006/02/24(Fri) 01:40
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> おなまえ:エロ如68号
> Eメール:
> タイトル:Re:[1999] 奈良県奈良市の日蓮正宗寺院・寧楽寺で行われた法論内容について 2
> URL :
>
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●大体にして、HNからして、低脳である。
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●>> 平成二年の春か夏だったか、同時放送で池田が「日淳上人、日達上人までは良かった・・・」と発言したのを聞き愕然とした。正に我が耳を疑った

▼> 春か夏かハッキリせんかい! そうそう耳を疑いなさい。
>  (^^ゞ

●これは個人的な、しかし確たる体験である。
これに類する池田氏の衛星同時放送での、猊下蔑視・宗門誹謗・僧侶軽視・・・・等の発言が何回もあり、そのつど心ある学会員から宗門へ報告が入っていたのである。
その流れの中に11・16の謗法スピーチが位置するのである。

まさに
■「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。」

池田大作氏の僧を謗る「謗法発言」である。

■「懺悔すれども懺悔の後に重ねて此の罪を作れば後の懺悔には此の罪きえがたし。」

52年の教義逸脱謗法路線を平身低頭で詫びたにも拘わらず、またしてもこのような驕慢な言動をしていれば
「総講頭の資格喪失」など当たり前すぎるほど当たり前な処断である。(しかも改心すれば再就任に可能性だってあった)

しかもこの総講頭資格喪失以降の聖教新聞・創価新報の狂騒ぶりは実に尋常ではなかった。

かの日尊師は日興上人に破門されてから、我が身の不徳を恥じ、師の仰せに発奮し、十二年という長きにわたって精進努力し、多くの寺を建てながら、西に東に法を弘め、ようよう破門を解かれたのである。
即ち日尊師は、この御叱責をもって禍いを転じて福となし≠サの御生涯に大いに功徳を積むことができたのである。
翻って池田氏はどうか。
叱責を受けてから、いよいよ師逆の心底を剥き出しに、悪口・非難・中傷・誹謗・・そして驕慢による自己正当化のオンパレードではなかったか。
これでは、正式に破門になってもまたこれ当然過ぎるほど当然である。

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●>> 「猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません。」

> ▼その通りですね あたりまえです

●やはり、信心が全く無い痴犬である証拠である。

以下、宗務院からの指摘を抜粋し、編集する。
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☆ 「猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません。」との発言は、血脈付法の御法主上人を蔑如(べつじょ)したものであり、まさに池田名誉会長の慢心を吐露(とろ)したものであります。
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☆ 宗務当局が、この発言について、なぜ厳しく糾弾をするのかということを、果たして貴殿らは考えたことがあるのでしょうか。
 発言当時、総講頭の立場にあった池田大作氏に、日蓮正宗の信徒として、常に模範的な信仰姿勢が要求されるのは、むしろ当然のことです。池田大作氏の「猊下というものは」云々の発言が、それに反するから問題になったのではありませんか。
池田大作氏に、五十二年路線の反省がなく、当初から基本的な信仰心が欠落していると判っていたならば、最初から、それに対する別の処置もあったはずです。
 貴殿らをはじめ学会首脳幹部は、「猊下というものは」云々の発言を正当化するため、いたずらに言葉の解釈に執(とら)われるのです。一般の客観的事物を対象にして言えば、それは間違っていないかもしれません。
しかし、主観的信仰的立場で見れば、やはりこの発言は不遜(ふそん)であり無礼であります。
このことは、例えば総理大臣や会社社長といった客観的社会的立場の人と、もっとも崇高であるべき信仰の、そのまた命脈(めいみゃく)である血脈付法の御法主上人とを、貴殿らが同一次元で捉(とら)えている証拠であります。
結局、貴殿らには、純粋的信仰の次元で、唯授一人血脈付法の御法主上人を拝する心がないのであり、本宗信仰の基本的な拝し方に誤りがあるのです。
 池田大作氏の「猊下というものは」云々発言の対象は、唯授一人の血脈を承継あそばされる御法主上人にあらせられますが、その法体は、日蓮正宗の信仰の命脈であります。
したがって、日蓮正宗の僧俗が、発言等において御法主上人に及ぶ場合、公私を問わず、そこには必ず深い信仰的尊崇の念と、その念から必然的に起こる言葉の選択がなければなりません。
それが信徒であるならば、なおさらのことです。
かりに客観論や一般論として述べる場合であれ、決して「猊下というものは」などと、尊崇すべき御法主上人を評述するようなことがあってはならないのです。
まして、信徒間の会合ならば、言わずもがなのことでありましょう。
 また、その他の点についても、貴殿らは、「何度読み返してみても意味不明の強弁を展開しています」などと言っておりますが、そのような言葉が出ることは、普通一般の読解力のなさというより、信仰における根本的な立脚点が誤っているからです。
つまり、池田大作氏のような、「猊下というものは」などと平気で口にする似非(えせ)宗教家を師匠とするから、宗門側の言う意味や道理が判らないのです。
否、むしろ判ろうはずがないと、申し述べておきます。
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☆ 「猊下というものは」などと、御法主上人を指導、もしくは批評するごとき言語表現が、公然となされておりますが、日蓮正宗の信仰をする者として、あまりにも謙虚さに欠けた慢心の言であると思います云々
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☆ 大体、「○○というものは◎◎でなければいけない」との表現法は、言い換えると「◎◎であるべきだ」と、その有りようを論じ、規定するものであります。
対象が人間であれば、そこに訓戒の意も加わり、一般的に上位の者が下位に対して用いる語法といえます。
少なくとも、尊敬する人について用いる言葉遣いでないことは明らかであります。
ゆえにこの発言は、信徒の立場で、仏法教導の師として仰ぐべき御法主上人に対し、こうあるべきだと有りようを語った、実に傲慢無礼な暴言であります。
それも、何十万という大勢の信徒を対象に指導したスピーチでのことであり、決して許されるべき行為ではありません。
 さらに、続いての「権力じゃありません」との言は、発言者自身が、猊下は権力を振りかざしていると認識していなければ、到底できない発言であります。
すなわち、猊下の信徒に対する御指南を、権力によって信徒を抑えつけるものと決めつけ、それを非難したところに真意があるというべきであります。
 そもそも本宗において、御法主上人が至尊の御方であることは、いまさら申すまでもありません。
それは、大聖人以来の血脈法水を御相承され、御一身に所持遊ばされているからであります。
このことは、御本仏大聖人が末法万年の法体護持、令法久住をはかられる上で、「血脈の次第日蓮日興」と、その方規を明確に定められたところに淵源が存するのであり、以釆、嫡々師資相承して、御当代に至っているのであります。
 したがって、時の御法主上人は、その権能の上から一宗を総理し、つねに令法久住、広宣流布への方途を指し示されるのであり、僧俗は挙ってその御指南を拝し、信行に遭進していくべきことは、理の当然であります。
 このことから、名誉会長が「猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃいけない。権力じゃありません」と発言し、血脈付法の御法主上人を見下し、悪しき権力と決めつけたことは、本宗信徒として、絶対にあるまじき慢心による不遜な言動であり、強く指弾されるべきであります。
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●>> (参考 池田発言⇒「信心の二字の中にしか、本尊はないんです。本門戒壇、板御本尊、何だ。寛尊は『信心の中にしか本尊はない』と。ただの物です。いちおうの機械です、幸福製造機だから。」⇒『戒壇の大御本尊』否定)

> ▼君の耳がおかしいか 改竄やな しょうもな(゜o゜)
>
●「改竄」というのなら、この内容は適切でない、と認めるからなのであろう。
しかし、間違いなく、池田創価学会は戒壇の大御本尊否定の方向へ進みだしている。
それはそうであろう。
自分らが否定している宗派の根本尊崇の御本尊が、その対立している宗派である自分らの本尊、というにはあまりにも具合が悪いからである。
痴犬の幼稚な頭ではそういう”大人”のカラクリは推し量れないのだろう。

以下の論文も痴犬はよく読んでおくがいい。
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現在の創価学会会則では、従前の、「日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」という文言を削り取って、
 「一閻浮提(いちえんぶだい)総与・三大秘法の大御本尊を信受し」云々
とだけ述べ、その本尊が具体的に何を指すのか、故意に抽象的な表現に変更(平成十四年四月一日に改訂)している。

 さらに池田大作氏は、識者の声≠紹介する、として
 「その折り、私(識者)は、『究極に求められるものは何でしょうか』と(池田に)質問しました。おそらく『板曼荼羅(いたまんだら)の御本尊』と答えられると思っておりましたが、しかし、名誉会長は『久遠元初の法です』と答えられたのです。(中略)このことから、名誉会長が、永遠の根源を求めておられ、板曼荼羅に偏狭(へんきょう)にこだわっておられないことに、非常に感動し、創価学会の普遍性と、発展の因を見た想いでした」(平成五年五月三日)
等と述べ、永遠の根源は「板曼荼羅(日蓮大聖人の建立された御真筆御本尊のうちで、板に彫刻されたのは本門戒壇の大御本尊のみ)」ではなく「久遠元初の法」である、としている。
これは大きな誤りである。すなわち、
 「仏世(ぶっせ)すら猶(なお)人を以て法を顕はす」(御書298頁)
 「法自(おの)づから弘まらず、人、法を弘むるが故に人法ともに尊し」(御書1687頁)
等と示されるように、久遠元初の法といっても、それを覚知して説き出される御方(むろん御本仏日蓮大聖人)なくしては、誰一人として、その相貌(そうみょう)を見ることも、その尊さを知ることもできないのであり、それを大聖人が、我々末法衆生に感見のできる当体として顕(あら)わしてくださったのが本門戒壇の大御本尊(他の曼荼羅御本尊はそのお写し)である。
 したがって、本門戒壇の大御本尊を離れて、「久遠元初の法」を論じても、それは有名無実の観念的妄想であり、大聖人の悟られた法とはまったく異なる麁法(そほう)となってしまう。

 なお池田は、前の識者の声≠ネるものを挙(あ)げた後に、こう続けた。
 「やっぱり、曼荼羅はいつかなくなっちゃう。物体だから」(録音テープより)
と。同種の発言は他にもあります。
 「本門戒壇・板御本尊、何だ!寛尊は『信心の中にしか本尊はない』と。ただの物です」(平成五年九月七日・録音テープより)
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▼> 妙相寺法華講幹部、マサシくんは「法道院は間違っていた」と断言した黄倉くんに賛同でよかったかい?68号怒りまっせ〜
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●当方は妙観講員ではないし、しかも今から30年ほども前の、しかも既に決着のついていることであるので、この件についてはまるで関心がない。
一人、怒っておればよろしい。
しかし■瞋るは地獄 である。