京都・奈良辺りの痴犬への破折 再開その12  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 4月10日(月)01時19分30秒 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> DATE:  3月29日(水)12時22分13秒
> TITLE: やるね〜誤ホッスゲイカちゃま!
> NAME: エロ如68号  MAIL:
>
> (身延祖廟の承認)

> *大聖人を“悪しく敬う”「立正大師」号獲得にも奔走

▼>  日顕の父・六十世阿部日開は昭和四年六月の登座後すぐに、二年後に迫った「宗祖第六百五十遠忌」の記念事業と称して、老朽(ろうきゅう)著しい大石寺の客殿や三門、五重塔等を改修するための資金集めに着手した。

●■「一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。」
時の御法主上人としての尊い御事跡である。
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▼高額寄付者には大漫荼羅の“記念品”を贈呈するなど、御本尊や戒名、賞状の授与を“エサ”に寄付金を募ったが、折からの経済不況もあって、目標額の半分程度しか集まらず、結局、昭和六年には客殿の改修しかできなかった。

●「折からの経済不況」の中、戒壇の大御本尊まします大石寺の諸堂宇を改修・荘厳する志はまことに尊く、その信心の志に報いて御本尊下付を給うことは有り難い極みではないか。

■ 是日尼御書   弘安元年四月一二日  五七歳
□□さどの国より此の甲州まで入道の来たりしかば、あらふしぎやとをもひしに、又今年来てなつみ、水くみ、たきぎこり、だん王の阿志仙人につかへしがごとくして一月に及びぬる不思議さよ。ふでをもちてつくしがたし。これひとへに又尼ぎみの御功徳なるべし。又御本尊一ぷくかきてまいらせ候。霊山浄土にてはかならずかならずゆきあひたてまつるべし。恐々謹言。
  卯月十二日                               日  蓮 花 押
 尼是日

鎌倉時代には大聖人が坐わす身延へ参詣し、数日、数週間、あるいは一ヶ月、二ヶ月・・と大聖人へ御奉公の誠を尽くし奉ることが、信心の証でもあった。そういう純真な御信徒へ、大聖人様も斯様に御本尊を賜っておられるではないか。
その大聖人様のご魂魄坐わす、大石寺へ不況の最中に多額の御供養申し上げて御奉公の誠を尽くすことは、形は財の供養であるが、その心はまさに現時に於ける身の供養に通じるではないか。そういう篤信の信徒の方へ御本尊を賜ることは、まさにこの大聖人様の御心に準じておられるではないか。

何か、法義的に問題でもあるのか?
明確に答えよ。

 

追加  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 4月10日(月)01時29分54秒 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

答えられなければ、例の如く、大石寺三門前で石畳に、その謗法で毒され切った頭を擦り付け、御当代御法主上人と御隠尊猊下に命も縮むほどにお詫び申し上げ、御戒壇様への御目通りを請え。

 

京都・奈良辺りの痴犬への破折 再開その13  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 4月10日(月)20時56分40秒 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

学会の悪義↓
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▼>  このように、日開率いる「日蓮正宗」が六百五十遠忌を一部の堂塔の修繕によってお茶を濁そうとしていた一方で、日蓮宗各派の中で最大の勢力をもっていた単称「日蓮宗」(総本山=身延山久遠寺)は、この六百五十遠忌の最大の目玉として、「立正大師号」の「立正」の文字を天皇に直接書いてもらい、それを額に入れて身延山の「御廟」(大聖人の墓の意、「祖廟」ともいう)に掲げようと目論んでいた。

>  「立正大師号」とは、宗祖生誕七百年に当たる大正十一年に、日蓮正宗を含めた日蓮宗各派が、大聖人にも伝教大師(最澄)や弘法大師(空海)に比肩しうる「大師」号を天皇から賜りたいと運動した結果、下賜(かし)されたものであった。

>  同年十月、東京・築地で行われた「奉戴(ほうたい)式」において、当時の日蓮正宗管長・五十七世阿部日正が、身延派日蓮宗の管長の導師で、日蓮宗各派の坊主と一緒に読経・唱題した上、記念撮影におさまっているのは、「法主の過ち」の最たるものの一つとして有名な事件である。当時、宗務院総務(=現在の総監)だった阿部日開も、この“謗法与同”路線を日正と一体になって推し進めた。

>  この立正大師号問題については、当時、宗内からですら、「日蓮大聖人は、一閻浮提に肩を並べる者はあるべからずと自称され、日本国の柱を自認された御方である。なのになぜいまさら、空海の弘法大師はもちろんのこと、親鸞や法然などと同じ大師号の仲間入りをする必要があるのか」といった意見が機関紙「大日蓮」に載せられるなど、大聖人を“悪しく敬う”ものとして異論が多かった。にもかかわらず、日正、日開は、そうした宗内の反対を押し切り、請願運動に積極的に参加したのであった。
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●「大師号宣下」にまつわる誹謗を破す

           正法を滅尽させんとする低劣な粗探し
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▼学会の悪義・追加・要約

大正十一年、五十七世日正上人は宗務院総務・阿部法運師(後の第六十世日開上人)と結託し、邪宗・日蓮宗各派と共に、政府から、大聖人に「立正大師」号を宣下してもらった。このことは、国家権力をものともしなかった大聖人の御境界を下す、不遜(ふそん)な行為である。
 また、本仏大聖人に対し、何故、大師号をもらって、弘法大師(空海)ら謗法の仲間入りをする必要があるのか。これは、大聖人を悪しく敬う大謗法”であり、当時の宗内でも、若かりし頃の日達上人はじめ反対の声が強かったのを、阿部法運師が封殺してしまったのである。
 さらには、その『大師号降賜請願書』には、大聖人が御本仏であるとか、出世の本懐は戒壇の大御本尊であるとは触れておらず、「我国歴史上二於ケル顕著ナル高僧」 「勤皇の国士たる日蓮聖人」とか「神儒仏三道ノ融合ヲ鮮明ニシ三道各々ノ特色ヲ尊重スル」 「勤王ノ大義ヲ絶叫シテ止マス」などと、誤てる日蓮主義が述べられている。これに名を連ねた日正上人は教義違背に与同したことになる。
 なおまた、大正十一年十月十三日、東京における大師号宣下の式典で、日正上人は、他宗の管長らと共に写真に納まって謗法同座したばかりか、一緒に読経・唱題するという大謗法まで犯している。
 これをもって明らかなように、日蓮正宗は大正時代から大謗法となっており、もし学会の出現なくば正法は滅尽していたのである。
―――――――――――
 この悪義は、『創価新報』(四月十五日号)の記事に基つくものである。以下、順を追って破折する。

★ 大師号宣下の可否

 まず最初に、「大師号」宣下の可否について。

 大聖人は『種々御振舞御書』に、
■「立正安国論、今すこしもたがわず符合しぬ。(中略)賢王・聖主の御世(みよ)ならは、日本第一の権状(けんじょう)にもをこなわれ、現身に大師号もあるペし」
と、国土の危機に警鐘を打ち鳴らした立正安国論の予言が適中したことをもって、賢王・聖主の時代ならば、大聖人に、日本一とのおほめの賞状が送られ、大師号が下ってしかるべきである、と仰せられている。
 ごていねいにも『新報』では、わざわざこの御金言を引いて、”これは時の指導者への訓誠であり、なにも大師号をもらいたいとの趣旨ではないことは明らかである″などと述べ、あらかじめ予防線を張ったつもりでいるようだ。
 だとしたら、同記事の筆者は、中学三年程度の古文・日本語の勉強からやり直した方がよろしい。
 そもそも、時の指導者への訓誠″というなら、大聖人が何を訓誡〃されているのか、よく両眼を開いて御文を拝すべきである。
答えは明白、「日本第一の権状にもをこなわれ、現身に大師号もあるペし」と訓誡されているのである。
 むろん同記事筆者がいうように、御本仏である大聖人がなにも大師号をもらいたい≠ネどと思われるはずはないが、国主たる者、大聖人をそのように重んじなければ、国土安穏はありえない、との意で仰せられたのである。
 この御金言によって、「大師号」の宣下それ自体が、謗法でもなければ教義違背でもないことは、明らかであろう。

★ 大聖人と国家権力

  次に、大師号宜下を受けることは、国家権力をものとしなかった大聖人の御境界を下すもの″との意見について.

 このような難クセを付けて日蓮正宗を誹謗する人々は、何か、池田教における歪んだ大聖人観にでも染まっているのではなかろうか。
 念のため申し上げるが、日蓮大聖人の御一生は、なにも国家権力と戦うことを目的とされたのでもなければ、国家権力を上から見おろされていたわけでもない。
 大聖人は、仏法上においては、一切衆生の主師親たる久遠元初自受用報身如来の再誕であらせられるが、同時に世間法上においては、あくまでも謗法の国に生を受けた国土の民として振舞われた、尊い示同凡夫としての御一生だったのである。
 したがって、内には
■「わつかの小島のぬしら(主等)がをど(威嚇)さんををじては、閻魔王のせめ(責)をばいかんがすべき」
との絶対の御境界に立たれ、
外には
■「弥(いよいよ)身口意を調(ととの)へ、謹んで主人に向かふ可し」
と仰せのごとく、国主に対する民としての礼節をもって行動なされた。
 そして、いかに邪宗を信ずる国主から迫害されても、
■「我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」
と、あくまでも国主に対する真の忠孝として折伏を貫かれたのである。

 こうした大聖人の御姿を、ただ″国家権力をものともされない境界≠セの″国家権力をはるかに超えた境界″だのと、民主主義の時代に受けそうな一面だけを取って強調することは、かえって大聖人の凡夫即極という偉大な御境界を矮小(わいしょう)化するものであり、ひいては末法における仏身観をも歪めるものといわざるをえない。

 したがって、前の「現身に大師号もあるべし」との御金言とも併せ拝するに、大聖人の御存生中であれ御入滅後であれ、大師号宣下を受けることが国家権力をものともしなかった大聖人の御境界を下すこと″であるなどというのは、まったく的外れの批判である。
それは、批判の前提となる大聖人観を、自らの好みで矮小化している、といわざるをえないのである。

★ 弘法の仲間入り?

次に、”大師号宣下は弘法大師ら謗法の仲間入り”等の言について。

そもそも「大師」号については」『新版・仏教哲学大辞典』聖教新聞社刊 に
「大導師のこと。衆生を導く高徳の師をさし、釈尊、諸菩薩、高僧の尊称。(略)朝廷から高徳の僧に与えられた称号」(二七九頁)
とあるごとく、大導師・仏・菩薩・高僧の尊称で、天皇がそのように認めて宣下する称号のことである。
 しかして、像法時代に法華経を弘通した正師たる、中国の智(ちぎ)には「天台大師」、日本の最澄(さいちょう)には「伝教大師」の称号が、それぞれ与えられているのである。

 一方、邪法流布の招いた残念な結果として、真言宗の邪師・空海に「弘法大師」の称号が与えられた等の事例もあるが、だからといって、天台、伝教が弘法ら謗法の仲間入りしている、ということになるだろうか。なろうはすがない。
 もし、そんな馬鹿げた理屈があるのなら、ます謗法厳戒を旨とされた大聖人が、天台・伝教の両大師号の返還を主張なさるはずではないか。そのような御記述は、御書のどこを探しても一箇処もない。

 また、天皇から大師号が宜下されることについてであるが、天皇主権の時代において、天皇に、宗祖を大師(大導師・仏・菩薩・高僧)と認めさせることは、少なくとも正法流布への一歩前進ということには違いない。
 それが何故、大聖人を悪しく敬う″大謗法になるというのか。
勢いついて馬鹿を言うのも、ほどほどにすべきである。

 当時の宗内で若き日達上人が反対し、それを阿部法運師(六十世日開上人)もが封殺した、とかいう件についても、
日達上人は、
■「私はそれを聞いて、若輩で生意気盛りであったから、大いに憤慨して、日蓮大聖人は仏様だから、大聖人でよいのだ、大師だとか菩薩などの称号はいらない、もしそういう名前をくれたら即座に返して下さい、と言うことを書いて建白書として宗務院宛上人へ送った。その後、しばらくして、上人が帰寺せられ、夜であったが私は奥の居間に呼ばれて、『お前の云う事はよくわかっておる、しかし今の宗門は非常に小さくて力がないのである。今、文部省に抵抗してもどうにもならない、もう暫時(ざんじ)待って、宗門を大きくしてからでなければどうにもならない、辛抱しなさい』と諭されたのであった。」(『日開上人第二十五回御忌記念 序』日達上人全集第二輯第五巻720頁)
と、むしろ、お若き日の御自身の性急さを反省しておられる意で、かく仰せられているのである。

  また、日開上人が大謗法などでなく、大聖人の御正意に適(かな)っておられたことは、同じ文の次下に、
■「上人は七十一歳で蓮葉庵にて御遷化(ごせんけ)になられた。七日間、坐棺して居間に安置せられてあったが、柔和な顔、端正な目鼻立ちは少しも形を変えず、じつに仏身の相貌(そうみょう)を私共に示されたごとくであった。そのまま安祥として、歴代墓地の本山六十世日開上人の五輪の下に安坐されたのである」(前出同頁)
 と、日達上人がその御臨終を証明されていることから明らかではないか。

 勝手に日達上人の御意を歪め、どんなことをしても、日顕上人御隠尊猊下の御尊父にあたる日開上人を誹謗せんとするーーーこのような大悪党こそ心破作七分・堕地獄は疑いなきものである。

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 次に、『大師号降賜請願書』の内容は教義違背であり、名を連ねた日正上人は与同罪″との言について。

 『大師号陣喝裏書』には、なるほど、大聖人が御本仏であることや、出世の本懐が戒壇大御本尊であることには触れていない。
しかし、また他門流の主張のごとく、大聖人を菩薩であるとか、本尊が一尊四士の仏像であるというような、大聖人の教義に違背する言も、少しも述べてはおらぬのである。
 にも拘(かか)わらず、これをさして「教義違背の内容」という連中の「教義」とは、いったい、いかなるものか。
それば、「狭義」あるいは「狂義」と呼ぶのがふさわしかろう。

 また、都合の良さそうな箇処だけを切り文しているが、よくよく全文を見るべきである。
 その、故意に切り捨てた箇処には、
〇「是ヲ宗教上ヨリ観レハ慈仁深厚ノ聖者ナリ。之ヲ思想上ヨリ観レハ深遠透徹ノ学者ニシテ国民善導ノ先覚者ナリ。国家ノ上ヨリ観レハ熱誠ナル勤王愛国の国士ナリ」
○「仏教教義ノ正統ヲ発揮シテ、法華一実ノ正法ヲ宣布」
○「(神儒仏三道)相互ノ冥合ヲ期シ、一天四海皆帰妙法ノ抱負ヲ懐キ、之力為二立正安国ノ主張ヲ高潮シ、北条氏ノ迫害二遭フテ断頭場二臨ムモ尚ホ立正ノ主張…:」
等とあって、むろん本宗相伝の深義を述べてはいないものの、仏法上は大聖人を慈悲深厚の聖者とし、弘通の法は正統なる法華一実の正法、その宣布の目的は絶待妙の立場から儒教・神道をも摂(せっ)して一天四海広布・立正安国を成すこと等を主張しているといえよう。
 要するに、これは、本宗の立場から見れば、四悉檀(ししっだん)という弘教の方軌のうち、対治悉檀(謗法を対治すること)・第一義悉檀(正法の真実義を明かすこと)に進む前の、一時の、世界悉檀(世情に順じて徐々に法を説くこと)・為人悉檀(相手の機情に従って徐々に法を説くこと)に当たるものであるから、時の御法主日正上人におかれては、他門流と名を並べることは不本意なれども、後日の皇室に対する本宗正義の折伏を期して、『請願書』に記名あそばされたものと拝する。
 そして、この『請願書』を提出したことによって、
 「摂政宮殿下(※昭和天皇)より種々御下問ありて、実に国家の柱石・国民的義魄(ぎはく)の結晶なりとの御旨が判明し」(『大日蓮』大正十一年十一月七日号)
大師号は宣下された。
 さらには、これが因縁となり、皇室の大聖人に対する関心が徐々に高まっていったのであろう、およそ二十年後の昭和十六年八月、ついに貞明皇后(昭和天皇の母)に本宗の常住御本尊と御守御本尊(この御守御本尊は貞明皇后崩御により、現・天皇へ賜わられている)が御下附されるに至ったのである。

 近視眼的にしか物を見ることができず、四悉檀も身に染めず、何としても正宗を誹謗せんとして狭義を振り廻す狂信者よ、よくよく反省・懺悔(ざんげ)いたすべきである。

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 最後に、大師号宜下の式典で、日正上人は他宗の管長と共に写真に納まって謗法同座し、一緒に読経唱題する大謗法まで犯した″との言について。

 大師号は大正十一年十月十三日に宣下と決まり、宮内省から、大聖人を宗祖と仰ぐ各宗管長に招集通知があった。
その当日に、各宗代表が宮内省へ参省した顔の写真を、まるで鬼の首でも取ったかのごとく「謗法同座」と騒いでいるわけであるが、いったい国土の民として、宮内省からの招集に応ずることが、どういう謗法になるというのであろうか。
もし、他宗の管長と同じ所に立ったから、というのなら、街中で、邪宗の坊主・宣教師と同じバスや電車に乗り合わせただけで、許し難い謗法同座となるし、広くは、邪宗の氾濫(はんらん)する日本の国土に住んでいるだけで、これまた即座に謗法同座となろう。
 また、同じ写真に納まっているから謗法同座、というのなら、それこそ、自発的な意志で、進んで邪宗の教祖連と写真に納まっている森田一哉理事長・辻武寿前副会長らこそ、言い逃れのできない謗法同座ではないか(別掲写真参照http://toyoda.tv/tsuji.morita.jpg)。
 この森田・辻両氏までが一緒になって、宗門は謗法与同などと言っているのだから、盗っ人猛々しいとはこのことである。
「一緒に読経・唱題する大謗法」などというのも、その式典において、他宗の管長らの多くは、共々に合掌して読経・唱題するという、無節操な姿を晒(さら)したが、その場内にあって日正上人は、かつて義絶している彼ら異流の徒の読経・唱題に従われなかったのである。http://toyoda.tv/nisseisyonin.jpg
 それを証明する現場写真も入手していながら、『聖教新聞』『創価新報』の紙上には絶対に載(の)せず、「一緒に読経・唱題するという大謗法」などと宣伝し続ける卑劣漢ども、汝等には真面目(まじめ)に仏法を論ずる資格はない〃

 念のため申し添えておくが、九世目有上人『化儀抄』には、
■「同座なれども経をも読まず布施をも引かざるなり」(聖典九九一頁)
とあって、やむなく他宗の法要等に同席せざるをえない場合、共に読経・唱題しなければ謗法とはならないことが示されているのである。
 以上、縷々述べてきたが、まるで、二十歳(ハタチ)未満の子供のような低劣な粗(あら)捜しをしてまで、日蓮正宗を滅尽させようとする学会の邪悪ぶりに、反吐(へど)が出るような想いを禁じえない。

 

京都・奈良辺りの痴犬への破折 再開その14  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 4月10日(月)21時03分11秒 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

▼学会の悪義↓
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>  ちなみに、この日正、日開による日蓮宗各派との与同路線は、大正三年十一月、身延派日蓮宗の大本山である東京・池上本門寺において、日蓮宗各派の代表が集まって開かれた「統合帰一」のための「管長会議」にまで遡(さかのぼ)る。この会議にも、法主の日正は当時、宗務院総務心得だった日開を連れて参加している。というよりも、日正はこの会議を提唱した発起人(三人)の一人であった。

>  この「統合帰一」の動きは翌大正四年になって一応の成案が出来上がるなど一段と具体化され、実現されるかに思われたが、大正五年になって、身延派日蓮宗の宗会で時期尚早の決議が行われ、阿部日正らの努力は水泡に帰してしまった。
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●破折

大師号宣下は大正11年であり、日正上人の時代である。
一方、これより少し前の大正3年には、合同問題が起きている。
但し同じ合同問題でも、太平洋戦争中と様子が異なることは、宗門からも積極的に働きかけ、日蓮本仏論を展開し、大御本尊を中心に合同しようとしたのであった。
時の御法主日正上人は、法身の舎利たる大御本尊を中心にした合同を考えられていたのである。

●統合という意味の上に寄った時には、必ず宗祖の本意に随うのが精神である。宗祖の誠意というものは何だ、宗祖は外に何も望まない。私が言わないでも聴講生は大抵知っているでしょう。この一閻浮提の本尊を日本国に建てるというのが宗祖の本意だ(第57世日正上人講演『蓮華』S47.6・24頁)

●ところで統合問題ですが、身延派が「日蓮正宗の御本尊中心じゃいやだ」といいだして、逃げてしまった。確か講習会にも講師を出さなかったでしょう。そんなことから講習会も1回切りで取りやめになり、結局、門下大合同を実現しませんでした。それにしても、ここまで、ことが運んだのは日正上人の腹が大きかったわけですね(『日達上人全集』1−5−642頁)

●大正3年頃、日蓮宗統合問題が起こったことがあった。その時、かつて法論に負けた本多が富士へ登山して日正上人の出馬を願った。上人が参加しなければうまく行かないと考えたからである。その時正師は「統合はよい。けれども御本尊はどうするのか」とするどく問い詰めた。そして浅草清島町の統一閣(現在の日蓮宗宗務院のあるところ)で第1回の統一退会講演会を開いた。日正上人は日蓮大聖人の御曼陀羅を中央に掛けて、「日蓮本仏論」を説いた。満堂を圧する大声で実に堂々と説破されたのである。日蓮本仏論が通れば身延の頭が上がらなくなるので、結局はこの問題もつぶれてしまった。如何に剛気なお方であられたかゞ偲ばれるのである(『大白蓮華』S31.1・18頁)

★日正上人は、他門との交流を行い、積極的に折伏されていた。
合同問題や大師号問題も、日正上人にとっては、むしろ折伏の契機であったと考えられる。
謗法の徒との交流を一切遮断したのでは、自身が謗法に染まる危険はないが、折伏もできない。

 

京都・奈良辺りの痴犬への破折 再開その15  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 4月10日(月)21時19分54秒 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

学会の悪義↓
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▼>  *“日蓮門下の盟主は身延”を確認させられた屈辱的署名

>  さて、前述の立正大師号の「奉戴式」(大正十一年十月)の折、阿部日正と一緒に読経・唱題した中に、当時、身延派日蓮宗ナンバーツーの宗務総監だった酒井日慎(にっしん)という坊主がいた。「立正」の勅額(ちょくがく)を身延山の御廟に掲げるという発想は、その酒井が、この読経・唱題中に思いついたことであった。

>  その後、大正十五年に身延派日蓮宗の管長となった酒井は、その勅額降賜(こうし)を実現することで、宗祖六百五十遠忌における同宗の儀式に、他宗に抜きん出た権威づけをしようとしたのである。

>  と同時に、この勅額降賜をもって、身延山久遠寺が大聖人の御廟であり、日蓮宗各派の中心たるべきことを他宗に認識させ、その「祖廟中心主義」の高揚による日蓮宗各派の統合をも狙っていたのである。

>  酒井は昭和五年六月ごろから、勅額降賜へ向けて活発な運動を開始し、翌昭和六年四月、身延山久遠寺住職・岡田日帰の名で宮内大臣及び文部大臣に請願書を提出。宮内省及び文部省は後でもめごとが起こらないように、勅額降賜の絶対条件として、身延派日蓮宗に対して、他の日蓮宗各派が大聖人の墓が身延山にあることを認め、身延山久遠寺への勅額降賜に皆が賛成したことを証明する「念書」の提出を求めた。

>  身延派日蓮宗は早速、庶務部長を日蓮宗各派に派遣し、念書を集めて回った。あろうことか、時の日蓮正宗管長・阿部日開も昭和六年六月十二日、この念書に自署押印したのである。

>  その念書の文面(一部書き下し、ルビを補った)は次の通りであった。
>  「  念  書
>  宗祖日蓮聖人立正大師六百五十年遠忌ニ際シ 御廟(ごびょう)所在地山梨県身延山久遠寺住職 岡田日帰ヨリ請願ニ及ビ候(そうろう)立正大師勅額御下賜(かし)ノ件ハ 本宗ニ於テモ異議之(これ)無ク候条 速(すみやか)ニ御下賜之(これ)有リ候様(そうろうよう)御取計(おとりはからい)相成(あいな)リ度(た)ク候也
>  昭和六年六月十二日
>  日蓮正宗管長
>  阿部日開 印
>  文部大臣 田中隆三殿」

>  この念書で見逃せないのは、「御廟所在地山梨県身延山久遠寺」の一文である。明らかに、この念書は、大聖人の墓が身延山にあり、身延派日蓮宗こそが大聖人門下の“本家”であり、“盟主”であることを確認させる意味合いをもっていた。

>  日開は、この確認に対し、何ら破折を加えるどころか、いとも簡単にこれに同調し、富士の正義をねじ曲げる大謗法を犯してしまったのである。

>  堀日亨上人は著書「日興上人 身延離山史」の中で、「身延祖山、身延正墓を承認せぬは大石一派の頑固のやうに云ってる人があるは真実であり又(また)聊(いささ)か誇りであって開山上人の御離山の御心境を尽未来際まで矜持(きょうじ)するものである」と述べている。

>  大石寺一派の主張は、日興上人こそが身延山の第二世として一切の付嘱を受けた大導師であり、身延離山の時に、大聖人の御真骨をも大石寺へ移したことは当然であり、ゆえに日目上人への御譲状には「御堂と云ひ墓所と云ひ」と仰せになっている、ということではなかったのか。

>  日開の身延正墓の承認は、日興上人の身延離山の御心境を踏みにじる、大石寺法主として絶対に許されない大謗法行為であった。

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破折

●勝手な思い込みか故意にか知らないが、田中智学や地涌編集子は"墓が身延にあると認めた"と言っている。
しかし、文部大臣宛の念書には「墓所在地」ではなく「廟所在地」と書かれている。

●【廟(びょう)】@死者、特に祖先の霊をまつる所。たまや。A神々の祠(ほこら)。B王宮の前殿で、政治を行うところ。(『大辞林』三省堂)
●【墓(はか)】遺骸や遺骨を葬る所。また、そこにしるしとして立てた石・木など。塚。墳墓。(『大辞林』三省堂)
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「墓」には「遺骸や遺骨を葬る所」と限定的具体的な意味がある。それに対して「廟」は「霊をまつる所」であり、抽象的で信仰の対象としての意味合いが強く、遺骨がまつられているとは限らない。

●ここで身延の大きな間違いは、御廟と御真骨を一緒にしていることである。個人を偲ぶよすがとして、廟は立てられるけれども、御真骨は必ずそこに安置するとは限らないのである。(「当家身延叢書『悪しく敬わば国亡ぶべし』の稚説を駁論す」『大白蓮華』S30.7/『慧妙』H5.11.16)

●大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。(『日興跡条々事』御書1883頁)

●甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細は彼の御廟の地頭・南部六郎入道〔法名日円〕は日興最初発心の弟子なり、此の因縁に依つて聖人御在所・九箇年の間帰依し奉る滅後其の年月義絶する条条の事。(『富士一跡門徒存知事』)

●身延の群徒猥に疑難して云く、富士の重科は専ら当所の離散に有り、縦い地頭非例を致すとも先師の遺跡を忍ぶ可し既に御墓に参詣せず争か向背の過罪を遁れんや云云。
 日興が云く、此の段顛倒の至極なり言語に及ばずと雖も未聞の族に仰せて毒鼓の縁を結ばん、夫れ身延興隆の元由は聖人御座の尊貴に依り地頭発心の根源は日興教化の力用に非ずや、然るを今下種結縁の最初を忘れて劣謂勝見の僻案を起し師弟有無の新義を構え理非顕然の諍論を致す、誠に是れ葉を取つて其の根を乾かし流を酌んで未だ源を知らざる故か、何に況や慈覚・智証は即伝教入室の付弟・叡山住持の祖匠なり、若宮八幡は亦百王鎮護の大神・日域朝廷の本主なり、然りと雖も明神は仏前に於て謗国捨離の願を立て先聖は慈覚を指して本師違背の仁と称す、若し御廟を守るを正と為さば円仁所破の段頗る高祖の誤謬なり、非例を致して過無くんば其の国・棄捨の誓い都べて垂迹の不覚か、料り知んぬ悪鬼外道の災を作し宗廟社稷の処を辞す善神聖人の居は即ち正直正法の頂なり、抑身延一沢の余流未だ法水の清濁を分たず強いて御廟の参否を論ぜば汝等将に砕身の舎利を信ぜんとす何ぞ法華の持者と号せんや、迷暗尤も甚し之に准じて知る可し(『五人所破抄』)
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日興上人は、大石寺に対しては「墓」、身延に対しては「廟」と明確に使い分けをされている。
日興上人も身延に大聖人の廟所のあることは認められているのである。

★要するに、日開上人は"身延には大聖人の廟所が存在する"ということを認められたに過ぎない。
これは、日興上人も認められていることであり、何ら問題はない。

 

京都・奈良辺りの痴犬への破折 再開その16  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 4月10日(月)21時23分37秒 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

 日正上人・日開上人に対する不知恩の誹謗

 創価学会側は総本山五十七世日正上人に対し、大正十一年十月十三日、「立正大師」号が天皇より宣下となった際東京・築地の水交社において、日蓮宗管長・磯野日筵の導師で他門の管長ら六人と共に読経・唱題に及んだ≠ニ誹謗し、また、総本山六十世日開上人に対しては、昭和六年、「立正」の勅額降賜にあたり、身延山久遠寺への下賜に反対しなかったことは大聖人の御廟が身延にあることを認めたこと≠ニ非難している。
 しかるに、この立正大師号の問題については、御先師日達上人が次のように述懐せられている。

■「大正十一年の秋の頃と思うが、日蓮大聖人に大師号が宣下になるという問題が起きた。勿論、身延あたりの策動であったのだろう、文部省から日蓮門下各派へ、大師号を下賜するから門下連合して頂戴に来るようにとの通達があった。其の頃上人(※日開上人)は宗務院総務であったから急遽登院して宗会を招集せられ、その仕儀を協議せられたのである。私はそれを聞いて(中略)大師だとか、菩薩などの称号は要らない(中略)ということを書いて建白書として宗務院宛上人に送った。(中略)『お前の云う事はよくわかっておる、しかし今の宗門は非常に小さくて力が無いのである、今文部省に抵抗してもどうにもならない、もう暫時待って宗門を大きくしてからでなければどうにもならない、もう少し辛抱しなさい』と諭された」(日開上人第二十五回遠忌記念 序・達全一―五―七二〇)

 この日達上人のお言葉に明白なように、日蓮正宗僧俗であれば、当然のことながら、御本仏に対し奉る大師号の下賜を懇望したり、勅額降賜を喜ぶわけがないのである。
まして謗法の身延と連合しての運動などに反対なのは当然のことである。
日達上人は日正上人のお弟子であられたが、常泉寺の在勤所化として、同寺住職であり、且つ宗務院総務であられた日開上人宛に本宗僧侶としての率直な心情を綴った建白書を送られたのであろう。
 しかるに当時、御当職の日正上人におかれても、御本心はまったく同様のお気持ちであられたことは想像に難くない。
それは日正上人の御代に、日蓮宗富士派から単身日蓮正宗へと宗名公称を果たされたことからも分かるように、日正上人は大変に豪胆な性格であられたからである。
大師号下賜に賛同することが日正上人の御本意でないことは言うまでもないが、日達上人も証言されるように、宗会を招集し、当時既に存した日蓮宗統合問題など、様々な時局問題のしがらみの中で、宗内の意見も充分に徴されたうえで、宗門として、止むを得ず賛同をお決めになられたのである。
けっして日正上人お一人の御責任などと言える状況ではない。

 また、日達上人は日開上人について、
■「上人は資性篤実で謹厳至誠の方で、法主上人の命はただ之れ畏み従うという人であった」(達全一―五―七一九)
とお述べである。
すなわち日開上人の代における勅額下賜賛否の件も、そのような重大な案件を御一人で勝手に決められるものではない。
当然、御隠尊の日亨上人からも御指南を戴き、且つ宗内の意見も徴されたであろうことは、長年宗務院総務を務められた日開上人としては当然のことである。
 要は、日正上人、日開上人だけが、極悪法主であるかのように喧伝する創価学会の誹謗は、当時の宗門の実情をまったく無視した大謗法の言というほかはないのである。

 その証拠としては、かつて創価学会の『大白蓮華』には『五十七世阿部日正上人の御臨終』と題する創価学会草創の幹部、辻武寿の稿が掲載されている。そこには、
▲「(日正上人の)ご臨終の御相は、常日頃の説法に寸分違わず、色あくまで白く、半眼半口にして誠に安祥たる御姿であられた。(中略)一宗のはせ参じたすべての人々が異口同音に、『さすがは正師』と、その立派な臨終に感嘆しないものはなかった」(大白蓮華五六―一七)
と日正上人の御徳を真心から賛嘆していたことがあげられる。
それが、いつから大謗法の法主に変わったのであろうか。

 また日達上人は、日開上人の御臨終につき、
■「上人は七十一歳で蓮葉庵にて御遷化になられた。七日間坐棺して居間に安置せられてあったが、柔和な顔、端正な目鼻立ちは少しも形を変えず、実に仏身の相貌を私共に示された如くであった」(達全一―五―七二〇)
とお述べである。

 このように日正・日開両上人には、御高徳なる臨終の相をお示し遊ばされたのであって、創価学会側の”大謗法の法主”などの邪難こそ誠に不知恩の大謗法であり、舌爛口中の厳罰を被ることは必至であると言っておく。

 

京都・奈良辺りの痴犬への破折 再開その16  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 4月10日(月)21時49分47秒 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

学会の悪義↓
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>  *大石寺坊主の劣等感払拭させた小樽問答の大勝利

>  日開はなぜ、こうも易々(やすやす)と「身延正墓」を認めてしまったのか。それは、ひとえに、大石寺の坊主に連綿と流れている、権力や時流には、たとえ教義を曲げてでも迎合し、ただ生き延びさえすればいいという臆病な保身体質が原因であった。

>  そのことは、大正十一年の立正大師号問題のときの、宗務院総務・阿部日開と当時二十歳の青年僧侶だった後の六十六世細井日達上人とのやりとりに明白である。日達上人は昭和四十二年、日開の二十五回忌に際して、こう記している。

>  「大正十一年秋の頃と思うが、日蓮大聖人に大師号が宣下になるという問題が起きた。……私はそれを聞いて若輩(じゃくはい)で生意気盛りであったから、大いに憤慨(ふんがい)して、日蓮大聖人は仏様だから大聖人でよいのだ、大師だとか菩薩などの称号は要(い)らない、若(も)しそうゆう名前を呉(く)れたら速座に返えして下さいという事を書いて建白書として宗務院宛上人(=阿部日開)に送った」

>  これに対して日開は、こう答えた。

>  「お前の云う事はよくわかっておる、しかし今の宗門は非常に小さくて力が無いのである、今文部省に抵抗してもどうにもならない、もう暫時(ざんじ)待って宗門を大きくしてからでなければどうにもならない、もう少し辛抱しなさい」と。

>  つまり、日蓮正宗は弱小教団であり、大きくない今は、自分たちの主義主張を貫くことよりも、法義をねじ曲げても世間に従う以外にない、というのである。

>  そこには、「かたきは多勢なり法王の一人は無勢なり今に至るまで軍(いくさ)やむ事なし」(御書五〇二ページ)と、どのような大難、迫害にあっても、獅子王の如く一人立ち、権力・邪宗教と戦われた大聖人の“身軽法重”の精神など、微塵(みじん)も感じられない。権力に迎合すること羊の如き、情けない宗門の体質が露呈(ろてい)されている。

>  この大石寺坊主の惰弱な保身体質が戦時中の神札受諾や戦後の大石寺観光地化計画となって表れ、今また日顕による、大聖人の御精神のまま進む学会の切り捨て及び、その後の権力や身延派日蓮宗等へのスリ寄りとなって表れていることは自明であろう。

>  若き日の日達上人に「宗門を大きくしてからでなければどうにもならない」と言った阿部日開の言葉に象徴されるように、ハッキリ言って学会興隆前の大石寺の坊主には、“身延コンプレックス”があった。

>  その宗門が身延に対する劣等感を払拭(ふっしょく)できたのは、昭和三十年の小樽問答における学会の大勝利によってであった。

>  身延正墓の問題についても、問答の中で、身延側の僧侶がしどろもどろになりながら「大石寺は……、身延に霊骨が、霊骨がないと申しまするけれども、厳然としてあるので……」と言った際に、学会員から出た「どこの馬の骨だ」との一喝によって身延側僧侶は「馬の骨ということは……(爆笑)……馬の骨ということは……(大爆笑)、……大石寺派の勝手に………」と、完全に立ち往生してしまった。

>  この小樽問答後の学会の大発展によって、弱小教団だった大石寺も、身延をはるかに凌駕(りょうが)する参詣者を集めるようになったのである。

>  だが、身延正墓を認めた“謗法王・阿部日開”の息子・日顕はその学会をカット。その途端、日顕は四箇の謗法を犯し日興上人の身延離山の原因となった波木井実長を礼賛し、能化の高野日海は池上本門寺の貫首(現・日蓮宗管長)を大石寺蓮葉庵で接待し、末寺法華講は組織だって身延派日蓮宗の寺巡りを始めた。

>  所詮、宗開両祖の精神を忘失し、権力に迎合した日顕宗の落ち行く先は、五老僧の末流との地獄での合流なのである。
>
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「小樽問答」に対して再考察。

謗法の他門の研究ではあるが、大謗法の創価学会の虚偽・策謀体質を突く、実に興味深いものなので、参考までに。

毒も以って毒を制す、か。

”*大石寺坊主の劣等感払拭させた小樽問答の大勝利”などと手放しに浮かれている者は、やはりどこか愚昧か幼稚か洗脳で盲目なのであろうか?

http://www.kempon.net/newpage17otaru.htm

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho35/s35_068.htm

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 小樽問答  日蓮宗現代宗教研究所主任 伊藤立教

 創価学会機関紙「聖教新聞」平成17年3月11日号「名字の言」欄に、
   数年前、身延派が出版した『日蓮宗の近現代』の中にも、門答後に「この年の夏から展開した学会の折伏活動は苛烈を極め」「創価学会の会員の数は倍、倍と雪ダルマ式に成果をあげ、今日の創価学会に膨張」と記しているほどである(中略)「歴史の流れの上から正しく判定される時がくる」と問答の意義について語った戸田第2代会長。

と書いています。昭和30年3月11日の小樽問答から50年になることでのキャンペーンですが、現宗研が平成8年に制作した『日蓮宗の近現代』は、この小樽問答についての総括をした本です。
 この中で石川教張師は、
   御妙判の引用も断章取義で、一知半解の謬見がまかり通っており、日蓮聖人も示したような「問うて云く・答えて云く」という問答とは到底言えず、「公開討論会」といった方が実態に近い。

と分析したあとで、
   従って、勝敗を云々する程の内容を備えていない。
学会の池田大作自体が、冒頭から「日蓮正宗は正しい、身延は邪道」と結論的言辞を述べ、最後も「正宗が、日蓮正宗創価学会が正しい」と一方的に言ったように、自讃して「正しさ」を押しつけようとしただけであって、池田自身も「勝った」という言葉を吐いていない。
これは、池田自身則ち学会の戦術が「日蓮正宗創価学会」の正当性を主張、宣伝する事にあった点を物語っている。
それゆえに、大石寺安置の板本尊への信心が喪失し、「日蓮正宗創価学会」と一体視した両者の一体不二性が崩壊すれば、「小樽問答」において展開した論理もまた根底から崩落せざるを得ないものであった。
(中略)「小樽問答」は今、「歴史の上から正しく判定される時」に至っている

と断じています。さらに、
   平成7年(1995)3月11日付の「聖教新聞」に、〈「小樽問答」から40年−民衆の「正義の叫び」の勝利史〉と題する社説が掲載された。
(中略)「身延派の弁士には、奇妙なことに顕本法華宗の僧侶も加わっていた。
宗派は久しく対立してきたにもかかわらず、“学会憎し”の一点で手を結んだのだ」。
このように書き、これを日蓮宗の“野合”や醜さの根拠にしている。
(筆者註−石川師は、長谷川義一師を顕本法華宗の僧侶とする創価学会の間違いを指摘し、長谷川師は日蓮宗の僧侶であり、創価学会が出した『小樽問答誌』にも日蓮宗僧侶とわかる記載があることを指摘したあとで)小樽問答からすでに40年、学会が今も基本的事実さえ誤り、作為に充ちた社説の言辞をもって小樽問答を宣伝しているのは、学会の“醜さをさらけ出す”ものであり、欺瞞的な手法と体質を垣間見せたものともいえる。
(中略)それとも、社説の筆者は学会自体の発行した『小樽問答誌』を読んでいなかったのであろうか。
読みながら事実を改変したのであろうか。
これは決して単なる思い違いや誤記では済まない問題である。
(筆者註−長谷川義一師が昭和31年3月11日に発行した『小樽問答の真相』でも、「私は日蓮宗の正真正銘の僧侶」と明記されている。この本を読んでいないのか。いないとしたら研究不足、読んでいたとしたら問題外。)
この詐術的手法が学会の体質である事を露呈したものである。
(中略)その学会が今や“野合”に失敗し“日蓮正宗憎し”に執着しているのは歴史の皮肉である。

と、厳しく分析しています。

 

京都・奈良辺りの痴犬への破折 再開その17  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 4月10日(月)21時55分54秒 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

■「宗門は小樽問答から逃避」!?  ―史実を全く改竄(かいざん)した池田―

学会の悪義↓
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 (小樽問答の際)宗門には、戦う気概など微塵もなかった。それどころか、戸田先生を学会本部に訪ね、平身低頭、助けを求めてきたのだ。
 情けない「敵前逃亡」であった。
 折伏の大将軍たる先生は、瞬時に決断された。
 「この法論は、私が引き受ける!」
 小樽問答――それは「正法正義の日興上人の門流」と、「大聖人に師敵対してきた五老僧の末流」との対決であった。(中略)
 愚劣な日顕(上人)一派は、この大聖人、日興上人に直結する創価学会に敵対した。まさに、民衆救済の使命を捨てた「五老僧の末流」でもあることを、自ら証明していったのである。

(「随筆・人間世紀の光」『聖教新聞』H17.3.22)
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 宗門が「小樽問答」から逃げた、と宣(のたま)う池田大作――。
しかし、その池田が書いた、会内で"現代の御書"とまで称される『人間革命』(第9巻)には、
▲「法論は(※創価学会の)小樽班の責任ですでに誓約されていることがわかり、(中略)戸田は両尊師(※細井庶務部長・早瀬教学部長=いずれも当時)に、法論は戸田が引き受けます。心置きなく猊下の(※北海道御親教の)お供をしていただきたいと、即座に申し上げた」
とある。すなわち戸田会長は、"創価学会が受けた法論である以上、お山を煩(わずら)わすまでもなく、創価学会で受けて立つ"という、当然至極の決断をしただけのこと。
 それでも、細井庶務部長(後の日達上人)は、法論のことを心配されて、わざわざ法論会場の小樽公会堂に足を運ばれている。そしてそのことも、『人間革命』(第9巻)に、
▲「右側(※学会側)の聴衆のなかほどに、袴をつけた和服姿の細井尊師がいた。この日一般聴衆にまじって、2人の尊師を引き連れて来場されていたのである」
と明記されているのだ。
 しかも池田は、この法論の顛末(てんまつ)を記した『小樽問答誌』において、
▲「日達上人が、この小樽問答に臨(のぞ)まれておられたのである。しかも質問者のひとりとして学会と一体となり闘魂(とうこん)あふれるお姿で身延側講師を徹底的に追及されたのであった。私は学会側司会者として、その時、指名させていただいたのであるが、まことに勇気百倍の思いであり、永遠に忘れえぬ感激の一瞬であったことを申さずにはいられない」
と述べていたのである。
 これら従前の記述と、このたびの『聖教』所載の記述を比べてみると、まったく天と地ほどの自語相違を生じていることがわかろう。
 池田大作が、何の良心の呵責(かしゃく)もなしに、これをなしたとすれば、池田は『ジキル博士とハイド氏』のような二重人格者か、重度の精神分裂病、さもなくば老人性痴呆(ちほう)を発症しているとしか思えない。"迷医"高山直子センセーの診断を受けた方がよいのではないか!?