■日開上人、御本尊の讃文についての邪難に対する破折
これは、翔氏が既に明解に破折されているので、これに若干の補足をさせていただき再掲し、更に日顕上人の尊いこと極まりない御指南を拝し、以って完摧する。
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またエロくんが地涌を使って稚拙な愚見を披露してるんだね。さすが邪宗だね。笑。 投稿者:翔 投稿日:
3月30日(木)17時34分33秒 ntt0-ppp9.saitama.sannet.ne.jp
引用
先ず、日開上人が「仏滅後二千二百二十余年」と讃文を書写あそばされたことについて、
「御本尊七箇相承」に
『一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉ること御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり』
(富士宗学要集 第1巻)
とあるのを受けて地涌が
>この相伝書によれば、まぎれもなく「仏滅度後二千二百三十余年」と認めることが正しい。そこには、議論の余地はない。
等と幼稚且つ稚拙な愚見を披露してますな。爆笑。
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大聖人は御本尊御図顕にあたり
■『日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候』
と仰せられ、また他抄で
■『仏宝法宝は必ず僧によりて住す』
■『三宝一体』
とあるように大聖人が御本尊書写に関して日興上人のお伺いに対して深甚の仏祖三宝内証体一の三宝一体義の上から認めあそばされた日興上人「御本尊七箇相承」にあるように
■『一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。
』
と御指南あそばされたものである。
つまり、御本尊書写とは御本尊七箇之相承にある
■『一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉ること御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり』
(※とある)のを、莫迦正直に読んで大聖人の御図顕あそばされた御本尊の相貌を書道の如く認めるのではなく、(※付文の辺ではなく、その元意を深く拝すれば)
大聖人から御相承あそばされて御所持、厳護あそばされる御本仏の内証を大聖人の御名代として書写奉って御本尊を顕し奉るのである。
さて、大聖人の御本尊が初めてお目見えになるのが、
発迹顕本であるところの竜の口の文永8年の佐後
■「文永9年6月16日 大聖人 初 御本尊顕す 京都妙蓮寺蔵 讃文なし」である。
この御本尊に当時御本尊としての力用がなかったかと言えば、あったことは当然なのである。
また大聖人が「仏滅後」に関して仰せになられるのはこれまた佐後であり、以下に記したとおりである。
1、「仏滅後二千二百二十余年」
「種種御振舞御書」【建治元年、光日房、聖寿五十五歳、於身延、真筆曽存】
「上行菩薩結要付嘱口伝」【建治元年、聖寿】
「曽谷入道殿御返事」【建治三年十一月二十八日、曽谷教信、聖寿】
「法蓮抄」【建治元年四月、曽谷教信、聖寿、真筆断存】
「単衣抄」【建治元年八月、南条某、聖寿五十四歳】
「土木殿御返事」【文永十年七月六日、富木常忍、聖寿、真筆完存】
「四十九院申状」【弘安元年三月、日興撰、聖寿五十七歳】
■「報恩抄」【建治二年七月二十一日、故道善房、、真筆−断存】
『仏滅後一千八百余年が間に法華経の行者漢土に一人、日本に一人、已上二人。釈尊を加へ奉て已上三人なり。』
■「妙法曼荼羅供養事」【文永十年、聖寿五十二歳、千日尼】
『此の大曼陀羅は仏滅後二千二百二十余年の間、一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず。』
■「日女御前御返事」【建治三年八月二十三日、日女、聖寿五十六歳】
『伝教大師云く「一念三千即自受用身、自受用身とは出尊形の仏」文。
此の故に未曽有の大曼荼羅とは名付け奉るなり。仏滅後二千二百二十余年には此の御本尊いまだ出現し給はずと云ふ事なり。』
■「教行証御書」【弘安元年三月二十一日、三位房日行、聖寿五十四歳】
『但此の本門の戒を弘まらせ給はんには、必ず前代未聞の大瑞あるべし。所謂正嘉の地動、文永の長星、是なるべし。
抑も当世の人人何の宗宗にか本門の本尊・戒壇を弘通せる。仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず。
日本人王三十代欽明天皇の御宇に仏法渡て、今に七百余年。前代未聞の大法此の国に流布して、月氏・漢土・一閻浮提の内の一切衆生、仏に成るべき事こそ有り難けれ有り難けれ。』
2、「仏滅後二千二百三十余年」
■「撰時抄」【建治元年六月、聖寿五十四歳、真筆−断存】
『吉凶につけて瑞大なれば難多かるべきことわりにて仏滅後二千二百三十余年が間いまだいでざる大長星いまだふらざる大地しん出来せり、』
■「聖人御難事」【弘安二年十月一日、門弟一同、聖寿五十八歳、真筆完存】
『日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人、多宝十方の諸仏は大虚妄の証明なり。
仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり。』
3、「仏滅度後二千二百三十余年」
■「四条金吾殿御返事」【弘安二年九月十五日、四条頼基、聖寿五十八歳、真筆曽存】
『
仏滅度後二千二百三十余年になり候に、月氏一千余年が間、仏法を弘通せる人、伝記にのせてかくれなし。
漢土一千年、日本七百年、又目録にのせて候ひしかども、仏のごとく大難に値へる人人少し。』
大聖人が顕された御本尊の讃文にはまた、「二十余年」や「三十余年」ともお認めあそばされず、「正像未弘の大曼荼羅也」という御本尊も存在しているのである。
ではこの御本尊に力用がなかったかと言えばNOであることは論を待たない。
つまり、地涌の狂った莫迦どもは現代の「マニュアル至上主義」に毒され、また、仏祖三宝内証体一の三宝一体義が解らんから、幼稚で稚拙な愚論を惜しげもなく披露し、日開上人を誹謗中傷できるのであるな。爆笑。
付け加えて置くが、日開上人が御本尊書写あそばされた「仏滅後二千二百二十余年」の讃文は上記に挙げたように大聖人御自身が仰せられたことによったのであって、なんら「大僻見」ではない。
日興上人が大聖人の御指南をお受けになり認められた『御本尊七箇之相承』のあの箇所は「仏滅度後二千二百三十余年」の御文は、特に「三十余年」か「二十余年」かを撰ぶものではなく、要は、正法・像法に未曽有の(つまり末法に初めて出現するところの)大漫荼羅であることを明記して、略してはならない、と御示しになったものである。
そして、現に、大聖人御図顕の数多くの御本尊には、「三十余年」と「二十余年」の両様が存するのだから、これをもって日開上人の「仏滅後二千二百二十余年」が誤写であるなど言うのは幼稚で稚拙且つトンチンカンな愚見でしかないのである。大爆笑。
それともう1つ。
日開上人が時の御法主上人として認められた
『「御本尊二千二百二十余年並びに二千二百三十余年の両説は、二千二百三十余年が正しく、万一、二千二百二十余年の本尊ありとすれば後日訂正することとする。依って弟子檀那は二千二百三十余年の本尊を信ずべきものである。
以上
昭和四年二月十八日
六十世 日開 花押」』
は、それこそ直接内証相伝がなされていない短見の人々によって大騒ぎになったから事態の収息を図られる上で一応の『方便』として認められただけのことである。 |