京都・奈良辺りの痴犬への破折 再開その10  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 3月31日(金)21時54分18秒 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

■日開上人、御本尊の讃文についての邪難に対する破折

これは、翔氏が既に明解に破折されているので、これに若干の補足をさせていただき再掲し、更に日顕上人の尊いこと極まりない御指南を拝し、以って完摧する。
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またエロくんが地涌を使って稚拙な愚見を披露してるんだね。さすが邪宗だね。笑。  投稿者:翔  投稿日: 3月30日(木)17時34分33秒 ntt0-ppp9.saitama.sannet.ne.jp   引用

  先ず、日開上人が「仏滅後二千二百二十余年」と讃文を書写あそばされたことについて、

「御本尊七箇相承」に

『一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉ること御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり』
(富士宗学要集 第1巻)

とあるのを受けて地涌が
>この相伝書によれば、まぎれもなく「仏滅度後二千二百三十余年」と認めることが正しい。そこには、議論の余地はない。

等と幼稚且つ稚拙な愚見を披露してますな。爆笑。
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大聖人は御本尊御図顕にあたり

■『日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候』

と仰せられ、また他抄で

■『仏宝法宝は必ず僧によりて住す』
■『三宝一体』

とあるように大聖人が御本尊書写に関して日興上人のお伺いに対して深甚の仏祖三宝内証体一の三宝一体義の上から認めあそばされた日興上人「御本尊七箇相承」にあるように

■『一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。 』

と御指南あそばされたものである。

つまり、御本尊書写とは御本尊七箇之相承にある

■『一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉ること御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり』

(※とある)のを、莫迦正直に読んで大聖人の御図顕あそばされた御本尊の相貌を書道の如く認めるのではなく、(※付文の辺ではなく、その元意を深く拝すれば)
大聖人から御相承あそばされて御所持、厳護あそばされる御本仏の内証を大聖人の御名代として書写奉って御本尊を顕し奉るのである。

さて、大聖人の御本尊が初めてお目見えになるのが、
発迹顕本であるところの竜の口の文永8年の佐後
■「文永9年6月16日 大聖人 初 御本尊顕す 京都妙蓮寺蔵 讃文なし」である。
この御本尊に当時御本尊としての力用がなかったかと言えば、あったことは当然なのである。

また大聖人が「仏滅後」に関して仰せになられるのはこれまた佐後であり、以下に記したとおりである。

1、「仏滅後二千二百二十余年」

「種種御振舞御書」【建治元年、光日房、聖寿五十五歳、於身延、真筆曽存】
「上行菩薩結要付嘱口伝」【建治元年、聖寿】
「曽谷入道殿御返事」【建治三年十一月二十八日、曽谷教信、聖寿】
「法蓮抄」【建治元年四月、曽谷教信、聖寿、真筆断存】
「単衣抄」【建治元年八月、南条某、聖寿五十四歳】
「土木殿御返事」【文永十年七月六日、富木常忍、聖寿、真筆完存】
「四十九院申状」【弘安元年三月、日興撰、聖寿五十七歳】

■「報恩抄」【建治二年七月二十一日、故道善房、、真筆−断存】
『仏滅後一千八百余年が間に法華経の行者漢土に一人、日本に一人、已上二人。釈尊を加へ奉て已上三人なり。』

■「妙法曼荼羅供養事」【文永十年、聖寿五十二歳、千日尼】
『此の大曼陀羅は仏滅後二千二百二十余年の間、一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず。』

■「日女御前御返事」【建治三年八月二十三日、日女、聖寿五十六歳】
『伝教大師云く「一念三千即自受用身、自受用身とは出尊形の仏」文。 此の故に未曽有の大曼荼羅とは名付け奉るなり。仏滅後二千二百二十余年には此の御本尊いまだ出現し給はずと云ふ事なり。』

■「教行証御書」【弘安元年三月二十一日、三位房日行、聖寿五十四歳】
『但此の本門の戒を弘まらせ給はんには、必ず前代未聞の大瑞あるべし。所謂正嘉の地動、文永の長星、是なるべし。 抑も当世の人人何の宗宗にか本門の本尊・戒壇を弘通せる。仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず。 日本人王三十代欽明天皇の御宇に仏法渡て、今に七百余年。前代未聞の大法此の国に流布して、月氏・漢土・一閻浮提の内の一切衆生、仏に成るべき事こそ有り難けれ有り難けれ。』


2、「仏滅後二千二百三十余年」

■「撰時抄」【建治元年六月、聖寿五十四歳、真筆−断存】
『吉凶につけて瑞大なれば難多かるべきことわりにて仏滅後二千二百三十余年が間いまだいでざる大長星いまだふらざる大地しん出来せり、』

■「聖人御難事」【弘安二年十月一日、門弟一同、聖寿五十八歳、真筆完存】
『日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人、多宝十方の諸仏は大虚妄の証明なり。
仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり。』

3、「仏滅度後二千二百三十余年」

■「四条金吾殿御返事」【弘安二年九月十五日、四条頼基、聖寿五十八歳、真筆曽存】
『 仏滅度後二千二百三十余年になり候に、月氏一千余年が間、仏法を弘通せる人、伝記にのせてかくれなし。 漢土一千年、日本七百年、又目録にのせて候ひしかども、仏のごとく大難に値へる人人少し。』


大聖人が顕された御本尊の讃文にはまた、「二十余年」や「三十余年」ともお認めあそばされず、「正像未弘の大曼荼羅也」という御本尊も存在しているのである。
ではこの御本尊に力用がなかったかと言えばNOであることは論を待たない。

つまり、地涌の狂った莫迦どもは現代の「マニュアル至上主義」に毒され、また、仏祖三宝内証体一の三宝一体義が解らんから、幼稚で稚拙な愚論を惜しげもなく披露し、日開上人を誹謗中傷できるのであるな。爆笑。

付け加えて置くが、日開上人が御本尊書写あそばされた「仏滅後二千二百二十余年」の讃文は上記に挙げたように大聖人御自身が仰せられたことによったのであって、なんら「大僻見」ではない。

日興上人が大聖人の御指南をお受けになり認められた『御本尊七箇之相承』のあの箇所は「仏滅度後二千二百三十余年」の御文は、特に「三十余年」か「二十余年」かを撰ぶものではなく、要は、正法・像法に未曽有の(つまり末法に初めて出現するところの)大漫荼羅であることを明記して、略してはならない、と御示しになったものである。
そして、現に、大聖人御図顕の数多くの御本尊には、「三十余年」と「二十余年」の両様が存するのだから、これをもって日開上人の「仏滅後二千二百二十余年」が誤写であるなど言うのは幼稚で稚拙且つトンチンカンな愚見でしかないのである。大爆笑。

それともう1つ。
日開上人が時の御法主上人として認められた

『「御本尊二千二百二十余年並びに二千二百三十余年の両説は、二千二百三十余年が正しく、万一、二千二百二十余年の本尊ありとすれば後日訂正することとする。依って弟子檀那は二千二百三十余年の本尊を信ずべきものである。
    以上
 昭和四年二月十八日
  六十世 日開 花押」』

は、それこそ直接内証相伝がなされていない短見の人々によって大騒ぎになったから事態の収息を図られる上で一応の『方便』として認められただけのことである。

 

京都・奈良辺りの痴犬への破折 再開その10−2  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 3月31日(金)21時55分44秒 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

更に、補足させていただけば、以下の如くの極めて重要且つ、有り難い極みの御指南があられる。

<第67世日顕上人御指南>

■この「二千二百二十余年」と「三十余年」は、時に約してお示しになっておられるのでありまして、そこに大聖人の御本仏としての御化導があり、また日興上人の唯我与我の御相承があるのであります。
 ですから、日興上人が付嘱を承けられた弘安5年は、仏滅後から拝しても『寿量品』という上から拝しても「二千二百三十余年」であるべきです。
けれども、その「三十余年」ということの中には、数字に執われるべきものではなく、「二十余年」と「三十余年」の両意が付嘱の上の、大聖人より日興上人への大曼荼羅御顕発の御境界の中に、すべてが丸く収まっておるのであります。
 ただし、どうして大聖人が弘安元年・2年・3年において両方をお示しになっているかということについては、またこれは深意が拝せられるのでありますが、そのすべてを含んでの御付嘱なのです。
だから基本的には、書写について「三十余年」の御指南があり、歴代先師の方々も概ねその如く、また私も登座以来、「二千二百三十余年」と御書写申し上げております。
今後、未来においてもまた、それを基本とすべきことは当然であります。
 しかし、御歴代の中には時々、「二十余年」と御書写になっておる方もあります。
これは書写の基本ではないが、大聖人の大曼荼羅御境界を拝された日興上人の御意を拝しつつ、そこを元として、その中に含まれた特別の境地を拝されたものであります。
 故に、「二十余年」と書写せられた少数の御本尊があり、また数人の御先師が時として、ごくわずかに「二十余年」と書写あそばされたことについて末輩が、相伝の何たるかも知らない者共が、"間違いだ"などと言うこと自体がおこがましいことである、と言っておるのであります。
 あるいはまた、「二十余年」とも「三十余年」ともお書きにならず、「正像未弘の大曼荼羅也」という御本尊もあります。
だから軽率に先師を批判することは十分に慎まなければならないと思います(第67世日顕上人『大日蓮』S56.9)
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■歴代上人のなかには宗旨上の特別な拝仰の上から「二千二百二十余年」と書写された例があります。
例えば、17世の日精上人、19世の日舜上人、41世の日文上人等の御本尊の一部に拝されますが、通常の書写はもちろん「二千二百三十余年」と書くのが古来の通規になっております。
私も登座以来、1幅も「二千二百二十余年」と書写申し上げたことはありません。
すべて「三十余年」と御書写申し上げております。
 しかしながら「二千二百二十余年」という御本尊だから拝んではいけないなどということはない。
総本山塔中久成坊の本堂に昔から安置されている常住板御本尊には「二千二百二十余年」とお書きになってある。
しかも、この裏書きに26世日寛上人の判形がある。
これは、もう明らかに「二千二百二十余年」の先師の御本尊の模刻を日寛上人が允可(いんか)されておるのです。
 要するに、相承を受けない者が、特に在家の者がこういうことを簡単に云々すべきではないということだけを、ひとこと言っておきます。(第67世日顕上人『創価学会の偽造本尊義を破す』119頁)
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■『千日尼御前御返事』御説法
(第67世日顕上人『大日蓮』H10.5)

〈『千日尼御前御返事』にのたまわく、

■「弘安元年太歳戊寅七月六日、佐渡国より千日尼と申す人(乃至)仏滅度後はすでに二千二百三十余年になり候云云」(御書1248頁)
(題目三唱)〉

(中略)
さて、ただいま拝読の御書は、弘安元年7月6日の千日尼御前よりの便りに対し、同年7月28日付の大聖人様の御返事でありますが、本日は右拝読の年次の文について、本宗の御本尊に関係する重大な法義でありますので、少々申し述べます。
(中略)
 まず、右弘安元年の御書に「仏滅度後二千二百三十余年」(この「余」という字は、数字の4ではなく、余りという字であります。御本尊あるいは御書等に「仏滅度後二千二百二十余年」あるいは「三十余年」と示される場合の「余」という字は、すべて、この「余り」という字をお書きになってあります)とあり、この御書は御真蹟があり、明瞭に「三十余年」と書かれております。
 しかるに、不思議なことに、同じ年の9月6日の『妙法比丘尼御返事』には、

■ 「仏滅後既に二千二百二十七年になり候云云」(御書1267頁)

と書かれており、「二十七年」であることが明らかであります。
 なお、この『妙法比丘尼書』は真蹟は現存しませんが、

■「今又此の山に五箇年あり」(同1264)

という御文と、末尾の、

■「弘安元年(戊寅)九月六日」(同1269頁)

の記事より、弘安元年の御書であることは間違いありません。

 すると、同じ年の7月と9月の御書に、一方は「三十余年」と書かれてあり、一方は「二十七年」と書かれてあって、そこに大きな違いが拝されるのであります。

 ところが、文永10年の『南部六郎三郎殿御返事』には、

■「仏滅後今に二千二百二十二年なり」(同682頁)

とあり、また、建治2年の『報恩抄』には、

■「仏滅後二千二百二十五年」(同1036頁)

とあります。
そこで、前記『妙法比丘尼御返事』の、弘安元年が「二千二百二十七年」と言われる年次と、実にぴったり合っておるのであります。

 そこで、疑いもなく大聖人は弘安元年が、当時の算定としての、「仏滅後二千二百二十七年」であることを確定あそばされていたのであります。
 しかるに、前記『千日尼抄』には、弘安元年の年であるにもかかわらず「仏滅度後二千二百三十余年」と書かれてありますから、大聖人はこのように2通りの算定をあそばされたことが拝せられます。

 これについて、さらに不思議なことは、大聖人様の御顕示の御本尊において、文永12年が建治に改元されまして、そののち同3年までの3年間の御本尊の仏滅讃文は、1幅の例外もなく、「仏滅度後二千二百二十余年」と書かれてあります。
したがって、続く弘安元年も、先程の算定からするならば2千227年でありますから、それなら同じく2千220年代という意味において「二十余年」と書かれてよいわけであります。

 しかるに、弘安元年に入って「三十余年」と書き給う御本尊が圧倒的に多くなり、その後、弘安3年までの御本尊には「三十余年」と「二十余年」の、双方の讃文が拝されるのであります。

 これについて日寛上人は、法華経が1年に3品半を説かれたと御覧になり、釈尊が寿量品を76歳の年に説かれ、次の77歳の年に神力品を説かれて地涌・上行菩薩に結要付嘱をされたことを挙げられまして、寿量品説法の76歳より、入滅の1年前の79歳までの4年を加えると2千231年になります。
したがって、仏の滅度の後より起算して、弘安元年が「仏滅度後二千二百二十余年」と言われたのであるとされています。

これについて、さらに弘安元年著作の『本尊問答抄』にも、
■「此の御本尊は世尊説きおかせ給ひてのち、二千二百三十余年云云」(同1283頁)

とありますので、この文を挙げて、寿量品の本尊を説かせられた意義の上に、そこから算定して「二千二百三十余年」と言われたとして、故に弘安元年以降が御本尊についての「究竟の極説」となるという、1つの証拠とされております。

 しかし、ここでいささか疑問に感ずることがあります。
それは、弘安元年は、釈尊が寿量品に本尊を説き顕し、神力品において上行菩薩に付嘱されたところより起算すれば、入滅の年より4年乃至、5年前、すなわち、これを加えることになりますから、普通の仏滅後よりの数え方ならば2千227年であるべき弘安元年が、2千231年、2年に当たり、故に「三十余年」と書かれたということは、たしかに数字の算定上、よく判るのであります。
しかし、それなら何故に讃文に、その場合は「仏の滅度の後」ではなく、「仏顕本後」すなわち「仏が顕本され(寿量品を説かれ)た後に二千二百三十余年」と書かれなかったのでありましょうか。

 つまり、寿量品は顕本されたわけであって、釈尊が寿量品を説かれ、また、神力付嘱の時は、仏様がお亡くなりになるよりも4年乃至、5年前ですから、当然、まだ生きておられるわけです。
しかるに、そこより算定するならば、「仏顕本後」あるいは「仏付嘱後」でなければならないと思いますが、そこをやはり同じように「仏滅度後」とお書きになっているのです。
これは、生と死、生と滅が混乱し、混同しておる矛盾のように思われるのであります。

 この疑問については、日寛上人の会通のなかでは全く述べられておりません。
しかしこれは、そのことを御存じなかったのではなく、大聖人が目的とし給う、最終意義についての説明を省略されていると拝せられます。

 今、これについて、相伝の深い元意を拝しつつ、この寿量品、神力品よりの算定による「二千二百三十余年」について、「寿量顕本以後」と書かれず、相変わらず「仏滅度後」と示されておる理由を拝したいと思います。

 これは、仏身の生滅の意義が、一代仏教の肝要たる寿量品の中心法体であると思われます。

 寿量品は他の諸経に絶えてない、法身・報身・応身の三身常住と、その仏の三世にわたる衆生済度を説かれております。
そのなかの過去および現在の化導中に、仏の「非生現生」すなわち、生に非ずして生を現じ、「非滅現滅」すなわち、滅に非ずして滅を現ずる相を示されるのは、通常の大乗経において示現する法身のみの常住や、小乗経の応身たる釈尊の身がインドに生まれて法を説き、80で入滅する相と全く異なるものであります。

天台はこれを『文句』に、

■「仏は三世に於いて等しく三身有り、諸教の中に於いて之を秘して伝えず」

と、寿量品のみに、この三身常住のなかに応身の生滅もまた、あることを述べております。
そして、大聖人は『開目抄』に、

■「法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども、応身・報身の顕本はとかれず」(御書536頁)

と示され、寿量の仏は常住のなかにおいて数々(さくさく)生を現じ、また、滅を現ずることが明らかであります。

 すなわち、弘安元年が「仏滅度後二千二百三十余年」であるとの、寿量品に基づく年代の起算は、単なる応身仏としての釈尊の仏滅ではなく、三世常住の寿量品の仏身の生と滅を、末法出現の御本尊に顕す意であります。

 ここにおいて、法身・報身・応身の三身相即のなかで応身を中心とするときは、不滅に即する滅であり、すなわち、寿量品の釈尊の入滅を基点として、弘安元年まで2千227年でありますから、御本尊讃文に「仏滅度後二千二百二十余年」と記され、報身を中心とするときは、滅に即する不滅として、寿量品説法を基点とする2千231年であるから「三十余年」と記されたと拝せられます。

 故に、弘安元年より3年までの大聖人の御本尊に、この両方を拝するのは、共に寿量品の常住の滅・不滅の意義の上に示されるのであります。
しかして、さらにその内証は、脱益の寿量の文底として、「三十余年」の本尊は久遠元初の自受用報身、「二十余年」の本尊は自受用に即する久遠元初無作三身を示し給うものと拝せられるのであります。

 日寛上人は、弘安元年以降の大聖人の御本尊が「究竟の極説」であると言われましたが、その数々の御本尊において「二十余年」と「三十余年」がある理由を、明確に述べられておりません。

 しかし、「弘安以降本懐究竟」と拝すべき大聖人様の大漫荼羅相は、ほかにも、中央の「南無妙法蓮華経」を下種の本法として所有あそばす「日蓮」の御名が、弘安以降、全くその直下の中心に顕し給うこと。

 また、次に、法界一切の諸仏はことごとく、この文底下種の「南無妙法蓮華経日蓮」に摂し給う故に、建治中、3年までのあらゆる御本尊に1幅の例外もなく示された、釈迦・多宝の両脇の、善徳仏と十方分身の諸仏が、弘安以降において全く削除されていること。

 次に、御判形が更改されたこと等

において明らかに拝せられるのであり、要するに弘安元年以降の「二十余年」と「三十余年」の本尊を、特に究竟・未究竟をもって区別すべきでなく、共に本懐究竟なのであります。

 この時機において、大聖人の御内証と、熱原法難の三烈士等の、信徒の方々による不惜身命の法華護持の相との、内因と外縁が相俟(ま)って、弘安2年10月12日、ついに本門戒壇の大御本尊が顕されました。

故に、日寛上人が、

■「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」(『日寛上人文段集』452頁)

と述べられるところであります。

歴代上人は、この大御本尊の御内証を相伝の上に拝し、本尊を書写し奉られたのであります。

 ただし、日興上人の本尊書写における仏滅讃文については、その本尊相伝の時機が弘安5年でありますから、この年に至っては、以上の両意による算定が共に「仏滅度後二千二百三十余年」となる関係上、日興上人および以下の歴代上人も、これを書写の規準とあそばされておるのであります。

 以上、本日は仏滅讃文よりの本尊の大事について、その一部をあらあら申し述べました。これらの深義は、他門には全く明らかならざるところであります。
 皆様には、当宗の本尊相伝の正義を信ぜられ、いよいよ行学に邁進されますよう、お祈り申し上げ、本日はこれをもって失礼いたします。
(文責・編集室)
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【資料】

■青年僧侶邪義破折班H17.6.7

このように、日開上人の御本尊御書写は、大聖人の大漫荼羅御境界に含まれる特別な境地を拝されてのことであられた。
また、総本山久成坊の常住板御本尊には、讃文に「仏滅度後二千二百二十余年」とお認めである。
この御本尊は日精上人が御書写なされた御本尊を、日寛上人が造立・開眼なされたものである。
このことからも日寛上人は「仏滅度後二千二百二十余年」とお認めの御本尊を、誤りなどとはされていないことが明らかである。
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これを以って、日開上人への邪難は完摧である。
痴犬にまだ異議があるのなら、更に反論すべし。
3日のうちに出来なければ、直ちに自らの不明を羞じ、当板上で、日開上人への謝罪を表明せよ。
痴犬らの言動を多くの閲覧者が見ている。
くれぐれも、卑怯な遁走などして、衆人から哂われる事のないよう、老婆心ながら忠告しておく。