痴犬へ鉄槌 31  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 428()08578 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

さて、痴犬、昨夜の”宿題”はどうした?
毎晩書かなくては気がすまないのではないか?
まさか”反論不能で遁走”ではあるまいな。
痴犬の必死で足掻く反論にもならぬ駄文を待っている。
早くせよ。
その間に”宿題”は溜まる一方だぞ。
まっ、痴犬がどうしてようと、当方は今までの痴犬の痴論を楽しみながら粉砕するのみだがね。
では痴犬がお休みしている間に次いきますか。

痴犬もほとほと救われない衆生だな。
まだくどくど↓こんなところに躓いているのかね。
これでは成仏など思いの外、三悪道に堕す訳である。
大体にしてそんなに嫌な宗派だったのなら、創価学会は始めから日蓮正宗の信心をしなければ良かったのではないか?
痴犬も始めから身延辺りにでも「入信」していれば良かったではないか。
痴犬の宿習と悪因縁としてはその方がお似合いだろう。
牧口氏・戸田氏は痴犬らが↓のように誹謗・中傷する「日蓮正宗」へなぜ入信したのだ?入信する”必要”があったのだ?
当時の(さらには牧口・戸田両氏の日蓮正宗への入信以前の)日蓮正宗を、曲がった根性で邪推し、非難し、中傷することは、創価学会の誕生と歴史そのものを否定し、蔑如していることに気がつかぬか。
バカ な痴犬はそもそもこういう子供でも分かる”道理”が全く分からなくなっている。
まことにニセ本尊・三宝誹謗の猛毒恐るべしである。

ではいきますか。
―――――――――――
> DATE:  4月21日(金)12時24分1秒
> TITLE: 誤法主ゲイカちゃま金銭腐敗の浣腸選挙
> NAME: エロ如68号  MAIL:
>
> 昭和二年十一月十七日、五十九世堀日亨上人は数多くの留任懇願書が届けられたにもかかわらず健康状態等を理由に辞職した。それに伴い、同年三月に施行されたばかりの新宗制に則って十一月二十四日、総監の水谷日隆(のちの六十一世)が管長事務取扱に就任するとともに、二十六日、後任の法主を選ぶ管長選挙が告示された。
>  投票の締め切りは十二月十七日、翌十八日に開票と定められた。被選挙権を有するのは、当時、能化だった水谷日隆(静岡・本広寺)、有元日仁(東京・妙光寺)、阿部日開(東京・常泉寺)の三人であったが、日隆が立候補を辞退し“盟友”日開の選挙参謀に回ったため、阿部と有元の一騎打ちとなった。

>  *大石寺の山林を無断で売却し運動資金に

>  十一月初旬の御会式で、日亨上人が正式に退座の意向を表明したのに驚いたある僧侶が、同上人に「猊下にして今御辞職あっては、折角安定せる宗門が再び修羅の巷(ちまた)となるゆへ御留任を」と請うたのに対して、日亨上人の辞意はあくまで固く、「乱れるのは承知である、宗門が二分したら終(つい)に落付く所に落付くのである」と答えたという。
>  もともと日亨上人に登座の意思はなかった。ただ大正十四年十一月に勃発した五十八世土屋日柱に対するクーデター騒動の大混乱を収拾するため、宗内多数派の推挙を受けて、敢えて火中の栗を拾う覚悟で大正十五年三月、猊座に登ったのであった。しかし、登座後、早々に手掛けた宗制の改正において、自分を法主に担いだはずの水谷日隆や阿部日開ら執行部が自分の意見をほとんど無視黙殺する状況に、ほとほと嫌気がさし、同年六月にはすでに、周囲に早期退座の意思を明かしていた。
>  その後も日亨上人は事あるごとに辞意を漏らしていたが、同上人の辞任の日が近いことをいち早く察知した阿部派の水谷日隆は、昭和二年三月の新宗制の施行と同時に初代総監に就任するや、隠密裡に九人の者を選挙権をもつ教師に特叙。その急造された教師のうちなんと八人までもが阿部派の若手であった。
>  そして御会式前の十月には、阿部派は早くも選挙の事前運動を始め、病気見舞いや観光等にこと寄せての末寺訪問、お土産攻勢などを始めた。
>  こうした阿部派の事前運動に対して、有元派は阿部派の総監・水谷日隆らが、大石寺境内の保安林を総代に一言の相談もなく四千五百円で伐採・売却した事実をつかみ、その金が阿部派の事前選挙運動の資金として使われていると内部告発して対抗した。

>  *私服警官10数人の厳重警戒下で開票

>  いよいよ、選挙が告示されてからの腐敗選挙ぶりは、双方とも目に余るものがあった。
>  例えば、ある老僧のところへ、阿部派の運動員が品川・妙光寺つまり有元派からの使いと偽って行き、自動車で東京に連れ出し、酒食の接待で酔ったすきに転居届を書かせ、投票用紙がそこへ送られるようにして阿部への一票をものにしようとしたという。
>  また、ある僧侶は、法要という口実で外へ連れ出され有元派との接触をもてないようにされた。
>  そのほかにも阿部派は、富裕寺院への転任や位階の昇進といったアメでつろうとしたり、逆に免職や転任をちらつかせて脅したり、有力な信徒を使って圧力をかけたり、揚げ句は、ニセの電報を打って有元への投票を妨げようとまでしたという。
>  もっとも、有元派も同じようなことをやっていた。
>  有元派は、ある僧侶が阿部に投票したことを聞き出すや、強引にその取消状を宗務院宛(あて)に送らせた。また別の僧侶は、有元派の脅しによる恐怖から取消状を出したが、その僧侶が脅されているところを隣室で聞いていた者が、取り消しは真意でないと、これまた宗務院に届け書を提出したという。
>  このように、阿部派、有元派ともに脅しと利益供与をもって、まさに政治屋も顔負けの金権腐敗選挙を繰り広げたのであった。
>  昭和二年十二月十八日、開票の当日、大宮(いまの富士宮)警察署の署長以下十数人の私服警官が午前八時から大石寺の内外の警戒にあたった。警察は“日柱降ろし”の“内ゲバ”騒ぎの経験から、阿部と有元両派の衝突を本気で警戒していたのであった。
>  おかげで開票は何ら支障なく行われ、結果は、阿部日開五十一票、有元日仁三十八票、十三票差で日開の当選となった。だが、この結果が判明した翌日から、二年前に勝るとも劣らない大騒動が巻き起こったのである。
>  当時の「静岡新報」や「静岡民友新聞」等によると、選挙で敗れた有元派は開票の翌日、“選挙に不正があった”との理由で文部省に行き、宗教局長に日開の当選無効を陳情。
>  更に、有元派信徒の一人が同日、大宮署に出頭して阿部日開と水谷日隆の二人を相手取り、「選挙違反」「恐喝」「脅迫」「横領」の告発状を提出した。
>  また同じく開票の翌日、有元を支持する渡辺、井出、笠井といった大石寺の檀家総代三人は、弁護士を連れて、宗務院の水谷日隆を訪ね、大石寺の収支会計簿および財産全部の検閲と引き渡しを迫った。だが、日隆が四人との面会を避けたので、総代らは裁判所に収支会計簿等の引き渡しの仮処分を申請した。そして、この三人の総代もまた、二十一日に上京し、文部省宗教局長に水谷日隆の排斥等を陳情した。
>  こうした管長選挙にまつわる“お家騒動”の勃発によって、文部省は成り行きを見極めるべく、阿部日開の新管長就任の認可を何カ月も見合わせた。
>  一方、有元派信徒の刑事告発によって、大宮警察署から依頼を受けた東京・向島警察署は昭和三年三月二十四日、常泉寺住職・阿部日開を召喚して長時間にわたって取り調べを行った。
>  取り調べの内容は主として、(1)日開が総監の水谷と共謀して、大石寺の立木を伐採して選挙運動費に使用したとか、(2)阿部日開は故大石日応(五十六世)の三回忌の席上、日応の隠居所で現在は未亡人の金子妙典が住んでいる大石寺蓮葉庵の維持基金四千円は銀行預金にしておく旨、明言していたにもかかわらず、その四千円のうち二千円を日開が他に諮(はか)らないで勝手に個人に貸し付けていた、などといった「背任横領」の容疑であった。
>  当時は昭和初期の金融恐慌の最中で大銀行ですら危ないと言われていた時期であり、個人貸付はもっと危険であった。
>  日応の遺弟の一人が日開に内容証明郵便で、この貸し付け疑惑について追及したところ、日開は「目下銀行より引出して自分に於て責任保管しているから安心せよ、応尊の七回忌に発表する」と返事。だが、その人が更に「来年六月の御七回忌まで待つまでもなく、此機会に其保管の方法を示せ」と内容証明を送ると、常泉寺の執事名で「旅行不在中云々」という返事があっただけで、それ以後、何の返答もなかったという。

>  *文部省も日開の登座を半年間も許可せず

>  結局、文部省宗教局の認可がおり、阿部日開が正式に六十世法主となったのは、昭和三年六月二日のことであった。管長選挙の開票が前年の十二月十八日だから、認可まで約六カ月かかったことになる。
>  この間、阿部派と有元派の間で、官憲や報道機関を巻き込んで熾烈な権力抗争が行われたわけであるが、最終的には、文部省宗教局長の調停で、阿部派の悪の権化ともいうべき総監の水谷日隆が一切の公職から身を引くという条件で、有元派や大石寺の総代が阿部日開の晋山を認め、昭和三年六月八日、五十九世日亨上人から六十世阿部日開への血脈相承が行われた。
>  だが、六十世日開の誕生の経緯をここまで見てくると、そこには、新任教師の不正な急造、金権腐敗の不正選挙、山林の不正伐採・売却、公金の不正流用等々、いたるところで「不正」の二字が出てくることに気付くであろう。
>  このような「不正」な手段を弄(ろう)して法主の座を射止めた者が、果たして本当に日蓮大聖人から日興上人、日興上人から日目上人へという「血脈の次第」を受け継いでいると言えるのであろうか。日開の場合は、そもそも法主になったこと自体が「過ち」であったというべきであろう。
>  大石寺は六十世日開の誕生に際して、五十八世日柱から五十九世日亨上人への相承の場合と同じく、またしても文部省の行政介入を受けた。本来なら、国家権力をも諫暁(かんぎょう)すべき立場の大石寺僧侶が自分たちだけでは法主を決めることができず、一度ならず二度までも権力の助けを借りたという事実は、大石寺の歴史の大きな「過ち」の一つとして永久に刻印されているのである。
>   「静岡民友新聞」昭和2年12月23日付
―――――――――――
●痴犬などはもともと自分の頭で検証・理解する能力がないようで、こうしたコピペの繰り返しだけが頼りのようである。
通読してもなんら得るものは何もない。

では、まず第一段の破折は既に済んでいるから、熟読せよ。
http://toyoda.tv/tciken6.htm
然る後に、道理において反論してみよ。
くれぐれもこのまま、遁走するような恥ずかしい真似はしないよう、念告しておく。