『日蓮正宗布教会編・悪書板本尊偽作論を粉砕す』

次に、日恭上人の焼死の御事について述べておく。
 日恭上人は、昭和二十年六月十七日の夜半、大石寺の庫裡・客殿の焼失の時、管長室において焼死あそばされたのであるが、まず、その出火からいえば、大石寺大奥の管長居室は二階建ての座敷であって、その三間ほど隔てたところに応接室の対面所という建物があった。
 世界大戦もようやく苛烈になってきて、陸軍では、朝鮮の人達を悉く兵隊として、全国の各地に宿泊せしめていたが、大石寺もその宿舎となったため、数百名の朝鮮人の兵隊が大石寺の客殿から書院に宿泊しておった。そして、これを訓練する将校が、二十数名も対面所に宿泊していたのである。
 ちょうど、静岡市空襲の暁に、これらの兵隊がガソリンを撒布して、将校室となっていた、その対面所の裏側の羽目に火をつけたのである。そのため、火は一瞬にして、建物の全部に燃え上がったのである。それがために将校は、身の回りの物をもって、わずか三尺の縁側の外に逃げるのがようやくであったのである。火は、やはりほとんど同時に、管長室に燃え上がったのである。侍僧は階下に寝ていたが、反対側の窓を破って、これまた、ようやく逃がれたのである。
 この時には、一山の者が駆けつけたが、もはや、手の施しようもなかったのであって、たちまちのうちに二階建ては焼失してしまったのである。

 一同は、それよりも延焼を防ぐべく努力したが、ついに客殿、書院、土蔵を灰塵に帰せしめたのである。この間、兵隊は三門に待機して、将校が監視していたのである。まったく終戦前夜の様相であった。
 夜が明けて、さっそく管長室のあたりを調べたところ、日恭上人の御遺骸を灰の中に見出したのであった。一山の大衆はじめ村人も、ただただ涙にくれるばかりであった。それで、その御遺骸を、慎んで御墓所に埋葬申し上げたのである。何にせよ、夜を日についでの空襲に、戦火相次ぐ時、葬送は一山と近隣の村人で虔修したのである。
 その後、話は、その日一日の上人の御様子のことが折りにふれて語られるのであるが、各人の語る結論は、上人が覚悟の上で焼死をなされたということである。
 上人は、その日の朝、上井出村の壽命寺(仮寓)から大石寺に御出でになられたが、それを聞いた某老師は、さっそく御訪ねして御機嫌を伺ったが、御話は自然に戦争のことになり、日々の空襲戦火を非常に心配し、『敗戦は免れまい』というようなことを仰せられ、『いつ自分も倒れるかわからない、もしその時には相承のことが心配だが、その用意もしてある』と御洩らしなされ、また『御隠居も御二人健在でいられるから』との御話があった。
 また大石寺に御出ましになったのは、某信徒が登山するとの報があって、その方に御会いなさるためであった。しかし、その方は都合で登山を見合わされたので、上井出の方から迎えの者が来て、御帰りあそばされるよう申し上げたが、『今日は一晩泊ってゆく』と仰せられて使いの者をお帰しになったこと、また出火は十一時で、一山の者は防空のため、オチオチ寝られない状況で、皆、起きている時刻であり、さらぬだに御老体でそう熟睡なさるはずはない(大石寺においては、管長は毎晩夜中の十二時に起きて、丑寅の刻に勤行することになっている)こと、居室の下には所化僧がおり窓から逃げ出していること、また灰燼の中から上人の御遺骸を見出したのであるが、それは御寝所の部屋でなく、御内仏安置の部屋であり、その御内仏の前あたりにうつ伏せになっておられたと思われる姿勢が拝せられたこと、その他いくつも話はあるが、いずれ上人が戦場のごとき大石寺に於て兵火の発するのを見て、ついに力の及ばざるを御考えなされて、むしろ自決なされたと拝せられる。思えば一宗の管長として、立正安国の御聖訓を体して国家の隆昌を祈り、国民の安泰を願い、日々夜々、一宗を督励し祈願を込め給いしに、ついに敗戦を眼前に控え、すでに力及ばず、『老躰を焼いて国家の罪障を滅せんにはしかず』として、自決の道を選ばれたと拝せられる。
 その折の葬送が、一山近隣のみで、全く形ばかりであったことは、まことに申し訳ないことであったが、戦時下、やむをえざることであった。」


 真実は以上のとおりであり、学会の疑難は、安永の『偽作論』と共に、ことごとく粉砕されているのである。
 この『悪書板本尊偽作論を粉砕す』は、大白蓮華第六十五号にも、以下のとおり紹介されているので、学会幹部にも異論はあるまい。

 「板本尊偽作論#j折について
 この醜書については既に聖教新聞二三六號(七月二十二日刊)及び日蓮正宗布教會發行の正宗機関誌大日蓮°繻主j誌上において、徹底的にそのインチキぶりが指摘されている。
 又新たに、その妄説を餘すところなく粉砕した日蓮正宗布教會編悪書『板本尊偽作論』を破す≠ェ單行本として發行されているので、關心を持たれる方は、一讀されたらよろしいかと思います。」


以上で十分であろうが、念のため、池田教信者が現代の御書≠ニ称した『人間革命』からも引用しておく。

 「焼けただれた管長室には、第六十二世日恭猊下が、おいたわしくも、身を火焔にみずから焼き、端座(たんざ)したままの姿であられたのである。
しかも、正装であり、袈裟をかけたお姿である。
そして、一閻浮提総与の大御本尊を御安置した、御宝蔵にむかっていた。
猊下はお逃げになることは、いくらでもできたのである。
その証拠に、数百人の罹災(りさい))者の中で、負傷者は一人もなかった。客殿の焼亡とともに、なにゆえに、わが身をお焼きになったのか。
凡庸(ぼんよう)の推察は、さしひかえなければならない。
(中略)彼(※戸田)は、日恭猊下は一国謗法の苦を、御一身にお受けなさったものと拝察した。
ありがたいきわみではないか、と思った。」(『人間革命』第一巻)

 戸田会長が「ありがたいきわみ」と拝察した日恭上人御遷化について罵る、今時の学会の狂いぶりに乗せられて一緒に狂う創価学会員が哀れである。


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

以下は、かつて破折した創価学会員への論証です。
相手の品性の無さに対して、表現に少々きついものもありますが、ご了承願いたい。
この件に関しても創価学会側から未だ一片の反駁もありません。
つまり反論不能状態です。

京都・奈良辺りの痴犬への破折 再開その11  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 4月 3日(月)16時21分55秒 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

> DATE:  4月 1日(土)18時51分0秒
> TITLE: 誤ホッス62号マル焦げ横死!残念
> NAME: エロ如68号  MAIL:
>
●では、日恭上人の御事について再破折する。
痴犬の以下の投稿は、地涌の丸々コピーで全く創造性に欠ける。
思考停止状態を曝け出し、実に情けないものである。
しかし、そのせいで、痴犬の仕事は大幅に増えることになる。
よく地涌編集子と連絡をとって、以下の反問に対して自らの主張の正当性を立証せよ。
もし、その全てに反論立証できなければ、潔く謝罪し脱会せよ。
―――――――――――
▼> 昭和二十年六月十七日に起きた大石寺の大火により、時の“法主”である大石寺嗣法第六十二世鈴木日恭は焼死!

> 出火場所は※大奥と対面所北側の廊下のあいだにあった「奥番部屋」の押し入れであった※「ようだ」。

⇒ 伝聞※「ようだ」の根拠を示せ。

日達上人・日淳上人『日蓮正宗布教会編・悪書板本尊偽作論を粉砕す』

「陸軍では、朝鮮の人達を悉く兵隊として、全国の各地に宿泊せしめていたが、大石寺もその宿舎となったため、数百名の朝鮮人の兵隊が大石寺の客殿から書院に宿泊しておった。そして、これを訓練する将校が、二十数名も対面所に宿泊していたのである。
 ちょうど、静岡市空襲の暁に、これらの兵隊がガソリンを撒布して、将校室となっていた、その対面所の裏側の羽目に火をつけたのである。そのため、火は一瞬にして、建物の全部に燃え上がったのである。」

とあるが、これを否定し、※「大奥と対面所北側の廊下のあいだにあった「奥番部屋」の押し入れ」と特定できる客観的証拠を挙げよ。
出来なければ、まずこの時点で既に憶測に基づく虚偽記事と認め、謝罪せよ。更に脱会する心の準備をせよ。
―――――――――――
▼出火時刻は、昭和二十年六月十七日午後十時三十分頃。火は対面所と二階建ての大奥(木造二階建)を、ほぼ同時に焼き、その後、東南に向けて延焼し、大書院を焼き、つづいて六壺、客殿を焼き尽くした。
>  約二百五十畳の大書院には神棚が祀られ、二百名とも三百名とも伝えられる朝鮮兵がザコ寝していた。朝鮮兵はなかば強制的に日本に連れてこられ、大石寺周辺で開墾や農耕に従事させられていた。この朝鮮兵たちが、大書院のみならず客殿をも宿泊所としていたということも伝えられている。
>  いずれにしても、大奥そばの将校宿泊所となっていた対面所を含め、大書院、客殿、厨房などを兵たちがわがもの顔で使い、大奥の一部を除いて、大坊はほぼ兵営と化していたのである。
>  僧たちは、兵たちに威圧され肩身の狭い思いで生活していた。日恭が大石寺にいなかったのは、病気が表立っての理由とされているが、このような生活環境も、※「日恭が大石寺より遠のいていた原因の一つであったと思える」

⇒ ※全くの憶測であって、なんら客観的証拠はない。こういうのを邪推と呼ぶのである。
―――――――――――
▼(筆者注 この頃、日恭は別の所に通常住んでおり、焼死した晩のみたまたま大石寺に泊まった)。
>  ※総本山大石寺のありさまと日恭の行動を合わせ考えるに、日恭には兵に蹂躪されつつある大石寺に残り、体を張ってでも大御本尊様を守ろうとの気迫はさらさらなかったように思える。おおむね日恭は、軍になされるままであったのだろう。

⇒ ※ここも、全く根拠の無い邪推にすぎない。
―――――――――――
▼>  なお神棚の祀り込まれた大書院は、大奥に隣接する大石寺にとって主要な建物であった。
>  また、大御本尊様まします御宝蔵の間近でもあった。大石寺中枢に謗法を祀り込まれてしまっていたのだ。日蓮大聖人は末流のふがいなさを、どれほど嘆かれたことであろうか。

⇒ 当時の戦時下の緊迫した状況では、頑強に神札受諾を拒否すれば、日亨上人、日恭上人の投獄・獄死の危険があり、血脈断絶の危機に及ぶ。
また大石寺が身延の支配下に入れば、戒壇の大御本尊が身延の支配下に置かれることになる。
戒壇の大御本尊を他宗の支配下に置き、血脈断絶に至る以上の大謗法が、ほかにあろうか。
―――――――――――
▼> 大石寺を紅蓮の炎で包んだ大火が鎮まったのは、翌十八日午前四時頃のことであった。日恭の焼死体が発見されたのは、大奥の焼け跡からであった。
> 日恭は当夜、大奥二階に泊まっていたが、火の廻りが早く、当人も巨躯と持病の疝気(漢方で、大小腸・生殖器などの下腹部内臓が痛む病気)のため歩行が不自由であったため逃げ遅れた。
>  焼け跡から発見された日恭は、上半身が黒焦げとなり下半身と腹わたが生身のまま残っていた。この火事の犠牲者は、日恭一人のみであった。

⇒ ここも客観的証拠を挙げずにただ邪推しているだけである。

【反証】
―――――――――――
誹謗その@
 日恭(上人)は耳が遠く、火事であることに気付かず、逃げ遅れて焼死した。
―――――――――――
 当時、お側近くで日恭上人の謦咳(けいがい)に接してこられた、ある寺族の方は次のように証言しておられる。
 「お耳が遠いといっても、それほどではありません。今の私ぐらいでしたよ。それは、ある程度のお歳ですから、耳が良くはなくても、普通の会話はされていましたよ」
とのことであり、けっして、火事を知らせる叫びが聞こえなかった、などということはありえない。
―――――――――――
誹謗そのA
 日恭上人は持病で歩行が困難であり、火事の際も、そのために逃げ遅れた。
―――――――――――
 日恭上人は当時、頻繁(ひんぱん)に上井出の寿命寺と大石寺の間を徒歩で往復されていたし、火事の起きる日も、上井出から、御僧侶をお供に帰ってこられたのであるから、歩行には支障をきたしてはおられなかったのである。
 そのことは、お供をして記憶している御僧侶も健在であるし、また寺族の方もこう語る。
 「火事の起きる日ね、あそこに逆さ杉=i現在の奉安堂の左後方の御華水の近く)ってあるでしょ、そこで一休みして、帰ってきたって、そう言っておられましたよ。だから、そんなこと(歩行が困難だったということ)は、絶対嘘ですよ。」
 寿命寺と大石寺の間がどれほどの距離であるか、一度、歩いてみるがよかろう。現代人にとっては、車を使いたくなる距離であることは確実である。
 以上によって、「歩行が困難だったから逃げ遅れた」との疑難は、事実でないことがわかる。
―――――――――――
誹謗そのB
 大奥二階の床が焼け落ち、日恭上人は一階に落ち、意識のあるままカマドにはまり込み、逃げるに逃げられないまま焼け死んだと思われる。上半身のみ焼け、下半身と腸(はらわた)が残った死体が、そのことを物語っている。
―――――――――――
 この毒々しい作り話についても、当時の総本山に詳しい方々が、次のように証言されている。
 「(図http://toyoda.tv/mitori.jpgを指しながら)ちゃんとしたカマドは、こちら(※台所の隣の土間・図のA)にあるんですよ。で、猊下の御遷化になられた場所はこちら(※大奥二階の仏間・図のB)ですからね。まったく離れています。
(中略)
 カマドまでは遠いですよ。大奥の小さな台所にあったのは、せいぜい七輪(しちりん)ぐらいのものでした。
 ですから、『カマドにはまり込み』なんてこと、実際も全くありませんでしたし、もとより、はまり込みようがないですよ。」
 このように、カマド云々の話は、一つには、使用していたカマドが御遷化の場所とは全く異なっていたこと、二つには、そのカマド自体が小さすぎて人が入れるわけなどないこと等から、明らかに後世の捏造(ねつぞう)であることがわかる。

 では、「カマドにはまった」との話は、どこから作り出されたかというと、どうやら次のようなことらしい。
 「この大奥の二階建ての建物は、六百五十遠忌の時、六十世の日開上人が建てられたんですが、それが建てられる前は、五十二世の日霑上人の頃に作られた台所が、この場所にあった。ですから、大奥の建物の縁の下には、昔の小さな古いカマドが残っていて、それが、火事の後、焼けた建物を撤去したら出てきたようです。
 そのことと話をつなぎ合わせて、『カマドにはまった』なんて話を作ったんでしょうね。でも、床下の、それも昔のカマドの跡になんか、はまりたくとも、はまれませんよ。」
 つまり、大奥の一階の縁の下に、五十二世日霑上人の御代に建てられた時の小さなカマドが残っていて、火災後、それが発見されたことと、日恭上人の御遷化とを結び付けて作った、邪悪な作り話だということである。
―――――――――――

 日恭上人第五十回遠忌の折、大橋慈譲尊師が紹介された、河邊尊師の手記には、
 「火災が下火になった頃、誰かが『午前様の姿が見えない』と云い出した。全員が上人を必死になって捜したが上人を見つけることができなかった。私はそれでもと思い、大奥焼け跡の焼棒杭(やけぼっくい)をどけながら、上人を捜していると、大奥二階の内仏安置の部屋の処に、上人が、お姿の上体を御宝蔵の方向に向かわれ、お頭は大腿部の間にお俯せになり、『覚悟の死』と思われるお姿で御遷化されておいでになった。(中略)上人が戒壇の大御本尊に向かわれ、お詫び申し上げる姿勢で御遷化されていたことは、その御覚悟の姿と拝するものである」
と記されている。

 

京都・奈良辺りの痴犬への破折 再開その11−2  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 4月 3日(月)16時23分28秒 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 当時のこうした全く根拠の無い誹謗記事に怒る法華講員が、昭和二十年六月十七日の日恭上人御遷化の模様について語る。
 その方の名は志村高氏。総本山の売店で食堂あさひやを経営する。
 当時の志村氏は消防団員で、火災の発生を知るや、取るものも取りあえず、本山に駆けつけたという。

――事件の夜、志村さんはどうして出火を知ったのですか。
志村 当時は、今の裏門のあたりに火の見やぐらがありまして、その半鐘が鳴ったんです。それで慌(あわ)てて表に出てみると、お山の方向に真っ赤な火の手が上がっているのが見えました。
 「大変だ、お山が火事だっ」ということで、急いで、そう、十五分ほどで駆けつけたのですが、その時には、客殿がすでに北側の棟のところから燃え出していて、屋根部分に燃え広がり始めていました。
――火の回りはそんなに早かったのですか。
志村 建物が一つづつ燃え落ちていったわけではないんですよ。棟伝いに火が回りましたからね。
 だから、私が駆けつけた時には、対面所や大奥の方はすでに手の施しようがなかったけれど、書院の玄関(南側)にまでは火が回っていなかった。でも、その時にはすでに、客殿北側に燃え移っていたわけですよ。
 で、火の見やぐらの脇にあった小屋からポンプを引き出し、それを使って消火にあたる者と、客殿から仏具などを運び出す者とに分かれて、それぞれ懸命に作業にあたったわけです。
―― その時の様子は。
志村 瓦というのは、火に炙(あぶ)られるとバリバリッと音を立てて、はじけるんです。客殿の屋根は急勾配だから、そのはじけた瓦――大きいものになると手の平大くらいの焼けた瓦が、頭の上からザアッと降ってくるんです。
 そんな中、みんな必死になって、客殿の中の物を一つでも多く運び出そうと必死だった。それこそ畳まで剥(は)がして、みんな頑張ったんです。で、これはいよいよダメだ、となって、戸板を外して頭の上にかぶるなどして、それで降ってくる瓦を避けながら逃げ出したわけです。
 また、この日は、静岡がB29の空襲を受けていた。ちょうど私たちの頭上を、B29の編隊が通過していくのです。ですから、「この火事の火が目標になって、爆弾を落とされるようなことはないだろうな」などと、みんなで半ば心配しながら消火作業にあたったことも記憶しています。
――日恭上人の御消息についてですが。
志村 「猊下のお姿が見えない」と大騒ぎになったのは、火もようやく下火になった頃でしたね。あちこち探してもお姿が見あたらない。「そういえば、猊下のお姿は最初から見えなかった」ということになり、「もしや」ということで、翌早朝から焼け跡の捜索を開始したんです。
 捜索は焼け跡の片付けと並行して進められました。その際、大奥のあたりではそれこそ手作業で、慎重に捜索が進められました。
 すると、「衣のようなものが見えたぞ」との声が挙がったのです。そこで、汚れを洗い流すために水をかけつつ、材木を一本一本手でどけ、また、手で瓦をかき分けていったわけです。
 すると、焼け落ちた屋根瓦などの下から、御宝蔵の方角を向き、合掌されたまま、前屈(かが)みになられた姿勢で御遷化された、日恭上人の御遺体が現われたのです。
――学会は、日恭上人はカマドに嵌(は)まって焼け死んだ≠ネどと、日恭上人の御遷化を誹謗していますが。
志村 とんでもない。日恭上人の御遺体の下には、燃えて形は崩れていました
が、ちゃんと畳が残っていました。もちろん畳の燃えさしの下には、梁(はり)や一階の天井部分などにあたる焼けこげた材木などがありました。その下にはさらに一階部分の瓦礫(がれき)が――二階建ての建物が焼け落ちたのですから当然です。
 平成六年の六万総登山の前に、平野という学会幹部が、男子部を連れて脱講運動とやらで家に来たものだから、「おまえら、創価新報に何をいい加減なこと書いてるんだ。いったい誰から日恭上人はカマドに嵌まっていた≠ネんていう与汰話を聞かされたんだ!?」と、問い詰めたんです。
 そしたら平野らは、「僧侶から聞いた」などと言い出した。
 そこで、「だったら、そいつをここに連れてこい。自分は消防団員として現場に駆けつけ、日恭上人の尊いお姿を、この目でしっかりと拝しているんだ。自分の前に、その僧侶とやらを連れてくることができた
ら、自分が折伏した六十八世帯全部を引き連れて学会に移ってやるから、さあ連れてこいっ!」と一喝してやったら、奴ら、すごすごと帰っていきましたよ。
――なるほど。ところで出火原因について、消防団員として何かご存じないでしょうか。
志村 時代が時代ですから、私たちは何も聞かされませんでした。もちろん現場検証にも立ち会っていません。当時は軍人が一番威張っていましたから、もし自分達に何か不都合なことがあったとしても、それは表に出さないでしょう。
――当時本山内にいた農耕隊(軍隊)も、かなり我が物顔に振る舞っていたと。
志村 本山内の建物などは、かなり自由気ままに使っていたようですね。例えば対面所の付近――正確にどの部屋であったかは定かではありませんが、軍の連中が広い部屋に棚を作って、タバコや桃などの缶詰(カンヅメ)を大量に貯蔵していたらしく、焼け跡にそれらが散乱していました。
 桃の缶詰など当時はそれこそ貴重品ですし、タバコだって配給制でしたから、私は「焼けた缶詰や半分燃えてしまったタバコなど、もうダメだろう」と言ったのですが、拾っていく人達が結構いました。
――なるほど、強引に借り受けた建物を好き勝手に使い、国民の困窮(こんきゅう)をよそに大量の物資を備蓄しながら、あげくの果てに不審火を出したのでは、軍の沽券(こけん)に拘わる――将校らのそんな声が聞こえてきそうなエピソードですね。
志村 私は昭和十八年から昭和三十年まで、十二年間消防団員として活動しましたが、その間の、一番強烈な思い出となっているのがこの事件です。
 毎月、過去帳の十七日の頁を開くたびに、あの日のことが、まるで昨日のことのように思い出されるのです。甘んじて難に殉(じゅん)じられた日恭上人の尊いお姿を、全くの虚構をもって誹謗する創価学会の主張は絶対に通りません。いや、通させません。何故なら、私も、あの時の生き証人≠フ一人だからです。

 創価学会はこれまで、日恭上人の御遷化を、
「火事のため大奥二階の床が焼け落ち、日恭(上人)は一階に落ち、意識のあるまま竈(かまど)に嵌まり込み、逃げるに逃げられないまま焼け死んだと思われる。上半身のみ焼け、下半身と腹わたが残った死体が、そのことを物語っている」
(『地涌からの通信』歴史編)
などと、まるで見てきたかのような毒々しい表現をもって誹謗してきたが、その明確な証拠は、一度たりとも示せていない。
 いや、示せようはずがない。
 志村氏の証言によっても明らかなように、日恭上人の御遷化の模様は、かく尊いお姿であったのだから。
 またしても創価学会の正宗誹謗が、根も葉もない地獄行きの妄説であることが露呈してしまった。

――――――――――――――――――――――

▼> 当時の管長代務者である中島廣政は、昭和二十年九月の妙光寺彼岸会で日恭の死について、つぎのような考えられないような不運が重なった結果であると話している。
>  「書院には三百名の農耕兵が居りましたが或事情のため消火に協力出来ず、門前にあった消防自動車は故障のため使へず、上井出から來た戰車學校の自動車はガソリンを忘れたため是亦役に立たず、富士宮では消防自動車が大石寺出火と聞き逸早く出動準備を整へたのでありますが、署長不在のため命令を受けられず、空しく時を過し上野署よりの應援要請で馳著けた時は火は既*に客殿に移り、手の下しやうもないと云ふ此上ない悪條件揃ひであって、洵に宿命と申す外はないのであります」
>  そのうえで中島は、日恭の死について、
>  「然し金口嫡々の法主上人が此くの如き御最期を御遂げになったと云ふことは僧俗共に深く考へなければならぬことで是は大聖人大慈の御誡であります」
>  と素直に受け止め、彼岸会において宗門大衆を前に話している。
>  たしかにこれほどの不運が重なることも珍しい。まさに罰以外のなにものでもない。

⇒ 中島廣政師の発言は師個人のものであり、あくまで主観的なものでしかない。が故にゆえに、この発言を以って法義上の正邪を決する根拠とは当然ならない。
―――――――――――
▼そのうえ、これこそ罰を認識する核心部分であるが、竈に嵌まり込み、逃げるに逃げられず上半身黒焦げ、下半身生身の無残な死に方を日恭はしたのである。

⇒ 上記で完摧済み。全くの根拠のない誹謗・捏造。
もし、こういった誹謗を押し通すつもりなら、きちんと、事件当時の体験者を証人として出してみよ。
 だが、それはできまい、できようハズがない。
『地涌』の駄文は、わずかな噂や風聞を頼りに、執筆者のドロドロに腐敗した頭の中で作り上げた、妄想の産物なのである。
 ともあれ、法華経には、
 「還著於本人(げんちゃくおほんにん)」(開結六三四頁)
とあり、大聖人は
 「獅子を吠うる犬は腸(はらわた)くさる」と仰せである。

 大聖人の血脈法体御所持の御歴代上人を、ここまで故なく罵ったのだから、彼らの行く末は「腹わたがはみ出す」どころか、生きながら腹わたが腐敗してウミが流れ出すのではないか。
 他人事ながら、今から、痴犬らの腹わたのことが心配されるのである。
―――――――――――
▼さすがに当時の宗門中枢も、この不運が重なった結果として総本山大石寺が大火に焼け落ちて“法主”が無残な死を遂げた事実に直面し、かりそめであれ謗法に染まった過去を懺悔していたのである。その歴史的事実に目をつむり、宗門は今日になっても日恭の死を美化し、真実を隠蔽することに腐心している。

⇒ かつて池田大作センセ〜〜、はどう言っていたか。

 池田教信者が現代の御書≠ニ称した『人間革命』からも引用。

 「焼けただれた管長室には、第六十二世日恭猊下が、おいたわしくも、身を火焔にみずから焼き、端座(たんざ)したままの姿であられたのである。しかも、正装であり、袈裟をかけたお姿である。そして、一閻浮提総与の大御本尊を御安置した、御宝蔵にむかっていた。猊下はお逃げになることは、いくらでもできたのである。その証拠に、数百人の罹災(りさい))者の中で、負傷者は一人もなかった。客殿の焼亡とともに、なにゆえに、わが身をお焼きになったのか。凡庸(ぼんよう)の推察は、さしひかえなければならない。(中略)彼(※戸田)は、日恭猊下は一国謗法の苦を、御一身にお受けなさったものと拝察した。ありがたいきわみではないか、と思った。」(『人間革命』第一巻)

 戸田会長が「ありがたいきわみ」と拝察した日恭上人御遷化について、変質者・異常上者ともいうべき表現をもって罵り、見てきたようなウソを書き殴る。今時の学会の狂いぶりが、よくわかるではないか。

ではこの箇所は、池田センセ〜〜が「歴史的事実に目をつむり、日恭の死を美化し、真実を隠蔽することに腐心している。」詐欺的な、ペテン記事であった訳だ。こんな”ペテン記事”を「現代の御書」と言って、読ませていた学会の大幹部たちは勢ぞろいで大詐欺師ではないのか?
この自己矛盾を論理明晰に説明せよ。できなければ謝罪し脱会せよ。

 

京都・奈良辺りの痴犬への破折 再開その11−3  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 4月 3日(月)16時25分10秒 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

> 管長代務者の中島廣政も、先の妙光寺における彼岸会で、「出火の場所は御居間(二階)の階下に隣る押入で三尺の廊下を隔てた對面所には農耕隊の將校が寝て居たのでありますが火の廻はりが急なため身を以て逃れ軍服を取出す遑〈いとま〉さへなく」(〈 〉内、筆者加筆)と話したことが記録されている。
> 出火は、日恭の寝ていたすぐ下の方であったのだ。これでは日恭が逃げることができなかったのは無理からぬこと。
> しかも日恭は、巨体(一説には百キログラムを超えていたと言われている)で、疝気と足腰が弱っていたため歩行困難であったという。

⇒ 上記で破折済み。「困難であったという。」⇒この伝聞の根拠または証人を挙げよ。できなければ謝罪し脱会せよ。
―――――――――――
▼また、この焼死をする昭和二十年六月十七日の九日前に日恭に会った信徒は、
>  「昭和二十年五月東京大空襲の時大久保の家が焼失し、その年の六月八日登山して上人にお目通りを願つたとき御短冊の寓意を御伺いしたら上人はいや別に意味はない思いついて書いて上げたのだと仰せられお耳がお惡かつたので質問を書いてお目にかけ御答を仰いだ。お目通りするなり『国諫のことか』と仰せられた。
>  それ程当時は国諫が宗内の問題になつていた。それは御遷化九日前のことである」(『唯信唯行』より一部抜粋)
>  と、当時、日恭の耳が聞こえなくなっていたことを記述している。火の廻りが速く、巨体の上に持病で歩行困難、そして耳が聞こえなかったため、日恭は焼死したのである。

⇒ 耳が遠かったことの傍証として、当時の信徒(東京・常在寺の直達講副講頭)竹尾清澄氏が、上人の御遷化の少し前にお目通りした際、わざわざ申し上げることを紙に書いてご覧に入れた、という話を挙げているが、これは竹尾氏が猊下の御事をそこまで想って配慮されたまでのことであって、何も、筆談でなければ話が通じないほど、お耳が遠かった、ということではない。
―――――――――――
▼>  宗門の出した「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」には、
>  「皆んな上人が戦場の如き大石寺に於て兵火の発するのを見て、遂に力の及ばざるを御考えなされて、寧ろ自決なされたと拝せられる。思えば一宗の管長とし立正安国の御聖訓を体して、国家の隆昌を祈り、国民の安泰を願い、日々夜々一宗を督励し祈願をこめ給いしに、遂に敗戦を眼前に控え、既*に力及ばず、老躰を焼いて国家の罪障を滅せんにはしかずとして、自決の道を選ばれたと拝せられる」
>  と書かれているが、これは※日恭の死を美化しているだけのことである。

⇒ ※根拠を挙げよ。出来なければ謝罪して脱会せよ。
―――――――――――
▼日恭はただ逃げ遅れて死に、それも竈に嵌まり込み上半身は黒焦げとなり下半身と腹わたのみが残ったのである。

⇒ 完摧済み。客観的立証に耐えうる証人を挙げよ。出来なければ謝罪し脱会せよ。
―――――――――――
▼>  そもそも日恭が死んだのは、大奥である。
> 十七日午後十時半頃に出火し、翌朝四時頃まで約五時間半にわたり、燃えつづけたのである。日恭が焼け死んだときは、まだ対面所と大奥が燃えているだけで、日恭が死を思いつめるほどの段階ではない。大奥から逃げおおせた日恭が、客殿の延焼を見て、客殿の火に身を投じ「自決」したというのならともかく、事実は火事がいくらも広がっていない出火初期に大奥で死んでいたというのだから、日恭はただ単に逃げることができず横死したのである。
>  もしこの段階で責任を感じ「自決」を覚悟したとなれば、日恭は相当なあわて者ということになる。

⇒ 火が起ころうが起こるまいが、以前から死を御決意されていたことは以下の記述に明らかである。

「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」日達上人・日淳上人

「その後、話は、その日一日の上人の御様子のことが折りにふれて語られるのであるが、各人の語る結論は、上人が覚悟の上で焼死をなされたということである。
 上人は、その日の朝、上井出村の壽命寺(仮寓)から大石寺に御出でになられたが、それを聞いた某老師は、さっそく御訪ねして御機嫌を伺ったが、御話は自然に戦争のことになり、日々の空襲戦火を非常に心配し、『敗戦は免れまい』というようなことを仰せられ、『いつ自分も倒れるかわからない、もしその時には相承のことが心配だが、その用意もしてある』と御洩らしなされ、また『御隠居も御二人健在でいられるから』との御話があった。
 また大石寺に御出ましになったのは、某信徒が登山するとの報があって、その方に御会いなさるためであった。しかし、その方は都合で登山を見合わされたので、上井出の方から迎えの者が来て、御帰りあそばされるよう申し上げたが、『今日は一晩泊ってゆく』と仰せられて使いの者をお帰しになったこと、また出火は十一時で、一山の者は防空のため、オチオチ寝られない状況で、皆、起きている時刻であり、さらぬだに御老体でそう熟睡なさるはずはない(大石寺においては、管長は毎晩夜中の十二時に起きて、丑寅の刻に勤行することになっている)こと、居室の下には所化僧がおり窓から逃げ出していること、また灰燼の中から上人の御遺骸を見出したのであるが、それは御寝所の部屋でなく、御内仏安置の部屋であり、その御内仏の前あたりにうつ伏せになっておられたと思われる姿勢が拝せられたこと、その他いくつも話はあるが、いずれ上人が戦場のごとき大石寺に於て兵火の発するのを見て、ついに力の及ばざるを御考えなされて、むしろ自決なされたと拝せられる。思えば一宗の管長として、立正安国の御聖訓を体して国家の隆昌を祈り、国民の安泰を願い、日々夜々、一宗を督励し祈願を込め給いしに、ついに敗戦を眼前に控え、すでに力及ばず、『老躰を焼いて国家の罪障を滅せんにはしかず』として、自決の道を選ばれたと拝せられる。」
―――――――――――
 日恭上人の御遷化については、かつて学会の機関誌『大白蓮華』にも詳しく真相が載っているので、ここに引用し破折とする。
 次に挙げるのは、昭和三十二年の『大白蓮華』に掲載された、中島日彰尊能化の懐古談(かいこだん)である。

 「日恭上人がお隠れになる、その日ですね。私はその頃、財務の方を預かっていたから、ある用件を、行って申し上げた。それは、すっかりお聞きになった、帰ろうと思って奥を出て、次の間に来たら、『おい』と呼ばれた。『何ですか』と言ったら、『あれはな』という。『御相承に関するのは、こういうところに入れてあるから、あなた覚えておきなさい』と。『承知しました』と言って、私はそのときに奥を下ってきたけれども、まてよ、今日に限って日恭上人が変なことを言われたぞ。日恭上人に何か事がなければいいな≠ニ思っていた。そうしたところが、その晩でしょう。
 そのときに、日恭上人が私にお話なさった言葉を、その翌日か翌々日に、堀猊下がいらっしゃった時分に、一切のことを申し上げたら、堀猊下は『それは日恭上人は、それぐらいのことはあるはずだ』とおっしゃって、手帳へお書きになった。
 それから、次の猊下になられた日満上人にも、私はこのことを申し上げた。」(『大白蓮華』昭和三十二年十二月号・第七十九号)

 以上は中島日彰尊能化の懐古談であるが、日恭上人が、血脈不断のための御準備と御自身の御覚悟をなされていたことが拝されるではないか。
 さらに、こうした事実を踏まえて、池田大作著『人間革命』にも次のようにある。

 「戦況の日に日に非なることに話が及んだ時、猊下は、ひとりごとでも言われるように、側近の老僧に語った。
 『国が滅亡びるか、否かの時になった。私も、いつ倒れるかわからない』
 さらに、その数日前、もう一人の老僧にも、猊下は、異常な御覚悟を語っていた。
 『……私に、万一のことがあろうと、御相承のことは、お二人の御隠尊猊下(堀日亨上人、水谷日隆上人)がいらっしゃるから、何も心配はない。』」(『人間革命』第一巻千里の道≠フ章)
 かつての池田大作は、日恭上人の覚悟の御遷化について、このように認識していたにも拘(かか)わらず、日蓮正宗と袂(たもと)を分かった途端、部下共に悪し様な侮言(ぶげん)を吐(は)かせるのだから、呆れるではないか。

 ともあれ、日に日に悪化する戦況と、それにともなってますます濃くなる国内の大謗法、さらには清浄なる山内に軍部が強引に持ち込んだ神札――、正法を命がけで護持される御当代上人であればこそ、このような御覚悟を持たれたに違いない。
 また、何よりもそれは、日亨上人の「日恭上人は、それぐらいのことはあるはずだ」との御言葉からも、充分に拝されるではないか。

 戦後生まれの新興宗教にして、日蓮正宗に寄生して生き長らえてきた創価学会ごときが、自らの変節と無定見さを棚に上げて、大法を護持あそばされた日恭上人を誹謗するなど、もってのほかである。
 ことに、毒々しいオカルトもどきの邪悪な作り話を作った莫迦小僧は、自らを待ち受ける還著於本人(げんちゃくおほんにん)の果報を畏(おそ)れるべきであろう。
―――――――――――
▼>  もっとも自決するのに竈に入る者などいない。

⇒ 竈の作り話は完摧済み。図http://toyoda.tv/mitori.jpgをよく見ろ。反証するには客観的証拠を挙げよ。出来なければ謝罪し脱会せよ。
―――――――――――
▼>  「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」に書かれている。
>  「灰燼の中から上人の御遺骸を見出したのであるが、それは御寝所の部屋でなく、御内仏安置の部屋であり、其の御内仏の前辺りにうつ伏せになつてをられたと思はれる姿勢が拝せられた」 などといった証言は、まったくの※作り話。

⇒ ※作り話と断定できる根拠を挙げよ。出来なければ、謝罪。脱会。
―――――――――――
▼> 日蓮大聖人曰く。
>  「聖人は横死せず」(神国王御書)
>  日恭は仏罰により、無残な焼死を遂げた。人は“法主”の地位にあるだけでは、聖人ではないのである。

⇒ 以上のすべての反詰に明確に答えよ。出来なければ、この結論は全く不可である。
のみならず、反論に成功しなかった場合、大石寺の三門前にて頭を石畳に擦り付け深く謝罪し、御戒壇様と御法主上人に許しを請い、脱会し、入門を願え。
―――――――――――
【補足資料】

日恭上人が「謗法与同」ではなかった事実を『人間革命』によって証明してもらおう。
ゆめゆめ、学会員諸兄には、池田の言を軽んじ師弟不二≠フ道を踏み外さぬよう、御忠告申し上げる。

 「さらに、これよりまえ、猊下(※日恭上人)はお一人で文部省を訪れた。身延との合同問題が、国家権力の強圧のもとに、実行にうつされるばかりになっていた。猊下は、単身、当局に向かって「合同、不承知」を、厳然と宣言して帰られたのである。日蓮大聖人の、正法正義を継承する本宗は、断じて邪法邪義たる身延をはじめ、いかなる宗とも、絶対に合同はせぬ・・と。その毅然たる態度、迫力に、役人たちは驚いた。なおも猊下は、たとえいま、頚を切られてここに死すとも合同せず、と叫ばれて、ここに正宗の法水を護りぬかれて帰られた。じつに、日蓮大聖人の、幕府権力に対決した時のお姿が、そのまま拝されるのである。」

 この『人間革命』の記述は、当時の史実に基づいており、まさしく日恭上人が身命を賭して正法正義を護られたからこそ、日蓮正宗が現在まで続いており、また創価学会も興隆してきたのである。どこに批判の余地があるでろうか。
 大恩ある日恭上人の御遷化にまで鞭打つ創価学会は、必ずや御仏の厳罰をこうむるであろう。

次に『新報』は、本宗が「国主辣暁」 「神礼受諾拒否」をなしえなかった理由は、日恭上人が大法よりも自らの身命を惜しんだゆえである、として、時局協議会文書より、「頑強に神札受諾を拒否すれば、日亨上人、日恭上人の投獄・獄死の危険があり、血脈断絶の危機に及ぶ。また大石寺が身延の支配下に入れば、戒壇の大御本尊が身延の支配下に置かれることになる。戒壇の大御本尊を他宗の支配下に置き、血脈断絶に至る以上の大謗法が、ほかにあろうか(趣意)」との箇所を挙げて、これに反論する形で論を進めている。

 すなわち、『新報』は「宗派合同問題」については、昭和十六年に解決済み(昭和十六年三月三十一日、日蓮正宗単独宗制認可)であり、身延の支配下に置かれる危険性はなかった−とし、「血脈断絶の危機」については、日恭上人・日亨上人が投獄・獄死という運命をたどろうとも、六十一世日隆上人が控えており、現に日恭上人御遷化後は、六十三世日満上人は日隆上人より血脈を受けている事実から考えても、なんらの後顧の憂いはなかったのだから、堂々と国主諫暁・神礼受諸拒否をすればよかったのだ−としている。

 『新報』編集部には、本宗誹謗のための、都合のよい歴史しか見えないらしいが、歴史は『新報』が見るような単純なものではない。

 まず、宗派合同問題は、日恭上人の、「たとい今首を切られてここに死すとも合同せず」(『人間革命』第一巻)という御決意をもっての、政府役人との対決により、危機一髪のところで回避できたが、事態はそれで沈静化したわけではなく、その後も、本宗を根幹から揺るがす事件が続いていたのである。
 まず、昭和十六年当時、「神本仏迹論」の邪義を唱えていた某師は、単独宗制許可後も、神本仏迹論をもって、通算五回にわたって日恭上人に詰問状を送りつけ、日蓮正宗を「不敬罪」へと導こうとし昭和十七年にも、宗教新聞【中外日報」を使い、宗務当局に総辞職を迫るなど、日恭上人を悩まし奉っていた。
 本宗の教義の上で、神本仏迹論を破折することはたやすいことではあったが、「神は迹、仏は本」と言下に破すれば、不用意に弾圧を招く危険性があり、某師への対応には慎重をきわめたことが、当時の往復文書(慧妙紙第十三号参照)より拝される。

 また、昭和十八年には、創価教育学会の不敬問題が摘発され、それが本山へも波及しそうになった(結果的に、この時は御宗門の素早い対処により、未然に宗門本体への危難を避けることができたが)。これもまた、本宗の危機を招き寄せる一因となったのである。

 昭和十六年から十八年にかけての本山は、合同は免れたといっても、このような内憂外患の状態にあり、強行に「国主諫暁」、を行ない、「神札拒否」を表明すれば、足並みも揃わないまま、御法主上人の投獄、そして宗門断絶へと進む危険性があったのである。