創価学会の邪説―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
御書の御文の削除
昭和16年(1941年)9月、宗門は御書の御文14カ所の削除を命ずる通達を出した。これは
@大聖人が自らを御本仏と宣言された箇所
A天照太神に関する記述
B国主に言及された箇所など、天皇、国家神道への不敬にあたる恐れのある表現をすべて削除したのである。
主な削除箇所
「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(御書974n)
「天照太神・正八幡なんどと申すは此の国には重けれども梵釈・日月・四天に対すれば小神ぞかし」(同919n)
「此の日本国の一切衆生のためには釈迦仏は主なり師なり親なり、天神七代・地神五代・人王九十代の神と王とすら猶釈迦仏の所従なり」(同1410n)
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【創価学会に対する破折】
徹底した軍部の言論統制
創価学会は、宗門が御書のご文を削除したと非難していますが、宗門はきびしい言論統制のなかで、御書要文集の一部のご文にかぎって、法話・講演での引用を控えるよう通達したのであり、御書の改変をしたのではありません。
これは、無用の軋れきから大御本尊と唯授一人の血脈を守るための一時的な措置であり、これによって宗義が変わったわけではなく、謗法を容認したわけでもありません。
むしろ正法護持のために苦心された先達をののしり、御書を切り文して大聖人のご真意をねじ曲げる創価学会こそ大謗法の集団なのです。
【参 考】
『日達上人全集』
「このとき(※戦時中の神札問題のとき)は、御遺文集の不敬にわたる箇所を、みんなふせろという命令も出ましたからね。幸い本宗ではそのとき御書を発刊してなかったから問題がなかったが、ひどい弾圧ですよ」(一―五―六四六n)
創価学会の邪説―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
観念文の神道風の改変
昭和16年(1941年)8月、宗門は勤行の観念文を改変する通達を出した。これは「皇祖天照太神」「皇宗神武天皇」「皇国」など皇国史観の用語に満ち満ちた神道風の観念文に改変してしまったのである。
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【創価学会に対する破折】
諸天供養の観念文の一部変更について
創価学会は、宗門が初座の観念文を「皇祖天照太神」「皇宗神武天皇」「皇国」などの用語をもって神道風に改変したと非難しています。
宗門が観念文を変更したのは、天皇統治の意識を高揚する当時の風潮にしたがわざるを得なかった背景によるもので、諸天に法味を捧げるという本来の意義に変化はありません。
学会が「神道風」といっている「皇祖」「皇宗」とは、ともに天皇家の先祖という意味で、「神道風」というほどのものではありません。
『神国王御書』には、
■「国主をたづぬれば(中略)地神五代の第一は天照大神、(中略)人王は大体百代なるべきか。其の第一の王は神武天皇」(新編一二九六n)
とあり、日蓮大聖人も天照大神、神武天皇を天皇家の祖先とされており、ここをもって初座の観念文に、形容を冠してその名を挙げたのです。
また、「皇国」の用語は御書にはありませんが、我が国においては古来、天皇の祖先が神であるとされていたことから、御書に見られる「神国」の意義に通じます。
当時は欽定憲法のもとに天皇が日本の元首であり、「天皇の統治する国」という意味で、日本を「皇国」と称したのです。
創価学会は、宗門が当時の皇国史観を積極的に受け入れ、本宗の教義に反して、初座の観念文を全面的に改変したかのようにいっていますが、従来の観念文の一部を変更しただけであり、それも大聖人の仏法に反するようなものではありません。
なお、宗門が「天皇家の先祖」を表わす用語を用いたり、当時の憲法にしたがった表現をしただけで、あたかも謗法に与同したかのように「神道風」などと非難する創価学会は、宗門を怨嫉するあまり日本語本来の意味さえも見失い、きわめて物わかりが悪い状態に陥っています。
【文 証】
【天照大神に関する文証】
『秋元御書』
「先づ五節供の次第を案ずるに、妙法蓮華経の五字の次第の祭りなり。正月は妙の一字のまつり、天照太神を歳の神とす。三月三日は法の一字のまつりなり、辰を以て神とす。五月五日は蓮の一字のまつりなり、午を以て神とす。七月七日は華の一字の祭りなり、申を以て神とす。九月九日は経の一字のまつり、戌を以て神とす。此くの如く心得て、南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ。『現世安穏後生善処』疑ひなかるべし」(新編三三四n)
『下山御消息』
「教主釈尊より大事なる行者を、法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち、十巻共に引き散らして散々に踏みたりし大禍は、現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ。日本守護の天照太神・正八幡等もいかでかかゝる国をばたすけ給ふべき」(新編一一五九n)
【神武天皇に関する文証】
『御義口伝』
「人王の始めは神武天皇なり。神武天皇は地神五代の第五の鵜萱葺不合尊の御子なり。此の葺不合尊は豊玉姫の子なり。此の豊玉姫は沙竭羅竜王の女なり。八歳の竜女の姉なり。然る間先祖は法華経の行者なり。甚深甚深云云」(新編一七五九n)
【皇国(神国)に関する文証】
『月水御書』
「但し日本国は神国なり。此の国の習ひとして、仏菩薩の垂迹不思議に経論にあいにぬ事も多く侍るに、是をそむけば現に当罰あり。委細に経論を勘へ見るに、仏法の中に随方毘尼と申す戒の法門は是に当たれり」(新編三〇四n)
『北条時宗への御状』
「夫此の国は神国なり。神は非礼を稟けたまはず。天神七代・地神五代の神々、其の外諸天善神等は、一乗擁護の神明なり。然も法華経を以て食と為し、正直を以て力と為す。法華経に云はく『諸仏救世者は大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に、無量の神力を現ず』と」(新編三七一n)
『日目上人申状』
「我が朝は是れ神州なり」(聖典五七〇n)
創価学会の邪説―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
宗門の戦争協力
戦前戦中の宗門は、戦勝祈願、金属供出など積極的に戦争協力を図っていった。戦後、多くの団体が過去の戦争協力に対して謝罪しているにもかかわらず、宗門は現在までまったく反省の弁すら表明していない。
戦勝祈願の祈念法要
毎月8日の開戦詔勅の日には法主以下の本山僧侶が大東亜戦争完遂の戦勝祈願の祈念法要を開いていた。
昭和19年(1944年)には宗門二大行事のひとつである虫払いを中止し、戦勝祈願の勤行・唱題会を開催。
日恭法主「敵米英の撃滅を」
昭和18年(1943年)山本五十六司令長官の国葬に参列した日恭法主は「私達は正義に刃向かふ敵米英を撃滅する迄、この山本魂を心としてしっかり銃後を護らなければ、元帥の英霊にむくいることにならない」との決意を静岡新聞で披瀝。
「一発でも多くの弾丸を」と金属供出
戦争末期になると宗門は、軍部からの要請に積極的に応じ、本山の仏具や木材などを提供。昭和18年(1943年)9月の臨時宗会では回収対象でもない銅板屋根を「一発でも多くの弾を前線へ」と自発的に供出決定。
寺院施設を率先して開放
昭和18年(1943年)6月、宗門は本山書院などを開放して勤労訓練所として、毎月二百人の「応徴戦士」を受け入れ、当局から「郡下における寺院開放の先鞭」と評価された。
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【創価学会に対する破折】
「宗門は戦争に協力」との非難は無責任な中傷
創価学会は、戦時中における宗門の軍部への協力をとりあげて、宗門が積極的に戦争に加担したかのように主張していますが、これは一部分の姿のみをとり上げた的はずれの非難です。宗門は、戦争そのものが本来、宗祖大聖人のご教示である「兵革の災い」、すなわち悪しき不幸な状態であると考えていたことは、間違いない事実です。
一国が狂ったように軍国主義にそまっていくなか、表面的に協力せざるを得ないこともありましたが、それらはすべて、未来広布を慮り、時の軍部の圧力や外敵から仏法の根幹である本門戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈を守り抜くためでした。
宗門は、戦中戦後を通じて戦争によって莫大な被害がありました。当局からの干渉による身延との合同問題をはじめ、軍部の強制による堂宇の貸与と仏具の供出、徴兵による宗勢の衰退、それらのなかで終戦間際には客殿の焼失、さらには一国の謗法と宗門僧俗の一切の責任を負われた御法主日恭上人の覚悟のご遷化という痛恨の悲劇があり、戦後は農地解放令によって境内地の大半を没収されました。没収された規模は全国の寺院のなかで大石寺が最も大きなものでした。
御法主上人自らの覚悟のご遷化と、宗門の僧俗が味わった辛く悲しい体験から、宗門の僧俗は誰ひとりとして戦争を憎まない人はいないのです。このなかから生まれた反戦と平和への思いは、安易な「反省の弁」などおよびもつかないほど重いものであり、再び戦火の悲劇をくり返さないためにも、真の世界平和実現のため、宗内僧俗は正法興隆・広宣流布を目指して日夜精進を続けているのです。
この宗門僧俗を憎み、妬んで、卑劣な手段をもって妨害しているのが池田大作率いる邪教創価学会なのです。
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創価学会の邪説
宗宗は昭和十六年八月二十二日、皇国史観に基づき、初座の観念文を中心に改竄(かいざん)を行ない、「皇祖天照大神」「皇宗宗武天皇」に始まる代4の天皇に対する感謝を明記した。
国家神道に領導(りょうどう)された国家権力に屈して、観念文を改竄するという大罪を犯した日蓮正宗宗、宗教宗にはもう骨抜きにされたも同然で、教義に違背し、ただひたすら大政翼賛を推進、戦争協力を行なった。
破折
当時の宗門が行宗った御観念文の改訂は、世情を考え、仏法に違背しない、許容範囲内での改訂である。
したがって、「国家神道にに領導された国家権力に屈し」云々という学会の疑難は、まったくの的外れである。
まずヽ「皇祖天照大神・皇宗神武天宗」等の語であるが、
『神国王御書』に
「神と申すは又国々の国主等の崩去し給へるを生身のごとくあがめ給う」 (御書一二九八頁)
と御教示のように、大聖人は、国王(天王制の時代ならば天王)が崩御(ほうぎょ)した後、天界に生じて善神となることを明かされている。
つまり、日本でいえば、天皇家の祖先(皇祖)が天照大神等の諸神として善神に連なることは、法義上当たり前のことであって、邪義でも何でもない。
諸天善神を単なる″宇宙に具(そな)わる働き″としか見られない、創価学会の浅薄な生命観、また崩御した国主を諸神とする御文証すら知らずに「御書根本」と喚(わめ)く不勉強ぶり、大いに笑うべきであろう。
さて、当時の御観念文は、さらに続けて「皇国守護の日月天等の諸神に法味を捧げ奉る」となっているが、諸天善神は、法華守護の働きと、国土守護の働きを兼ね備えているのであって、その文証は御書中にも繁多である。
当時、日本は天皇制であり、まさに「皇国」と称していたのだから、「皇国守護の日月天等の善神」とは、国土守護の諸天善神であって、これまた邪義でも何でもない。
また、二座・三座等の御観念文も改訂になっているが、大御本尊はあくまでも
「本門戒壇の大御本尊」であり、日蓮大聖人への讃文は「久遠元初内証本仏南無日蓮大聖人」となっている。
すなわち、本宗において第一義であるところの、「本門戒壇」「内証本仏」との讃文は、軍部権力の圧力が高かったこの時代においても厳然としており、本宗の正義を示しているのである。
以上、日蓮正宗の法義を研鑽すれば、これらの御観念文の改訂が、あくまでも仏法上許される範囲内での改訂であることが理解されるのであり、「国家権力に屈し」たとの疑難は、学会本部の無知のなせるわざである。
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『地涌資料編』(以下『資料編』と略す)は、「日蓮正宗の戦争翼賛」の項で、日蓮正宗が戦争に翼賛し、積極的に軍部に迎合したとしてい
る。
戦争を嫌い、平和を求めるのは人間として当然のことだが、まともな情報が国民に流されなかった時代のことを、平和な、しかも情報の自由な時代に、そのまま置き換えて論ずるのは、非常に危険である。
時の国法に従い、時の為政者の流した情報を信じた者を、悪と決めつけ裁く・・という単純化された図式では、いかようにも罪人を作ることが可能だからである。
そして、その愚をあえて犯しているのが、現在の創価学会である。
『地涌』は次のように書いている。
▼「こういえば、当時の常軌を逸した異常な状況を知らぬ者ということになろうか。だがいわゆる外道(仏法以外に宗教)の中にも戦争に反対し、弾圧された宗教はいくつもあったのである。またこの戦争というものが、国家神道という宗教思想に基づき行なわれた。そもそも仏法者として妥協してはならない神道に完全にからめとられ、それを支えての戦争協力であったことは、謗法という視点から見るならば重大なことである。」
文中▼「外道の中にも戦争に反対し、弾圧された宗教はいくつもあった」と述べているが、その中に創価学会の名を入れていないのは賢明である。
それは創価学会自体が、「平和論者」でもなければ、「戦争反対者」でもなかったからである。
学会の戦争翼賛については、かつての『妙観』紙上でも、
▼「いまや、皇国日本が北はアリューシャン群島方面より遥(はる)かに太平洋の真中を貫き、南はソロモン群島付近にまで及び、更に南洋諸島を経て西は印度洋からビルマ支那大陸に、将又(はたまた)蒙彊満州に至るの広大な戦域に亘り、嚇々たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問はず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐らくが戦場精神によって一丸となり、只管(ひたすら)に目的達成に邁進しつつあることは、すでに皆熟知されるところである」
との『大善生活実証録』(昭和十七年十二月三十一日発行・創価教育学会第五回総会報告)の文を挙げて、明確に論証しているとおりで、いまさらゴマカシは通用しない。
今回は、さらに戸田城聖氏の著『人間革命』を使って、『資料編』の言い掛かりを破しておく。
次の部分は、巌さん(※戸田氏)が折伏した森田正一(もちろん、日蓮正宗信徒であり、創価教育学会員)が、戦地に向かうことになった模様を描写したところである。
▼
「牧田城三郎(※牧口氏)は正一のために御本山から御守り御本尊の御下渡をいただいて、巌さん夫婦や創価学会の幹部と一緒に厳かなお勤めをすると、その後、祝いの席の正座に赤襷(たすき)をかけて坐っている正一に向かって口を開いた。『森田君、しっかりやってきて下さい。日本の兵隊は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろうが、登場員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突込んだからであろう。しかし、緒戦の華々しい戦果で安心できる日本じゃない。いや、日本は危ない!(中略)だから、この大東亜戦争は、一年の後か、二年の後か、それは測れないが、容易ならない難局に突入するであろうが、有難いことに、森田君も、諸君も、この牧田も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいている。我々は日本が難局を乗切るために広宣流布に挺進するから、森田君は御本尊様に一切をお委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい。』」(昭和■■■年発行・単行本版)
このように、会長の牧口自らが
▼「しっかりやってきて下さい」、
▼「前線で、悔いのない働きをして下さい」
等と戦地での活躍・・すなわち戦闘行為・・を奨励しているばかりか、日本の軍隊の戦果を称えているのである。
そして、作者戸田城聖氏は森田正一をして、次のように語らせている。
▼「日蓮正宗の信者として、日本国民の一人として、巌十翁の義弟として、きっと、恥ずかしくない働きをしてきます! 前線から生きて還れば、真っ先に、この家に戻ってきますが、生死は、御本尊さまにお委せして、なんにも考えません。」(同前)
ここにも▼「恥ずかしくない働きを」との戦闘の決意は見られるが、「戦争反対」を叫んだ跡など、どこにもない。
これで創価学会には「戦争反対」の思想など皆無だったことが明らかであろう。
「これは小説だから……」というような言い訳は用をなさない。創価学会は『人間革命』で信心を学んできたのだから。
さらに、正一の台詞(セリフ)は続く。
▼ 「今、雪子さんに泣かれて、それで判ったんです! 兄さんや姉さん、貞一さん、それに雪子さんも待ってくれている日本を護るために、正一は生命を賭けて戦います! 後で、兄貴に、正一が恋してたことをいって下さい!」
(同前)
恋愛云々は置いておくとしても、大切な人の住む国土、家族の住む国土を守るというのは、人間として当然の心情である。
ましてや、連合国軍を指して「鬼畜米英」等と言っていた時代であり、庶民もまた、戦争に負ければ男は捕虜となり、婦女子は敵兵に暴行される、と信じていた時代のことである。
大事なもの、大切な人を護るために、「生命を賭けて戦います」というのが、至極当然の在り方であった。
今日において戦争の善悪を論じるのは、むろん有意義ではあるが、その当時の、「民のため、国土のため」にと戦争に臨んだ国民を裁断しては、それこそ「正直者がバカを見る」ような話になってしまう。あまり、手前勝手に論を進めるものではない。
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さて、次に、当時の牧口が口にしていた「国家諌暁」であるが、これは、はたして「戦争反対」を目的としてのものでも、あったのだろうか?
それも戸田氏著『人間革命』中、牧口の言動に明らかである。
▼ 「国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ。」(昭和四十年発行・戸田城聖全集収録版)
▼ 「日本は危ない! 国家諌暁をしなければ、日本は惨担たる敗戦を招く!」(単行本版)
▼「日蓮正宗の潰れることを恐れて、なにになる! 仏法の力によって、日本を栄えさせてこそ、大聖人はお喜びになるのではないか! 総本山の安泰のみ願うのは、弟子の道ではない!」(同前)
▼「大聖人の御意思をそのまま実行しようというのに、なんの障りがありましょう! 万一、日蓮正宗が潰れたとしても、仏法の力によって国家が立ち上れば、大聖人はお喜びになりましょう! 仏法は観念の遊戯ではない! 国を救い、人を救うものです! 救わなければならない時に、腕を拱(こまぬ)いていて救わないのは、仏智に背くものではないか!」(同前)
等々。
牧口氏は、「国家諌暁」をもって、破滅に向かっていた戦争に勝利しようと考えていたのであり、現在の学会が言うような「反戦」という思想が当時の学会になかったことが明らかであろう。
牧口氏にとって、日蓮正宗という大聖人の仏法は戦争勝利の手段でしかなかったのである。
でなければ、「日蓮正宗の潰れることを恐れて、なにになる」との言葉は出てくるわけがない。
そして、この言こそ、宗祖御遺誡への違背である。なぜならば、
■ 「仏宝法宝は必ず僧によりて住す、譬えば薪なければ火なく大地なければ草木生ずべからず、仏宝有りといえども僧有りて習伝へずんば正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず」(全集九三八頁)
と仰せのごとく、仏宝・法宝は僧(なかんずく唯授一人血脈付法の御法主上人)によって伝えられるのであり、また、この御金言どおり、七百年間、戒壇の大御本尊を護り、今日の我々にまで伝えてくださったのである。
したがって、僧たる宗門なくしては、仏宝・法宝も滅尽することになる。
その重要な役割を担う日蓮正宗宗門をさして、「潰れることを恐れて、なにになる」というような言動は、まさに仏法破壊の魔の所業であり、大聖人の御金言への大違背、と言わずして何と言おうか。
以上に見てきたように、初期の創価学会には、真の正法護持の精神がなく、また、戦争反対の意志もなかったばかりか、それどころか、かえって「戦争翼賛」の体制だった。
しかるに、これを棚上げして、「日蓮正宗の戦争翼賛」を反省しろという。
それならば、まず、自らの「戦争翼賛」の反省があって、しかるべきであるが、そのような反省の言は聞いたことがない。
創価学会の「戦争翼賛」反省の言はいつ聞けるのだろうか。
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疑難
日恭(上人)は昭和十六年十二月、太平洋戦争開戦にあたり宗内一般に、
「本宗宗徒たるもの、須(すべから)く聖慮(せいりょ)を奉體(ほうたい)し、仏祖遺訓に基(もとづ)き平素鍛練(たんれん)の信行を奮ひ、堅忍持久(けんにんじきゅう)百難を排し各自其の分をつく(?)し、以て前古未曾有の大戦に必勝を期せむことを」と訓諭し、また、『大日蓮』(昭和十七年一月号)では「新春の慶びを述る言葉」と題して、「聖戦に挺進(ていしん)する戦士と心得、勝利に酔はず、勝って兜(かぶと)の緒(お)を締(し)めて、堅忍不抜(ふばつ)の精神と鉄石の如き団結を以って、各々(おのおの)其(その)持場を守り、大勇猛心(だいゆうみょうしん)を起こし、信心を倍増し、慎(つつし)んで大詔(たいしょう)を奉軆し、尽忠報国(じんちゅうほうこく)の至誠(しせい)を貫(つらめ)かん事を祈願するのみ。それ国土の安穏(あんのん)と天下太平とは、妙の祭りを行って、始めて成就(じょうじゅ)することを得ん」などと述べ、大聖人の教えを戦争に利用していた。
破折
当時は、昭和十三年に制定された「国家総動員法」のもと、戦争遂行(すいこう)に不利益をもたらすような言動は規制され、戦争協力が強制されていた時代であり、学会流の我田引水(がでんいんすい)的な安直な解釈は慎むべきである。
むしろ、『歴史編』が挙げた日恭上人の御言葉を拝すると、時局がら、戦争について述べられてはいるものの、「仏祖の遺訓に基づき平素鍛練の信行を奮ひ」との」文は、信行の大事さを諭(さと)されており、また、「それ国土の安穏と天下太平とは、妙の祭りを行って、始めて成就することを得ん」との御言葉は、まさに立正安国の精神そのものを述べられていることが拝されるのである。
すなわち、『歴史編』が、「日蓮大聖人の教えすら戦争に利用した」とした箇所は、『歴史編』の邪推とは逆に、限られた表現の中にも、本宗僧俗に対し、信仰の在り方、本宗の基本精神を「日蓮大聖人の教え」から示されたものなのである。
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疑難
昭和十七年十一月十九日には、日蓮正宗報国団が結成されている。いう
までもなく、報国団とは国民を戦争に駆り立てるためのものである。この
報国団は大政翼賛会の下に組織されたもので、各宗派ごとに結成された。
この日、午後四時、日蓮正宗報国団の結成式が大客殿大広間において行
なわれ、儀式は開式之辞、宮城遥拝、国歌奉唱、祈念感謝、詔書奉読、読
経唱題、役員推薦、総裁訓辞、国旗授与、宣誓、団長挨拶、報国団経過報
告、記念撮影、万歳三唱、閉式と続いた。
宮城遥拝(宮中三殿・現人神に対する拝礼)、詔書奉読などが注目される。
現人神を国の頂点に戴いた国家神道を基となす国家は、その戦争目的遂
行のために、仏教諸派に金、物資、人を調達させていたが、日蓮正宗も、
時代の趨勢(すうせい)とはいえ、その一翼を担ったわけである。
破折
『歴史編』は、戦時中、本宗が「日蓮正宗報国団」を結成していたことを挙げて、「戦争遂行の一翼を担った」と非難しているのであるが、当時は、こうした行動を取ることが国民の義務とされた時代である。そのような時代背景を無視して、軽々しく批判することは慎まねばなるまい。
しかし、日蓮正宗が、けっして進んで戦争に協力したのでないことは、当時、神本仏迹論を主張し、軍部への協力を主張していた某師が、自らが主宰する『世界之日蓮』誌上で、以下のように「日蓮正宗の報国団は有名無実だ」と批判していることからも窺(うかが)われるのである。
「鈴木管長及びその一味は、時局の如何(いかん)を弁えず、政府の宗門合同を要望せるに拘わらず、自家独尊の建前を固守し、漸(ようや)く宗団法第三十一条の規定存するに依て、僅(わず)かに一宗独立を獲たるを以て、自己の力を誇称し、而(しか)して何等宗門らしき奉公の実を示さず、此の苛烈なる戦局に対し、飛行機一機も献納せんともせず、【報国会』の組嫉も名のみにして実行なく」云々(『世界之日蓮』昭和十八年十二月・十九年一月合併号)
当時の某師は、「軍部の意を受けた特異な圧力団体・水魚会」(『人間革命』より)に属し、完全な戦争推進論者であった。その某師の眼に、日蓮正宗の報国団が「名のみにして実行なく」と映ったということは、とりも直さず、軍部を満足させるような活動をしていなかった、ということになる。
つまり、この「報国団」は、軍部からの無用な弾圧を回避するための、ほとんど有名無実の組織結成であったといえるのである。
一方、『歴史編』のごとき無責任な批判が許されるならば、次のような創価教育学会の「報国運動」はどうなるのであろうか。
「閉会の辞 岩崎理事
(中略)
この世の常の生活は何か、個人主義のきづなと権謀と嫉妬と排擠(?)(はいせい)と疑(うたがい)と不安そのものである。我々にはそんなものは微少だにもない。この幸福を思う時、我々は大東亜戦争を戦い取っている。日本帝国の銃後の一員として課せられた一大使命を発見する者であります。産業報国が然り、職域報国が然り、貯金報国が然り、簡素の生活が然り、しかしかかる一通りの事に依って銃後の使命足れりとする創価教育学会の会員が万一ありとすれば、そは誤れるの甚だしき物であります。然らば我等の使命は何ぞや。折伏之のみであります。折伏に依て、この幸福の生活を世間に延しひろめて、不安と疑と嫉妬と排擠(?)ときづなと権謀の世界の消え去った時こそ、たとへ何年でも大東亜共栄圏を戦い取るまでがんばり抜く銃後が築かれるのである。」(『大善生活実証録』第四回総会記録・昭和十七年八月十日=傍点・編集部)
この記録に述べられている「産業報国」「職域報国」「貯金報国」とは、大政翼賛会の指導による「報国運動」であり、戦時下での銃後の守りを築くための運動である。
『歴史編』の言を借りれば、こうした創価教育学会の数々の指導も、「現人神を頂点に頂いた国家神道を基となす国家の一翼を担った」ものであったことになれる。しかも、「折伏を進めていくのは、大東亜共栄圏を戦い取るまでの銃後を、盤石なものにするため」とまで訴えている。これが戦争協力でなくて、いったい、何だというのであろうか。
学会では、あたかも当初から戦争反対の思想であったかのように史実を塗り替え、現在の会員に宣伝してきたが、当時の書物を紐解(ひもと)けば、こうした裏腹な実態が、至る処に散見さのである。
なおまた、『歴史編』は、この報国団結成式の式次第の中に「宮城遥拝」とあるのをとらえ、わざわざ「宮中三殿・現人神に対する拝礼」などと解説を挿入している。
牧口氏は、「今上陛下こそ現人神であらせられる」(『大善生活実証線』第五回総会記録・昭和十七年十一月二十二日)と信じて疑わなかったようだが、この、本宗の報国団結成式等における「宮城遥拝」は信仰的な意味ではなく、当時、国主であった天皇への儀礼として行なわれていたのである。されば、天皇を「現人神」と崇めた、牧口時代の創価教育学会も、宮城遥拝を行なっていたことは申すまでもない。以下に、その証拠を提示しよう。
「創価教育学会第四回総会は、昭和十七年五月十七日東京市神田区一橋教育会館に開催された。出席者は約四百名、午前十時宮城遥拝、黙祷の国民儀礼の後、左記順序によって会議を続けた。(中略)次いで牧口会長の発声で、天皇陛下の万歳を三唱し奉って午後四時散会した。」 (『大善生活実証録』第四回総会記録)
これ以上の多言は要すまい。
『地涌』編集子諸君、君達は、悪らつにも、学会史を塗り替え、内外の人々を扇動(せんどう)して日蓮正宗宗門を罵(ののし)ろうとしてきたわけだ。だが、それをすればするほど、学会自体の粉飾ぶりが暴(あば)かれ、満天下に恥を晒(さら)すハメになることを覚悟せよ。
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日応上人が「戦勝守護の本尊」を販売=H
疑難
法道会(後の法道院)発行の『法乃道』(明治三十七年四月発行 第拾貳編)に、「皇威宣揚征露戦勝大祈祷會」についての記事が掲載されている。
「今其(その)景況(けいきょう)を記さんに十二日は曇天なりしも兼(か)ねて廣告並(ならび)に建札(たてふだ)等の手配行(ゆき)届きしを以て自他の参拝者陸續(りくぞく)と詰(つめ)掛(か)けぬ而(しか)して須彌壇(しゅみだん)は最も質素に而かも厳正に荘厳せられ期定の時刻に至り法主日應(にちおう)上人は僧衆を随(したが)へて法席に就(つ)かせられ宗祖大聖人真筆大御本尊を開扉し読経唱題等如法の式典を行はせられ尋(つい)で教會擔任教師早瀬慈雄は演壇に立(たち)祈祷會執行の旨意(しい)を述べそれより有元氏土屋慈觀(じかん)氏並に法主日應上人の演説ありたり(中略)
尚ほ法道會に於ては両日参拝者の浄財(じょうざい)を總(す)べて軍資金の内へ献納(けんのう)しまた戦勝守護の御本尊一萬幅を特志者(とくししゃ)に授與せられたり、因(ちな)みに云(い)ふ此(この)戦勝守護の御本尊は尚廣(ひ)ろく特志者に授與せらるヽに付(つき)希望の人々は法道會本部に申(もうし)込まるべきなり」
56世日応(上人)は、日蓮大聖人御真筆の御本尊を信者であるなしにかかわらず拝ませて金を集め、それを軍資金として軍に提供したというのである。御供養は御本尊へ捧げられたもので、たとえ出家であれ、それを広宣流布のため以外に使用することはできない。
さらに「戦勝守護の御本尊一萬幅」の行方も気にかかる。法道院法華講は現在でも、二千名の実勢であるという。その事実を踏まえれば、「御本尊一萬幅」が檀信徒だけに与えられたとは思われない。
明治三十七年に行なわれた内務省の調査によれば、日蓮宗富士派(現在の日蓮正宗)の檀家数は一万六五五人、信徒数は一万四三六九人である。この檀信徒の数からすれば、自宗内に「御本尊一万幅」を求める「特志者」を募ることは不可能である。そうすると、「特志者」という表現は、金を出す者すべてという意味ではあるまいか。日露戦争開戦にあたり、反ロシア感情の沸騰する巷に、金と引き換えに一万幅の御本尊が消えていったようである。
控え目にみて「特志者」が日蓮正宗の檀信徒であるとしても、金さえ出せば「戦勝守護の御本尊」を与えるという行為は許されるべきではない。
破折
歴史編の疑難を整理すると、
@御供養は広宣流布のため以外に使用することはできない。しかるに、日応上人は、それを戦費として国にさし出した
A大聖人御真筆の御本尊を、自他宗の別なく拝ませ、金集めした
B当時の日蓮正宗内で「御本尊一萬幅」を求める「特志者」を募ることは不可能だったから、信者以外の者にも授与した可能性がある
ということになる。
まず、
@の件。「御供養は広宣流布のため以外に使用することはできない」というが、「軍資金の内へ献納」とは要するに国家への寄与である。仏教の宗団といえども、一面では国家の恩恵にあずかっている以上、国民としての義務を果たし、国家に寄与貢献すべきことは当然である。これのどこがいけないというのか。
また、戦争協力になるからいけない、というのであれば、戸田氏の『人間革命』には、学会が「侵略戦争」と規定した第二次世界大戦の最中(さなか)、
「『日蓮正宗の信心に対する半信半疑を捨てて、この宗教の力でこそ、この戦争に打ち勝てるという大信念をもって、一大折伏に入ろうではないですか。この議題のもとに大いに討論していただきたいと思うのです。できる事なら我々の手で、広東、かんしんの地下工作までものり出したいと思うのだが、きたんなく御意見を聞かせてください』この議題を中心にして二時間にわたる討論の結果、各自各自の事業をしっかりやりとげて、その余力を以って大いに国家に協力し、その力をより高く働かして大折伏闘争に入ろうと決議した」
等と、創価教育学会が積極的に戦争協力・国家貢献を目していたことが描かれているではないか。
次に、Aの、「大聖人真筆御本尊を信者以外の者に拝ませ」たとの疑難だが、『法乃道』を読むかぎり、本宗の信者以外の一般人である、と決定する根拠は何もない。何をもって「信者以外の者」と断定するのか。その根拠をハッキリと示すべきであろう。
もし仮に、信徒以外の一般人が参詣したとしても、御本尊に縁することは良いことに決まっている。そのような基本的なことすらわからなくなってしまったか。
さらに、法要についても、「法主日應上人は僧衆を随へて法席に就かせられ宗祖大聖人真筆大御本尊を開扉し読経唱題等如法に式典を行はれ」と、本宗の化儀にのっとって行なわれたことが記されている。どこにも謗法の意味などない。
また、「自他宗の別なく金を集めた」というが、本宗の信条から推して、信者からの浄財は供養として御宝前へ供えられ、信者以外の者が拠出金を出したならば、それはそのまま寄付金として処理されたであろうから何も問題ではない。
要するに、参拝者が本宗の信徒であろうとなかろうと、時の御法主日応上人の大導師のもと、本宗の御本尊へ手を合わせて読経唱題したということであって、何ら問題にならぬことなのである。
Bの「御本尊一萬幅」を求める特志者はいなかった、とは『歴史編』の計算違いである。
『歴史編』は、当時の本宗の檀家・信徒数をそれぞれ、「一万六五五人(これは『歴史編』の意図的な誤り。正しくは一万五千六五人)」「一万四千三六九人」としているが、それは檀信徒の男性だけの数である。それとは別に、女性の数はそれぞれ、「一万四千八九八人」「一万四千五〇人」である。つまり、合計では五万八千三八二人となるのであって、実際には『歴史編』が挙げた数の約二倍以上の数になるのである。これだけの信徒数であれば、「一萬幅の戦勝守護の御本尊」でも足りないことになろう。
『歴史編』は、こうした意図的な数字の操作を試みた上で、「『特志者』とは、金を出す者すべて」と憶測をたくましくしているが、本宗で、御本尊が御下付される「特志者」といえば、本宗信者のみである。
にもかかわらず、本宗信徒以外の者が御本尊を受けた、と言い張るのであれば、具体的事実を示すべきである。
なお、『歴史編』は、「控えめにみて『特志者』が日蓮正宗の檀信徒であるとしても、金さえ出せば『戦勝守護の御本尊』を与えるという行為は許されるべきではない」などと、御本尊の授与についてまでも疑難している。
今さらいうまでもなく、御本尊授与の御権能は御法主上人が御所持されるところであって、余人が口をさしはさむべきことではない。
しかし、当時の状況から考えれば、日応上人におかれては、物情騒然とした世情を鑑(かんが)みられ、大慈悲の上から、出征する信徒や留守を守る信徒等へ「戦勝守護の御本尊」を御下賜(かし)されたものと拝する。
『地涌』編集部の諸君、察するに、君らは学会員であるなしを問わず、人々を会館に集め、会館の御本尊を拝ませて、最低三千円で「ニセ本尊」を販売しているのであろう。そして、その光景が目に焼き付いているからこそ、日応上人の大慈悲のお振舞いまでもが同列に見えてしまうのである。
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学会のいう「戦時中の謗法・戦争協力」を破折する
創価学会の邪説―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
G戦時中の謗法・戦争協力
第二次大戦中、宗門は軍部権力の弾圧を恐れ、謗法容認、戦争協力に走り、大聖人の仏法をことごとく破壊していった。法滅しようとしていた宗門が創価学会の出現により蘇生したのはまぎれもない事実である。大聖人の精神は学会に受け継がれたのである。
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【創価学会に対する破折】
自分のことは頬かむり、他を非難するばかりの創価学会
戦時中においては日本国全体が国家総動員の名のもとに、戦争体制へと組み込まれていきました。そうした事情のなかで、信仰の根本である戒壇の大御本尊と相伝の血脈を厳護することが大聖人の仏法を守ることでした。
この頃、身延との合同問題など軍部から種々の弾圧があり、信仰の根本を守るため、また時には信徒の身を守るために、宗門は仏法上、許される範囲で、化儀の部分的変更や、仏具の供出をもって、戦争に協力せざるを得なかったのです。
これは大聖人が、
■「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、且く世間普通の義を用ゆべきか」(新編一二二二n)
とご教示された「世間普通の義」であって、謗法ではありません。こうした宗門の苦心の対応によって戒壇の大御本尊や重宝は守られ、その後の宗門・学会の発展もあったのです。
創価学会では、学会の出現により宗門が蘇生したとか、「大聖人の精神は学会に受け継がれた」と勝手に決めつけていますが、大聖人の仏法は三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊と大聖人以来の血脈付法の御法主上人に尽きるのであり、それは現在も大石寺に脈々と伝えられています。昔も今も、大聖人の仏法は大石寺にあるのです。
一方、反戦平和団体を自称する創価学会も戦争当時はけっして反戦平和団体などではありませんでした。その証拠に創価教育学会第五回総会では、某氏の軍歌独唱があったり、幹部の戦争翼賛の挨拶があったことが記録に残っています。
【文 証】
『会長講演集』池田大作
「大東亜戦争の最中には他の宗教、他の教団は、ぜんぶといっていいくらい軍部と結託をしました。その時に日蓮正宗だけは、単独でがんばりきった宗団です」(二―一四三n)
『広布と人生を語る』池田大作
「日蓮正宗創価学会の根本中の根本は、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊であることはいうまでもない。しかもその大御本尊は、日蓮正宗に厳然とおわします。そして宗祖日蓮大聖人より第二祖日興上人、第三祖日目上人と代々の御法主上人猊下が法水瀉瓶・血脈相承され、現在は、第六十七世日顕上人猊下に、いっさい受け継がれているのである」(一―一三一n)
「日蓮正宗における根本は、唯授一人の血脈である。その血脈相承の御法主上人に随順しゆくことこそ、僧俗の正しいあり方である。この一点を誤れば、すべてが狂ってくるのである。創価学会は、御歴代の御法主上人に随順してきたがゆえに、永遠に栄えていくことはまちがいないと確信する」(三―三二n)
『大善生活実証録―第五回総会報告―』創価教育学会発行
「いまや、皇国日本か北はアリューシャン群島方面より遥かに太平洋の真中を貫き、南はソロモン群島附近にまで及び、更に南洋諸島を経て、西は印度洋からビルマ支那大陸に、将又蒙彊満州に至るの広大なる戦域に亘り、赫々たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問はず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐くが戦場精神によって一丸となり、只管に目的達成に邁進しつゝあることは、すでに皆様熟知されるところである」(四八n)