痴犬へ鉄槌 88  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 613()125845 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

痴難→>  更に、日精が法主になって1年後に書いた「随宜論」の文を引用して、これが如何に大聖人の仏法の正義と異なるかを確認すれば、ヌケガラ顕ちゃんの誤魔化しも一目瞭然。

●「随宜論」については総論→http://toyoda.tv/chiken.tetsui84.htmで述べたとおり、当時の時代状況は深く鑑みて拝考しなければならない。
日精上人当時の日本は、徳川時代の最初期であり、大坂夏の陣を経て、徳川政権がやっと安定化する兆しを見せはじめたばかり。
信長の比叡山焼き打ちに見られるような武士たちの信仰心の荒廃は、すぐに修復されるものとも思えず、一種の悪国状態に近いものがあった。
つまり、いつ何時、為政者が一宗を壊滅するか予断が許されない時代状況にあった。
更に、元は造読を是認もしくは積極的に信仰していた多くの要法寺系僧俗がこの次期、大石寺門流となり、富士派内では、相当の軋轢があったことは想像に難くない。
従前の大石寺の清純な教義信条を当然の如く信行していた僧俗内に、釈尊像や法華経一部読誦等に未だ執着する僧俗が流入してきた訳である。何も問題が生じなかったはずが無い。
そして、その要法寺系信徒の中でも格段の大檀越が敬台院殿なのである。
敬台院は、徳川家康の曾孫だが、大藩とはいえ外様大名である蜂須賀家に嫁ぐという立場。
さらに元和6年(1620)には、不幸にも29歳にして、夫の至鎮を亡くしている。
強大な権力を持つと同時に、微妙な心理状態の女性であった。
かつまた、ここでは省略するが、手紙などの書き物を検証すると、かなりの感情の起伏の激しい、また、我侭な性格であったことも窺える。
そのような立場の敬台院の言動は少なからず大石寺門流内に波紋を起こした事であろう。
この随宜論が書かれた背景には、このような実に微妙な宗内の空気があったことが十分推測される。
つまり、寛永元年(日精上人まだ御歳24歳の時)に敬台院の自寺・私寺ともいえる法詔寺内に、持ち主である敬台院の強い要望により、釈尊像が造立されたことに対する批判が、折に触れなされ、寛永8年くらいから、特に激しくなってきたのであろう。
それに対して、敬台院をはじめとする要法寺系の僧俗が本宗からの大退転を防ぐために、日精上人は御自ら擁護されなければならない状況になったのであろう。
そういう流れの中で著されたと考えられるのが「随宜論」なのである。

当然、造仏・読誦等は大聖人の化儀ではない。
要法寺日辰のようにそれが大聖人の御本意のごとくいうならば、徹底して破折せねばならない。
しかし、日精上人が、その深意の上から、門内をあるいは敬台院等を将護されるために、暫時の善巧方便としての御化導をされることは、法相の上からも穏当なことと拝される。
すなわち文底下種三段においては、文底体内の文上の法華経は流通の一分を成じる。
その中に迹門(安楽行品)の摂受と本門(不軽品)の折伏があり、ともに三大秘法弘通の上の法相であり、段階的化導とししての摂受は当然必要。
つまり四悉檀(ししつだん)の法門のうち、世界悉檀・為人悉檀は摂受に相当。
対治悉檀とは折伏。
この摂折二門の善導によって、第一義悉檀、入理の益を得ることができる。
この摂折二門は折伏に邁進する僧俗が常に心がけているところ。

ただし、宗門全体的な化導としての摂受・折伏の取捨は、常に御法主上人の裁量による。
一般の僧俗は、その根本的な御指南に信伏随従していかねばならない。
なぜならば、末法は基本的に折伏が表だが、摂受すべき場合も一時的にある。
この時、一般僧俗においては、摂折の是非を巡って見解が分かれることがあり、未熟な部分的見解に陥ると、折伏正意を大義名分として、御法主上人に背反することになる。
池田大作が正本堂の意義を曲げようとしたり、無許可で御本尊を模刻する等した際に、御法主上人が創価学会を善導されようとしたことに対して、顕正会や正信会が反抗して異説を唱えるまでに脱線したのは、この筋道を弁えなかったからである。
日精上人の御化導は特殊といえるが、それだけに筆舌に尽くしがたい御苦労があったと拝察されるのである。