痴犬→>
●このような相承の悲惨な歴史を平気で書きなぐる法主がいたぐらいやから、法主になったから突然不可思議な能力が身に付くのではないということは、日亨上人が告白されておられなくても理解できるだろうが。
> また、堀上人は
>
>
■「この点において血脈断絶法水壅塞の形ありといわばいえるが、相承の内容に立入りて見るとき、御相承は、殊に金口嫡々のは授受の型式作法に権威ありや、御当人に権威ありやという問題が起こるべきであろう。しかして法式と実人とは何れが主なりやということを決定してかかる時、若し実人に適確の権威あらば授受の作法はこれを結成するの型式に過ぎざるから、就師のやうな場合でも、血脈断絶法水壅塞の不都合は無いわけである。若し然らずして作法のみ大権威存在して実人は何人でも宜いということならば、この場合の如きは血脈断絶の悲事となるわけである。また作法にも実人にも相互に権威あり法人映発して法主の大器を作るという事ならば、この場合は少なくも法水一次枯渇の状を呈する不祥事となるであろう。」(血脈相承の断絶等に就いて史的考察及び辨蒙 堀日亨)
>
> と述べられている。つまり、
> @ 金口嫡々の相承を受ける本人に力がある
> A 金口嫡々の作法に力がある
>
B 本人と作法との両方(人法とも)が相まって力が生まれる
>
の三つのうち、@の場合なら良いが、A及びBが正しいとすれば、血脈断絶あるいは一次枯渇の悲事となる、と言われている。
>
逆に@が正しいとすれば、稚児貫主が続いた時代に、既に血脈断絶あるいは一次枯渇の悲事が起きていたということになる。
>
どちらにしろ、日蓮正宗の血脈相承は実質的には断絶または枯渇の時代があったということが結論される。唯一変わらずに伝えられたものは、大御本尊のみであった、というのが正しい歴史なんだよ。
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●またもや痴犬の陰湿且つ狡猾な性格が遺憾なく露見しましたな。
ほとほと、創価学会男恥部の謀略体質には呆れかえる。
まさに日本の、否、この世の「人界」の「恥部」である。
さて、痴犬はこの該文直後の以下のお言葉を何故省くか?
■「此は局外者の抽象的の議論である。直に宗門教権の大事を批判すべき標準にはせぬが宜い。」(大日蓮 大正十二年四月号一六n)
日亨上人は仮定として述べられてはいるが、結局、御相承の型式か内容かという議論は「局外者の抽象的の議論」であり、宗門の重大事を批判すべき標準とすることを戒められることに結論があることは明白である。
更に御相承について、またこの文献に関して日顕上人が既に明確に論及されている。
痴犬は性格が悪いだけでなく、少し不勉強に過ぎないか?
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■日顕上人御指南
次に、この質問のなかにも出てまいりますが、相承を預かるということについてであります。
つまり、理境坊日義が御相承を預かったということが史実としてあるが、これでは金口嫡々がないから血脈が断絶しているのではないかというのです。
これは、御相承は必ず儀式を踏まなければならないかどうか、ということに関連してくるのであります。
また、特にこれについては、堀上人が少し誤解を生じるような客観的表現をされておられるのです。
堀上人は学者であられましたから、主観的に信念をもって論述なされることを極力、避けられて、歴史的文献に対して、非常に客観的に考察して意見を述べられることが多かったのです。
ですから、あまりはっきりした御会通がないのです。
もちろん、御相承はお承けになっておられますけれども、文献に対する取り扱いの態度は、あくまで学者として、公開されておる文献や資料のみから判断できる意見を述べられておるのです。
(中略)
要するに堀上人が、御相承を承けた人間に権威があるのか、それとも儀式に権威があるのかということの上から、両者に対する断定を避けられ、
儀式に権威があるとすれば、儀式が行われなかった場合には、法がそこに停滞して流れないというようなことになると仮定的におっしゃっていることも、学者という立場ではなく、信仰という主観的立場に立たれての言であるならば、そこのところをもっとはっきり、実義において相承が伝わっていると仰せになったと思うのであります。
しかし、そうではないと断定なさらないところが、堀上人の学者としての表現のところでもあり、あくまで文献や資料に対する客観的、学究的立場を考えられるわけです。
しかも、そのような意見をお述べになったあとに、
「此は局外者の抽象的の議論である。直に宗門教権の大事を批判すべき標準にはせぬが宜い」(大日蓮 大正十二年四月号一六n)
と、御相承という大事を全く信解することのできない部外者という立場に立っての論であることを付記されているのでありますから、この論が御相承をお承けあそばされたお立場に立っての言ではないこと、また、堀上人のその他の論やお言葉についても、学者的、局外的立場に立っての論の多いことに我々は注意しなければならないのであります。
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しかも、この大正13年は日亨上人は未だ御相承をお受けになられていない時期である。
まさに、日亨上人が仰せの如く、
痴犬などの破門された「局外者」が、御相承を受ける立場でもない分際で邪推する「抽象的の議論」をいくら小賢しく述べ立ててみても、「直に宗門教権の大事を批判すべき標準にはせぬが宜い。」まさにこのお言葉の通り、「どちらにしろ、日蓮正宗の血脈相承は実質的には断絶または枯渇の時代があったということが結論される。」などと戯けたことをいう者は、ものをしらぬ大バカ者である、ということである。
更に日亨上人は別の御筆記には、
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■加のみならず富士派に於ては古往今来化儀化法秋毫も乱れず、殊に宗旨の本源基礎確立して宗祖以来歴世之れを紹隆し始終一貫未だ曽て微塵も異義を雑へたる事あらざるは実に是れ宗祖の正統血脈相承を紹継せる現証にして祖書経巻を解決するに純潔正確宗祖の正意本懐を顕彰し各派に独歩超出せる所以の者も亦之れ血脈相承あるが故なり。
若し経巻のみを見て以て仏法の本旨を解決するを得ば、法然にまれ弘法にまれ、其の他禅律真言浄土等各宗派の祖師等も宣示顕説の法華経を読みて其の本旨を解決悟了すべきに、然らずして却て己義を立て僻解を生ぜしは要するに血脈相承なきの現証にして顕本徒亦此れと同一般なり、斯くの如く事実現証の抹殺すべからざるに於ては顕本の所謂経巻相承なる者は到底宗祖の正意を得たる者に非ず、
(中略)
蓋し相承に経巻あり血脈あり、就中血脈相承を最とする所以は経巻相承と云ひ師資相承と称するも皆血脈相承に附随含有せらる、故に富士派に於て血脈相承と云ふは主要なるを以てのゆへにして敢て師資経巻の相承なきに非ず、総て此れ等の相承は宗祖より歴世之れを招隆せらるるなり、
(中略)
而して富士派は血脈相承ある故に師弟相資け法統一系連綿紹隆し血脈相承ある故に経巻の正意を誤らず微塵の異解なく宗旨の本源確立し宗門の基礎鞏固に万古に渉つて変ぜず各宗派に卓絶し鎮へに法威を輝す所以は則ち宗祖正統血脈相承を特有せるを以てなり、
然るに日什の濁流を汲むの徒之れを羨望するの余り終に嫉妬貪婪の邪心を起し非望を覬覦す、恰も将門が擬宮を猿島に造り皇室を窺うの反逆と何ぞ異ならん。
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とあり、日蓮正宗の唯授一人・血脈相承を厳然と明言されておられるのである。
しかも、この御筆記中の、「日什」を「池田大作」に、「顕本」(=顕本法華宗)を「創価学会・顕正会・正信会」等に充てて読んでみれば、全く軌を一にする。
痴犬、まことに以って哀れな”番犬”である。 |