痴犬 相伝は10代の若々しい稚児貫主が受けたり、・・・
1、痴犬のいう「正依」で「稚児貫首」がどのように問題があるのか証明せよ。
できなければ謝罪して脱会。よろしいな。
因みに正依である日寛上人の御指南には
■今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し(六巻抄六六頁)
と稚児貫首の時代を含んで血脈不断を仰せられているが、この「正依」について我見や、勝手な怪釈ではなく、教義的に明解に「血脈断絶」という痴犬の主張を証明して見せよ。
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2、御指南から
日顕上人御指南
昔、稚児貫首という在り方があったのであります。
それが、最初の質問として挙げられております。すなわち、
「@九世日有上人(十八歳)、十二世日鎮上人(十四歳)、十三世日院上人(十歳)、十四世日主上人(十九歳)が、いずれも年少で付嘱をうけていること」
と、問題にしているわけです。
特に、十歳という年齢では何も判りはしないではないかという考えがあるのでしょう。
これは、先程も申し上げたように、金口から金口へ嫡々相対の上に直接、話をし、その場において信解が得られなければ相承ではないというように短絡的に考えるから、このような質問が出てくるのです。
本来ならば、御相承ということに関して、他の人は漏れ聞くこともできないのでありますから、この質問がもっともだと思う人こそ誤りであって、基本的には、やはり未来永劫にわたる御仏意の貫きということを考えていただきたいと思います。
さらに申し上げれば、時代背景として稚児貫首ということが行われた時代があるのです。
老僧、あるいは分別のある僧侶はいくらでもいたのでありますが、わざわざ稚児を選んで次の貫首に定めるという、そのような宗門伝承の在り方が存した時代があるのです。
したがって、宗門の集団全体がそのような考えでいるわけですから、その稚児貫首が、「汝こそ法主となるのだぞ」との始めにおける上人の言を根本として成長する過程において、法門の学習とともに、法主たる自覚のもとに先師の金口の言辞を元に金紙を拝しつつ、この場合は相承の内容において金口が金紙に代わる意味も一部、存するわけで、また、古来の法に詳しい老僧からの話を聞きつつ、真に法を正しく伝えていくという、このような
介添え人をも含めての相承の在り方も存したわけです。
しかし、そこには金口を元とする金紙が厳然として存し、その金紙の内容にまた、金口の意義における厳然たる伝承が存するという上からの稚児貫首という在り方であったのです。
それを宗門の僧団全体が考え、支え、血脈を伝持していくという時代状勢であったわけです。
ですから、そのような時代背景、状況、慣習等を全く無視して、まして僧侶でもない、また、信心で拝することもできないような創価学会の在家の人間の考えで、唯授一人の血脈相承の内容について、「これは十歳だから、相承が伝わるというのはおかしいではないか」と質問してくるのは、信を見失った全くの見当違いであり、謗法なのです。
その辺のところを皆さん方もしっかりと信解していただきたい。
必ず血脈は伝持されているのであります。
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3、文献から「久保川論文の妄説を破す」
● ◇第十二世日鎮上人について
▼邪義 (云く)有師に限らず歴代には少年の法主が多い。十二世日鎮上人は十四歳云々。(P6下)
「少年の法主か多い」というが、六十七人のうち何人を指して「多い」というのか、唯授一人の血脈が何たるかも知らざる末輩が、血脈をとやかく論うことは差し控えるべきである。
しかも当時の資料は極めて乏しく、白精上人も『家中抄』に
■「日乗(十世)日低(十一世)の両師の徳行伝失せり、是の故に見ず聞かず、故に計する能わす(中略)有智高徳なること疑いなし」
と仰せられ、史実は皆目判然としないのである。日鐘上人の相承を受けられた年令について、日亨上人は
■「長亨二年の鎮師二十歳から推歩すると其時は十四歳となる。日乗日底両師の死を精師は失伝として何とも書いて置かれなかったが、何年頃より共に文明四年になっておる。此れが怪しいのだ。御二人の何れかが存命して鎮師に相承せられたであろう」
と推考されている。
また、もし日有上人より受けたとすれば文明十四年は日鎮上人十四歳の時であるが、前に触れたとおり、仏法内証の仏智を伝授するに世間の年令や体験等とはその次元を異にしたものであり、十四歳といえば当時にすれば青年の域にあっても不思議はない。
宗祖大聖人も
■「法然善導がかきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時より知りて候」
と仰せられ、十七、八歳には既に念仏宗の奥義を究めておられる。
南条時光殿も大聖人より直接御書を賜ったのは文永十一年、十五歳の時である。
■「この御文は大事の事どもかきて候」
と仰せられた御真蹟を四十歳、五十歳の現代人が簡単に読めるであろうか。
例えば幕末の会津白虎隊の一事を以ってしても十五、六歳の若さで生死を超えた辞世の句を作り、しかも自己の使命の赴くところに迷わず、主君の為にと従容として若い命を飯盛山に散らしているではないか。
彼らのこの日までの戦いの経過は大人も真似られぬ程に厳格に、隠密裡に修練されたという。
況や末法万年、衆生救済の大慈を垂れ給う大御本尊に呼応し、令法久住に生涯を捧げるべき宿縁深厚にして宗教的大勝の卓抜せる青年貫首があって何の不服があろう。
ふやけ切った昭和元禄の人間像を以って較べようとすることはやめた方がよかろう。
さりとて管理維持の面においてはやはり十四歳の青年なるが故に、この当時、三位阿日芸や左京阿日教、南条日住という人々が後見しつつ、後に約四十五年の長きにわたり、名貫首として大石寺興隆に導かれた日鎮上人に対し奉る、玉成の助けの一端となられているから、心配することもない。
しかし、この鎮師十四歳説は最低年令の場合であって、もし第十世日乗上人・第十一世日底上人のいずれかの資料が発見されて目有上人以後の入滅となれば、鎮師十四歳説はもっと年上であったことに書き改められる。
その可能性は多分にあると思う。
故に日達上人は、「日鎮上人は二十六、七歳で相承を受けていると思う、」と仰せられている。
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◇第十三世日院上人について
▼邪難(云く)年表に依れば、十三世日院上人は永正十五年(一五一八)土佐に生れるとあり、十二世日鎮上人は大永七年(一五二七)寂となっているから、此の時に院師は数えの十歳である。家中抄に依ると日院上人は「十三歳にして富士に登り当家を習学す」云云とあるから、日鎮上人は僅か十歳の、しかも在家の子供に相承したことになり、とても考えられないことである。
この頃の『家中抄』の記述には史実とくい違う曖昧なものもあり、例えば日院上人の入滅時についても、大正七年とあるが、実は大正十一年の御本尊には「隠居日院」と認められている例もある。
十二世日鎮上人の入滅時が大永七年ということも完全ではない。
鎮師の行蹟と年令が明確なのは長享二年(一四八八)の御本尊に二十歳日鎮とあることだけである。
故にもし『家中抄』の行年七十一歳説を用いれば、寂滅時は天文八年(一五三九)となる。十三世日院上人は永正十五年(一五一八)の生れであるから、日鎮上人御入滅の時は日院上人は二十二歳であり、久保川説のような稚児貫首ではないのである。
しかも大永六年に日鎮上人が大石寺の惣衆及び檀那御中あての『付弟状』が現存している。
それによると
■「仍良王殿之事幼少之御方御座候 雖然信心御志候勢仁(成人)被致候者、当寺之世間仏法共御渡、本末之僧俗共仰可被中候」
とあり、良王殿(後の日院上人)は幼少であるが、成人された時には当寺の世間仏法の全てを渡すゆえに本寺末寺の僧俗はこれを仰ぐべきことを記されている。
即ち、この書状どおり日院上人は二十二歳にして相承を日鎮上人より受けられたと拝すべきであって、決して「十歳の在家の子供」に相承したのではない。
にも拘らず久保川氏はこれに尾ひれをつけて「恐らく年少にして歴代に連なっている法主は実際には直接の相承を受けていない」「それより何十年か
後に法主となった」「其の間の断絶を繕うため無理に先師の御遷化された日を相承の日とした」等々と、ありもしない難くせをつけ、挙げ句の果てが「其の間の断絶を補ったのは大衆である」となるのである。
このひとことが何としても言いたいための難くせであり、非難であろうが、真の正宗僧侶とは自己の我見のためには無理やりでも御歴代にあらぬ難くせをつけるものなのか、それとも御歴代の御苦労を偲び、報恩謝徳の念を以って拝するものか、よく考えてみてはどうだろう。
「事実を明らかにする」ことは評価できるが「事実を曲げて我を通す」久保川氏の態度は御歴代上人の御眼にどのように映るのであろう。
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4、創価学会の主張
●学会版 三宝 血脈論
▼2(「戸田城聖全集」第三巻235)
牧口先生当時から、学会は猊座の事には、一切感知せぬ大精神で通してきたし、今後もこの精神で一貫する。これを破る者は、たとえ大幹部と言えども即座に除名する。信者の精神はそうでなければならない。昔、関西に猊座の事に意見を振り回して没落した罰当たり者があったそうだが、仏法の尊厳をそこなうものは当然そうなる。」
▼2『戸田城聖全集』
「御法主上人は唯授一人、六十四代のあいだを、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下をとおして大御本尊様を拝しますれば、かならず功徳がでてくる」(四―三九九n)
▼3『広布と人生を語る』池田大作
「日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、法華経の方便品、寿量品等を読経している。また、もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見からみればわれわれ(今ではこれは法華講)と同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」(8-228)
▼3『巻頭言・講義集』池田大作
「あくまでも師匠は日蓮大聖人様即御本尊様です。それから『遣使還告』あそばされる代々の御法主上人猊下です。われわれはぜんぶその弟子です」(三―一一三n)
▼3『広布と人生を語る』
「御法主上人猊下お一人が仏法の師でいらっしゃるのだ」(3-98)
▼3『広布と人生を語る』
「日蓮正宗の僧俗であるならば、絶対に御法主上人猊下に随順すべきである。それに反して、随順せず、いな、弓をひく行為をする僧や俗は、もはや日蓮正宗とはいえない。私どもは無数の讒言や画策をうけながらも、一貫して総本山を外護したてまつり、御法主上人猊下に随順してまいった。これが真実の信心であるからだ。それを、増上慢と権威とエゴと野望のために踏みにじっていく僧俗は、まったく信心の二字のなき徒輩であり、もはやそれは、日蓮大聖人の『広宣流布をせよ』との御遺命に反した邪信の徒と断ずるほかないのである。皆さまは絶対に、それらを恐れたり、また、騙されたり攪乱されてはならない」(2-37)
▼3『会長講演集』池田大作
「御法主上人猊下に対しては、御法主上人猊下こそ経文に説かれている遣使還告のお立場、すなわち大聖人様と拝してお仕え申し上げていくことでありました。これが唯一の学会精神であります」(4-45)
▼3『池田大作発言』
「『僧宝』とは、今日においては日興上人よりの唯授一人の法脈を受けられた御法主上人猊下であられる」(聖教新聞 昭和53年2月26日付)
▼3
「七百星霜、法灯は連綿として謗法厳戒の御掟を貫き、一点の濁りもなく唯授一人の血脈法水は、嫡々の御歴代御法主上人によって伝持せられてまいりました」(6-12)
▼3『広布と人生を語る』
「日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた。御本尊を御認めあそばすのは、御法主上人御一人であられる。われわれは、令法久住のための信心を根幹として、広宣流布に邁進しているのである。しかし、いくら広宣流布といっても、御本尊の御認めがなければできない。われわれは、あくまでも総本山根本、御法主上人厳護の信心で進んでまいりたい」(3-256)
▼3『会長講演集』池田大作
「遣使還告であられる御法主上人猊下は、日蓮大聖人様であります」(一〇―四三n)
▼3『広布と人生を語る』
「日蓮正宗における根本は、唯授一人の血脈である。その血脈相承の御法主上人に随順しゆくことこそ、僧俗の正しいあり方である。この一点を誤れば、すべてが狂ってくる。創価学会は、御歴代の御法主上人に随順してきたがゆえに、永遠に栄えていくことはまちがいないと確信する」(3-32)
▼3 御法主上人猊下の御指南に従わない者は、もはや日蓮正宗の僧でもなく、俗でもない。(広布と人生を語る 三巻五三)
▼3今、日蓮正宗御宗門においても、仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出た事は、誠に悲しむべき事である。これらは恐ろしき謗法であり、真の日蓮大聖人の仏法を信解していない証左なのである。 血脈付法の御法主上人猊下を離れて、正宗はありえないのである。」(「広布と人生を語る」第三巻)
▼3『広布と人生を語る』池田大作
「今日、日蓮正宗創価学会がこのように発展し、短期間に正法流布の根を深く広くはることができたのも、日蓮正宗の伝統の根が深いということにほかならない」(1-62)
▼3「現代においては、いかなる理由があれ、御本仏日蓮大聖人の『遣使還告』であられる血脈付法の御法主日顕上人猊下を非難することは、これらの徒と同じであるといわなければならない。批判する者は、正法正義の日蓮正宗に対する異流であり、反逆者であるからである」(一―二三○n)
▼『巻頭言・講義集』池田大作
「御法主上人猊下様は遣使還告で、日蓮大聖人様と拝し奉るのです。このことは信心のうえからはっきりしたものです」(3-84)
▼×3謗法の現宗門には、大聖人からの成仏の血脈は完全に切れている。堕地獄の宗門となってしまった。これに従う人々も御書に照らし同罪である。(平成四年五月二十二日・聖教新聞。池田大作)
▼※「歴代の御法主上人のご内証は、日蓮大聖人と日興上人の唯我与我の御境地をそのまま伝持せられている」(聖教新聞 昭和五四年六月二日付)
▼※『聖教新聞』
「日蓮正宗の教義の根本をなすものは、まず、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぐことであり、それはとりもなおさず、御本仏の出世の本懐である戒壇の大御本尊を帰命依止の根本とすることに尽きる。もう一つ日蓮正宗の根幹をなすものは、血脈付法ということであり、歴代の御法主上人のご内証は、日蓮大聖人と日興上人の唯我与我の御境地をそのまま伝持せられていることである。この二つの根本と、日蓮正宗の三宝、すなわち仏宝=御本仏・日蓮大聖人、法宝=大御本尊、僧宝=日興上人――とは、同じ意義をもっている」(昭和54年6月2日付)
▼『大白蓮華』
「この(※生死一大事血脈抄の)御文は、別しての『法体の血脈』を大前提としての、総じての『信心の血脈』について、お述べになったものと拝される。(中略)ゆえに『法体の血脈』と『信心の血脈』を混同するようなことがあってはならないのである」(昭和五五年三月号六九n)
▼『日蓮大聖人御書講義』創価学会版
「もとより血脈には、唯授一人の別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、ここで仰せられているのは、総じての信心の血脈であることはいうまでもない」(生死一大事血脈抄講義・30上132)
「今日、日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、三大秘法を正しく信受することができるのも、ひとえに日蓮大聖人、日興上人以来、総本山大石寺歴代の御法主上人が伝持される法体の血脈による御指南、御威徳によるものであることを銘記しなければならない。(中略)『総じて日蓮が弟子檀那等(中略)異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり』の御文は、別しての『法体の血脈』を大前提として、総じての『信心の血脈』について述べられたものである」(三〇上―五九n)
▼『大白蓮華』
「よく信心の血脈を問題にする者がいる。生死一大事血脈抄に『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』とある文をもって、信心さえあればよいとする立論である。誰でも自由に継承できるなどというのはこれだ。(中略)有名無実の信心をふりまわして、付属相承を否定するは、総別の二義に迷惑し、師弟相対の深義に暗く自ら混乱を好む仕わざではないか」(昭和四一年九月号三五n)
▼『特別学習会テキスト』創価学会発行
「この別しての法体の血脈相承は『身延相承書』に『血脈の次第 日蓮日興』と仰せのごとく、第二祖日興上人にすべて受け継がれ、以後、血脈付法唯授一人の御法主上人が伝持あそばされるところであります。同抄に『総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり』の御文は『別して』の法体の血脈を大前提としての『総じて』の信心の血脈を仰せなのであります。ゆえに、代々の御法主上人猊下の御内証によってお認めの御本尊を受持していくことが正しい信心の在り方であり、総じての生死一大事の信心の血脈となるのであります。ゆえに、別しての法体の血脈相承と、総じての生死一大事の信心の血脈とは、その意味に違いがあることを確認しておきたいと思います」(二七n)
▼『聖教新聞』
「歴代の御法主上人のご内証は、日蓮大聖人と日興上人の唯我与我の御境地をそのまま伝持せられていることである。この二つの根本(※戒壇の大御本尊と血脈付法の歴代上人のご内証)と、日蓮正宗の三宝、すなわち仏宝=御本仏・日蓮大聖人、法宝=大御本尊、僧宝=日興上人――とは、同じ意義をもっている」(昭和五四年六月二日付)
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●ニセ本尊の害毒と三宝誹謗で頭がかなり悪くなってしまった痴犬にはこの矛盾に満ち満ちた”数式”は明晰に解けないか?
創価学会の主張=血脈相承は不断である。
痴犬の主張=血脈相承は断絶している
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痴犬≠創価学会員?
痴犬の主張=血脈相承は断絶している⇒であるならば何故創価学会は日蓮正宗に入信する必要があったのか? ???
さ、日蓮正宗と全く関係のなくなった痴犬に、日蓮正宗の「正依」でご説明いただこうか。
あまり、稚拙な弁解や愚答をして、閲覧者を失望させないように、また失笑をかわないように頼みますよ。
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