008 御本尊の体相から論ず

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★ 御本尊の体相から究竟・未究竟を論ず

御本尊は、弘安元年より究竟せられる。(以下論証する)
ということは、弘安元年以前は「未究竟」ということになる。
これは釈尊の爾前権教に類する。ということである。
万年救護本尊は、文永11年御顕示であるから、この未究竟の本尊に属する。
究竟された本尊を蔑ろにして、未究竟の本尊に執着することは、
釈尊の出世の本懐である法華経を蔑ろにして、権教である阿弥陀経等に執着し、
念仏宗を弘める者達に等しい行為である。
つまり、謗法である。

一、文証

(※注 戒壇の大御本尊を否定する輩は、唯授一人・血脈相承も否定する。
依って、当宗第二十六世日寛上人の御指南を信じない。
(創価は日寛上人の御本尊を基とするが故に、このこの矛盾を突けるが)
法論の時はそのことを知っておく必要がある。
謗法者には歴代上人の御指南は通用しない。
あくまで御書と道理と、他門系の証拠となり得る古文献資料によって論証するしかない。
ただし、御歴代上人の御指南は、まさに道理が尽くされているので、ただ単に文証として機械的に引用するだけでは、
謗者は破すのは難しいが、道理をしっかり把握して、その道理を以て破すことによって謗者の邪難を遮すことができる)

日寛上人・観心本尊抄文段 

■ 弘安元年已後、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、
究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。
況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。

↑この結論に達するための日寛上人の華麗な論証。↓

■ 問う、本尊問答抄の
啓蒙に云く「諸山代代の本尊に多く仏滅後二千二百三十余年と云う。
是れ元祖の本意顕れ畢る時を定規とする故なり」と云云。これ則ち弘安五年御入滅の年、
正しく二千二百三十余年に当る故なり。若し爾らば弘安四年已前は宗祖の本懐末だ顕れ畢らざるや。

 答う、今処々の明文に拠るに、正しく弘安元年已後を以て仏滅後二千二百三十余年というなり。
故に弘安元年七月の千日尼抄二十五に云く「仏滅度後すでに二千二百三十余年になり候」と云云。
また弘安元年九月の本尊問答抄に云く「仏滅後二千二百三十余年」(取意)と云云。また第十六四条金吾抄、また第十七大陣破抄、
また第二十二初心成仏抄等云云。また蒙抄応云く「京の本国寺弘安元年七月の御本尊に二千二百三十余年」と云云。
また上総日弁授与の弘安二年四月の御本尊に「二千二百三十余年」と云云。故に知んぬ、弘安元年已後、
御本意即ち顕れ畢ることを。

 問う、弘安元年は正しく仏滅後二千二百二十七年に当る。蓮祖何ぞ三十余年というや。

 答う、恐らくは深意あらんか。宗祖云く「今此の御本尊は(乃至)寿量品に説き顕し」等云云。
然るに寿量品御説法の年より弘安元年に至るまで、正しく二千二百三十一年に当るなり。
謂く、如来七十二歳より八箇年の間に二十八品を説く。故に知んぬ、一年に三品半を説きたまうことを。故に七十六の御歳、
正しく寿量品を説くなり。而して七十七の御歳、神力品を説いて本化に付嘱して、四年後の八十歳の御入滅なり。
如来の御年八十歳、御入滅の年より弘安元年に至るまで二千二百二十七年なり。これに七十六、七、八、九の四年を加うる則は二千二百三十一年と成るなり。
故に寿量説法の年よりこれを数えて弘安元年に至るまで、二千二百三十余年というか。
故に本尊問答抄(※弘安元年九月)に云く「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年」と云云。この文深くこれを思うべし。
若し余文の中は多分に従う。故に仏滅後というなり。若し本尊問答抄に「説きおかせ給いて後」といい、
新池抄には「寿量品に説き顕し」という、これを思い合すべし。故に弘安元年已後、究竟の極説なり。
就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。
況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。

※↑「弘安元年御本尊究竟」の説は、何も日寛上人が自分勝手に当て推量に言っているのではないのである。
よく、謗者が誹謗するように、「大石寺の法門は、歴代法主が"唯授一人・血脈相承"とかいう誰にも分らない内証から、何の論証もなしに大上段に言われるだけ」
では断じてないのである。

御書の御文を、紙背に徹して行間を読まれ、実に精緻に論証されているのである。
つまり、釈尊出世の本懐は寿量品に窮まる。
日寛上人が引用された以下の御文の如くである。

新尼御前御返事 文永一二年二月一六日  五四歳 764

■ 今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫(じんでんごう)より心中にをさめさせ給ひて、
世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕はし、
神力品嘱累(ぞくるい)品に事極まりて候ひしが、(中略)我(われ)五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり、
此にゆづ(譲)るべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出ださせ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひて、云々

末法の御本仏である大聖人が、「我が内証の寿量品」を顕示遊ばされ、
末法衆生救済の御本尊を究竟されたと御自覚されたからこそ、釈尊の脱益の化導が究竟された寿量品を起点に、
当時の算出年代としては、弘安元年は、応身としての釈尊滅後二千二百二十七年であるにもかかわらず、
■「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず。」
(本尊問答抄・弘安元年 1283)と仰せになっておられるのである。

上記の両文をよくよく思い合わせれば、大聖人の御真意が拝せるのである。

であるから、日寛上人は、弘安元年を以て、大聖人の御本尊が究竟せられた。
と結論されて居られるのである。

ではなぜ、弘安二年の戒壇の大御本尊が究竟中の究竟なのかは、
以下、日顕上人が御本尊の体相に約して、更に詳細に論証されておられる。
恐れ多いことではあるが、この感動的で、甚深の論証を、我々は深く心肝に染め、
邪難破折の眼目とさせていただこうではないか。

二、御本尊の体相に於ける現証

日顕上人御指南(霊宝虫払大法要 観心本尊抄 4月6日 御影堂)

 弘安元年以降の御本尊において、特に
首題の真下に十界の全体を掌握し給う日蓮の御文字ならびに御判が拝され、(※1)
善徳、十方分身等の余仏が除かれ、(※2)
弘安二年二月以降は、霊山不在の提婆達多までが大慈悲の光明に照らされて本門の釈尊以下、
完全な十界本有の相を表し、(※3)
特に弘安以後、御判形が整って閻浮提の衆生救済の義を顕され、(※4)
もって文上教相外用の意義を廃して、寿量文底の本仏・久遠元初の自受用身の内証を本尊の当体に顕すという、
究竟の体相が成就されたのであります。

★ 詳論

【1】 中央首題直下に「日蓮」と「御花押」=人法一箇の表示

理証(仏法に於ける道理)・日顕上人御指南

凡夫の日蓮より上行菩薩としての本地を顕すのは一往であり、外用であって、再往の内証においては、
久遠元初の一迷先達の本仏としての日蓮であることを顕し給うのであります。

その御内証は、各御書にも分々にお示しでありますが、
特に大聖人が末法の一切衆生即身成仏のためお示しあそばされた御内証の相貌とは、
実に御本尊の「南無妙法蓮華経 日蓮」とお示しの御当体であります。

人を離れて法なく、法を離れて人なく、人即法・法即人、人法一箇のところに無限の宇宙法界の理義を含み給うが故に、
我等凡夫にとって即身成仏の大直道となるのであります。

 しかし、この日蓮御名に南無妙法蓮華経が具わり、また、妙法の五字七字はこれを所持し給う日蓮大聖人の御当体たる、
人即法・法即人の内証を御本尊として顕し給うのは、佐渡以降に始められた御本尊のすべてに顕されてはおりません。

すなわち、上行菩薩の御自覚は既に宗旨建立にあり、久遠元初自受用報身の内証は竜の口発迹顕本に究竟し給うも、
これを御化導の上の御本尊に顕し給うにおいては、おのずから時期によって順序階梯が存するのであります。

 今、端的にいえば、佐渡より身延に入られて、文永十一年、十二年、建治二年ごろまでの御本尊は、
外用の上の意義を表となし、内証の当体を直ちに顕されていないのであります。

建治三年より弘安に至り、特に弘安以降において如実に南無妙法蓮華経の中央直下に日蓮の御名、
御花押をお示しあそばされ、その上から御本尊の当体、当相に重大なる整足が拝される御本尊においてこそ、
外用を撤廃して直ちに内証の本仏の当体を示し給うのであります。

それ以前の御本尊は、中央の七字に対し御名、御花押が左右にはなはだしく片寄って書かれており、
これはいまだ根本妙法蓮華を所持し証得あそばした法界ただ一人の本仏御境界を直ちに顕されず、
釈尊の脱益仏法の範囲に由来する仏勅使としての義を残し給うのであります。

故に、これらの御本尊を未究竟と申し上げるのであり、その代表的な意味で、
この時期における当分の化導の意義を顕されたのが、千葉県保田妙本寺所蔵の通称
万年救護
いわゆる文永十一年十二月御所顕の御本尊であります。

この御本尊において、大聖人が文応元年、『立正安国論』の呈上以来、
警醒予言あそばされたところの自叛・他逼の二難のうち、自界叛逆は既に起こるも、
残る一難たる他国侵逼の難がまさに十四年目に至って実現し、予言が実証されたことに由来して、
まず御自身が上行菩薩の出現であることを顕示せられたのであります。

しかし、いまだ御化導の上の究竟・本懐の時至らざる故に、ひとまず教相上の付嘱の意義による上行菩薩の出現を示し、
外用の上より本尊の顕示をなされたのであります。

 したがって、右御本尊には前に述ぶる如く、最も中心たるべき日蓮御名は小さく右の傍(※かたわら)にあり、
御花押はこれも小さく左傍に離れ、妙法即法界の全体を所有あそばされる当体蓮華仏たる御徳を直ちに顕されておりません。(出典 同上)

 【2】,善徳仏・十方分身諸仏が御顕示されなくなる。

理証

出典 同上

これら未究竟の時期(※弘安元年以前)の御本尊に通じて拝される東方善徳仏と十方分身諸仏がやはり示されてあることも、
釈尊の文上の仏法の範囲綱格によられたものであります。

その理由は、善徳仏が釈尊の分身以外の余仏であることにより文上の仏身を顕し給うのであります。

 しかるに、弘安以降の御正意の御本尊では、善徳仏と十方分身仏、
また、ごく稀に存する胎蔵・金剛両界の大日如来等はことごとく、一幅の例外もなく削除されております。
この正しい理由は、寿量文底本仏が無作三身如来であり、文上有作色形の仏の化導領域を撤廃して、
そのすべてを包摂する法界遍満の内証を示し給うにあります。

いわゆる、日輪が出ずればもろもろの星がその光を失う如く、
文底本仏の無限の光明体徳を釈迦・多宝以下、本有の十界互具の相をもって、
元初本仏の一念の相貌として示し給うのが内証究竟の御本尊の体相であります。

【3】,御花押の変化

文証

出典 同上

特に弘安以後、御判形が整って閻浮提の衆生救済の義を顕され、

【4】,更に、弘安二年二月日目上人授与御本尊に提婆達多が始めて御顕示 以後、常態化。 
竜女が一度だけ御顕示)

出典 同上

文永十一年七月二十五日の御本尊に「天熱提婆達多」を連ね給うのは、
ただ
一幅の例外ですが、弘安二年二月の日目上人へ授与の御本尊より以降に提婆達多を列記し始め給うことは、
十界の衆生残りなく救済する大慈大悲の顕発であり、すなわち、また本門の戒徳が法界に遍満する三大秘法の整足が拝せられるのであります。

★ 参考概念

■ 大聖人一期の御化導の次第 

謗法者は、大聖人の御化導は時代に依って御法門に順序次第があることを見落としている者が多い。
が故に、三大秘法の御法門に混乱しているのである。

まず三大秘法の御化導を時代順に見れば以下のように配当される。

立宗宣言〜龍ノ口法難・発迹顕本  本門の題目の流布
発迹顕本・佐渡期         本門の本尊の流布
弘安二年十月十二日        本門戒壇の大御本尊の御顕発
〜晩年              本門の戒壇の御教示

この順序次第が分らずに、例えば佐前の御文を、附文の辺にのみ囚われ、
一期弘教の元意である三大秘法義から開いて読まない(読めない?)から、本尊に迷い、惑乱するのである。
しかも、自分が惑乱していることに気がついてないのである。
まさに

■ 所詮仏教に依って邪見を起こす。目の転ずる者、大山転ずと欲(おも)ふ。
(寺泊御書   文永八年一〇月二二日  五〇歳 484)

自分が大聖人の仏教に迷って目を回しているのに、不動の大山がぐるぐる回っている、
と錯覚してド動転し、喚き散らすのである。

さて、次は釈尊一代の御化導と対比すると以下の如くの段階がある。

● 釈迦仏法との相対

1,佐前(文永8年9月12日以前)→爾前権教

2,佐後(文永8年9月12日龍ノ口法難以降〜弘安元年)→法華経迹門

3,弘安元年以降→法華経本門

4,弘安二年二月以降、本仏の戒体が整う(内的要因)

5,弘安二年9月21日熱原法難(外的要因)

6,弘安二年十月十二日に出世の本懐を遂げられる。

↑ 参照 ↓

観心本尊抄講話・日顕上人・1巻36〜

 さて、この意味における大聖人様の御本尊の御化導という点から申しますと、
また、もう一段の深義があるのであります。先程申した 『三沢抄』 の 
「さどの国へながされ候ひし己前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ」との御文は、
釈尊の一代の化導については爾前経と法華経とを相対し、方便と真実を判別してきちんと区別をすることが当然であるように、
大聖人様の法門も佐渡以前と以後に重大な違いがあることを示されております。

爾前経と法華経のけじめについての法門は、これを権実相対と言い、
この法門は宗旨建立の時から説かれておりますが、所詮は天台の助言であり、もう一歩、深く入って、
本門という領域からの御法門が大聖人様独特の弘通のお立場でありますが、
これは佐渡以前においては非常に少ないのであります。少ないというよりも、
そのお立場からきちんとお顕しになる時期が、どうしても佐渡以降ということになってくるのであります。

それがこの 『観心本尊抄』等に代表されるところの本門の法門であり、
そして、その本門の本義における大聖人様御出世の本懐は何かと言えば、
御本尊をお顕しになることに存するということであります。

 その御本尊の御化導のほうから拝しますと、もう一歩、深い意味があります。それは何かと言いますと、
一往、佐渡のところでけじめをつけて、それ以前が爾前経、それ以降が法華経ということになります。
つまり大聖人様の御化導における爾前経と法華経ということです。ところが、釈尊の御化導における法華経において、
どういう区別がありますか。釈尊の法華経においても、迹門と本門という相違がはっきりあるわけです。
それと同じように、大聖人様の三大秘法の御化導においても、やはり迹門と本門との相違があるのであります。

(中略)

 その一期の御化導から拝しますと、
実に弘安元年の年に、三大秘法をお顕しあそばされる上における本懐究寛をお示しになっていらっしやるのであります。
これは御本尊、すなわち大漫茶羅顕発の上における一切衆生化導という意義においてであります。それからさらに一年経って、
弘安二年の十月十二日に本門戒壇の大御本尊をお顕しあそばされたのであります。(引用以上)

また、
大聖人様が出世の御本懐を成就あそばされる要件について、御法主日顕上人猊下は、
 
「能化の仏・日蓮大聖人は自ら三大秘法建立のため大難四箇度小難数を知らず
といわれる忍難の弘通をあそばされましたが、ただ能化の死身弘法のみでは広布の根本となる御化導の法体は成就いたしません。
大聖人の不自惜身命の弘通に応えて、所化の弟子檀那が身命を捨てて大難を恐れず正法を受持するところに、
九界即仏界、仏界即九界、真の本門下種・事の一念三千が、弘通のうえに成就するのであります」(大白法 二四五号)

と仰せである。


以上から御本尊の御図顕様式の変化を拝すると、

1,佐渡期から、「本門の本尊」流布が始まり、
2,弘安元年で究竟せられ、
3,更に弘安二年二月に、いよいよ、御本仏の戒体が成就せられ、
4,そこに同年九月の熱原法難により、僧俗一致した末法万年へ亘る外護の綱格の出現があり、
5,内的要因と外的要因が相応し、
6,遂に、弘安二年十月十二日に、末法万年広宣流布達成の暁に一切衆生救済の戒壇へ御安置すべき本門戒壇の大御本尊の御建立に至るのである。

この、御化導の流れは仏法の道理に叶って実に合理的であり、実に自然な順序次第である。

戒壇の大御本尊へ邪難をなす者達は、このような道理としても、また御本尊の体相としての絶対的な現証も、
覆せる論理的な道理や物証を持っているというのか?
あったら見せていただきたいものである。
彼らはただ、闇雲に、感情的に、あるいは既にとっくに破折が済んでいる古来からの他門の邪難を、
ただ自分の頭でじっくり検証もせずに盲目的に蒸し返してきて
「戒壇の大御本尊はニセモノだ!」と、バカの一つ覚えで喚いているだけではないのか?
実に浅ましく、みっともない醜態である。

■ 二十余年と三十余年の意義 

では、弘安元年以降、御本尊讃文に二千百二十余年と二千百三十余年の両様あるのはどういう意義か?
この意義が分らずに、この点から邪難を吐く馬鹿者がまだいるようであるが、既に御法主上人が明確に御指南である。

これは標題リンク先の日顕上人御指南から以下の意義が分る。

1,二千二百三十余年 報身如来を中心に据えられた御表示

2,二千二百二十余年 応身如来を中心に据えられた御表示

これは、三身即一身の久遠元初の本仏大聖人が、寿量文底の久遠元初の本因下種の仏法を曼荼羅御本尊として御顕示遊ばされ、
その御本尊を報身如来を中心に御表示される時は、寿量品の説時から起算して、「三十余年」となり、
同じく三身即一身の久遠元初本仏大聖人が曼荼羅御本尊を、応身如来を中心に御表示される時は、
応身の釈尊が実際に御入滅された年から起算して「二十余年」となるのである。

この両義が分らないので、「戒壇の大御本尊には「二千二百二十余年」とあるではないか!
これはまだ究竟されていない証拠ではないか!」と吠える馬鹿者がいるわけである。
そのような愚か者は以上の道理によって一掃してやろうではないか。


■ 
参照・重要文献

■ 御法主日顕上人猊下御説法観心本尊抄 「遺付の本尊の相貌を明かす文」について平成五年九月十日大宣寺御宝蔵落成入仏法要の砌

※=私註

 さて、少し専門的なことになりますが、「本尊の為体」と仰せられた御本尊の御顕示における釈尊の仏滅年代について、
周書の異記」を根拠とする算定方法があるのです。この算定方法が当時の仏教界の常識となっておりましたので、
大聖人様もそれに準拠されて、「仏滅後二千二百二十余年」あるいは「三十余年」ということをお示しになっております。

だから、皆様方が下附されておる御本尊様も必ず「仏滅後二千二百三十余年」とお書きになってあるはずなのですが、
これについて、
玉井禮一郎という狂った者がいまして、浅識・邪見の論を述べたことがあるのです。

 玉井某は「万年救護の御本尊」を一生懸命に担ぎ出そうとしている者ですが、その論拠の一つとして、
「今の研究からいくと、大聖人の『周書の異記』を根拠とする二千二百何十余年というのは誤りであって、
あのころはまだ千七百年しか経過していない。だから、御本尊の讃文に示される『二千二百何十余年』という年数は、
大聖人御在世を指すのではなく、実際にはそれから約五百年を経過した江戸時代をいうのであり、
その時に正しい御本尊が出現したのだ」というようなことを言っております。

 しかし、この玉井某の論は、全くの誤りであります。つまり、仏滅年代を考証するとき、小乗の応身仏としてインドに出現し、
あちらこちら托鉢をして回って小乗の教義を説き、そして化縁尽きて入滅した、その意味での応身の仏様であるとするならば、
今日の科学的研究によればほぼ五百年のずれが生じますので、大聖人様御出現のころは、
二千二百何十余年ではなく、約千七百年といってもよいと思います。

ところが、大聖人様が御本尊様をお顕しになったのは、法華経の本門なのです。諸法実相といっても、
方便品ではまだ本有の実相に至りません。寿量品に至って初めて、その真義が示されるのであります。
すなわち、久遠元初以来常住の、生に非ずして生を現じ、滅に非ずして滅を現じ給う仏様が示されます。

 さて、大聖人様は竜口の発迹顕本において既に、
御自身の凡夫の御当体即久遠元初の自受用報身としてのお悟りを持って佐渡においでになりました。
したがって、そこから御本尊様をお示しになるわけですけれども、配流中は、やはりまた身業読誦も終わっていないし、
その他様々な深い仏法の因縁・理由によって、そこに法華経の迹門から本門をずっと観照あそばす意味があるのであります。
ですから、建治元年四月に御顕示の五幅の御本尊様だけに「三十余年」というお示しがちょっと出てくるのですが、
また、すぐに「二十余年」になってしまいます。

 このことも不思議なのですが、さらに不思議なことは、弘安に入って、弘安元年・二年・三年という三ヵ年の間、
この間は「二千二百二十余年」の御本尊様と「三十余年」の御本尊様が、縄を編むように交互にお示しになるわけです。
そして、弘安四年以降は全部「三十余年」になっております

 なぜそうなっておるかということですが、日寛上人の御指南を拝しますと、
これは寿量品の説時から算定されたということです。というのは、文永十年の『波木井三郎殿御返事』(※南部六郎三郎殿)に「二千二百二十二年」
(新定二―一〇〇三n・全集一三七二n)とあり、建治二年の『報恩抄』には「二千二百二十五年」(新定二―一五四三n・全集三二八n)とあり、
それから弘安元年の『妙法比丘尼御返事』には「二千二百二十七年」(新定二―一八七八n・全集一四〇七n)とある。
ですから、間違いなく大聖人様の御算定は、先程の「周書の異記」に準拠されているわけなのです。すなわち、
大聖人様の御算定によれば、弘安元年は二千二百二十七年と確定されているわけです。

 しかるに、そうでありながら、なぜ二千二百二十七年である弘安元年から「二千二百三十余年」という御本尊様が顕れ、
それが二年・三年と続いているかという疑問が起こります。つまり、建治三年までは、五幅の例外を除いて、
ずっと「二十余年」なのです。したがって、先に挙げた御書にも示されるとおり、大聖人様の御算定には全く狂いがありません。
にもかかわらず、「二十余年」と「三十余年」という二つの御本尊が顕示されたのは、どうしてだろうかということです。

 これは要するに、弘安の時期に入られて、大聖人様は寿量品から算定をされたという意味です。
つまり、釈尊は御入滅の前の年に法華経を説き終わられましたが、一年に三品半を説かれたと仮定すると、
御入滅の四年前に寿量品をお説きになったことになりますから、したがって、二千二百二十七年に四年足すと二千二百三十一年になります。
そこで「三十余年」というお示しが弘安元年から始められておるという意味であります。

 さて、このことについて少し付け加えて申しますと、形貎種脱(※仏の形貎に約して種脱を論ず)・判摂名字(※名字に摂すると判ず。
究竟即といっても名字即に納まる、との意)の上から、この御本尊様は種脱をきちんと立て分けておられる根本的な意味があります。
つまり、『百六箇抄』その他の相伝書、さらにはもっと深い相伝の御法門において種脱がきちんと立て分けられておりますが、
したがって、「仏滅後二千二百二十余年」あるいは「三十余年」というのは、釈尊の応身ではなく、
まず本門からの算定、すなわち本門寿量品の仏様として、その非滅現滅・非生現生の上に基準を立てられておることを拝さなければなりません。

 ですから、「二千二百二十余年」とあるけれども、それはそのまま、そこからということでなく、
その意義は寿量品の仏様であり、さらに種脱相対して本因名字の本仏の上からするならば、
久遠元初の仏様として常住の日蓮大聖人の御当体という意義を含めての「二千二百二十余年」あるいは「三十余年」の大漫荼羅であります。

 したがって、インドに出現した釈尊が亡くなった年代についての説は色々とありますけれども、
寿量品の御本仏の御当体の上からの、非滅現滅・非生現生のめどをもってお示しになっておるということからすれば、
常住の上からの滅であるから、入滅そのものの時に左右されることはないのであります。
ただ、「周書の異記」からの算定によられたのは、当時の仏法上の慣習に従っての、
一往のめどとしてのお示しである。

 ですから、弘安以降は「二千二百二十余年」あるいは「三十余年」であると同時に、
また、それは本有常住の仏様の滅・非滅をお示しになっておるということをもって、
御本尊の御当体として拝さなければならない次第であります。

 その上から、そこには一身に即して三身、三身に即して一身の意義があります。
つまり、「二千二百二十余年」とお示しになった弘安元年から三年までの意味においては、久遠元初自受用報身如来の体徳、
無作の三身相即の上の応身を示され、それから「三十余年」は三身相即の上の報身をお示しになっておるわけです。
しかし、それはそのまま、いずれも三身相即であります。

 自受用報身の御証悟は、それが直ちに三身相即の仏様の御当体、その上の応身であり報身であります。
ですから、「二千二百二十余年」あるいは「三十余年」をもって仏様の深い御化導の意義をお示しになるとともに、
それはそのまま、久遠元初以来常住の下種本仏日蓮大聖人の御当体としての大漫荼羅をお示しになっておるというところまでを拝さなければなりません。
つまり、「仏滅後二千二百二十余年」の讃文も、また「三十余年」の讃文の意義も、大聖人様の御本仏としての御胸中にある御化導の在り方を、
三世常恒の意味においてお示しになっておられるのであり、弘安以降の究竟の御意においては全く差別はないのであります。

 また、御本尊様列座の菩薩以下の九界は照境未窮の妙因、そして釈迦・多宝は尽源為果の妙果を表すということであり、
それはそのまま、九界即仏界・仏界即九界の妙法の当体、末法出現の下種本仏大聖人様の己心所具の一念三千であります。
故に、我々は、「戒壇の大御本尊・南無妙法蓮華経」と法に帰し、「南無日蓮大聖人」と人に帰し奉っての、
その信心によるお題目が一番大事であります。

 皆さんは色々なことを考えるでしょう。ときには色々な雑念・雑事が心に湧き、
色々なことを考えながらお題目を唱えている人もいるでしょうが、それでも結構です。そういう因も、妙法を唱えるかぎり、
そのなかに一切合切が含まれており、尽源為果を開く因ですから、御本尊様にお題目を唱えるところにおいて、
いつの間にか浄化されていくのです。

いうなれば、有り難いことに地獄も餓鬼も畜生も、即身成仏の妙因のうちに全部入っているわけです。

 しかし、本当の即身成仏の意義を考えるならば、
それは仏力・法力と信力・行力との四力成就によるわけでありますから、
いよいよ臨終の時に本当の成仏の境界を得ていくためには、「南無本門戒壇の大御本尊・南無妙法蓮華経」と法に帰依し、
「南無日蓮大聖人」と御本仏に帰依し奉ってのお題目を常に唱えることが肝要であり、
そのところにおのずと、その方の一切の謗法罪障が消滅して、
真の即身成仏の本懐を得られる所以であります。

 皆様方の御信心倍増をお祈りいたしまして、本日の法話に代える次第であります。

 ■ 開創七百年本会 妙法蓮華経如来神力品第二十一 平成二年十月十二日 御影堂

 結論的に言えば、目寛上人の本尊抄文段の題号釈中に示される如く、弘安元年以降が御本尊顕示の本懐究竟でありますが、
そこに人法一箇の境智を示し給う意と、さらに三大秘法の整足を基本的に成就せられ、その上に弘安二年十月十二日、
本門戒壇の大御本尊が、内因の御究竟と外縁の死身護法の奉公との合致をもって、
末法万年の衆生即身成仏の中心主体として成就されたことが拝せられるのであります。

 この弘安究竟の直接の理由として、
日寛上人は、大聖人が御本尊讃文を「仏滅後二千二百三十余年」と弘安元年より書き始められたことのみを述べられている故に、
それが弘安元年以降、本懐究竟の意味であるとの結論を示されているにもかかわらず、これを浅薄に見過ごした他門の誤れる者達によって、
二千二百三十余年とある本尊のほうが、二十余年の本尊より勝れており、究竟しているという主張のように間違って取られております。

 これについて、少々明確な義を申し上げれば、この二十余年と三十余年の違いは、
宗祖の基本的な仏滅算定年代より、御本尊顕発の時期について特別な算定を用いられ、ある意義を観ぜられた表示なのであります。
故に、あくまで表示そのものに執われてはなりません。大切なのは、大聖人御化導の時期に基づく内容であります。

 したがって、これに関し、日興上人以下の歴代の本尊書写の意義理由は別にありますが、大聖人の御本尊については、
表示である二十余年と三十余年について勝劣があるという如きは、個々の本尊における仏滅讃文の表示のみに執われた、
大変な誤りであります。故に結論は、日寛上人が弘安以降、本懐究竟と言われるのが正しいのであります。

 ところで大聖人が、仏滅讃文を書かれ始めた文永十一年五月十六日の本尊より、弘安以前、すなわち建治三年いっぱいに至る丸四年の間、
仏滅讃文のある二十四幅の真筆本尊中、比較的早い時期に当たる文永十二年四月の御本尊五幅のみに二千二百三十余年と書かれていること、
しかるに他はすべて二千二百二十余年であることは、まことに不思議と言うほかありません。

 しかし、この文永十二年四月の五幅の本尊のみが三十余年と書かれてある理由として、
私は宝塔品の宝塔の表示であると拝するのであります。新尼抄に

  「此の御本尊は(乃至)宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・属累に事極りて云云」(全集九〇五n)

と仰せの如く、宝塔涌現は、寿量品の遠序として切り離すことのできぬ意義を持ちます。

 大聖人の身延入山の翌文永十二年四月に、この意義の表示としては法華経八ヵ年の説法中、二十八品は、
一年に平均三品半となるから、宝塔品の説時は釈尊入滅の五年乃至六年前となります。これを六年前とするとき、
文永十二年の大聖人の基本仏滅算定は二千二百二十四年であり、これに六年を足せば二千二百三十年となります。
故に大聖人はこの時期に室塔品の宝塔を観じ給い、表示の大数を取って、二千二百三十余年と書かれたと拝するのであります。

 次に、改めて弘安元年より三十余年の本尊が本格的に多くなりますが、弘安二年、同三年の三ヵ年間は合計して二十余年の本尊が三十二幅、
三十余年の本尊が二十一幅で両方が拝され、弘安四年以降はすべてが三十余年であります。すなわち日寛上人による、
大聖人様が寿量品の年から算定されたことにより、法華二十八品八ヵ年の説時は一年に三品半として四年前となりますから、
弘安元年の仏滅算定年、二千二百二十七年に四年を足すことをもって、弘安元年以降、三十余年と書き始められたとの説は、
寿量品と仏滅のいずれより数えても三十年代に至る弘安四年、同五年において二十余年の本尊が全く無いことにより、
正しいことが明らかであります。

 しかし、これは算定であって、
大聖人の境地は既に弘安以降、仏滅年度からの二十余年も寿量品説時からの三十余年も共に寿量品内証の意義による本尊顕示であります。
その証拠として同じく弘安以降の御本尊において、
善徳仏、十方分身仏を除去し給うによる久遠元初自受用身の体性を如実に顕し給うこと、
またその本仏本法たる南無妙法蓮華経と日蓮在判の一体の尊形を拝し、かつ判形の更改あること、
すべて、弘安以降の本尊究竟の内容は、本門寿量久遠元初の本仏、下種人法一箇の御境智に存するのであります。

 かくて、このところより三大秘法の整足における究竟の意義が開かれるのであります。

それはすなわち、戒定慧三学中の虚空不動慧たる本門の題目が宗旨建立以来弘通せられ、
文永、建治より虚空不動定たる本門の本尊が題目の意義を元に帰して顕され、弘安元年に本尊の顕示が、
その人法体一義をもって究竟せられたのに対し、
さらに
弘安二年に至って、宗祖の末法化導における虚空不動戒たる戒躰が究竟し、
ここに三秘惣在が化導の上に決せられたと拝されるのであります。

 その理由の一分としてではありますが、大聖人様は『観心本尊抄』において、
法華経の十界互具の観心を文証によって示され、特に

「経に云く『提婆達多乃至天王如来』等云云地獄界所具の仏界なり」(同二四〇n)

と、地獄に堕ちた提婆達多が天王如来となることを記せられた提婆達多品の意義をもって、地
獄界に仏界が具わることを説かれました。

 次いで、それぞれの経文を挙げて他の九界に具すところの十界が述べられておりますが、
不思議にも大聖人所顕の御本尊は、文永十一年七月二十五日の一幅のほかは、始めより弘安二年二月、日目上人授与の本尊の直前まで、
約六十幅の御本尊のすべてに、他の九界はあるけれども、地獄界を示す提婆達多を挙げられていません。

 つまり、地獄界のみを御本尊の大功徳から、敢えて外されているのであります。
これは、一に提婆達多は法華経の座に連ならず、二に他の九界の衆生と異なり寿量品を聞かざる故に、
一往、文上においては即身成仏の意義に親しからずとして、しばらく除き給うかと拝察し奉るのであります。

 しかるに、弘安二年二月、日目上人授与の本尊より以降の各御本尊には、ほとんど提婆達多をお示しであります。
また、先立って五年前の、
文永十一年七月二十五日のただ一幅にのみ提婆達多を示されたのは、
釈尊の大慈悲により序品の
六瑞中の眉間白毫の光が無間地獄に至り提婆が成仏したという在世文上の観心を示されたのであり、
弘安二年二月以降の提婆達多御顕示は、寿量品の文底下種の大御本尊、本仏大聖人の大慈大悲は、
極悪の果報たる地獄界の提婆達多に代表される、極悪の衆生のすべてを摂し救うところの、
真の事の一念三千の妙法を顕し給うと拝せられます。このように、
極悪の衆生をも含めて一切をことごとく妙法において救いきるとの境界こそ、
まさに仏自らの誓いによる本門の妙法の戒法であります。

 というのは、かの爾前経の仏は、二乗や一闡提や悪道の衆生の成仏を許しません。
これは、それらの衆生にも具わるところの仏性を殺す罪に当たります。したがって、能化の仏が殺生罪を免れないから、
所化の衆生においても、また同様であります。仏自ら戒法において欠落する故に、
その戒をもって衆生を正しく救うことができないのであります。

 法華経方便品に

  「若し小乗を以って化すること 乃至一人に於いてもせば 我則ち慳貪に堕せん 此の事は定めて不可なり」(開結一七五n)

と説かれる如く、極大乗の法華経において真の十界互具を説き、その本門において十界本有の妙法の意義をもって、
各々がその当体を改めず即身成仏する脱益の相を、さらに末法出現の本仏日蓮大聖人が下種の法体に収め給うところ、
一切衆生、極悪一闡提をも含めて、妙法の成徳をもって下種されることにより、真の成仏の記別を示されたのであります。

 ここに、相対の善悪を超越し、その一切を妙化する絶対の善をもって本門の戒法の功徳とされ、
これを提婆達多の加入をもってその一分を顕示されたものと拝するのであります。

 故に大聖人は、御本尊ならびに御書に、
人法一箇の内証より妙法受持、謗法厳誡の下種本門の戒法が末法万年の一切衆生を永遠に救済するという、
法界に周遍する意義を顕されることにより三大秘法が整足し、さらに弘安二年十月十二日、
事の法体としての御自身の内証と熱原における弟子檀那の不惜身命の修行との因縁が合致して、
本門戒壇の大御本尊を顕し、本懐を遂げ給うたと拝されるのであります。

 日興上人は、唯授一人の相伝をもってこの本義を拝し、時至って、本門戒壇の本尊を格護して、
この富士の地に開教を遂げられました。故に、この本門の戒法の実践は、日興上人の御振る舞いを根本として、
宗祖所顕の三大秘法を護持し、摂折二門に考慮を払いつつも、折伏を基本とし常にこの大法を弘宣すること、
また謗法厳誡の指南を常に体して
十四誹謗を戒め、日蓮正宗僧俗の誇りを胸に、世間の謗法の垢に染まらぬよう自他を戒めつつ、
自行化他に前進することであります。

 それが法華の修行の肝要であり、「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候」と仰せられた、その意義の究竟にあると信ずるのであります。

 『佐渡御書』に

  「雪山童子の身をなげし楽法梵志が身の皮をはぎし身命に過たる惜き者のなければ是を布施として仏法を習へば必ず仏となる身命を捨る人・
他の宝を仏法に惜べしや、又財宝を仏法におしまん物まさる身命を捨べきや」(全集九五六n)

と説かれることが、信行の極致であります。

 まさに開創七百年の意義は、甚深なる大聖人、日興上人の御化導と御指南の大慈大悲をさらに深く拝し奉り、
異体同心の団結をもって、三大秘法の化儀荘厳のため、また永遠の幸福の確立のため、
一閻浮提広布に一人ひとりが、その力を尽くすところにあると信じます。

 皆様の一層の御健勝と信行倍増をお祈りし、本夕はこれをもって失礼いたします。


第43回 全国教師講習会の砌
     ●平成六年八月二十四日
     ●於 総本山大講堂
     御法主日顕上人猊下御講義(一)

万年救護本尊


建治年間の御本尊にはすべて善徳仏と十方分身の諸仏が示されているのですが、
ここにはそれが示されておりません。
 前にも何回かお話ししたと思いますが、建治二年の『報恩抄』に、
  「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、
  外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」(平成新編御書一〇三六n)
という文がありまして、この「外の諸仏」という表現は、まさしく建治年間の善徳仏と十方分身諸仏が入っておる御本尊の体相を表されております。
 ところが、建治三年の御書とされている『日女御前御返事』の御文においては、それが
示されておりません。この御書のように、善徳仏、十方分身諸仏が御本尊の御当体からな
くなるのは弘安以降なのです。

 この大講堂の御本尊は、千葉県、房州の万年救護の御本尊のお形木ですから文永年間で
す。したがって、善徳仏、十方分身諸仏が示されております。ところが、弘安に入ると、
それがぴったりとなくなります。これが一つであります。
 もう一つは、「悪逆の達多・愚癡の
竜女一座をはり」と、提婆達多と竜女が示されてい
ることです。特に竜女は、現在、大聖人様の御真筆とされている百三十余幅の御本尊のな
かでも、ただ一幅にしか示されていないのです。その御本尊は、不思議なことに弘安二年
二月の日目上人授与の御本尊なのです。この一幅だけが、「竜王女」として、竜女が御本
尊のなかに示されております。
 それから、提婆達多が示されるのも、文永
年間に一幅あるだけで、あとは先程の弘安二
年の日目上人授与の御本尊に至るまで示され
ないのです。それ以降はほとんど提婆達多を
お示しになります。そういう点からは、この
「悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり」とい
う具体的な例証は、弘安二年の日目上人授与
の御本尊のみなのです。
 また、『日女御前御返事』が建治三年の御書であるという所信についても、実は根拠はないのです。御真蹟がない御書については、
おそらくこの頃であろうというようなあいまいな形で所伝が出来、特別な理由がない限り
はそれがずっと伝承されているものなのです。したがって、的確な理由がない所伝ならば、
種々の検討の結果に正しい系年が判明することもあり、そのような意味から、今度の『平
成新編御書』には系年の異動がたくさんあるわけです。
 また、「日蓮花押」等の御花押の形からも系年が変更になった場合もあります。そのほ
か、その理由は複雑かつ様々で一概には言えませんが、昔の所伝や『御書全集』所載の系
年には納得できないものがたくさんあり、この『日女御前御返事』は思い切って弘安に移
した次第であります。
 
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霊宝虫払大法要

        御法主日顕上人猊下御説法

               観心本尊抄

                         4月6日 於 御影堂


 『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』にのたまわく

「伝教大師日本にして末法の始を記して云く
『代を語れば像の終り末の初・地を尋れば唐の東・羯の西・人を原れば則ち五濁の生・闘諍の時なり経に云く猶多怨嫉・ 
況滅度後と此の言良とに以有るなり』此の釈に闘諍の時と云云、今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり、
此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し月支震旦に未だ此の本尊有さず、
日本国の上宮・四天王寺を建立して未だ時来らざれば阿弥陀・他方を以て本尊と為す、聖武天皇・東大寺を建立す、
華厳経の教主なり、未だ法華経の実義を顕さず、伝教大師粗法華経の実義を顕示す然りと雖も時未だ来らざるの故に東方の鵝王を建立して本門の四菩薩を顕わさず、
所詮地涌千界の為に此れを譲り与え給う故なり」(全集二五四n)
                           (題 目 三 唱)

 本日は、恒例の総本山御霊宝虫払大法会を奉修いたしましたところ、法華講総講頭・池田大作先生はじめ大講頭各位、
全国の創価学会ならびに法華講代表信徒各位には多数御参詣になり、当夜の御書講にも代表各位が出席せられ、賑々しく奉修いたすことは、まことに喜びに堪えないところであります。

 本夕は、ただいま拝読の『観心本尊抄』の一節について、その関連する大聖人御化導の深義を中心に、
異解を牒しつつ、少々申し述べる次第であります。

 この御文は本尊抄の末尾における文底下種三段中の流通分であり、地涌千界が末法に必ず出現することを明かす下、
仏と人師の予言を挙げて問答し、まさに今末法闘諍の時であることをかかげ示すとともに、所弘の本門の本尊を釈される文であります。

 まず、拝読の文を初めより拝しますと、伝教大師の『守護国界章』の文を引かれ、その「闘諍の時」という文を的拠として、
これを当時の日本国大国難の現証に引き当て給うのであります。いわゆる「自界叛逆・西海侵逼の二難」であります。

大聖人は文応元年、すなわち、この時より十二年前に時の幕府へ宛てた諌暁の書、『立正安国論』に薬師経等の三災七難中、
五難までは、こもごも惹起しているが、自界叛逆・他国侵逼の二難はいまだ起こらず、
この二難が謗法の咎によって必ず起こらんことを警告あそばされたのであります。それより十一年を経た文永九年二月、鎌倉において評定衆・名越時章、教時が、
また京都六波羅の探題・北条時輔が謀叛の咎をもって誅せられるという自界叛逆の難が的中しました。越えて翌文永十年四月二十五日、この『観心本尊抄』が著されたのであります。

 しかして、次の文永十一年十月、蒙古軍は壱岐・対馬に来攻し、次いで筑前に上陸したのでありますが、大風によって兵船二百余艘が沈没しました。
また、その七年後の弘安四年五月より六月に再び蒙古が対馬・長門国へ来襲しましたが、
やはり大風によって元軍が壊滅したことは歴史の示すとおりであります。

 したがって、本尊抄に「今の自界叛逆・西海侵逼の二難」と挙げ給ううち、一の自界叛逆の難は既に顕れ、
二の西海侵逼の難はいまだ顕れざるその中間の時でありますから、この「今」という字義は仏智の明鑑により、
文永九年より現在そして未来二回にわたって他国侵逼の難が起こった弘安四年までの時期全体を含めて現在の形で仰せられたのであります。し
たがって、この本尊抄述作の時に西海侵逼の難はまだ起こっていないから、「今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり」と現在形に読むのは誤りなどという説は、
大聖人の仏智冥鑑の三世にわたり給うを信じない者の謗言であります。

 要するに、この「今」とは、国家存亡の一大事の時期が、まさに現在来ておるぞと指示あそばす意であります。
そこで、その「今」の字を受けている次の文の「此の時」とは、仏意により国家存亡の時期が未来数カ年にわたるということを明らかに鑑じ給う上で「此の時」と仰せになったのであることを、
まず述べておく次第であります。

 さて、この拝読の御文の中心眼目は、第一に

  「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」の文であり、次に「伝教大師(乃至)東方の鵝王を建立して本門の四菩薩を顕わさず、
所詮地涌千界の為に此れを譲り与え給う故なり」
の文における「本門の四菩薩」の義を正しく解することが必要であると思います。

 さて、初めの文は、本宗と他門においてその読み方、したがってまた解釈が全く異なっております。

本宗では、古来「本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊」と読むのであります。この文字の配列からして、
本来「本門の釈尊を脇士と為す」と読むのが漢文上の無理のない読み方であり、
また、その前例として本尊抄の前文には「正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す」(全集二四八n)

とあり、いずれも「脇士と為す」と読むことは、既に全体的に確定しております。
したがって、漢文体の文字の配列文例が全く同一である以上、「脇士と為す」と読むことが妥当であります。
まして、宗祖大聖人が「当身の大事」とのたまいし本尊抄の大切な文について、かく読むべしという読み方の配慮をなされていないはずはなく、
いま挙げた前文の例によるも宗祖大聖人の御意は明らかに拝察し得るのであります。しかも、この読み方の意義が、御相伝の深義に契合し、
また、前文の本尊抄に明かし給う未曾有の本尊の当体、当相と合致する以上、まさしくこれは「脇士と為す」と読むべきであります。

 しからば、この文意はいかなることを示されているかについて、これを正しく拝するならば、
実に重々の大事がこの文に含まれていることを知らねばなりません。

 まず、この本尊抄において、在世に本門寿量の肝要を仏が地涌菩薩に付嘱することを示し、
さらに、この付嘱を受けて地涌千界が必ず末法に出現することを重々にわたって示しきたるところ、
まさに自界叛逆・西海侵逼の二難至る時において地涌千界が現実の歴史上に出現することを述べ給うのであります。

しかし、本尊抄においては、本文中に日蓮の御名は一カ所もなく、
常に大法を末法に弘める大人格を「地涌千界」と示されております。これ末法流布の大本尊は、
付嘱の筋道に基づいて顕現されるべき意義によるのであります。 

一方、『開目抄』には、末法の真の法華経の行者として日蓮の御名を各所に示し給うも、
末法に出現する意味での地涌千界ないし上行菩薩等の文旨は全く見当たりません。

これ末法の主師親三徳の本仏は日蓮の御名で出世し給うことの意義によるのであります。

 しかし、相互の関連はあります。
すなわち、『開目抄』に示される前代未聞の法華経の行者・日蓮は、まさに結要付嘱の人たる上行菩薩であり、『観心本尊抄』に指摘せられる末法出現の地涌千界とは、
その中心的大人格が日蓮であることを、両々相まって示し給う深い配慮であることは疑いを容れないのであります。
すなわち、これ一つには、凡夫の日蓮が上行菩薩であることは容易に弟子達にも述べ難い重大事であったからであります。


要するに、本尊抄の右文における「地涌千界出現」とは、真の法華経の行者・日蓮のことなるぞとの大確信があってこそ、
その出現を明確に示された所以があります。

 次に「本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」の文は、
本尊抄の前文に遺付の本尊の相貌を示される文として「其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩云云」(同二四七n)

の文を受けるものであります。この御文は『諸法実相抄』の
「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」(同一三五八n)
等の御文意、さらに『総勘文抄』『当体義抄』等の久遠当初の凡夫即極の本仏、本法を示し給う意より拝するとき、
そこに二筋の大事なる意が存するのであります。

 その第一の意は、遺付の本尊の相貌を示す文に明らかな如く、久遠元初の本仏、本師のまします有縁の娑婆即寂光の国土の上に、
宝塔の実体たる南無妙法蓮華経を示されるところが大切な所以であります。経文においては示されていない南無妙法蓮華経の当体こそ、
無始の色心妙境妙智、境智冥合の尊体であります。

したがって、文の如くこの中央の妙法蓮華経の脇士は釈迦・多宝であり、釈迦・多宝の脇士は上行等の四菩薩であり、
文殊・弥勒等はその四菩薩の眷属として末座に居し給うのであります。この釈迦・多宝が、まさしく本門の釈迦・多宝であることは、
上行等の四菩薩が脇士であることからも明らかであり、したがって、この本尊の相貌こそ本門の釈尊を脇士となす本尊であります。

 さて、次の第二の意は、本門の釈迦・多宝を脇士とする妙法蓮華経の当体は、単なる法のみの存在ではなく、
その妙法と一体なる人格的実在が存するのであります。
 『御義口伝』の
  「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり(乃至)
無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、
寿量品の事の三大事とは是なり」(同七五二n)

との御文の義理よりするならば、まさしく久遠の本尊の実体たる妙法を所持あそばす方は、
上行日蓮の御当体であらせられるのであります。以上よりして、地涌千界出現して顕し給う本尊とは、
本門の釈尊を脇士とする本尊であることが明らかであります。

 しかるに、古来、不相伝家においては、すべてこの文を「本門の釈尊の脇士と為り」と読むのであります。
すると、前述の前例の文にも反し、また、能弘の人と、所弘の法に解釈上混乱が起こります。
これは、すべて大聖人の仏法の帰趨を仏像造立という一点に執着するために、
大聖人が大慈大悲の上から五重の相対の深意を通して示し給う、究極の御本意を蔑ろにするからにほかなりません。

 つまり、御文の「地涌千界出現して」というその地涌千界とは、在世の本門虚空会における地涌の菩薩でもなく、
また妙法の当体たる遺付の本尊の本仏一念所具の十界互具における本化菩薩界でもなく、
実に末法現実の歴史的段階に出現される地涌千界であることは、この文および本尊抄一巻の大旨、前後の文に明らかです。

しかるに、この地涌千界が本門の釈尊の脇士となり、一閻浮提第一の本尊を立てるとなると、
現実の肉体を持って出現した地涌千界が、堂に安置される本門の釈尊のわきへノコノコと入って脇士となるという珍妙きわまる本尊、
否、造像不可能な本尊となります。また、現実に世に出現される地涌千界が、
はたして上行菩薩等の名称を表に名乗られたかといえば、その事実はありません。

したがって、不相伝家のいう如き一尊四士、すなわち釈尊像の左右に上行等の四菩薩を安置する形をもって本門の本尊の体相とし、
その四菩薩を末法出現の地涌千界であるというならば、本尊を能く顕す人である末法出現の地涌千界と、
顕されるところの本門の本尊中の四菩薩の名前、体相は異なるものとなりますから、
「地涌千界出現して本門の釈尊の脇士と為る」という読み方による文相には自ら反することになります。

 さらに、一尊四士の本尊を主張しても、宗祖大聖人は御一代において、
全く自ら一尊四士を造られていないのであります。したがって、強いて一尊四士だというも「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」というあの力強い宣言は、
全く有名無実の空言となります。もって、この御文を「本門の釈尊の脇士と為り」と読む読み方、
およびその解釈が全く聖意に反する不当なものであることが明らかであります。

 さて、このついでに本尊抄に「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩」と仰せられ、
初めに拝読した文に「本門の四菩薩」とある意義について、ただ一言述べることにいたします。 
この四菩薩とは「本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮」の意であり、
一往、外用の辺では上行菩薩の再誕日蓮、内証の辺では本地自受用の再誕日蓮大聖人を表されております。いわゆる、
塔中の妙法蓮華経が本尊の正体であり、人即法の本尊を示されるに対し、四大菩薩とは法即人の本尊を明かされるのであります。
 

けっして在世の四大菩薩の像を末法に造立することではありません。
この辺からも内証、外用の両面の意義を弁えることが肝要であります。すなわち、
大聖人の深い相伝法門においては、御書の深意を究極の仏意において締めくくる要点として、内証と外用の立て分けがあります。

 まず、宗祖大聖人の御化導における外用とは、法華経の霊山、虚空の会座において末法の一切衆生のため、
釈尊は上行菩薩を呼び出して、結要の大法を付嘱し末法の弘通を委ねられ、地涌の上首・上行菩薩は、
まさに末法に日蓮大聖人として出現し、法華経の文々句句をお読みあそばされ、上行菩薩の再誕なることを実証して有縁の弟子檀那にその意義を示されました。
いわゆる結要付嘱による筋道であって、末法出現の日蓮大聖人が仏勅使たる上行菩薩の再誕であるという次第であります。

そこに教相上の付嘱の大事による手続きがあり、
その上からは上行菩薩は釈尊のお弟子であり、お使いの立場であります。これが外用の法門であります。

 次に、内証という意義においては『観心本尊抄』に
  「所詮迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず(乃至)地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」(同二五〇n)

と、内証の御義を一言示されております。その内証の寿量品の意義とは『三大秘法抄』に
「今日蓮が所行は霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」(同一〇二三n)
と説かれた三大秘法の当体たる御振る舞いであり、その所行については、同抄の冒頭に
「釈尊初成道より(乃至)涌出品まで秘せさせ給いし実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(同一〇二一n)

と、久遠五百塵点劫の当初、釈尊が初めて実相を発得し、これを三大秘法の当体、
当相において振る舞われた本仏の行そのものであることを明らかに御指南であります。その他、御一代の御書の深意を拝するも、
すべて、このところへ一切の法門が趣向されているのであります。

 いわゆる、内証とは、付嘱の手続きより一歩立ち入ってその付嘱の法体と、
これを弘通あそばされる日蓮大聖人の深い証悟におわしますのであり、
これを大聖人がどのように末法一切衆生救済のため根本的境界とされて示し給うかを拝すべきであります。

 これは、前述の『三大秘法抄』の文においてもその要旨が拝せられますが、
さらには師弟相対して相伝する血脈の深義において厳として存するのであり、すなわち、日興上人以下、
その時代、時代における血脈付法の先師上人の指南が存する所以であります。

 要するに、霊鷲山において口決相承せられた上行菩薩として、
仏勅使としての手続きは外用でありますが、その付嘱の法体たる妙法の五字七字の名・体・宗・用、あるいは境・智・行・位においては、
末法出現の大聖人の御境界がそのまま久遠の当初の仏、本因元初の釈尊の所行と全く等しいことを明らかに示されております。

故に、凡夫の日蓮より上行菩薩としての本地を顕すのは一往であり、
外用であって、再往の内証においては、久遠元初の一迷先達の本仏としての日蓮であることを顕し給うのであります。
その御内証は、各御書にも分々にお示しでありますが、特に大聖人が末法の一切衆生即身成仏のためお示しあそばされた御内証の相貌とは、
実に御本尊の「南無妙法蓮華経 日蓮」とお示しの御当体であります。人を離れて法なく、法を離れて人なく、
人即法・法即人、人法一箇のところに無限の宇宙法界の理義を含み給うが故に、我等凡夫にとって即身成仏の大直道となるのであります。

 しかし、この日蓮御名に南無妙法蓮華経が具わり、また、妙法の五字七字はこれを所持し給う日蓮大聖人の御当体たる、
人即法・法即人の内証を御本尊として顕し給うのは、佐渡以降に始められた御本尊のすべてに顕されてはおりません。
すなわち、上行菩薩の御自覚は既に宗旨建立にあり、久遠元初自受用報身の内証は竜の口発迹顕本に究竟し給うも、
これを御化導の上の御本尊に顕し給うにおいては、おのずから時期によって順序階梯が存するのであります。

 今、端的にいえば、佐渡より身延に入られて、文永十一年、十二年、建治二年ごろまでの御本尊は、
外用の上の意義を表となし、内証の当体を直ちに顕されていないのであります。建治三年より弘安に至り、
特に弘安以降において如実に南無妙法蓮華経の中央直下に日蓮の御名、御花押をお示しあそばされ、
その上から御本尊の当体、当相に重大なる整足が拝される御本尊においてこそ、外用を撤廃して直ちに内証の本仏の当体を示し給うのであります。

それ以前の御本尊は、中央の七字に対し御名、御花押が左右にはなはだしく片寄って書かれており、
これはいまだ根本妙法蓮華を所持し証得あそばした法界ただ一人の本仏御境界を直ちに顕されず、
釈尊の脱益仏法の範囲に由来する仏勅使としての義を残し給うのであります。


故に、これらの御本尊を未究竟と申し上げるのであり、その代表的な意味で、この時期における当分の化導の意義を顕されたのが、
千葉県保田妙本寺所蔵の通称万年救護、いわゆる文永十一年十二月御所顕の御本尊であります。
この御本尊において、大聖人が文応元年、『立正安国論』の呈上以来、警醒予言あそばされたところの自叛・他逼の二難のうち、自界叛逆は既に起こるも、
残る一難たる他国侵逼の難がまさに十四年目に至って実現し、予言が実証されたことに由来して、まず御自身が上行菩薩の出現であることを顕示せられたのであります。

しかし、いまだ御化導の上の究竟・本懐の時至らざる故に、ひとまず教相上の付嘱の意義による上行菩薩の出現を示し、
外用の上より本尊の顕示をなされたのであります。

 したがって、右御本尊には前に述ぶる如く、最も中心たるべき日蓮御名は小さく右の傍にあり、御花押はこれも小さく左傍に離れ、
妙法即法界の全体を所有あそばされる当体蓮華仏たる御徳を直ちに顕されておりません。
また、これら未究竟の時期の御本尊に通じて拝される東方善徳仏と十方分身諸仏がやはり示されてあることも、
釈尊の文上の仏法の範囲綱格によられたものであります。

その理由は、善徳仏が釈尊の分身以外の余仏であることにより文上の仏身を顕し給うのであります。

 しかるに、弘安以降の御正意の御本尊では、善徳仏と十方分身仏、また、ごく稀に存する胎蔵・金剛両界の大日如来等はことごとく、
一幅の例外もなく削除されております。この正しい理由は、寿量文底本仏が無作三身如来であり、文上有作色形の仏の化導領域を撤廃して、
そのすべてを包摂する法界遍満の内証を示し給うにあります。いわゆる、日輪が出ずればもろもろの星がその光を失う如く、
文底本仏の無限の光明体徳を釈迦・多宝以下、本有の十界互具の相をもって、元初本仏の一念の相貌として示し給うのが内証究竟の御本尊の体相であります。

 しかるに、旧国柱会系の某学者は、その派で推測的に立てる佐渡始顕の本尊に善徳仏等が記してある関係上、この形を御本尊の基本図式であるとし、
弘安以降、善徳仏等が削除されたのは、大聖人が十界の本門の仏像本尊を立てるため、その模式の簡要化を意図されたのであるなどと全く見当違いの謬論を述べております。
これは大聖人の正意の本尊が本門の仏像造立だと執着する造像家の迷見による苦しい会通以外のなにものでもありません。 
以上、要するに、通称万年救護本尊が、いまだ未究竟の領域にあることが明らかであります。

 しかるに、この保田妙本寺の本尊が、他の本尊の如く一定した讃文でなく、特殊な讃文が拝せられるためか、
この御本尊が大聖人の出世の本懐かの如き錯覚を抱いて、種々の迷見を述ぶる雑音が、わずかながら存するようであります。その者どもは、また当然のこととして大聖人の御正意を曲解し、
誹謗に当たる言辞を連ねるに至ります。
したがって、いま、同本尊の讃文の正しい拝し方についても、このさい一言触れておく次第であります。 
その讃文とは「大覚世尊御入滅後二千二百二十余年を経歴す、爾りと雖も月漢日三カ国之間未だ此の大本尊有さず、
或いは知って之を弘めず、或いは之を知らず、我が慈父仏智を以て之を隠し留め末代の為に之を残す、後五百歳之時上行菩薩世に出現して始めて之を弘宣す」と、
首題の右下より真下へ、さらに左下に至るまで長く書き記されてあります。

この御文について文章、文体を強いて曲折し、牽強付会の読み方をもって釈尊に当たる文を大聖人に取り違える者がありますが、
これは過の咎であります。また、上行菩薩出現の文の表面だけを見て、大聖人一期究竟の御化導の内証を信ぜず、
教相に執われる古来の不相伝の者を不及の咎ありというべきであります。

 この御文は、前来述ぶる如く、一往教相上の付嘱の意義を依りどころとし、外用の立場で上行菩薩の出現を宣言あそばす文であります。
故に、その文意とは「大覚世尊」すなわち釈尊が入滅されて二千二百二十余年を経たが、三カ国の間にいまだこの本尊なく、
あるいは人師のなかにこれを知っていても弘めない正師もあり、また知らない者もある。
我が慈父釈尊は、寿量品においてこの大本尊を説き出されたが、上行等の菩薩にのみ付して、その意義に暗い滅後の衆生にはこれを隠し留められ、
特に末法の衆生のためにこれを残されたのである。しかるに、末法後五百歳の時、
上行菩薩が現実にこの世に出現して始めてこれを弘宣するのである、との意であります。
この文におけるかぎりは、このように読むのが正しいと信じます。

 それは、大聖人の内証の本地を御本尊に顕し給う時がいまだ至らざる故に、
釈尊の弟子・上行菩薩たる外用の立場を取り給う故であります。したがって、この文は素直に「我が慈父」と読むのが当然であり、
この慈父とは、この文においては釈尊のこと、すなわち法華本門文上の釈尊を志し給うことが当然であります。
それは、この御本尊がいまだ未究竟の本尊だからであります。

 しかるに、最近、なにやら内証も外用も判らぬ者が物知り顔に、「我が慈父」と読むのは誤りで、
「我れ慈父」と読むべきであり、それは、この慈父とは大聖人が御自身のことを示されたものだと、
まことに珍無類な解釈を行っているとか聞きました。「我が慈父仏智を以て之を隠し留め末代の為に之を残す」の文からしても、
この慈父とは、いったん隠し留めて末代のためにこれを残されたのであるから、直接、末代に出現される方ではあり得ません。
したがって、大聖人が御自身を指されたものでないことは、だれが見ても明らかであります。これは、この文におけるかぎり釈尊のことを示されているのであります。

次に、この本尊の讃文に「此の大本尊云云」とありますが、他のすべての大曼荼羅の讃文には「大曼荼羅」とあるから、
この本尊のみが大聖人の無上・本懐の本尊だという論議も全くの素人の見解であります。大聖人は、すべての御書において御本尊即大曼荼羅、
大曼荼羅即御本尊の義をもってお示しであります。また、日興上人以下の御指南もその如くであります。したがって、
讃文に「大本尊」とあるから、特別の本尊であるなどの理由は全くありません。むしろ、逆に、後に述べる理由によってこの妙本寺の本尊やその模刻の本尊は、
大聖人一期御化導中では未究竟の重であることが明らかであります。

 また、別の解釈では、四大天王の用きは汚れた者を近寄らせぬことで、四天王が存在する本尊は、
当然、一閻浮提総与とならないなどといい、この妙本寺の御本尊に四天王が書かれていないのは、
信・不信を問わず全世界の人に与えた意義を顕すものであるという説に至っては、全く荒唐無稽であります。信・不信を問わずに与えるなどということは、
一閻浮提総与の意義を曲解するもので、大聖人の御法門には存在しません。

 また、この年代の多くの本尊において四天王は書かれていないのであります。これは初期の御図顕を意味し、
当然、未究竟であります。究竟の御本尊には四天王が逆に備わるのであります。
自受用の一身・一念が法界に遍満するなかに、おのずから具わる四天王の妙法および行者守護の用きを示し給うのであります。

 また、『観心本尊抄』の御本尊の相貌を明かされる文をもって例証とし、
妙本寺の御本尊やその彫刻の本尊に鬼子母神、十羅刹女および四悪趣が書かれていないのは、
一閻浮提第一の本尊である証拠の如くいいなしているかのことを聞きますが、これも全く一知半解の粗言であります。

 本尊抄の御本尊の相貌は、妙法蓮華経を御本尊の主体として顕されるところに主意があり、
十界互具の相貌は仏界と菩薩界をもって代表せしめられているのであって、けっして十界の意義がないのではありません。
また、妙本寺の御本尊自体、迦葉、舎利弗、日・月天を顕示せられ、本尊抄の御文とは必ずしも同一ではなく、
したがって、直ちに本尊抄の御本尊相貌の文がその御本尊の根拠とはなり得ません。また、大聖人御本尊中において文永年間にはこの四悪趣を略された本尊は実に多いのであり、
けっして文永十一年十二月の妙本寺の本尊のみではありません。

 大聖人が御本尊において、根本の日蓮の御当体に首題も釈迦・多宝も、ないし十界の聖衆もすべて具わり、
本有の尊形を示し給うことは、一切衆生救済の大慈大悲とその活用を顕し給うのであります。
故に、弘安究竟の本尊においてこそ十界のすべてを顕し給うことを正意とあそばす意義が存するのであります。

したがって、文永十一年七月二十五日の御本尊に「天熱提婆達多」を連ね給うのは、た
だ一幅の例外ですが、弘安二年三月の日目上人へ授与の御本尊より以降に提婆達多を列記し始め給うことは、十界の衆生残りなく救済する大慈大悲の顕発であり、す
なわち、また本門の戒徳が法界に遍満する三大秘法の整足が拝せられるのであります。
故に、文永十一年の妙本寺の御本尊は、この辺からも、かえって十界不具足の未究竟であることが明らかであります。

 次に、妙本寺格護の右御本尊が「仏滅後二千二百二十余年云云」と仏滅讃文について示されるのは、こ
の時期の御本尊として、すなわち弘安元年以前である点において未究竟と拝されるのであります。
これについては詳しく申し上げると長くなりますので省略いたしますが、文永十二年卯月の御本尊に例外的に「仏滅度後二千二百三十余年」とあるのは、
釈尊の迹門の三徳密表寿量の意義を、大聖人がその御内証より観ぜられたからであり、また、弘安元年以降に、こ
の年が大聖人の基本算定で二千二百二十七年以降にもかかわらず、「三十余年」と示された御本尊があるのは、
弘安元年以降に至って、大聖人が本門寿量品の仏身を御自身の文底内証より観ぜられて御本尊を顕されたことを意味し、
そこに究竟の意義があります。

 そこで、また弘安元年以降の御本尊において、特に首題の真下に十界の全体を掌握し給う日蓮の御文字ならびに御判が拝され、
善徳、十方分身等の余仏が除かれ、弘安二年三月以降は、霊山不在の提婆達多までが大慈悲の光明に照らされて本門の釈尊以下、
完全な十界本有の相を表し、特に弘安以後、御判形が整って閻浮提の衆生救済の義を顕され、もって文上教相外用の意義を廃して、
寿量文底の本仏・久遠元初の自受用身の内証を本尊の当体に顕すという、究竟の体相が成就されたのであります。

 これに対し、文永十一年十二月の御本尊は、御化導上の一往の重要な節を表す有意義な御本尊ではあっても、
大聖人の本懐究竟の御本尊でないことは以上述ぶる如くであり、すなわち、内証本懐の究竟を示し給う御本尊の体相としては、
いまだ整っておられないのであります。
したがって、これをさらに模刻した本尊が同様に大聖人の真実・本懐でないことも自明の理であります。

 以上、「本門の釈尊を脇士と為す」との文の元意を概略において述べた次第であります。

次に「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」の文について略して申し述べます。

 一閻浮提第一の本尊とは、大聖人御一代の重要な御書を拝するかぎり、三大秘法を整足せられた意義をもつ本尊であります。
仏像論者は、本門の戒壇とは仏像造立をもって本尊とすることなりと固執しておりますが、大聖人の御正意を相伝の上から拝するとき、
妙法曼荼羅本尊をもって正意とすることが明らかであり、御書の真義もそこに存するのであります。

 ちなみに寸言すれば、三位日順師の『本門心底抄』の文における「仏像を安置することは本尊の図の如し」(富要二―三四n)

とは、師の表白文における本尊観が大曼荼羅本尊の総体即日蓮大聖人との信解であることからも、
また、その著『観心本尊抄見聞』の「聖人は造仏の為の出世には無し本尊を顕んが為なり」(同二―九二n)

との文意からも、仏像とは釈尊の仏像でなく大聖人の御影を志されたことが明らかであります。

 大聖人の御化導は、妙法大曼荼羅本尊の上の三大秘法の整足においてその御正意が確立あそばされるのであります。
そこで、いわゆる本尊については本仏・大聖人の随自意の境智でありますが、戒壇の大事は下種本仏の衆生化導の意義においても明らかな如く、
「一心欲見仏 不自惜身命」の不退転の信者、行者の輩出を待って、初めて本門戒の意義が充実するのであります


 そこで、この「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」との御文は、当然、一期御化導中の未来のある時期を指されたものでありますが、
そこには三つの条件の整備があって初めて、大聖人がその大事を決定され給う深意が存するのであります。

 その第一は、この本尊抄の文の如く自界叛逆・西海侵逼の二難の惹起であります。これは謗法により三災七難興起するという経文の証明であり、
また、不思議な安国論以来の予言の実証であり、また、万代にわたる国家民衆救済の根本理念たる未曾有の大法が出現せんとする現証であります。
故に、大聖人は本尊抄述作時にいまだ起こっていない西海侵逼の難が、未来六、七年にわたって必ず起こるという大確信により、
侵逼の予言とともに本尊建立の予言をあそばしたのであります。

 第二には、大聖人の大慈悲における甚深の御内証を御化導の上に顕さなければならないのでありますが、
その顕示の時期が問題であります。それは万年の御化導のため、方便を捨てて如実に即身成仏の大直道たる御内証を御本尊に顕し給うための御振る舞い・御所作の究竟であり、
したがってまた、御本尊御顕示の充実であります。これは前来述ぶる如く、弘安に入って初めてその御究竟がおわしますのであります。

 第三には、大聖人の所化の僧俗において、経文の「一心欲見仏 不自惜身命」を身に当てて読み、謗法を厳誡し、
閻浮第一の法華経の行者・日蓮大聖人に続く信心修行が現れてこそ、その万年広布、人
類救済のための根本たるべき大本尊の戒壇の意義が明らかとなるのであります。

 そして、建治より弘安にかけて二祖日興上人の直接の指揮による富士南麓の弘教はめざましく、
邪宗の徒の怨嫉するところとなり、ついに弘安二年九月の稲刈りに端を発した熱原の法難が惹起いたしました。
この難において、熱原の烈士三人をはじめ十数人の信徒の示した不自惜身命の信心と行動を深く叡感あそばされ、
その究極の意義を鑑みられた大聖人は、同年十月十二日、本門本尊のなかにおいて特別に事の戒壇の意義をもつ御本尊、
万年の一切衆生救済のため根源の法体たる大本尊を顕されました。以上述ぶる如く、大聖人出世の本懐たる戒壇の本尊は、
以上の三義が事実の上に顕れて初めて究竟し給う本尊であり、一期御化導中の妙中の妙、究竟中の究竟たる御本尊であります。

 さて『観心本尊抄』の「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」とは、
この大本尊を建立して一期の本懐を遂げ給うための予言として、
本尊の正義開顕の重要書たる本尊抄にまず述べおかれたのであります。

 この大御本尊の究極の深意たる凡夫即極・即身成仏の大利益は、妙法当体蓮華の実証として、
今日、日本ないし全世界の人々の真剣な受持信行によって体験され、正法広布の相はいよいよ明らかに現れております。
 日蓮正宗の僧俗は、この大法を護持弘通のため、また邪義破折のため、一層一致団結して精進することが肝要と存じます。
 本日は、これをもって失礼いたします。


■ 
語句

啓蒙  寛永四年(1664)、徳川幕府は、寺社領地は将軍からの敬田供養になることを示し、
これに従わない者は寺領朱印を認めない。没収すると命じたのである。しかし、日講は「守正護国論」を奉行所に提出し、
これに反発したが、寛文六年六月、日講は日向佐土原に配流された。
 日講が佐土原在住のとき、御書の解釈書として著わしたのが『録内啓蒙』三十六巻である。

日講  日蓮宗不受不施派 日奥の流れは二つに別れた。即ち、日奥から岡山妙覚寺系の日樹の流れが日蓮宗不受不施派であり、
同じく日奥から岡山本覚寺系の安国日習・安国日講(1626〜1698)と流れたものが日蓮講門宗(旧名不受不施講門派)である。
どちらも、派祖は日奥であり、「我らこそは日奥の正義を汲む」と称して、不受不施義を称えている。
 寛文九年(1669)三月、徳川幕府は、不受不施寺院の寺請の停止を発令し、不受不施は明治九年四月十日まで約二百年に亘って禁制(法令に禁止されること)となった。
 安国日講は、寛永三年(1626)七月三日、京都に生まれ、十歳のとき、妙覚寺退出の安国日習の室に投じ、出家得度した。
 日講の思想は、一言で言えば、日奥の思想を継承しながらも、更に尖鋭化したものといえる。

周書異記
 
現存しない。内容不詳。古代周の昭王の代に釈迦の誕生を示す瑞相が記されていた。
唐 法琳 辯正論
宋 志盤 仏祖統記 に引用
釈迦入滅には異説あり。

大聖人 周書異記における法上(中国南北朝時代の学僧)の説を用いられる。

正史に記載されていない周代の異聞を記した書。現存しない。


玉井禮一郎

昭和7年生 元創価学会員 日禮と名乗る。妙法蓮華宗の教祖。「猊下」「世尊」と信徒に呼ばせる。


東方善徳仏

東方にいる善徳という名の仏のこと。大乗経典の真実性を保証する仏であり、青経巻では経文は「南無東方善徳仏」から始まる。
仏説観普賢菩薩行法経によると、行者の懺悔の行が進んだ時、多宝仏(多宝如来)が大光明を放ち、
東方やあらゆる世界を照らし出して無数の仏が真金の色に見えるとされる。そして東方の空中より「ここに善徳という名の仏と無数の分身の諸仏がいます」という声が響くとされる。
そしてその無数の仏が誉め称えながら「あなたはよく大乗経典を読みました。あなたが読んだその教えは仏の境地なのです」と述べるとある。
また同じく仏説観普賢菩薩行法経で、懺悔の行の一つとして「南無東方善徳仏及び分身諸仏」と唱えてあらゆる仏に礼拝せよ、と説かれている。

虚空不動慧

虚空のように無量無辺で不動なる智慧。「慧」は照明の義で、煩悩を断破し、一切の諸法を照らし、妙理を明らかにする働き。
日興上人は三大秘法に配す。虚空不動慧、三世諸仏の無量無辺の智慧といえども、一遍の題目を受持することに尽きる。

   第十六 是名持戒(ぜみょうじかい)の事
 御義口伝に云はく、此の経文にて三学倶伝(さんがくぐでん)するなり。虚空不動戒(こくうふどうかい)・虚空不動定(じょう)・虚空不動慧(え)、
三学倶(とも)に伝ふるを名づけて妙法と曰ふと。戒とは色法なり、定とは心法なり、慧とは色心二法の振る舞ひなり、
倶の字は南無妙法蓮華経の一念三千なり、伝とは末法万年を指すなり。今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉り、権経は無得道、法華経は真実と修行する、
是は戒なり、防非止悪(ぼうひしあく)の義なり。持つ所の行者決定無有疑(けつじょうむうぎ)の仏体と定む、是は定なり。
三世の諸仏の智慧を一返の題目に受持する、是は慧なり。此の三学は皮肉骨・三身・三諦・三軌・三智等なり。

戒体

戒の働きをする本体。則ち戒を受けた人の生命に収まって防非止悪の働きをするものをいう。善心を起こすことは心性に無作本有の戒体がある故であり、
その結果として仮色(形が無く場所も占有することもないが受戒を縁として身中に生ずる考えるもの)の戒体が成就する。
則ち 善心・心性・色法の三戒体が円融相即するの円頓の戒体という。文底仏法では受持の一行によって円頓の戒体が備わるとする。

此土の
六瑞 /他土の六瑞
(しどのろくずい)

妙法蓮華経序品第一 には、佛を供養するときに起こる超常現象や、佛から放たれる超常現象のことが
書かれています。それを此土の六瑞、他土の六瑞 といいます。

経典では、釈迦が『法華経』を説法されるときに現れた現象を説明します。
それについて、弥勒菩薩が疑問を問い、文殊菩薩がそれに答える形式をとっています。

此土の六瑞
1.説法瑞、 2.入定瑞、3.雨華瑞、4.地動瑞、5.衆喜瑞、6.放光瑞

他土の六瑞
1.見六趣瑞、 2.見諸佛瑞、3.聞諸佛説法瑞、4.見四衆得道瑞、5.見菩薩修行瑞、6.見諸佛涅槃瑞

此土六瑞・・・此土六瑞(しどろくずい) 此土とはこの世のことで、娑婆世界をさす。
        瑞とは、めでたいことの起こるきざし。釈尊が法華経を説かれる前に、
        この世に素晴らしい6つの前兆が現れたことを言う。

@説法瑞  釈尊が説法をされた。
A入定瑞 心を一つの対象に集中させて動揺を静めて平穏に安定させること。心の散乱を静めた瞑想の境地。『法華経』を説かれる前にそのような境地に入られる瑞相があらわれた。
B雨華瑞 『法華経』が説かれる前に花が雨(ふ)ってくる瑞相があらわれた。めでたいしるしとして天から雨り、見る者の心を悦ばせるという。諸天が仏徳を讃歎して四華を散花する記事は諸経典に見える。法要中に散華といって花びらに似せた紙を散じることは、このことをあらわしている。
C地動瑞 『法華経』が説かれる前に、瑞相として普(あまね)く仏の世界の地面が揺れた。
D衆喜瑞 その場にいたものたちが瑞相を喜んで一心に仏をみること。
E放光瑞 釈尊の眉間から光が放たれ、東方一万八千の世界を普く照らし、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道の世界を映しだした。


他土六瑞・・・他土六瑞(たどろくずい) 他土とは直前の放光瑞で照らされた東方一万八千の世界。
その世界の六つのめでたい出来事の前兆が釈尊の眉間から映し出された。

@見六趣瑞 その世界の六つのめでたい出来事の前兆が釈尊の眉間から映し出された。
A見諸仏瑞 諸仏を見る瑞
B聞諸仏説法瑞 諸仏の説法を聞く瑞
C見四衆得道瑞 諸の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の諸の修行し得道する者を見
D見行瑞  菩薩摩訶薩の種々の因縁・種々の信解・種々の相猊あって菩薩の道を行ずるを見
E見帰涅槃瑞  諸仏の般涅槃したもう者を見、諸仏般涅槃の後、仏舎利を以て七宝塔を起つるを見る


 ぎょうぽうぽんじ(楽法梵志) 
釈迦仏が過去世で菩薩道を修行した時の名.大智度論巻四十九にある.楽法ともいう.
楽法は妙法をわが楽い求める,梵志ほ梵天の法を求める意.
大智度論には,楽法が菩薩道を修右中,仏にあえず,四方に法を求めて得られなかった時,
バラモンに変じた魔が,身の皮を紙とし,骨を筆となし,血をもって墨として書写するならば,仏の一偈を教えようといった.
楽法は即時に自らの皮を剥ぎ,それをさらし乾かしてその偈を書写しようとした.
すると,魔はたちまちに消え,この時,この楽法の求道の心を知り,下方からあらわれた仏が深い法門を説き,こ
れを聞いた楽法ほ無生法忍を得ることができたとある.

大白法・平成20年6月16日刊(第743号より転載)教学用語解説(125)
 
 十四誹謗とは、法華経『譬(ひ)喩(ゆ)品(ほん)第三』の偈(げ)文を妙楽大師が法華文句記に釈(しゃく)されたもので、
正法に対する十四種の誹(そし)りをいいます。
 釈(しゃく)尊(そん)は『譬喩品』において、舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)に対し法華経は深い智慧(ちえ)のある者のために説くのであり、
浅い智慧の者はこれを聞いても迷って理解することができないと説かれました。
 そして、智慧第一の舎利弗でさえ、法華経をただ信ずることによって悟(さと)りを得た(以(い)信(しん)得(とく)入(にゅう))のであり、
自分の智慧で法華経を悟るのではないと、信の大事を示されました。
 
十四誹謗の依(い)拠(きょ)

 そしてさらに、
「又舎利弗 ?(きょう)慢(まん)懈(け)怠(だい) 我見を計(け)する者には 
此(こ)の経を説くこと莫(なか)れ凡(ぼん)夫(ぷ)の浅識(せんしき) 深く五欲に著(じゃく)せるは聞くとも解(げ)すること能(あた)わじ亦為(またため)に説くこと勿(なか)れ若(も)し人信ぜずして 
此の経を毀(き)謗(ほう)せば 則(すなわ)ち一切 世間の仏種を断ぜん 或(あるい)は復(また)?(ひん)蹙(じゅく)して疑惑を懐(いだ)かん 
汝(なんじ)当(まさ)に 此の人の罪報を説くを聴(き)くべし 若しは仏の在世 若しは滅(めつ)度(ど)の後に 其(そ)れ斯(かく)の如(ごと)き経(きょう)典(でん)を 
誹(ひ)謗(ぼう)すること有らん経を読誦(どくじゅ)し 書持すること有らん者を見て 軽(きょう)賤(せん)憎(ぞう)嫉(しつ)して 而(しか)も結恨(けっこん)を懐かん 
此の人の罪報を 汝今復聴け 其の人命(みょう)終(じゅう)して 阿(あ)鼻(び)獄(ごく)に入らん」(法華経一七五頁)
と説かれ、慢心があり、怠(たい)惰(だ)で我見に執(しゅう)する者は、智慧が浅はかで欲望に満ちているため、法華経を説示しても理解できず、
信じることもできず、誹謗してしまうこと等によって、かえって地獄に堕(お)ちてしまうのであり、慈悲(じひ)の上から、
このような無智の者たちには法華経を説くべきではないと示されました。
 妙楽大師は、この堕獄の悪因を十四種の謗法として法華文句記に釈されたのです。
 
末法の修行における十四誹謗

 日蓮大聖人は『松野殿御返事』の中に、
「有る人此を分かって云(い)はく、先に悪因を列(つら)ね、次に悪果を列ぬ。悪の因に十四あり。一に?(きょう)慢(まん)・
二に懈(け)怠(だい)・三に計我(けが)・四に浅識(せんしき)・五に著(じゃく)欲(よく)・六に不解(ふげ)・七に不信・八に顰(ひん)蹙(じゅく)・九に疑惑・
十に誹謗・十一に軽(きょう)善(ぜん)・十二に憎善(ぞうぜん)・十三に嫉善(しつぜん)・十四に恨善(こんぜん)なり」(御書一〇四六頁)
と、妙楽大師の釈を引いて十四誹謗の名目を挙(あ)げられ、私たち末法の衆生が法華経を修行するに当たって誡(いまし)めるべき謗法を示されました。
 大聖人は、松野殿から、大聖人の唱える題目と凡夫が唱える題目の功(く)徳(どく)の勝(しょう)劣(れつ)を問われた答えとして、「其の差別なきなり」と、
その功徳に勝劣はないと述べられた後、しかし、「此の経(法華経)の心に背(そむ)」いて唱えるならば、そこに差別はあると示されました。
 そして、法華経の心に背く、具体的な正法誹謗の姿として、妙楽の釈を引用し、訓(くん)誡(かい)を示されたのです。
 十四誹謗を略説すると、

一に?慢とは、正法に対して驕(おご)りあなどること。
二に懈怠とは、仏道修行を怠(おこた)ること。
三に計我とは、正法を自己の考えで推(お)し量(はか)り我見に執着すること。
四に浅識とは、正法を自己の浅い知識で判断し、より深く求めないこと。
五に著欲とは、欲望に執着して正法を求めないこと。
六に不解とは、正法を理解しようとしないこと。
七に不信とは正法を信じないこと。
八に顰蹙とは正法に対して顔をしかめ非難すること。
九に疑惑とは、正法を疑い惑(まど)うこと。
十に誹謗とは、正法を誹ること。
十一に軽善とは、正法を信受する者を軽蔑(けいべつ)すること。
十二に憎善とは、正法を信受する者を憎(にく)むこと。
十三に嫉善とは、正法を信受する者を嫉(ねた)むこと。
十四に恨善とは、正法を信受する者を恨(うら)むこと

をいいます。
 この十四誹謗を犯した者の罪報は、『譬喩品』に、
「常に地獄に処(しょ)すること 園観(おんかん)に遊ぶが如(ごと)く 余の悪道に在(あ)ること 己(おの)が舎宅(しゃたく)の如(ごと)く」(法華経一八〇頁)
とあるように、常に地獄等の悪道の罪報を受けることになり、仮に人間界に生命を受けたとしても、
物質的困(こん)窮(きゅう)、病気などの報いを受け、永く不幸を招(まね)くことが説かれています。
 また、大聖人は先の『松野殿御返事』に、
「此の十四誹謗は在家出家に亘(わた)るべし、恐るべし恐るべし」(御書一〇四六頁)
と、十四誹謗は僧俗共に通じる謗法であると厳(きび)しく誡められ、さらに過去の不(ふ)軽(きょう)菩(ぼ)薩(さつ)の礼(らい)拝(はい)行(ぎょう)を挙げられて、
法華経(三大秘法の御本尊)を持(たも)つ者をお互いに謗(そし)ってはいけない。その理由は、法華経(御本尊)を持つ者は皆、
本来、仏である。その仏を謗れば罪を得る。このように心得て唱える題目の功徳は仏の唱える題目と等しいと御指南されたのです。
 僧侶と信徒、またはそれぞれの間で、ややもするとお互いの悪口を言ったり、軽蔑したり、時には恨んだりしてしまうことがあるかもしれません。
もし、十四誹謗の心があるならば、御本尊の功徳を自ら破るばかりか、この悪因によって、破(は)和(わ)合(ごう)僧(そう)が生じ、ひいては広(こう)宣(せん)流(る)布(ふ)の妨(さまた)げともなってしまうのです。
 特に『念仏無間地獄抄』に、
「譬喩品十四誹謗も不信を以て体と為せり」(同 三九頁)
とあるように、不信謗法こそ十四誹謗の根本です。即(すなわ)ち、御本尊を心底から信ずるならば、自らの十四誹謗を打ち破り、
他に紛動(ふんどう)されない成仏の境界を開くことができます。
 
ま と め

 私たちは本門戒壇の大御本尊が、唯一絶対の正法であると深く信じ、大聖人の弟子檀那としてお互いを心から尊敬し合い、
誰もが御本尊のもとに、成仏を遂げていく尊い命を持った同志であることを確信し、常に十四誹謗を誡めて正直に信心に励み、広宣流布に向かって異体同心していくことが肝要なのです。