007 戒壇の大御本尊の"科学的鑑定"とやらについて
投稿者:管理人(樋田昌志)メール
 投稿日:2011年 9月20日(火)15時04分

戒壇の大御本尊の"科学的鑑定"とやらについて

▼ 「宗門は戒壇の大御本尊をなぜ科学的鑑定しないのか?
それは戒壇の大御本尊が偽作であることがばれてしまうからではないか?
それが怖くて宗門では科学的鑑定ができないのだ!」

と嘯く者達は、逆に言えば「科学的な鑑定が出れば信じる。」ということであるはずである。

しかし、"科学的鑑定"と一概に言っても、研究者によって判定結果は一様ではないのである。

それでは一体、どういう立場の、どのような人間なり機関の科学鑑定を採用するというのか?

その"鑑定結果"とやらはどこまで信用できるものなのか?

その鑑定結果が「絶対に真正である。」などということをどう証明できるのか?・・・ 

という類の疑念はどこまでもつきまとうものである。

こういう邪難を言い張る輩は、恐らくは、誰がどのような鑑定結果を出そうが、結局は
「やっぱり疑わしい!」と延々と難癖を吹っかけ続けるのである。

そういう人間達は結局は、「やっり戒壇の大御本尊はニセモノでした!」という
"科学的検証による発表"しか素直に受け入れないのである。

では、このように問難する者達は、
"日蓮大聖人が末法の御本仏である"
ということは信じているのであろうか?

日蓮大聖人が末法の御本仏であることを信じていない種類の人間達は、
そもそも、戒壇の大御本尊の真偽については無関心であろう。

戒壇の大御本尊の真偽を云云する者達は、
一応は日蓮大聖人が末法の本仏であることを前提としているはずである。

では、その連中に問うが、日蓮大聖人が末法の御本仏であることをどうやって検証しているのか?

"科学的鑑定"はあるのか?

文献的に、あるいは歴史学的に、万人が納得できるように客観的に証明されているのか?

あったら見せていただきたいものである。

■三大秘法稟承事 弘安五年四月八日 六一歳 1595

此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)、地涌千界の上首として、
日蓮慥かに教主大覚世尊より口決(くけつ)せし相承(そうじょう)なり。
今日蓮が所行は霊鷲山(りょうじゅせん)の稟承に介爾(けに)計りの相違なき、
色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり。


日蓮大聖人が約二千年以上前に、大地を割って涌き出でた地涌の菩薩という方々の、
その一番の上首であり、釈迦如来から直に御自分一人だけに口伝相承されたその正体が、
南無妙法蓮華経の文字曼荼羅御本尊である。

しかも、鎌倉時代の日蓮大聖人の御振る舞いは、
この約二千年前にインドの霊鷲山という名の山頂で(というか、虚空で)口伝された内容に全く相違ない。

という、この有名な御文が真実であるということの"科学的証明"はできるのか?

"証明"されたから、日蓮大聖人を信じているのか?

そうではあるまい。

そもそも、法華経に説かれるこの虚空会の儀式すら、実際に起こったリアルな現実としたら、
どう"科学的に証明"するのか?

「科学的に証明できなければ信じない。」とすれば、この時点で、
最早、日蓮大聖人を信じる根拠はどこにもないはずである。

にもかかわらず邪妄者は何を根拠に日蓮大聖人を信じ得るのか?

そもそも法華経自体が、当然であるが、釈尊の"直筆"ではないのである。

法華経が釈尊の直説である。と科学的に証明されているのか?
(事実、大乗非仏説を唱える者達は阿含部以外は釈尊の直説とは認めていない。
しかしこれは今は本論の論筋ではないので論及はしない))

また更に踏み込めば、「釈尊が"仏"である」ということを"科学的に立証"できるのか?

そもそも"仏"という存在は科学で解明できるもののか?・・・

結局、我々は、道理と文証、そして様々な
"個人的かつ主観的な現証の積み重ね=宗教的体験"
によって、仏教を、釈尊を、そして日蓮大聖人を信じているのである。

ここでいう「道理」も「文証」も、今の自然科学の研究対象では証明しきれない分野も含んでいるのである。

そういう不可思議・未知の分野も踏まえた上で、仏教を信仰しているのである。

つまり、自然科学的解明出来ない領域も踏まえた上で、
鎌倉時代の実在した一僧侶である「日蓮」を「本仏・大聖人」として信じているのである。

その立場の者が、
既に論証してきたように、道理・証文顕然である
「弘安二年の大御本尊」
=「本門戒壇」と銘のある「弘安二年十月十二日御建立の戒壇の大御本尊」
に関してだけは執拗に、あたかも変質者のように、
「科学鑑定せよ!」と騒ぐのは、まさに自己矛盾している。

一方で日蓮大聖人を"明確な科学的証拠もなし"に、いわゆる道理と文証と、
人によっては、個々人の主観的経験の範疇である"現証"の累積によって「本仏」と信じ、
そのもう一方では、
道理・文証・現証(現存する"戒壇の大御本尊"しか
「本門戒壇」たるべき直筆御本尊が存在しない。)の三証顕然である
「戒壇の大御本尊
に対しては、「科学鑑定して公表せよ!」
と声高に嘯くのは、全く矛盾しているではないか。
その偏向した姿勢こそが「科学的」でないのである。

一定の基準を公平・平等に運用できず、
対象によって自分の都合で恣意的にまちまちの基準で対応している、
その自己矛盾に全く気がつかない者達を総称して
「頭破作七分」と言うのである。

あるいは故意にそのような二重基準を使い分けているとすれば、
それは悪辣で姑息な卑劣漢である。

またこれらの頭破作七分の者達の言動に乗せられて、
純粋な信仰の道筋を失う者達を「信行不具足」「法門未熟」と言うのである。

このような邪難を為す者はえてして、
日々の真面目な勤行・唱題・地道な折伏・寺院参詣・総本山参詣を疎かにしている者が多い。

大聖人の仏法は理論や観念だけで絶対に体得できないから、
日々真面目に信仰の基本的修行に取り組んでいない者は、
直ぐにこのような自己矛盾に満ちた頭破作七分の邪難に引っかかって疑念を生じ、退転してしまうのである。

例えて言えば、空手の世界で、基礎的訓練をろくにせずに、
いくら流派の奥義書を朝から晩まで読んでみたところで何の力にもならない。
試合をすれば即行、秒殺である。

しかし、日々基礎的な修行を積み重ねている者が師範の指導を素直に実践し、
かつまた奥義書を読むと、その知識を実際に活用できるのである。

信心の世界も同様である。

仏教とは、総じて言えば「即身成仏=凡夫が仏の境涯を開く」などという、
『科学的に証明できない"現証"』を実際に体得しようとする世界であるから、
本仏日蓮大聖人が定められた基本的な修行を疎かにしている者には絶対に分かり得ないのである。

今、戒壇の大御本尊へ疑難を為す者たちは、
まさに斯様な、真の実力が伴わないくせに、理論だけで試合に出るような者達である。

凡夫が仏になるためには

■ 信は道の源、功徳の母と云へり。(念仏無間地獄抄 建長七年三四歳 38)

■ 夫(それ)仏道に入る根本は信をもて本とす。(法華経題目抄 文永三年一月六日 四五歳 353)

という仏道の世界において、「疑い」という成仏の最大の妨げである、魔に即行・秒殺されてしまうのである。

ここでいう「信」とは妄信ではない。
あくまで道理・文証・現証の三証に依って裏付けられた厳然とした事実に対しての「信」である。
(だからといってそれは既述のごとく、現時の”自然科学的検証”で誰が検証しようと、完璧に証明しきれるものではないのである。)

その成仏の要諦である、正しい三証に依って裏付けられた戒壇の大御本尊に対する「信」が生じない、過去世からの悪因縁の輩達・・・・

まずは永久に”科学的に真偽を証明され得ない”「経文」に照らし、自らの悪業の深さを自省してみる必要があるのではないか?