003 大聖人の御化導の究竟するところは御一幅の文字曼荼羅御本尊へ終結することを論ずA
投稿者:管理人(樋田昌志)メール  投稿日:2011年 9月13日(火)13時01分40秒
   


大聖人の御化導が究竟するところが、ある御一幅の文字曼荼羅本尊へ帰結するという論証。

つづき

■  日興が云はく、此の御筆の御本尊は是(これ)一閻浮提に未だ流布せず、
正像末に未だ弘通せざる本尊なり。

然れば則ち日
興門徒の所持の輩に於ては、左右無く子孫等にも譲り弟子等にも付嘱すべからず。
同一所に安置し奉り、六人一同に守護し奉るべ
し。

是偏(ひとえ)に広宣流布の時、本化国王御尋ね有らん期(とき)まで深く敬重し奉るべし。
(富士一跡門徒存知事 延慶二
年 1872)

これは、「門徒僧俗各自が大聖人から賜った御真筆の御本尊は、同一所に安置し、
六老僧が中心となって、広宣流布の暁まで守護
し続けなさい。」
との意である。

■ 霊山浄土(りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。
時を待つべきのみ。事の戒法と申すは
是なり。(三大秘法稟承事 弘安五年四月八日 六一歳 1595)

■ 国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。
時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。(
日蓮一期弘法付嘱書 弘安五年九月 六一歳 1675)
(※二箇相承が真性文書であったことについては別項で論じる)

まず、この両文から、広宣流布が達成するまでは、「本門寺の戒壇」は建立されない。ということが分る。

■  一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。
(日興跡条々事 元弘
二年一一月一〇日 1883)(※該書が真性の文書であることは別項で論じる)

■ 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり。
(具騰本種正法実義本迹勝劣正伝(百六箇抄)弘安三年一月一一日 五九
歳 1699)
(※百六箇抄の義が大聖人の真性正意であることは別項で論じる)

次に、この両文から"日興上人が大聖人から賜った弘安二年の大御本尊"を広宣流布達成の暁に建立する"本門寺の本堂"に御奉掲し安置せよ。
との御意が拝せられる。

以上の文義を合わせ考察すれば、
日興上人の御身に賜った弘安二年の大御本尊(御一体の御本尊)は、広宣流布達成の時を待って、
その達成時に、富士山本門寺の
本堂に御奉掲され安置される。
その時こそが三大秘法の事相における戒壇建立(成就)の時である。

そして、その他の僧俗各自が大聖人から賜った大聖人御真筆本尊は、日興上人の時代から同一所に安置して、
六老僧を中心にこの
広宣流布達成の時まで厳重に守護していきなさい。
という意義となる。

ここに時間・場所・に大きな差異があるのである。

@ 『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊』は『広宣流布達成時』に『富士山本門寺本堂』へ御奉掲し安置。
A 『その他の日興門徒所持の御真筆御本尊』は、『日興上人時代』から『同一箇所』に安置し、守護。

ここに明確に、日興上人が賜った弘安二年の大御本尊とその他の御本尊との縦分けがされている。
(附言しておけば、まさか広宣流布達成時、富士山本門寺本堂に数百体の御本尊が常時同格に並立されて御奉掲
・御安置される化
儀はあり得ない。
(御虫払い法要は意義が違うことぐらい説明の必要は無かろう))
ということは、
富士山本門寺本堂に奉掲安置される御本尊は、御一体であり、
その御本尊は、日興上人のみに付嘱・相伝された、
『弘安二年の大御本尊』以外にはない。ということになる。

それは細かく見れば、更に明白で、

@ 日興上人に賜った『弘安二年の大御本尊』は、『日目に之を相伝す。』とあり、
A その他の『日興門徒の所持』の御本尊は、『左右無く子孫等にも譲り弟子等にも付嘱すべからず。』とあるから、

真逆の御指南である。

ここで、付嘱・相続・相伝の在り方についてもその差を、明確に一線引かれておられる。

以上、簡略に考察してみても、大聖人の御化導の終窮究竟の目的である広宣流布達成。
その暁に建立する富士山本門寺本堂へ御奉掲・御安置するのは『日興に相伝・付嘱された弘安二年の大御本尊』御一幅である。
この『弘安二年の大御本尊』こそが大聖人の『出世の本懐中の御本懐』であることは、文義明白である。

つづく