002 大聖人の御化導の究竟するところは御一幅の文字曼荼羅御本尊へ終結することを論ず@
投稿者:管理人(樋田昌志) 投稿日:2011年
9月13日(火)07時49分1秒
戒壇の大御本尊を否定する者は、そもそも、大聖人御一期の教導の次第が全く分って無いのである。
大聖人の御化導が究竟するところは、一幅の十界文字曼荼羅となるのである。
この大原則が領解できてないから、妄見が始まるのである。
■ あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづ(譲)る事なかれ。信心強盛の者に非ずん
ば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり。(阿仏房御書 永一二年三月一三日 五四歳 793)
これは、大聖人の出世の本懐は、造仏ではなく、十界文字曼荼羅本尊である、との意である。
そもそも、この一文において、造仏指向の他宗他門は全て大聖人の御真意を体してないと断ずることが出来るのである。
(つまり、一尊四士・二尊四士などを立てる全ての他宗派である。一般日蓮宗系・要法寺系など)
では大聖人御真筆の文字曼荼羅本尊であればどの御本尊でも出世の本懐なのか?
実はそうではないのである。
■ 此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為(な)す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。
(如来滅後五五百歳始観心本尊抄 文永一〇年四月二五日 五二歳 661)
"一閻浮提第一の本尊"とは文字通り、「ただ御一幅の本尊」ということである。
"第一"とは二もなく三もなし。との意である。
この類文は繁多である。
■ 本尊とは勝れたるを用ふべし。(本尊問答抄 弘安元年九月 五七歳 1275)
これは、最極・最勝・最尊の本尊を用いなさい。ということである。
"最も勝れている"ということはただ御一体の御本尊のことである。
常識から言っても、最も勝れているものが二つ以上在る道理はない。
■ 本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(就註法華経口伝(御義口伝)1773)
法華経の行者・日蓮大聖人は、当然至極であるが、ただお一人であられた。
まさに"一身"である。
で、その"一身の当体"=本尊であるから、根本の本尊とはただ御一幅であるということである。
「本尊」である法華経の行者・日蓮大聖人が二人も三人も居られる筈はない。
しかも、この御文は、本尊は「人法一箇」であることを明示されておられる。
であるから本尊にはこの「人法一箇」の義が整則していなくてはならないことが自ずと知れるのである。
その人法一箇の義が体相に顕示されている御本尊こそが、"一身の当体"である根本の本尊ということである。
(この件に関しては、御本尊の体相・御相貌に関しての考察の項で詳述する)
■ 諸宗は本尊にまどえり(開目抄上 文永九年二月 五一歳 554)
逆に論ずれば、根本とする本尊が複数以上あると思うから惑うのである。
根本の本尊はただ御一幅。と明確に決判されていれば、絶対に惑うことはない。
大聖人が後の門人達が惑うような曖昧な御化導されるはずがないのである。
(それでも迷見の者どもは、根本の本尊に惑って、妙本寺がごとくの未究竟の万年救護本尊などに妄執する輩も出る始末であるが。)