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    兵衛志殿御返事(※日昭の甥・宗長)  建治三年一一月二〇日  五六歳   諌暁書 御真蹟 京都・妙覚寺 外一ヶ所

 かたがたのもの、ふ(夫)二人をもってをくりたびて候。その心ざし弁殿の御ふみに申すげに候。(※先に送った日昭からの手紙(代筆を命じられたか)に書いておいたことの通りです)
さてはなによりも御ために第一の大事を申し候なり。

 正法像法の時は世もいまだをとろ(衰)へず、聖人・賢人もつヾき生まれ候ひき。天も人をまぼ(守)り給ひき。
末法になり候へば、人のとんよく(貪欲)やうやくすぎ候ひて、主と臣と親と子と兄と弟と諍論(じょうろん)ひまなし。まして他人は申すに及ばず。
これによりて天もその国をすつれば、三災七難乃至一二三四五六七の日い(出)でて、草木か(枯)れう(失)せ、小大河もつ(尽)き、大地はすみ(炭)のごとくをこり、大海はあぶら(油)のごとくになり、けっくは無間地獄(むけんじごく)より炎いでて上梵天(ぼんてん)まで火炎充満すべし。
これてい(是体)の事いでんとて、やうやく世間はをとろ(衰)へ候なり。

 皆人のをもひて候は、父には子したがひ、臣は君にかなひ、弟子は師にゐ(違)すべからずと云云。かしこき人もいやしき者もしれる事なり。
しかれども貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡(ぐち)と申すさけ(酒)にゑ(酔)ひて、主に敵し、親をかろしめ、師をあなづ(侮)る、つねにみへて候。

但師と主と親とに随ひてあしき事を諫(いさ)めば孝養となる事は、さきの御ふみにかきつけて候ひしかば、つねに御らむあるべし。

 たヾしこのたびゑもんの(右衛門)志(さかん)どの(殿)かさねて親のかんだう(勘当)あり。
とのヽ御前にこれにて申せしがごとく、

「一定かんだうあるべし、ひゃうへの(兵衛)志殿をぼつかなし、ごぜん(御前)かまへて御心へ(得)あるべし」

と申して候ひしなり。

今度はとの(殿)は一定を(落)ち給ひぬとをぼ(覚)うるなり。をち給はんをいかにと申す事はゆめゆめ候はず。但地獄にて日蓮をうらみ給ふ事なかれ。しり候まじきなり。

千年のかるかや(苅茅)(※千年も建っている茅葺(かやぶき)の立派な家・建造物)
も一時にはひ(灰)となる。
百年の功も一言にやぶれ候は法のことわり(理)なり。

さゑもんの大夫殿(※父・作事奉行・池上左衛門大夫康光
は今度法華経のかたきになりさだ(定)まり給ふとみへて候。
ゑもんのたいうの志殿(兄・宗仲)は今度法華経の行者になり候はんずらん。
とのは現前の計(はか)らひなれば親につき給はんずらむ。ものぐる(物狂)わしき人々はこれをほめ候べし。

宗盛(むねもり)が親父(おや)入道の悪事に随ひてしのわら(篠原)にて頚を切られし、重盛(しげもり)が随はずして先に死せし、いづれか親の孝人なる。

法華経のかたきになる親に随ひて、一乗の行者なる兄をす(捨)てば、親の孝養となりなんや。
せんずるところ、ひとすぢにをも(思)ひ切って、兄と同じく仏道をなり給へ。

親父は妙荘厳王(みょうしょうごんのう)のごとし、兄弟は浄蔵・浄眼なるべし。
昔と今はかわるとも、法華経のことわりたが(違)うべからず。

 当時も武蔵の入道そこばくの所領所従等をすてヽ遁世(とんせい)あり。(※執権の北条時頼ですら、三十歳で家督を嫡子・時宗に与え、多大な所領や家来を譲った)
ましてわどの(和殿)ばらがわづ(僅)かの事をへつらひて、心うすくて悪道に堕ちて日蓮うらみさせ給ふな。

かへすがへす今度との(殿)は堕つべしとをぼうるなり。
此程の心ざしありつるが、ひきかへて悪道に堕ち給はん事がふびん(不便)なれば申すなり。
百に一つ、千に一つも日蓮が義につ(付)かんとをぼさば、親に向かっていゐ切り給へ。
親なればいかにも順(したが)ひまいらせ候べきが、法華経の御かたきになり給へば、つきまいらせては不孝の身となりぬべく候へば、す(捨)てまいらせて兄につき候なり。
「兄にすてられ候わば兄と一同とをぼすべし」と申し切り給へ。すこしもをそるヽ心なかれ。
 過去遠々劫より法華経を信ぜしかども、仏にならぬ事これなり。

しを(潮)のひ(干)るとみ(満)つと、月の出づるといると、夏と秋と、冬と春とのさかひには必ず相違する事あり。
凡夫の仏になる又かくのごとし。必ず三障四魔と申す障(さわ)りいできたれば、賢者はよろこび、愚者は退くこれなり。

此の事はわざ(態)とも申し、又びんぎ(便宜)にとをもひつるに、御使ひにありがたし。
堕ち給ふならばよもこの御使ひはあらじとをもひ候へば、もしやと申すなり。

 仏になり候事は此の須弥山(しゅみせん)にはり(針)をたてヽ彼の須弥山よりいと(糸)をはなちて、そのいとのす(直)ぐにわた(渡)りて、はりのあな(穴)に入るよりもかたし。いわう(況)やさか(逆)さまに大風のふきむかへたらんは、いよいよかた(難)き事ぞかし。

経に云はく

「億々万劫より不可議に至って、時に乃(いま)し是の法華経を聞くことを得。億々万劫より不可議に至って、諸仏世尊時に是の経を説きたまふ。是の故に行者仏の滅後に於て是くの如き経を聞いて疑惑を生ずること勿(なか)れ」等云云。

此の経文は法華経二十八品の中にことにめづ(珍)らし。
序品より法師品にいたるまでは等覚已下人天・四衆(※比丘(びく)・比丘尼(びくに)・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)。 )
八部(ぶ)そのかず(数)ありしかども、仏は但釈迦如来一仏なり。
重くてかろ(軽)きへんもあり。
宝塔品(ほうとうほん)より嘱累品(ぞくるいほん)にいたるまでの十二品は殊に重きが中の重きなり。
其の故は釈迦仏の御前に多宝の宝塔涌現(ゆげん)せり。
月の前に日の出でたるがごとし。(※ 迹仏と本仏の暗喩では?)
又十方の諸仏は樹下に御は(座)します。十方世界の草木の上に火をともせるがごとし。此の御前にてせん(選)せられたる文なり。

 涅槃経に云はく

「昔無数(むしゅ)無量劫より来(このかた)常に苦悩を受く。一々の衆生一劫の中に積む所の身の骨は王舍城の毘富羅(びふら)山の如く、飲む所の乳汁(ちち)は四海の水の如く、身より出だす所の血は四海の水よりも多く、父母兄弟妻子眷属の命終に哭泣(こくきゅう)して出だす所の目涙(なみだ)は四大海より多く、地の草木を尽して四寸の籌(かずとり)となし、以て父母を数ふるも亦(また)尽すこと能(あた)はじ」云云。

此の経文は仏最後に双林の本(もと)に臥(ふ)してかたり給ひし御言なり。もっとも心をとヾむべし。

無量劫より已来(このかた)生むところの父母は、十方世界の大地の草木を四寸に切りて、あ(充)てかぞ(算)うとも、たるべからずと申す経文なり。
此等の父母にはあ(値)ひしかども、法華経にはいまだあわず。
されば父母はまう(儲)けやす(易)し、法華経はあひがたし。
今度あひやすき父母のことばをそむ(背)きて、あひがたき法華経のとも(友)にはな(離)れずば、我が身仏になるのみならず、そむきしをや(親)をもみちび(導)きなん。
例せば悉達太子(しったたいし)は浄飯王(じょうぼんのう)の嫡子なり。
国をもゆづり位にもつけんとをぼして、すでに御位につけまいらせたりしを、御心をやぶりて夜中城をにげ出でさせ給ひしかば、不孝の者なりとうら(恨)みさせ給ひしかども、仏にならせ給ひてはまづ浄飯王・摩耶(まや)夫人をこそみちびかせ給ひしか。

をや(親)というをやの「世をすてヽ仏になれ」と申すをやは一人もなきなり。

 これはとによ(寄)せかくによせて、わどの(和殿)ばらを持斎・念仏者等がつくりを(堕)とさんために、をや(親)をすヽめをとすなり。
両火房は百万反の念仏をすヽめて人々の内をせ(塞)きて、法華経のたね(種)をたヽんとはか(謀)るときくなり。

極楽寺殿はいみじかりし人ぞかし。
念仏者等にたぼらかされて日蓮をあだませ給ひしかば、我が身といゐ其の一門皆ほろびさせ給ふ。
たヾいまはへちご(越後)の守(かみ)殿一人計りなり。
両火房を御信用ある人はいみじきと御らむ(覧)あるか。(@良い・素晴らしい Aひどい・恐ろしい)

なごへ(名越)の一門の善覚寺・長楽寺・大仏殿立てさせ給ひて其の一門のな(成)らせ給ふ事をみよ。
(※弘長元年のとうじ、時章は評定衆をし教時は引付衆の役にあり、名越一門が建てたのが善覚寺・長楽寺・大仏殿とすれば、善覚寺の念空と時章・教時からの迫害が考えられます。(高木豊著『日蓮攷』一三三頁)。松葉ヶ谷法難・伊豆流罪に関与していた可能性があります。一般的には時章の一族が、日蓮聖人を庇護したといいます。「二月騒動」にて「同士打ち」がおき、日蓮聖人が予言した「自界反逆」が的中します。これにより、時章は誤殺されますが、時章の一族から信者がでたといいます。)

守殿(こうどの)は日本国の主にてをはするが、一閻浮提(いちえんぶだい)のごとくなるかたきをへ(得)させ給へり。

 わどの兄をすてヽあにがあとをゆづ(譲)られたりとも、千万年のさか(栄)へかたかるべし。
しらず、又わづかの程にや。
いかんがこのよ(此世)ならんずらん。
よくよくをもひ切って、一向に後世をたのまるべし。


かう申すとも、いたづらのふみ(文)なるべしとをもへば、かくもものう(物憂)けれども、のち(後)のをもひで(思出)にしるし申すなり。恐々謹言。
 十一月二十日               日 蓮 花押
兵衛志殿御返事