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百六箇抄  由来考察  仏哲


本書の由来  

本書は別名を血脈抄と呼んでいるが、それは首文に「法華本門宗血脈相承」とあり、末文には「右此の血脈は本迹勝劣……」とある
ところから、このように称せられたものである。

 この首文と末文には後人の添加したものがあり、大石寺版御書全集には削除されている部分もある。

いまその末文(富要一巻二四り)によって伝持の由来をみると、つぎのとおりである。

弘安三年庚反正月十一日 日蓮大聖人より日興上人へ。

正和元年壬子十月十三日 日興・日尊に之を示す。

康永元年壬午十月十三日 日尊・日大・日頼に之を示す。

 このことは、また伝記にもつぎのようにある。

日辰の祖師伝(富要五巻四二)

日尊の伝 に

「然るに日興一百六箇の本迹血脈書を以って日尊に付属して云く、右件口決結要の血脈は聖人出世の本懐衆生成仏の直路なり」と。

また同じく祖師伝(富要五巻五一)に

日尊が、日大と日頼に付属したことが記されている。

また大石寺第十八(※七)世日精上人の富士門家中見聞上(富要5−170)日興伝の項に、日興上人から血脈抄の相伝を、日目、日代、日順、日尊の四人が受けたとなっている。

この四人のうち、日尊系のものが後に引くように、しばしば出てくるが、富士にも伝承されてきたことはいうまでもない。

現存する写本は要法寺日辰と、妙本寺日我のもの(富要一巻二五)があり、大石寺には第二十二世日俊上人の貞享二年(一六八五年)十一月十日の写本がある。


 要法寺系の学僧で、後に大石寺第九世日有上人に帰伏した左京阿闍梨日教(日叶より改名)が、長享(きょう)二年(一四八八年)に著わした類衆翰集私(富要二巻三〇三)がある。

日教はここに百六箇抄のなかから、二十余項目を引用して、種脱の本尊、末法本仏日蓮大聖人、代々の法主即日蓮等を論じている。

しかも日教は、百六箇抄がつぎのようないきさつで紛失したと述べている。

 「本云く以前此の秘蔵抄は、先師日耀より相伝ありといえども、就当(雲州) の乱に馬木の本堂院坊破壊し畢んぬ。然る間本尊聖教皆々紛失す云云。
爰に日広上人御所持本申請書写し畢んぬ。
近年日瑤と申す不思議の人有り 
ーーー入筆之れ有り随って削るーーー猶以って不審之れ多し、他本を以って校合有るべきなり。
本来の百六箇条は日瑤の少智を以って、添筆致し難し。興いわく不審有る故之を云わず。
後見御意得有るべきなり。本いわく、文明十一年八月廿八日 日叶在り判」 
(これは日叶の百六箇抄奥書であり、岡宮光長寺にあるものを、日亨上人が写した。その写本は雪山文庫にある)


 またつぎに

「唯我与我の大事に付いて、七面七重の大事並びに産湯の大事等の相承に云く、之れ在り。
然るに?(せつ・かつ)略の分なり。但し去る文永九年(明)堺の乱により諸聖経等を淡州岩屋に運び、彼の在所焼失し、役所に於いて焼け畢んぬ。
又先年有る人の方より七面七重相伝し畢んぬ。
此の本は広悉なりと雖も、不審多々なり。
然りと雖も其の本別の遠国に運載す。
然る処に本是院日叶上人より送り給いて、恩に預り相伝に備え畢んぬ。
殊勝の余り老眼老筆を以って書写し畢んぬ。無上宝衆不求自得天然の不思議この事なり云云。
文明十一(七)年巳十月十九日 
八十六歳日乗在判。
本いわく調御寺日乗上人に之を授与し奉る。
文明十五稔卯伍月十五日 日叶在り判」
(同じく岡宮光長寺にあり、日亨上人の写しが、雪山文庫にある)

 また日亨上人が、大正四年ころ大石寺で発行されていた「自然鳴(じねんみょう)」誌に「隠れたる左京日教師」を連載している。その中に

「今の要法寺の前身たる上行住本の両上に於いては、(両巻抄を)最も秘珍して貫首伝法の書となしたるが如し。
蓋し両山の貫主たらずといえども、門中一二の法頭には此を伝えたるか。
日頼の如きは中国西国の貫主として、上布院の日印と住本寺の日大とともに両巻を尊師より伝えられたり、日頼これを日誉に、日誉これを日耀に授与し、日耀これを日叶(本郷)に示したることありて、本師は雲州に在りて住本寺末僧の時、既に両巻の宝殊を獲得せしものか」  と述べている。


 またこれより約百年の後、要法寺日舒(寿円日仁)は、寛文十二年(一六七二年)に、百六箇対見記を著わしている。(中略)
日舒もまた本因妙抄の奥書に、所伝の相伝書が二本あるうち、一本は雲州で紛失、一本は一条猪熊寺で紛失したと述べている。


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