●謗法罪

▲謗法と申すは違背の義なり。(唱法華題目抄 221)

▲仏宝を破るが故に、法宝を破るが故に、僧宝を破るが故に。三宝を破るが故に則ち世間の正見(しょうけん)を破す。世間の正見を破れば○則ち無量無辺阿僧祇(むりょうむへんあそぎ)の罪を得るなり。無量無辺阿僧祇の罪を得已(お)はって則ち無量無辺阿僧祇の憂苦(うく)を受くるなり」
「四衆の中に瞋恚(しんに)を生じ心不浄なる者有り。悪口罵詈(あっくめり)して言はく、是の無智の比丘(びく)と。或は杖木瓦石(じょうもくがしゃく)を以て之を打擲(ちょうちゃく)す。乃至(ないし)千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」
法華経の行者を悪口し、及び杖を以て打擲せるもの、其の後に懺悔(ざんげ)せりといへども、罪いまだ減せずして千劫阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ。
懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり。況んや懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出づる期かたかるべし。
「経を読誦(どくじゅ)し書持(しょじ)すること有らん者を見て軽賤憎嫉(きょうせんぞうしつ)して結恨(けっこん)を懐(いだ)かん。乃至其の人命終(みょうじゅう)して阿鼻獄に入り、一劫を具足して劫尽きなば更(また)生まれん。是くの如く展転(てんでん)して無数劫(むしゅこう)に至らん」(顕謗法抄 279)

▲五逆と謗法とを病に対すれば、五逆は霍乱(かくらん)の如くして急に事を切る。謗法は白癩病の如し、始めは緩(ゆる)やかに後漸々(ぜんぜん)に大事なり。(呵責謗法滅罪抄 文永一〇年  五二歳711

▲謗法の者は多くは無間地獄に生じ、少しは六道に生を受く。人間に生ずる時は貧窮下賤(びんぐげせん)等、白癩病等と見えたり。711

▲余の心を失へる者は、其の父の来たれるを見て、亦(また)歓喜し、問訊(もんじん)して病を治(じ)せんことを求むと雖も、然(しか)も其の薬を与ふるに、而(しか)も肯(あ)へて服せず。所以(ゆえん)は何(いかん)。毒気(どっけ)深く入(い)って、本心を失へるが故に、此の好(よ)き色香ある薬に於て、美(うま)からずと謂(おも)へり。658

【曾谷殿御返事】(1040)
▲何(いか)に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にを(堕)つべし。

▲始めは信じてありしかども、後にす(捨)つるのみならず、返って仏をぼう(謗)じ奉りしゆへ(故)に、仏も叶ひ給はず、無間地獄にを(堕)ちにき。兄弟抄 建治二年四月  五五歳 987

▲人皆口には此の経を信じ、手には経巻をにぎるといへども、経の心にそむく間、悪道を免れ難し。譬へば人に皆五臓あり。一臓も損ずれば其の臓より病出来して余の臓を破り、終(つい)に命を失ふが如し。爰(ここ)を以て伝教大師は「法華経を讃すと雖も還って法華の心を死(ころ)す」等云云。文の心は法華経を持ち読み奉り讃むれども、法華の心に背きぬれば、還って釈尊十方の諸仏を殺すに成りぬと申す意なり。縦(たと)ひ世間の悪業衆罪は須弥の如くなれども、此の経にあひ奉りぬれば、衆罪は霜露(そうろ)の如くに法華経の日輪に値ひ奉りて消ゆべし。然れども此の経の十四謗法の中に、一も二もをか(犯)しぬれば其の罪消えがたし。(新池御書    弘安三年二月  五九歳 1456)

▲たとひさと(悟)りなけれども、信心あらん者は鈍根も正見(しょうけん)の者なり。たと(仮)ひさとりあれども、信心なき者は誹謗闡提(ひぼうせんだい)の者なり。法華題目抄   文永三年一月六日  四五歳 353

▲有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず。有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし。1461

▲諸の悪業煩悩は不信を本と為す(念仏無間地獄抄39)

▲此の度大願を立て、後生を願はせ給へ。少しも謗法不信のとが(失)候はヾ、無間(むけん)大城疑ひなかるべし。906

▲謗法不信のあかをとり、信心のなはてをかた(固)むべきなり。906

▲二種の人有り仏法僧を謗ずと。一には不信にして瞋恚(しんに)の心あるが故に、二には信ずと雖(いえど)も義を解(げ)せざるが故に。善男子(ぜんなんし)、若(も)し人信心あって智慧有ること無き、是の人は則(すなわ)ち能(よ)く無明(むみょう)を増長(ぞうちょう)す。若し智慧有って信心有ること無き、是の人は則ち能く邪見(じゃけん)を増長す。善男子、不信の人は瞋恚(しんに)の心あるが故に説いて仏法僧宝有ること無しと言はん。信ずる者にして慧(え)無くば顛倒(てんどう)して義を解するが故に、法を聞く者をして仏法僧を謗ぜしむ」(顕謗法抄   弘長二年  四一歳 290