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日達上人全集 第一輯 第四巻 御著述・通釈 法華経譬喩品第三  164〜


舎利弗よ、ある時、ある国のある時に一人の大長者が住んでおりましたが、段々、年を取って身体も弱って来ました。
しかし財物に富んで、大きな邸宅と沢山の田地もあり、多勢の使用人もおります。
その家屋は広大でありますが出入する門は一つでありました。
そこに居住している人々は五百人もおります。
その家も大きいが古いから、建物は傾き、壁は破れ落ち、土台は腐触し、棟や梁は落ちかかっております。

その古い大きな家がなにかの原因で突然に、しかも一時に火が起きて火事になりました。
この家の主人、長者の子供は十人、二十人といわず三十人もこの中におりました。
長者はこの様に四方から大火が起ったのを見て非常に驚き恐れて、自分は燃えている家の門から、なんの障りもなく気楽に脱出することができるが、子供達は今尚燃えている家の内にあって遊楽に耽っていて火の燃えていることも知らず又驚きも恐れもしません。
火焔がいよいよ身に迫って来て身体に苦痛を及ぼしても、それに厭や憂を感じないので、その家から脱出しようともいたしません。
そこでこの長者は自分は大力であるから、子供達を絨氈に入れるか、担架に乗せてこの家から救い出そうかと考えました。
又考え直して見るのにこの家にはただ一つの門だけしかなく、それに間口が狭くて子供達は幼稚でありますからこの一つの門を知らないのであります。
そしてただ依然として遊び場に執著しておりますので、
「強いて絨氈や担架で連れ出そうとすると、かえって逃げ惑って火に焼かれるであろう。
だから自分は子供達に火の恐ろしさを教えて、この家はもう火の手が廻っているので一刻も早く脱出しないと焼き殺されてしまうから早く出なさいと教えましょう、」と考えました。

そこでこの考えの如く子供達に事情を細かく教えて、
「あなた達は速く家から出なさい」と申しました。

父の長者が慈愛をこめて穏やかに論じ聞かけても子供達は遊戯に夢中になっていて父の教えを受け入れようとはせず、相変らず驚きも恐れもしないで遂に家から出ようとはしません。
そして一体火とは何だろうか、家とは何だろうか、失うとはどういうことかすら知らないのです。
ただ東西、左右に走り廻り遊び戯れているが、それでもなんとなく父を視ることは忘れないのであります。

そこで長者は、
「この家は已に大火に焼かれているのであるから、自分も子供達も、今にして出なければ必ず焼き殺されてしまう。」
長者は已むなく
「今、特別の手段を用いて子供達をこの災害から助けましょう」
と考えました。

父の長者は子供達の本心にはそれぞれの好みがあって、種々の奇らしい物には好みに従って必ずほしがるものであるということを知っておりますから、子供達に申しますのには、
「あなた達が愛玩する品物は少ないもので、得がたいものであります。
あなた達が今、これを取らなければ、あとになって後悔するでしょう。あなた達の欲しがる、羊の車、鹿の車、牛の車、などが只今・門の外に置いてあります。
それをもって遊びなさい。
あなた達はこの燃えている家から大いそぎで脱出しなさい。
あなた達の欲しいと思うものは皆あなた達にあげます」
と申しました。

子供達は父が珍らしい品物のことをいうのを聞いてそれが前々から欲しいと思っていたことに合っているから、子供達は各々心に勇んで、おたがいに押し会い、競争して走って燃えている家から外へ出ました。
長者は子供達が怪我もなく安らかに家より逃れて広々した往来に出てなんのわだかまりも障りもないのを見て、安心して心から喜びました。
その時、子供達は父に向かって
「お父さんよ、前におっしゃった、私共の好きな品物の羊の車、鹿の車、牛の車、を早く下さい」と申しました。

舎利弗よ、その時に長者は子供達皆に同じく、同じ大きさの大きな車を与えました。
その車は、丈が高く巾が広く、多くの宝で飾り、周囲に欄干があり、四方に鈴を釣り、その上に屋根を作り、しかも珍らしい宝物で立派に飾り、宝の縄で張り廻らし、それに華の瓔珞を垂れ、立派な絨氈を敷き、朱の枕を設けてあります。
それを白牛に引かせています。
その白牛は毛が美麗で、形体は見事で筋肉が充実しております。
歩行は平らで安らかに、しかも非常に疾く進みます。
又沢山の従者が守衛しております。
なぜかというとこの大長者は、財産が沢山あって多くの倉庫や、宝蔵には物品が充満しております。
この長者は自分は財産が無限であるから、つまらない貧弱な車は子供達に与えられない。
この幼い子供達は皆、自分の子息であるから、どの子にも愛に偏頗があってはなりません。
自分にはこの様な七宝の大車を沢山に所有しておりますから、子供達に平等に与えます。
差別しないということは、どういうわけかというと自分はこの七宝の大車を一国中の人々に与えても尚余裕があります。
況してや子供達に与えるのですから差別なく同じ七宝の大車を与えます。
そこで子供達は皆、大きな白牛の車に乗って初めに思ったより以上の喜びに歓喜しました。

「 舎利弗よ、この長者は子供達に平等に立派な大白牛車を与えましたが、初に与えるといった車と違いますから言葉には、偽りがあると考えませんか。」

そこで舎利弗は

「否!お釈迦様よ、この長者の行為は、子供達が火災に焼かれようとする所を救って身体を安全にしたのでありますから嘘、偽りと簡単にいいすてることはできません。
なぜかというと、生命を保ってこそ好む車も使用できるのでありますから玩具は次で、まず生命が大切であります。況んや仮りの手段を用いて火事の家から子供達を救済したのでありますから嘘、偽りではありません。
お釈迦様よ、この長者が仮令え最も貧弱な車を・子僕達に与えなかったとしても決して嘘、偽りではありません。
どうしてかと申しますと、この長者は初めから自分は仮りの手段を弄して子供達を救済しようと決心していたので、そのとうりにして子供達を救出したのでありますから決して嘘、偽りではありません。
それにもかかわらずこの長者は自分が大富豪であることを知っているから子供達をもっと幸福にするために平等に大白車を与えたのであります」と、申しました。

お釈迦様は

「よろしい、よろしい、舎利弗よ、あなたのいうとうりであります。
舎利弗よ、仏様もその通りであります。恰もこの世間の父の如きであります。
既に世間の迷いを、悟り尽して怖畏の心も、老衰の悩みも、煩悶の憂いも、暗愚の不明もありません。
無量の智恵力で十力や四無所畏を得て、大神通力も大智恵力もあって人々を救済する権智と本来の覚りの実智のいはゆる仏様としての智恵を具えております。
それ故に大慈悲の心で常にうむことなく、常に人々を済度する仕事を求めてそれを行なわれ、迷いに苦しむ人々に利益を垂れられるのであります。
丁度、朽ち壊れたしかも燃焼している家の様なこの世界に御出現せられるのは、この世界の人々が、生老病死、憂悲、苦悩、愚癖、暗蔽等の苦や、貪欲、瞋恚、愚癡の三毒の火に苦しんでいるのを済度し、教化して無上正覚を得らしめるためであります。
仏様が人々を見る時は人々は生老病死の四つの苦悩に苦しめられ、また色、声、香、味、触の五官の感覚によって得る目前の利益に眩惑されて、かえっていろいろの苦を受け、貪欲に貪欲を重ねて求めても、なにも得られない苦しみ即ち求不得苦、
生れながら苦しみ、死して尚、地獄・畜生・餓鬼・の苦を受け、天上界に生もれても又人間界に再び生まれても、貧窮の身に苦しむ即ち五陰盛苦、
あるいは愛する者には別離し易い苦、
憎い相手には常に出会う苦、等の四苦、八苦があって人々はそれらの苦の中に没入しているのであります。
しかもその中で喜んで遊び廻っておって、苦を苦と覚らないし、又苦を苦と知らない、苦を覚らないから苦を驚きもしない。
苦を知らないから苦を怖れもしない、それ故に別に苦を厭とも思わず、それから救われようと努力もしないのです。
そして燃焼している家の様なこの世の中の四苦八苦中に東奔、西走していて大苦に遭遇しても心配もしないのであります。
仏様はこの事をよく御覧になって、
「自分はこの人々の父である。
だからこの人々の苦悩の難儀を取り去って、仏様の無量の法楽を与えてこの人々を真の快楽に遊ばしめよう」と考えられたのであります。

舎利弗よ、仏様は、又自分はもしも仮りの手段を用いないで、大神通力や、智恵の力を直接に用いて人々に仏様の智恵や十力、四無所畏を讃歎しても、人々はそれがために覚りを開くことはできません、というのはこの人々は、まだ生老病死の苦悩から逃れられず、この世の中の苦の中にあって、どうして仏様の智恵など悟ることができましょうか。

舎利弗よ、あの長者が腕力が強いからといって直ちに腕力を用いて子供達を焼けている家から抱き出すことはしないで御丁寧にも羊車、鹿革、牛車を与えるという仮りの手段を用いてまず子供達を燃えている家から救い出すに勉めて、子供達が皆完全に外に出てから平等に珍らしい立派な大白牛車を与えた如くに、仏様も同様で十カ・四無所畏の力量があっても、お用いにならないで、ただ妙法蓮華経の法を三乗に分けられ、この世の中の人々を救済するために声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三乗を説かれたのであります。

あなた方は決して好んで燃えている家の如きこの・世の中に住居してはなりません。
そして醜悪な色、声、香、味、触の五官の感覚に耽ってはなりません。
もしも強い愛欲を生じたら、その愛欲は我が身を焼く苦であることを悟らなければなりません。
あなた方は急いでこの世の中の苦の境涯を出るために各々の好みによって声聞乗、緑覚乗、菩薩乗の三つの乗物を用いなさい。
今、私は、あなた方がそれによって寂常の安楽の世界へ到達することを保証いたします。
決して偽りではありません。
あなた方はただ一生懸命に努力なさい。
仏様はこの様な仮りの手段を用いて人々を導き下さるのであります。
あなた方は、この三乗の教は皆、仏様方の讃めたたえる法であって、この法によって道を修すれば何等の煩悩の束縛もなく、安楽の境涯を得られるから依頼心も、希求心もありません。

この三乗を修することによって、
一切の善の本を生ずる信、勤、念、定、恵の五法 や、
欺、怠、瞋、恨、怨の一切の善の本の障害となる五障を破する五法の力用である五力(信、勤、念、定、恵、の五法の根が増長して五力となる)や、
念、択、勤、喜、軽安、定、拾の七覚支(よく覚察して一方にかたよらないこと)や、
正見、正思惟、正語、正業、正勤、正定、正念、正命の八正道、
色界の四禅や、無色界の四定や、八解脱や、空、無相、無願の三三味を得て自ら遊楽してそこで寂常の法楽を得ることができることをよく知りなさい。

舎利弗よ、もし賢い人々が仏様にお仕えして法を聴聞してその法を信受し、そして一生懸命に励んでこの苦しみの世界から早く出ようとして、自ら進んで寂常を求めるならば、その人々は声聞乗の人々と名付けます。
丁度、長者の子供達が羊車を欲求して燃えている家から出ることができた様なものであります。

もし人々が仏様にお仕えして法を聴聞して信受して一生懸命に励み、更に進んで自然の因縁の理法を悟って得る智恵を求めようと努力し、又ただ独り、どなたの助けも借りずに自然の悟りを開こうとして、一層深く諸法の状態を知るならぱ、その人々は辟支仏乗(前者を縁覚、後者を独覚)の人々と名付けます。
丁度、長者の子供達が鹿車を欲求して燃えている家から出ることができた様なものであります。

もし人々が仏様にお仕えして法を聴聞して信受して、一生懸命に修行して一切諸法の空を観ずる智恵や、一切諸法の現実の相を観ずる智恵や、この二つの智恵が努めずして自然に涌き具わるところの智恵や、この二つの智恵が誰に指導されるのでもなく自然に得られるところの智恵や、仏様としての見識、十力、四無所畏、などを得ようと努め、又下は沢山の人々を隣れみて安楽にしてやり、天界や人界の人々を利益し一切の人々を済度するならぱ、その人々は大乗の人々と名付けます。
菩薩がこの大乗を願い求めるからこの菩薩を大人と申します。
丁度、長者の子僕達が牛車を欲求して燃えている家から出ることができた様なものであります。

舎利弗よ、あの長者は子供達が昔、完全に燃えている家から脱出することができて安全な場所にいるのを見て、 更に自分は非常な富豪であるから、その子供達に同様な立派な大きな車を与えました。
その如くに、仏様もこの話と同じ様に人々を導いて下さっているのであります。
仏様は一切の人々の父とも申すべきであります。
でありますから仏様が世の中の無量の人々が、種々なる仏様のお教えを得てこの世の中の色々の苦や、色々な恐怖I等の険難の道から悟り得て一応の小果の覚を得たのを御覧になれば、仏様は更らに御自分は、計り知れない智恵、十力、四無所畏等の仏様方の常にお待ち遊ばす法の蔵を所有しておりますから、この蔵から真の法を取り出して、自分の子供であるこの人々に平等に与えて、ただの一人でも一応の小果の覚に安んずることなく、総ての人々を仏様の真の覚に入れしめようと、仏様はお考えになっていらっしゃいます。

仏様はこの人々が一応仏様の仮りの手段によってこの世の中の苦を脱がれた時に、その総ての人々に仏様の真の教を与えました、これ諸法実相の法で一切の仏様方が、ほめ、たたえる所で、しかも最高の幸福を得ることのできる法であります。

舎利弗よ、あの長者が初めは羊、鹿、牛の三車を与えるといって子供達を燃えている家から連れ出してから、宝物で飾った、しかも安全な大きな車を子供達に与えました。
而しこの事が長者は嘘つきだといつ非難は当りません。

仏様も同様で決して虚言はありません。

初めに声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三乗を説かれて人々を導いて、その後、三乗を捨ててただ一仏乗の妙法蓮華経を説かれて人々を覚らしめるのであります。
どうしてかと申しますと仏様は計り知れない智恵、十力、四無所畏等の諸々の法を所有して、総ての人々に一仏乗の妙法蓮華経を与えることができるからであります。
所が人々において大乗の妙法蓮華経を受け入れることができないのであります。

そこで止むを得ず、その理由で、仏様方は御自分の権の知恵をお用いになって一乗の法を仮りに分別して声聞、縁覚、菩薩の三乗として説かれたのであって決して人々を欺く心ではないのであります。

お釈迦様はこの意味を更に申されようとして偈文でのべられました。

譬えて申せば長者が一軒の大住宅を所有しておって、その住宅は随分古くて荒屋であります。
柱は朽ち折れ、棟や梁は斜めに傾き、階段は破れ落ち、板壁や土壁はやぶれ、さけ、地に落ち、屋根はくずれ、垂木は脱け、周囲の垣根も曲り倒れ、汚穢が一ぱいになっております。
その中には五百人も人々が居住しております。

その上に色々な動物、とび、ふくろ、くまだか、わし、からす、かささぎ、やまばと、いえばと、からすへび、うはばみ、さそり、むかで、げじげじ、やもり、おさむし、いたち、たぬき、むじな、ねづみ、その他悪虫等縦横に走り廻り、糞尿が流れ溢れて臭気に満ち、うぢがその上に集り、のぎつね、おおかみも集って来て屍肉を食いあらし、骨や肉が散乱し、又野犬も集って来て飢餓のため貪り食らわんとし、かみ合いひっかき合い、ほえ合い、実にこの住宅の恐怖のすごさは申すことができないほどです。

至る所に魑魅もっりょうや夜叉悪鬼が住んでいて人の肉を食べ、毒虫や悪い禽獣が卵から生れ、或は母体から生まれて、親に養われていますが、夜叉が来てこれらの動物を取って食べます。
そして食べることが飽きると悪心が益々盛んになって、おたがいに闘争の声が激しくて、非常に恐怖の念にかられます。

鳩槃荼鬼(人の精気を食う鬼神)が地上に蟠居して或る時は地上に勇躍嬉戯して遊び廻っております。
そして犬を撲ちて気絶させて両脚を以て頸に巻いて楽しんでおります。

又ある鬼神は、その身体は非常に長大で、裸で真裸で痩て、常にこの家に住んで大きな悪声を出して食を欲しがっております。

又ある鬼神は咽喉は針の様に細く、ある鬼神は牛の頭のよっな頭をなし、ある鬼神は人の肉を喜んで食し、ある鬼神は犬を食べます。

頭髪はぽうぽうとして蓬の様に乱れはえ、兇悪の害心が盛んで、常に別に苦しんで、大声を出して馳り廻っております。

夜叉や餓鬼や悪い鳥獣が飢えて走り廻って四方の窓からのぞき視ております。

この様な種々の恐怖に満ちております。

この朽ちた古い家屋は一人の長者の所有物でありますが、その長者は外出して間もなくその家屋は突然に火事が起って、一時に燃え広がって火焔が盛んになり、その家の棟、梁、柱、縁等が燃え、やぶれ折れて落ち、土壁、板壁が皆、崩潰します。

鬼神は大声に叫び、くまだかや、わしの類や鳩槃荼鬼等は周?狼狽して逃れ出ることができません。

悪獣、悪虫は穴にかくれ、昆舎闍鬼(生物の精気を食う鬼神)もその穴に住んでいるが福徳が薄いため火が燃え逼まって来るのでたがいに殺し会い、血を吸い肉を食い合います。

野狐の類は早く死んで大悪獣は競ってその肉を食べます。

臭気の煙がもうもうと家中に充満しています。

むかでやげじげじや毒蛇の類は火に追われて穴から逃げ出しますが鳩槃荼鬼はこれを取って食べます。

又餓鬼たちは頭上が然えているので飢えと熱さに苦しんで、あわてて走り廻っています。

この家屋というのはこの様に恐怖に満ち、あらゆる毒害と火災等の総ての災難が集っているのであります。

(この世の相も同様であることを示しています)

この時、家の主である長者は門の外に立ちよって、考え思うに

「自分の子供達は先刻遊ぶためにこの家に入ったのであって、その子供達は幼少でなにも知らない。
ただ遊戯、娯楽に耽っているのであると思いつき、愕然と驚き、子供達を焼死することから救出しよう」と燃えている家に入りました。

そして子供達に
「この家は悪鬼や毒虫がおり、火災が蔓延して多くの苦が段々と続発して終る時がありません。
毒虫や、からすへびや、まむし及び夜叉や、鳩槃荼鬼や野狐や犬、くまだかや、わしや、ふくろ、をさむし等が飢え渇えて走り廻っていて大変に恐怖すべき所であり、その上、大火に焼かれているのだ」と教え諭し、苦難を説き聞かせました。

しかし子供達は愚かであって父の長者のおしえを聞いても、相変らず娯楽に耽けり遊戯に夢中になっております。
この時、長者は子供達がこんな有様だから自分は心から愁い悩むのであって、今、この家は何一つ楽しむことはありません。
それなのに子供達は遊戯に耽溺して私の教訓を聞き入れません。
だからこのままではぢきに火で焼き殺されてしまうと思いました。

そこで種々の仮の手段を用いて子供達を救い出そうと思って、子供達に向って

「私は色々な珍らしい立派な乗物を所有しています。
それは羊車、鹿革、大牛車であります。
その車は今、門の外に置いてあります。
お前達は早く外へ出なさい、私はお前達のためにこの車をわざわざ作ったのでありますから、お前達の思いのままに、その車を取って遊びなさい、」と申しました。

子供達はこの車のことを聞いて、即座に外へ走り出しましたので、広場に出て、ようやくこの恐ろしい苦しみから逃れることができたのであります。
父の長者は子供達が燃える家から逃れ出て広場にいるのを見て、自分の席に安心して坐し、自分から喜こんで、

「私は今こそ愉快であります。
この子供達の養育は大変に難しいのであります。
愚鈍でなんにも知らずこの危険な家に入っており、しかもその中には多くの毒虫や、ばけものがおって恐ろしい所なのに大火が一面に猛然と起ったのでありますが、子供達は遊戯に熱中しておりました。
私はこの子供達を救出して災難から脱出せしめました。
人々よ、このために私は今こそ愉快であると申します。」

その時、子供達は父の長者が自分の席に安心して坐っておられるのを見て、皆、父の前に行って申しますには、

「どうか私共に三種の立派な車を与えて下さい。
先程、家の中で父が私共に、『子供達よ、外へ出でよ、三車をお前達にやりましょう』と申されたが、今正しく外へ出ておりますから、三車を御与え下さる好期であります。
どうか与えて下さい。」

この長者は非常な大富豪であり、沢山の車庫や、宝蔵があり、金銀、瑠璃、しゃこ、瑪瑙等の七宝を用いて多くの人車を造り、荘厳にしかも美くしく、周囲に欄間を設け、四方に鈴を懸け、金の縄で結び、真珠の薄い網をその上に張り、金蓮華の瓔珞をあちらこちらに垂れ下げ、色々な色の布を周囲にめぐらし、柔軟の絹や綿で蒲団をつくり、最上の千億金もする細かい純白の清潔な毛布をその上に被せてあります。
肥えた太った力の強い立派な体形をした大白牛でこの宝車を引かせます。
多勢の従者がこの車を護衛しています。
この立派な車を平等に子供達に与えました。

子供達はこの宝車を得て大いに踊躍、歓喜してこの宝車で四方を乗り廻し、愉快に自由自在に遊びまわりました。

お釈迦様が舎利弗に申されますのには、

「私も長者の如くであります。
多くの尊い聖人の中の最も尊い者で、世間の人の父であります。
世間のすべての人々は皆、私の子供達であります。
その子供達は世間の現前の楽しみにのみ執著して、この楽しみの奥を見きわめる知識はありません。
この世の中は、恰も火事になっている家の如く少しも安楽ではありません、種々の苦が満ちていて非常に恐るべき状態であります。
常に生、老、病、死の四つの苦痛が継続して止まることがありません。
然し仏様はこの世界の苦しみから覚り出て、平然と火事の家から離れた野原の如き、苦の無い平穏な世界に安居しておられます。
今この世の中は総て私の所有物であり、この世の中の人々は皆、私の子供であります。
しかし現在のこの世の中は種々な憂悩すべき事柄があります。
が、ただ私一人だけがこの子供達を救済するのであります。
私が種々と教え訓しても子供達は自分等の五官の欲に貪著しているために私の教訓を信じ受けようとはいたしません。
そこで止むを得ず仮りの手段を用いて三乗の教を説き、子供達にこの世の中の苦を教え知らして、この世の中の苦から出離することを示し教えたものであります。

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