「誠心」(日顕上人御允可)

二十三、破和合講を戒めよ

@「門徒の中に人を教えて仏法の義理を背かせらるゝ事は謗法の義なり、五戒の中には破和合僧の失と申すなり、自身の謗法よりも堅く誡むべきなり。」(第九世日有上人化儀抄・聖典九八三頁)

 自分自身が謗法を犯すことも、もちろん重罪になりますが、ここでは、他人に謗法を犯させる罪について戒められています。
すなわち、信心をしている他の人を教唆して仏法の義理に背かせた場合、自らの謗法の罪に、五戒のうちの破和合僧の失も加わって、さらに罪が深重になるというのです。

 破和合僧というのは―自分一人で謗法を犯せば自分一人の罪ですが、他の人に、悪心を抱かせるようなことを囁いて、不信や怨嫉感情を持たせ、宗門や講中・師匠・先輩の批判をさせる等、同信の人々の信心に混乱を招く−―このような振舞いをいいます。

 問題は、一講員がそれをしても靡(なび)く人も少なく、たいした影響もありませんが、班長あるいは幹事・部長
といった幹部の立場にある者が講員を教唆した場合、その影響たるや莫大なものとなり、多くの講員が信心に迷い、謗法に陥ってしまいます。その時、初めに悪心を抱き他人を教唆した者の罪は、大重罪となることを覚悟すべきでありましょう。

 このことについては、日亨上人も、さらに詳しく仰せられています。

A 「「人を教て仏法の義理を」等とは・僧俗自身が他の僧俗を教唆して、大は宗旨の大綱に背く如き謗法を行はしめ・小は宗門の信条に違ふ如き非行を為さしむる・其為せし本人は勿論謗法背信の罪に堕する事必然なりといへども、其自ら為さゞる教唆人も亦此を為さしめし咎に依りて同罪に堕す・其教唆の方法は自ら直接に言説を以てしたるものは、其罪重きこと勿論なれども・或は態度を以つて暗示を以つて教唆を加へたる者亦此に準すべし、仮令教唆の意志なしといへども・信徒を有する僧分・弟子を有する僧分・信徒を有する講頭等の非徳が冥々の間に他を悪感化する其罪亦己に帰することゝ知るべし、(中略)
共心同行の団体中に自ら異義を唱へて退くも不可なり、況んや他を教唆して同心共行を破するに於いてをや、提婆達多が釈迦牟尼仏に反抗する為に・仏弟子の一部を誘拐して新教団を組織したるは・提婆の破和合僧罪とて・其罪の尤なるものなり、現代に於いては破和合僧又破和合講に通用すべし、」
(第五十九世日亨上人御指南・富要集一巻一五〇〇頁)

ここで、日亨上人は、”仏法の義理に背かせるとはどういうことか、について、

■「大は宗旨の大綱に背くごとき謗法を行なわしめ、小は宗門の信条に違うごとき非行をなさしむる」

と示されています。
 つまり、謗法といっても、三宝の立て方を改変したり、あるいは邪宗に参詣する、邪宗の本尊や神札等を祀る、といった大謗法もありますし、勤行や折伏・登山等の仏道修行を怠けたり、怨嫉や批判をする、という小謗法もあります。
 いずれにせよ、そうした謗法行為を犯させることが、”仏法の義理に背かせることになるのです。

 しかして、それらの謗法行為は、自分一人で犯すよりも、他の人を教唆し、悪感化して巻き込む方が、はるかに重罪となります。

 世間にも 「赤信号、皆で渡れば怖くない」などという言葉がありますが、実際、自分一人では怖くて何もできないような者が、卑怯にも、周囲の人達をも巻き込むべく、陰にまわって悪感化し、教唆するような場合があるわけです。

この教唆の方法について、

■ 「自ら直接に言説をもってしたる者は、その罪重きこともちろんなれども、あるいは、態度をもって暗示をもって教唆を加へたる者、またこれに準ずべし」

と仰せです。

(中略)

直接的な言葉に出さず、態度や暗示で教唆しても、その罪が重いことは同じだと、日亨上人は示されているのです。

 さらに恐れなくてはいけないのは、
                            
■ 「信徒を有する僧分・弟子を有する僧分・信徒を有する講頭等の非徳が、冥々の間に他を悪感化する、その罪また己れに帰することと知るべし」

つまり、信仰歴も長く、多くの人を折伏・育成してきて、その影響を受ける多くの講員がいる、という立場にある講中幹部が、謗法にあたる考えや間違った信仰姿勢などを講員達に教え、悪感化してしてしまう―その結果、多くの講員達が犯した罪は、全部自分の身に戻って、自らの功徳を滅し、重大な罪を形成してしまう、ということであります。

それも、「冥々の間に」と仰せのとおり、本人も意識しないうちに悪感化をしてしまう場合があるのです。
たとえば、もともと批判を好むという傾向のあった人が、つい癖で、信心している人の悪口を言ってしまう、こういう「非徳」が、知らず知らずのうちに他を悪感化してしまいますので、幹部であればあるほど、重々気をつけなくてはなりません。

 しかして、

■ 「現代においては、破和合憎また破和合講に通用すべし」

と言われているように、こうした講中の中での悪感化が、現代における破和合僧にあたるのであります。
 つまり、今日においては、在家の身で仏道修行をしている人も数多くおり、信徒の異体同心の集まりとして講中があります。その講中の中においては、異体同心して、正しい信仰に励んでいかなくてはならない。
それを、講中の中で、他の人の信心に悪い影響を与えたり、教唆をして悪事に加担させ、講中を混乱させる、
ということは、絶対にしてはならない破和合僧の行ないであり、これを破和合講というのです。