0731
    法華取要抄 文永一一年五月二四日  五三歳
                  扶桑(ふそう)沙門 日 蓮 之を述ぶ
 夫(それ)以(おもんみ)れば月支西天より漢土日本に渡来する所の経論五千七千余巻なり。其の中の諸経論の勝劣・浅深・難易・先後、自見(じけん)に任(まか)せて之を弁(わきま)ふことは其の分に及ばず。人に随ひ宗に依って之を知らば其の義粉紕(ふんぴ)せしむ。所謂華厳(けごん)宗の云はく「一切経の中に此の経第一」と。法相(ほっそう)宗の云はく「一切経の中に深密(じんみつ)経第一」と。三論宗の云はく「一切経の中に般若(はんにゃ)経第一」と。真言宗の云はく「一切経の中に大日の三部経第一」と。禅宗の云はく、或は云はく「教内には楞伽(りょうが)経第一」と。或は云はく「首楞厳(しゅりょうごん)経第一」と。或は云はく「教外別伝の宗なり」と。浄土宗の云はく「一切経の中に浄土の三部経末法に入りては機教相応して第一」と。倶舍(くしゃ)宗・成実(じょうじつ)宗・律宗の云はく「四阿含(しあごん)並びに律論は仏説なり。華厳経・法華経等は仏説に非ず外道の経なり」と。或は云はく或は云はく。而るに彼々の宗々の元祖等杜順(とじゅん)・智儼(ちごん)・法蔵(ほうぞう)・澄観(ちょうかん)・玄奘(げんじょう)・慈恩(じおん)・嘉祥(かじょう)・道朗(どうろう)・善無畏(ぜんむい)・金剛智(こんごうち)・不空(ふくう)・道宣(どうせん)・鑑真(がんじん)・曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導(ぜんどう)・達磨(だるま)・慧可(えか)等なり。此等の三蔵大師等は皆聖人なり、賢人なり。智は日月に斉(ひと)しく徳は四海に弥(はびこ)る。其の上各々経律論に依り更互(たがい)に証拠有り。随って王臣国を傾け土民之を仰ぐ。末世の偏学(へんがく)設(たと)ひ是非を加ふとも人信用するに至らず。爾(しか)りと雖も宝山に来たり登って瓦石(がしゃく)を採取し、栴檀(せんだん)に歩み入って伊蘭(いらん)を懐(いだ)き取らば恨悔(こんかい)有らん。故に万人の謗(そしり)を捨てヽ猥(みだ)りに取捨を加ふ。我が門弟委細に之を尋討(じんとう)せよ。
 夫(それ)諸宗の人師等或は旧訳(くやく)の経論を見て新訳の聖典を見ず、或は新訳の経論を見て旧訳を捨て置き、或は自宗の曲に執着して己義(こぎ)に随ひ、愚見(ぐけん)を註(ちゅう)し止めて後代に之を加添(かてん)し、株杭(くいぜ)に驚き騒ぎ兎獣(うさぎ)を尋ね求め、智円扇(ちえんせん)に発して仰いで天月を見る。非を捨てヽ理を取るは智人なり。今末の論師、本の人師の邪義を捨て置いて専(もっぱ)ら本経本論を引き見るに、五十余年の諸経の中に法華経第四法師品の中の已今当(いこんとう)の三字最も第一なり。諸の論師、諸の人師定めて此の経文を見けるか。然りと雖も或は相似(そうじ)の経文に狂ひ、或は本師の邪会(じゃえ)に執し、或は王臣等の帰依を恐るヽか。所謂金光明(こんこうみょう)経の「是諸経之王(ぜしょきょうしおう)」、密厳(みつごん)経の「一切経中勝(いっさいきょうちゅうしょう)」、六波羅蜜(ろくはらみつ)経の「総持第一(そうじだいいち)」、大日経の「云何菩提(うんがぼだい)」、華厳経の「能信是経最為難(のうしんぜきょうさいいなん)」、般若(はんにゃ)経の「会入法性不見一事(えにゅうほっしょうふけんいちじ)」、大智度論の「般若波羅蜜最第一(はんにゃはらみつさいだいいち)」、涅槃論の「今日涅槃理」等なり。此等の諸文は法華経の已今当の三字に相似せる文なり。然りと雖も或は梵帝(ぼんたい)・四天(してん)等の諸経に対当すれば是諸経の王なり。或は小乗経に相対すれば諸経中王なり。或は華厳・勝鬘(しょうまん)等の経に相対すれば一切経中勝なり。全く五十余年の大小・権実・顕密の諸経に相対して是(これ)諸経の王の大王なるに非ず。所詮所対を見て経々の勝劣を弁(わきま)ふべきなり。強敵を臥伏(がふく)するに始めて大力を知見する是なり。其の上諸経の勝劣は釈尊一仏の浅深なり。全く多宝分身(ふんじん)の助言を加ふるに非ず。私説を以て公事に混ずること勿(なか)れ。諸経は或は二乗凡夫に対揚(たいよう)して小乗経を演説し、或は文殊(もんじゅ)・解説月(げだつがつ)・金剛薩・(こんごうさった)等の弘伝の菩薩に対向して、全く地涌千界の上行等には非ず。
 今法華経と諸経とを相対するに一代に超過(ちょうか)すること廿種之有り。其の中最要二有り。所謂(いわゆる)三・五の二法なり。三とは三千塵点劫(じんでんごう)なり。諸経は或は釈尊の因位(いんい)を明かすこと、或は三祇(さんぎ)、或は動喩塵劫(どうゆじんこう)、或は無量劫なり。梵王(ぼんのう)の云はく、此の土(ど)には廿九劫より已来(このかた)知行の主なり。第六天・帝釈・四天王等も以て是くの如し。釈尊と梵王等と始めて知行の先後之を諍論(じょうろん)す。爾りと雖も一指を挙げて之を降伏してより已来、梵天頭(こうべ)を傾け魔王掌(たなごころ)を合はせ三界の衆生をして釈尊に帰伏せしむる是なり。又諸仏の因位と釈尊の因位と之を糾明(きゅうめい)するに、諸仏の因位は或は三祇(さんぎ)或は五劫(ごこう)等なり。釈尊の因位は既に三千塵点劫より已来娑婆世界の一切衆生の結縁(けちえん)の大士なり。此の世界の六道の一切衆生は他土の他の菩薩に有縁の者一人も之無し。法華経に云はく「爾の時の聞法の者、各諸仏の所に在り」等云云。天台云はく「西方は仏別(べつ)に縁異(こと)なり、故に子父の義成ぜず」等云云。妙楽云はく「弥陀(みだ)・釈迦(しゃか)二仏既に殊(こと)なる○況んや宿昔(むかし)の縁別にして化道同じからざるをや。結縁(けちえん)は生の如く成就は養の如し、生養(しょうよう)縁(えん)異(こと)なれば父子成ぜず」等云云。当世(とうせい)日本国の一切衆生の弥陀の来迎(らいごう)を待つは、譬へば牛の子に馬の乳を含(ふく)め瓦(かわら)の鏡に天の月を浮かぶるが如し。又果位を以て之を論ずれば、諸仏如来は或は十劫百劫千劫已来の過去の仏なり。教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり。大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は、我等が本師教主釈尊の所従等なり。天月の万水に浮かぶ是なり。華厳経の十方台上の毘盧遮那(びるしゃな)・大日経・金剛頂経(こんごうちょうきょう)の両界(りょうかい)の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左右の脇士なり。例せば世の王の両臣の如し。此の多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり。此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来教主釈尊の愛子なり。不孝の失(とが)に依って今に覚知せずと雖(いえど)も他方の衆生には似るべからず。有縁の仏と結縁の衆生とは譬へば天月の清水に浮かぶが如し。無縁の仏と衆生とは譬へば聾者(ろうしゃ)の雷の声を聞き盲者(もうしゃ)の日月に向(む)かふが如し。而るに或る人師は釈尊を下(くだ)して大日如来を仰崇(ぎょうすう)し、或る人師は世尊は無縁なり阿弥陀は有縁なりと。或る人師の云はく、小乗の釈尊と、或は華厳経の釈尊と、或は法華経迹門の釈尊と、此等の諸師並びに檀那等釈尊を忘れて諸仏を取ることは、例せば阿闍世(あじゃせ)太子の頻婆沙羅王(びんばしゃらおう)を殺し、釈尊に背(そむ)いて提婆達多(だいばだった)に付きしが如きなり。二月十五日は釈尊御入滅の日、乃至十二月十五日も三界の慈父の御遠忌(ごおんき)なり。善導(ぜんどう)・法然(ほうねん)・永観(ようかん)等の提婆達多に誑(たぶら)かされて阿弥陀仏の日と定め了(おわ)んぬ。四月八日は世尊御誕生の日なり、薬師仏に取り了んぬ。我が慈父の忌日を仏他に替へるは孝養の者なるか如何。寿量品に云はく「我も亦為(こ)れ世の父、狂子(おうじ)を治(じ)せんが為の故に」等云云。天台大師の云はく「本此の土の仏に従って初めて道心を発こす、亦此の仏に従って不退の地に住す。乃至猶(なお)百川(ひゃくせん)の海に潮すべきが如く、縁に牽(ひ)かれて応生すること亦復(またまた)是(か)くの如し」等云云。
 問うて曰く、法華経は誰人の為に之を説くや。答へて曰く、方便品より人記品に至るまでの八品に二意あり。上より下に向かって次第に之を読めば第一は菩薩、第二は二乗、第三は凡夫なり。安楽行(あんらくぎょう)より観持(かんじ)・提婆(だいば)・宝塔(ほうとう)・法師(ほっし)と逆次(ぎゃくじ)に之を読めば滅後の衆生を以て本と為(な)す。在世の衆生は傍(ぼう)なり。滅後を以て之を論ずれば正法一千年・像法一千年は傍なり。末法を以て正と為す。末法の中には日蓮を以て正と為すなり。問うて曰く、其の証拠如何。答へて曰く「況滅度後(きょうめつどご)」の文是なり。疑って云はく、日蓮を正と為す正文如何。答へて云はく「諸の無智の人の、悪口罵詈(めり)等し、及び刀杖(とうじょう)を加ふる者有らん」等云云。問うて曰く、自讃(じさん)は如何。答へて曰く、喜び身に余るが故に堪へ難くして自讃するなり。問うて曰く、本門の心は如何。答へて曰く、本門に於て二の心有り。一には涌出品(ゆじゅっぼん)の略開近顕遠(りゃくかいごんけんのん)は前四味(ぜんしみ)並びに迹門の諸衆をして脱せしめんが為なり。二には涌出品の動執生疑(どうしゅうしょうぎ)より一半並びに寿量品・分別功徳品(ふんべつくどくほん)の半品、已上一品二半を広開近顕遠(こうかいごんけんのん)と名づく。一向に滅後の為なり。問うて曰く、略開近顕遠の心は如何。答へて曰く、文殊・弥勒等の諸大菩薩・梵天・帝釈・日・月・衆星・竜王等、初成道の時より般若経に至る已来一人も釈尊の御弟子に非ず。此等の菩薩・天人は初成道の時、仏未だ説法したまはざる已前に不思議解脱に住して我と別円二教を演説す。釈尊其の後に阿含・方等・般若を宣説したまふ。然りと雖も全く此等の諸人の得分(とくぶん)に非ず。既に別円二教を知りぬれば蔵通をも又知れり。勝は劣を兼(か)ぬる是なり。委細(いさい)に之を論ぜば或は釈尊の師匠なるか、善知識とは是なり。釈尊に随ふに非ず。法華経の迹門の八品に来至して始めて未聞の法を聞いて此等の人々は弟子と成りぬ。舎利弗・目連等は鹿苑(ろくおん)より已来初発心(しょほっしん)の弟子なり。然りと雖も権法のみを許せり。今法華経に来至して実法を授与(じゅよ)し、法華経の本門の略開近顕遠に来至して、華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日・月・四天・竜王等位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり。若し爾(しか)れば今我等天に向かって之を見れば生身(しょうじん)の妙覚の仏が本位(ほんい)に居(こ)して衆生を利益する是なり。
 問うて曰く、誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや。答へて曰く、寿量品の一品二半は始めより終はりに至るまで正しく滅後の衆生の為なり。滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり。疑って云はく、此の法門前代に未だ之を聞かず、経文に之有りや。答へて曰く、予が智前賢(ぜんけん)に超(こ)えず、設(たと)ひ経文を引くと雖も誰人か之を信ぜん。卞和(べんか)が啼泣(ていきゅう)、伍子胥(ごししょ)の悲傷(ひしょう)是なり。然りと雖も略開近顕遠・動執生疑の文に云はく「然(しか)も諸の新発意の菩薩、仏の滅後に於て、若し是の語を聞かば、或は信受せずして、法を破する罪業の因縁を起こさん」等云云。文の心は寿量品を説かずんば末代の凡夫皆悪道に堕せん等なり。寿量品に云はく「是の好き良薬を今留(とど)めて此に在(お)く」等云云。文の心は上(かみ)は過去の事を説くに似たる様なれども、此の文を以て之を案ずるに滅後を以て本と為す。先づ先例を引くなり。分別(ふんべつ)功徳品に云はく「悪世末法の時」等云云。神力品に云はく「仏の滅度の後に能く是の経を持たんを以ての故に、諸仏皆歓喜して無量の神力を現じたまふ」等云云。薬王品に云はく「我が滅度の後、後五百歳の中に広宣流布して閻浮提(えんぶだい)に於て断絶せしむること無(な)けん」等云云。又云はく「此の経は則ち為(こ)れ閻浮提の人の病の良薬なり」等云云。涅槃経に云はく「譬へば七子あり、父母平等ならざるに非ざれども然も病者に於て心即(すなわ)ち偏(ひとえ)に重きが如し」等云云。七子の中の第一第二は一闡提(いっせんだい)謗法の衆生なり。諸病の中には法華経を謗ずるが第一の重病なり。諸薬の中に南無妙法蓮華経は第一の良薬なり。此の一閻浮提は縦広(じゅうこう)七千由善那(ゆぜんな)八万の国之有り。正像二千年の間未(いま)だ広宣流布せざる法華経を当世(とうせい)に当たって流布せしめずんば釈尊は大妄語(だいもうご)の仏、多宝仏の証明は泡沫(ほうまつ)に同じく、十方分身の仏の助舌(じょぜつ)も芭蕉(ばしょう)の如くならん。
 疑って云はく、多宝の証明、十方の助舌、地涌の涌出、此等は誰人の為ぞや。答へて曰く、世間の情に云はく、在世の為と。日蓮が云はく、舎利弗(しゃりほつ)・目・(もっけん)等は現在を以て之を論ずれば智慧第一・神通第一の大聖なり。過去を以て之を論ずれば
金竜陀仏(こんりゅうだぶつ)(※ 舎利弗の過去の本地の仏名。法華文句巻一上に「若し身子舎利弗)の化を見るときは、則ち竜陀の本を見る」とあり、更に同文句記巻一中に「舎利弗成仏して金竜陀と号す」とある。)
青竜陀仏(せいりゅうだぶつ)(※ 金竜陀仏(こんりゅうだぶつ)・青竜陀仏(しょうりゅうだぶつ)
 詳細は不明。舎利弗や須菩提などの仏弟子の過去の本地は仏であったとの言い伝えがあったようである。法華文句巻一上に「若(も)し身子(しんじ)の化(け)を見れば、則ち竜陀(りゅうだ)の本(ほん)を見る」(もし舎利弗の姿を見れば金竜陀仏の本地を見る)とある。これについて法華文句記巻一では、舎利弗が金竜陀仏であるとするのは大宝積経(だいほうしゃっきょう)にあるとの伝承を紹介している(実際には大宝積経になく出典は不明)。また同書ではあわせて「須菩提は是れ東方青竜陀仏なり」との真諦(しんだい)の説を紹介している(これも出典は不明)。
なり。
未来を以て之を論ずれば
華光(けこう)如来、(※釈尊声聞十大弟子の一人である舎利弗が、法華経譬喩品第3で未来に仏になるとの記別を受けた時の仏としての名。舎利弗は無量無辺不可思議劫の後、菩薩道を修行して、華光如来となって離垢[りく]という国土に住するとの記別を受け、如来となって後、三乗法を説き、12小劫の後、堅満菩薩[けんまんぼさつ]に対して次に成仏して華足如来[けそくにょらい]となるとの記別を授け、寿命を終え、その後、正法32小劫・像法32小劫の間、説いた教えが衆生を教え導き救うと説かれている(法華経155n以下)。?舎利弗))
霊山(りょうぜん)を以て之を論ずれば
三惑頓尽(さんなくとんじん)の大菩薩、(※三惑を頓尽した大菩薩のこと。速やかに三惑(見思惑塵沙惑無明惑)を断じ尽くした菩薩をいう。頓尽は速やかに断じ尽くすとの意。)
本を以て之を論ずれば内秘外現の古菩薩(こぼさつ)なり。
文殊(※https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AE%8A%E8%8F%A9%E8%96%A9)・
弥勒(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E8%8F%A9%E8%96%A9)等の大菩薩は過去の古仏(こぶつ)現在の応生(おうしょう)なり。梵・帝・日・月・四天等は初成已前の大聖なり。(※ 釈尊の初成道以前からの偉大な聖者)
其の上前四味(※五味のうち、最高の味である醍醐味を除いたもの。)・四教一言に之を覚(さと)りぬ。仏の在世には一人に於ても無智の者之(これ)無し。誰人の疑ひを晴らさんが為に多宝仏の証明を借り、諸仏舌を出だし、地涌の菩薩を召すや。方々(かたがた)以て謂(いわ)れ無き事なり。随って経文に「況滅度後」「令法久住」等云云。此等の経文を以て之を案ずるに偏(ひとえ)に我等が為なり。随って天台大師当世を指して云はく「後五百歳遠く妙道に沾(うるお)はん」と。伝教大師当世を記して云はく、「正像稍(やや)過ぎ已(お)はって末法太(はなは)だ近きに有り」等云云。「末法太有近」の五字は我が世は法華経流布の世に非ずと云ふ釈なり。

 問うて云はく、如来滅後二千余年に
竜樹(※https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9)・
天親(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%A6%AA)・
天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答へて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。問うて曰く、正像等に何ぞ弘通せざるや。答へて曰く、正像に之を弘通せば小乗・権大乗・迹門の法門一時に滅尽(めつじん)すべきなり。問うて曰く、仏法を滅尽せるの法何ぞ之を弘通せんや。答へて曰く、末法に於ては大・小・権・実・顕・密・共に教のみ有って得道無し。一閻浮提皆謗法と為(な)り了(おわ)んぬ。逆縁の為には但(ただ)妙法蓮華経の五字に限る。例せば不軽品の如し。我が門弟は順縁、日本国は逆縁なり。
 疑って云はく、何ぞ広略を捨てヽ要を取るや。答へて曰く、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は略を捨てヽ広を好(この)む、四十巻の大品経を六百巻と成す。羅什(らじゅう)三蔵は広を捨てヽ略を好む、千巻の大論を百巻と成せり。日蓮は広略を捨てヽ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝(しょでん)の妙法蓮華経の五字なり。
九包淵(くほうえん)(九包淵(きゅうほうえん) 九方皐(きゅうほうこう)のこと。九方堙(きゅうほういん)とも書く。曾谷入道許御書(五網抄)には「九苞淵」と記される。生没年不明。中国・春秋時代の馬の鑑定家。秦の穆公(ぼくこう)に名馬を求められ、三か月後に黄色い牝(めす)の良馬を得たと報告した。しかし実際は黒い牡(おす)馬であったため、公は伯楽(※)に真偽をたずねた。伯楽は、九包淵の見たのは馬の天性の気質であり、内に在るものを見て外を忘れた結果であると答えた。後日、九苞淵の選んだ馬は天下の名馬になったという。高僧伝巻四には「此れ乃(すなわ)ち九方堙の馬を相するなり。其の玄黄(げんこう)を略して、其の駿逸(しゅんいつ)を取る」とある。ここで「玄黄」とは馬の毛色をいう。「玄」は奥深くて明かりの及ばない所の色、すなわち黒の意。
〈※追記〉
 伯楽とは天馬の守護星の意で、馬の鑑定の名人であった周の孫陽を称した。列子の説符篇第八によれば、老境にあった孫陽が秦の穆公(在位・前六五九年〜前六二一年)から後継者を問われ、薪と野菜の呼び売りを生業とする九方皐を推薦した。九方皐が馬を探して三か月後、王に呼び出された伯楽は、九方皐が黄色い牝馬を見つけたと報告したのに対し、実際は黒い牡馬であったと聞かされ、大きなため息をついて言うには「一(いつ)に此に至れるか。是れ乃(すなわ)ち其の臣に千万にして数無き所以(ゆえん)の者なり。皐の観る所の若(ごと)きは天機(=天性の才)なり。其の精を得て其の?(そ)(=粗)を忘れ、其の?に在って其の外を忘れ、其の見る所を見て其の見ざる所を見ず、其の視る所を視て其の視ざる所を遺(のこ)す。皋の馬を相するが若きは、乃ち馬よりも貴ぶ者有るなり」と。馬が到着したところ、果たして天下の名馬であった。)が馬を相するの法は玄黄(げんこう)を略して駿逸(しゅんいつ)を取る。
史陶林(しとうりん)(支道林(しどうりん)(三一四年〜三六六年)。支遁(しとん)のこと。姓は関、字(あざな)は道林。曾谷入道許御書(五網抄)には「史陶林」(一〇三二n)と記される。中国・東晋代、陳留(河南省東北部)の学僧。幼い時から聡明で、二十五歳で出家。各地で名声を得、棲光寺(せいこうじ)等多くの寺を建てた。詩人の孫綽(そんしゃく)、書家の王羲之(おうぎし)等とともに交わりをもち、老子・荘子の思想にも通じていた。般若経や維摩経の解説者として名声を博し、四禅の経を注釈し、「即色遊玄論(そくしきゆげんろん)」「学道誡(がくどうかい)」等を著した。
〈追記〉
 支道林すなわち支遁は、格義仏教の代表的人物である。格義仏教とは、仏教経典を中国固有の思想、とりわけ老荘思想の概念や用語によって解釈しようとしたもの。西晋に流行した竹林の七賢に代表される清談(老荘思想に基づき俗世から超越した談論)の風もあり、西晋末から東晋(三一七年〜四二〇年)にかけて盛行し、老荘の無≠フ思想によって般若経典の空≠フ思想を解釈した。しかし仏教の理解には仏教本来の解釈によらなければならない、という主張が釈道安によって為され、四〇一年、長安に来朝した鳩摩羅什による訳経と相まって、格義仏教は影をひそめた。)
の経を講ぜしは細科を捨てヽ元意を取る等云云。仏既に宝塔に入って二仏座を並べ、分身来集し地涌を召し出だし、肝要を取って末代に当(あ)て五字を授与せんこと当世異義有るべからず。

 疑って云はく、今世に此の法を流布せば先相之有るや。答へて曰く、法華経に「如是相乃至本末究竟等」云云。天台の云はく「蜘虫(ちちゅう)掛(か)かりて喜び事来たり、s鵲(かんじゃく)鳴いて客人(まろうど)来たる。小事すら猶以て是くの如し、何に況んや大事をや」取意。(※「蜘虫(くも)掛りて喜び事来たり?鵲(かささぎ)鳴いて客人(まろうど)来る小事猶以て是くの如し何(いか)に況(いわん)や大事をや」
 法華玄義巻六上に「世人以(おもえ)らく蜘蛛(ちちゅう)挂(かか)って則ち喜事来り、?鵲(かんじゃく)鳴いて則ち行人(こうじん)至る。小尚(なお)徴(しるし)有り、大焉(いずくん)ぞ瑞(ずい)無からん」とある。「世の中の人は、クモが巣をかければ喜ばしい事が起こり、カササギが鳴けば来客があるとしている」との意。蜘蛛の伝承は古くから多い。?鵲(カササギ)はカラスより少し小さく、腹白で頭部が黒い。日本では北九州にいる。高麗烏(コウライガラス)といわれる。行人とは旅人の意。)
問うて曰く、若し爾れば其の相之有りや。答へて曰く、
去ぬる正嘉(しょうか)年中の大地震(正嘉年中の大地震 正嘉元年(一二五七年)八月二十三日、午後九時ごろ鎌倉地方を襲った大地震のこと。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には「廿三日 乙巳(きのとみ) 晴る。戌(いぬ)の尅(こく)、大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きことなし。山岳頽崩(たいほう)、人屋?倒(てんどう)し、築地(ついじ)皆ことごとく破損し、所々地裂け、水涌き出づ。中下馬橋(なかのげばばし)の辺、地裂け破れ、その中より火炎燃え出づ。色青しと云云」とある。この時の惨状が「立正安国論」を著される契機となった(「安国論奥書」「安国論御勘由来」三三n)。)
文永の大彗星(文永の大彗星 文永元年(一二六四年)七月五日の大彗星をさす。日蓮大聖人の時代、彗星は時代・社会を一掃する変革をもたらすできごとの兆しと考えられていた。大聖人御自身は、正嘉の大地震とともに、この大彗星を末法に地涌の菩薩が出現する前兆と捉えられていた。
〈追記〉
 彗星は、ほとんどガス体(気体)から成り、細長い楕円軌道を描いて太陽系を回り、太陽に近づくと太陽と反対方向に尾を出す天体。その形が箒(ほうき)に似ていることから箒星ともいう。中国・日本では妖星とされ、その出現は凶兆とみなされていた。)
其れより已後今に種々の大なる天変地夭(てんぺんちよう)此等は此の先相なり。
仁王経(仁王経(にんのうきょう) 後秦代の鳩摩羅什訳の仁王般若波羅蜜経(にんのうはんにゃはらみつきょう) 二巻と、唐代の不空訳の仁王護国般若波羅蜜多経(にんのうごこくはんにゃはらみったきょう) 二巻とがある。サンスクリット原典もチベット語訳も現存しておらず、中国撰述の経典とする見解がある。内容は正法が滅して思想が乱れる時、悪業のために受ける七難を示し、この災難を逃れるためには般若を受持すべきであるとして菩薩の行法を説く。法華経・金光明経とともに護国三部経とされる。)
七難(仁王経の七難 仁王経巻下に説かれる。@日月失度難(にちがつしつどなん)(太陽、月の異常現象。黒日赤日が出たり、日蝕が起きたり、多くの日輪が現れたりする)A星宿失度難(しょうしゅくしつどなん)(星等の天体の運行に異変が起き金星・彗星等が変現する)B災火難(大火が国土を焼き、一切を焼きつくす)C雨水難(季節はずれの大水のため人民が漂没する)D悪風難(大風が吹いて人民が死に、国土山河樹木が一時に滅没する)E亢陽難(こうようなん)(雨季に入っても雨が降らず旱魃のため草は枯れ穀物が実らず、人民は滅尽する)F悪賊難(他国からの侵略、国内の賊によって戦乱が起こる)。
〈追記〉
 仁王経と薬師経の七難を比較すると次のようになる。
    仁王経            薬師経
(第一難)日月失度難 ───── 日月薄蝕難(第五難)
(第二難)星宿失度難 ───── 星宿変怪難(第四難)
(第三難)諸火梵焼難  
(第四難)時節反逆難 ──┬── 非時風雨難(第六難)
(第五難)大風数起難 ──┘
(第六難)天地亢陽難 ───── 過時不雨難(第七難)
(第七難)四方賊来難 ──┬── 他国侵逼難(第二難)
             └── 自界叛逆難(第三難)
                 人衆疾疫難(第一難))
・二十九難(二十九難 仁王経巻下に説かれる七難を伝教大師が顕戒論巻中で更に細別した二十九種の難。@日月失度難に五難(失度・顔色改変・日体増多・日月薄蝕・重輪)、A衆星変改難(しゅせいへんかいなん)に四難(失度・彗星・五星・昼出)、B諸火梵焼難(しょかぼんしょうなん)に五難(竜火(りょうか)・鬼火・人火・樹火・大火)、C時節叛逆難(じせつほんぎゃくなん)に六難(時候改変・冬夏雨雪・雨土石山・非時降雹(こうはく)・雨水色変・江河汎漲(はんちょう))、D大風数起難(だいふうすうきなん)に三難(昏蔽(こんへい)日月・発屋抜樹・飛沙走石)、E天地亢陽難(てんちこうようなん)に三難(陂地竭涸(ひちけつこ)・草木枯死・百穀不成)、F四方賊来難(しほうぞくらいなん)に三難(侵国内外・兵戈競起・百姓喪亡)があり、総計して二十九の難となる。
〈追記〉
 仁王経の説く七難、すなわち@日月失度難、A星宿失度難、B災火難、C雨水難、D悪風難、E亢陽難、F悪賊難は、伝教大師の顕戒論巻中において@日月失度難、A衆星変改難、B諸火焚焼難、C時節叛逆難、D大風数起難、E天地亢陽難、F四方賊来難と、名称こそ異なるが同義である。)
無量の難(無量の難 伝教大師は顕戒論巻中で仁王経の七難を細科して二十九難としたが、その二十九難を更に細かくしたもの。数が多いので無量としている。「経に云く『是くの如きの災難、無量無辺なり』と」。
〈追記〉
 七難の第一である日月難のうちにまた
 @日月度を失し時節反逆し(日月失度難)、
 A或は赤日出で或いは黒日出で(顔色改変難)、
 B二三四五の日出づ(日体増多難)、 
 C或は日蝕して光無く(日月薄蝕難)、
 D或は日輪一重二三四五重輪現ぜん(重輪難)
の五難がある。)
金光明経・
大集経(大集経(だいじっきょう) 大方等大集経(だいほうどうだいじっきょう)の略。中国・北涼の曇無讖(どんむしん)らの訳。六十巻。大乗の諸経を集めて一部の経としたもの。国王が仏法を守護しないなら三災が起こると説く。また、釈尊滅後に正法が衰退していく様相を五百年ごとに五つに区分する「五五百歳(ごごひゃくさい)」を説き、これが日蓮大聖人の御在世当時の日本において、釈尊滅後二千年以降を末法とする根拠とされた。)
守護経(守護経 十巻。守護国界主陀羅尼経(しゅごこっかいしゅだらにきょう)の略。中国・唐の般若(はんにゃ)・牟尼室利(むにしり)の共訳。守護国界経と略す。陀羅尼の力によって国主を守護することが、すべての人々を守護することになると説く。日本では弘法が鎮護国家の法として真言宗に取り入れて講説した。)
薬師経(薬師経(やくしきょう) 漢訳には四種が現存する。通常、唐の玄奘が訳した薬師琉璃光如来本願功徳経(やくしるりこうにょらいほんがんくどくきょう)一巻をさし、日蓮大聖人もこれを用いられている。仏が文殊菩薩に対して薬師如来の功徳を説く。薬師如来に供養すれば七難を免れ、国が安穏になることを説いている。その内容から、日本では護国経典として尊重された。)等の諸経に挙(あ)ぐる所の諸難皆之有り。
但(ただ)し無き所は二三四五の日の出(い)づる大難なり。而(しか)るを今年佐渡の国の土民口(くちぐち)に云ふ、今年正月廿三日の申(さる)の時に西方に二つの日出現す(太陽が二つ並んで出現したように見える現象のこと。大気中に浮かぶ氷の結晶による太陽光の屈折や反射で生ずる「幻日」(太陽の左右両側に現れる輝点)や「百二十度幻日」(天頂を軸として太陽から百二十度離れた方向に現れる輝点)、また「反対幻日」(天頂を軸として太陽の反対側、百八十度離れた方向に現れる輝点)によって、あたかも太陽が二つあるように見えるものをいう。陰陽道では二人の王が並び立って世の中が乱れる凶瑞とした。)。或は云ふ、三つの日出現す等云云。二月五日には東方に明星二つ並び出づ。其の中間は三寸計(ばか)り等云云。此の大難は日本国先代にも未だ之有らざるか。
最勝王経(さいしょうおうきょう)(『金光明最勝王経』は、四天王をはじめとする諸天善神による国家鎮護の教説を含んだ経典で、10巻から成る。
 天平13年(741)2月14日、聖武天皇は詔をくだし、国ごとに国分寺と国分尼寺を建立することを命じた。そしてこの時、国分寺の塔に金字の『金光明最勝王経』を安置することも定められた。国分寺は正しくは「金光明四天王護国之寺」といい、『金光明最勝王経』信仰に基づき、四天王による国家鎮護を期待する国立寺院であった。金字の『金光明最勝王経』は、仏教による鎮護国家のシンボルとして制作された至高の経巻である。なお十巻のうち巻第六に、四天王による国家鎮護が説かれている。・・・・仏教経典の一つ。この経を聞いて信受するところには四天王など諸天善神加護が得られると説いた経典。唐の義浄の訳、一〇巻、三一品。曇無讖訳の金光明経の異訳であるが、内容は増広されている。仁王経法華経と共に国家鎮護の三部経とされている。最勝王経。金光明経。)
の王法正論(おうぼうしょうろん)品に云はく「変化(へんげ)の流星堕ち二つの日倶時(ぐじ)に出で、他方の怨賊(おんぞく)来たって国人(こくじん)喪乱(そうらん)に遭(あ)ふ」等云云。
首楞厳(しゅりょうごん)経(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E6%A5%9E%E5%8E%B3%E7%B5%8C)に云はく「或は二つの日を見(あらわ)し或は両(ふた)つの月を見(あらわ)す」等。
薬師経に云はく「日月薄蝕(はくしょく)の難」等云云(「薄」とは、もやや塵のため太陽や月の光が薄くなること。「蝕」は日食・月食が起こること。古来、日月の薄蝕の乱れは、帝王の権威が衰えたり、他国から侵されたりする凶瑞とされた。)
金光明経(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%85%89%E6%98%8E%E7%B5%8C)に云はく「彗星数(しばしば)出で両(ふた)つの日並び現じ薄蝕(はくしょく)恒(つね)無(な)し」と。大集経に云はく「仏法実に隠没(おんもつ)せば乃至日月明(あ)かりを現ぜず」等。
仁王経に云はく「日月度(ど)を失(うしな)ひ時節返逆(ほんぎゃく)し、或は赤日出で黒日出(い)で二三四五の日出(い)づ、或は日蝕(しょく)して光無く、或は日輪一重二三四五重輪現はる」等云云。(仁王経に説かれる七難の第一、日月難のうちに、また@日月度を失い、時節反逆(ほんぎゃく)し(日月失度難)、A或(あるい)は赤日(しゃくにち)出で、黒日出で(顔色改変難)、B二三四五の日出で(日体増多難)、C或は日蝕して光無く(日月薄蝕難)、D或は日輪一重・二三四五重輪現ずる(重輪難)の五難がある。)
此の日月等の難は七難・二十九難・無量の諸難の中に第一の大悪難なり。

 問うて曰く、此等の大中小の諸難は何に因(よ)って之を起こすや。
答へて曰く、最勝王経に云はく「非法(ひほう)を行ずる者を見て当(まさ)に愛敬(あいぎょう)を生じ善法を行ずる人に於て苦楚(くそ)(※苦しみ痛むこと。 辛苦。 苦痛。)して治罰(じばつ)す」等云云。
法華経に云はく。涅槃経に云はく。
金光明経に云はく「悪人を愛敬し善人を治罰するに由(よ)るが故に、星宿(せいしゅく)及び風雨皆(みな)時を以(もっ)て行(めぐ)らず」等云云。
大集経に云はく「仏法実に隠没せば乃至是くの如き不善業の悪王と悪比丘と我が正法を毀壊(きえ)す」等。
仁王経に云はく「聖人去る時七難必ず起こる」等。
又云はく「法に非ず律に非ずして比丘を繋縛(けばく)すること獄囚(ごくしゅう)の法の如(ごと)くす。爾(そ)の時に当たって法滅せんこと久(ひさ)しからず」等。
又云はく「諸の悪比丘多く名利を求め国王・太子・王子の前に於て自(みずか)ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別(わきま)へずして此の語を信聴(しんちょう)せん」等云云。
此等の明鏡を齎(もっ)て当時の日本国に引き向かふるに天地を浮かぶること宛(あたか)も符契(ふけい)の如し、眼(まなこ)有らん我が門弟は之を見よ。
当に知るべし、此の国に悪比丘等有って、天子・王子・将軍等に向かって讒訴(ざんそ)を企(くわだ)て聖人を失ふ世なり。

問うて曰く、弗舍密多羅王(ほっしゃみったらおう)(※弗沙弥多羅王1ほっしゃみったらおう ふっしゃみったらおう 
紀元前二世紀頃のインドの王。阿育王の末裔で孔雀王朝最後の王とされ、多くの僧侶を殺し、鶏頭摩寺破壊し、仏教を迫害した悪王とされる。)
・会昌(かいしょう)天子(※会昌天子5かいしょうてんし 
唐第15代皇帝・武宗のこと。その統治時代の年号を会昌としたので会昌天子と呼ばれる。武宗道教を重んじ廃仏令を出して仏教を弾圧した。)
・守屋(もりや)(※守屋
(〜五八七年)。物部守屋(もののべのもりや)のこと。飛鳥時代の中央貴族。敏達(びだつ)・用明天皇の時代に大連(おおむらじ)となり、父の尾輿(おこし)の排仏論を継いで、崇仏派で大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがのうまこ)と対立した。敏達天皇の時に疫病が流行したが、守屋はそれを仏法を崇拝したためであるとして、堂塔を壊し仏像を焼いた。用明天皇の没後,穴穂部皇子(あなほべのみこ)の即位を図ったが、皇子は馬子に殺され失敗した。用明天皇の同母妹で敏達天皇の皇后である額田部皇女(のちの推古天皇)と、その甥の厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)とを奉じた馬子や諸豪族のなかで孤立し、馬子らに攻められて敗死した。)
等は月支(がっし)・真旦(しんだん)・日本の仏法を滅失し、
提婆(だいば)菩薩(※提婆菩薩 梵名アーリヤデーヴァ(?ryadeva)、音写して提婆。聖提婆(しょうだいば)、迦那提婆(かなだいば)ともいう。二〜三世紀頃の南インドの僧。提婆は梵語で天と訳し、迦那は片目の義。一眼を天に供養したため、片目となったと付法蔵経に伝えられる。また一女人に与えて不浄を悟らせたともいわれる。竜樹のもとで出家し、諸国を遊化して広く衆生を救った。あるとき南インドの王が外道に帰依しているのを救おうとして、王の前であらゆる外道を破折した。ときに一外道の無知・凶悪な弟子があり、師が屈服したのを恥じて恨みを懐き、提婆を刺したが、提婆は命尽きる前に、かえってその狂愚をあわれみ、外道を救ったという。著書に「百論」「四百論」などがある。)
・師子尊者(※師子尊者
 梵名アーリヤシンハ(?ryasimha)、獅子(ライオン)の意。付法蔵第二十三(第二十四との説もある)の最後の伝灯者。六世紀ごろの中インドの人。付法蔵因縁伝(付法蔵経)巻六によると、?賓国(けいひんこく)でおおいに仏事をなしたが、国王弥羅掘(みらくつ)は邪見の心が盛んで敬信せず、仏教の塔寺を破壊し、衆僧を殺害し、最後に利剣で師子尊者の頸(くび)を斬った。その時一滴の血も流れず、白い乳のみが涌き出たという。これは尊者が白法(びゃくほう)(正しい教え)をもっていたこと、また成仏したことをあらわすとされる。摩訶止観巻一では、弥羅掘王を檀弥羅(だんみら)王としている。景徳伝灯録巻二によると、師子尊者を斬ったあと、王の右手は地に落ち、七日のうちに王も死んだという。)等を殺害す、其の時何ぞ此の大難を出(い)ださざるや。

答へて曰く、災難は人に随って大小有るべし。
正像二千年の間の悪王・悪比丘等は、或は外道を用ひ或は道士(どうし)を語(かた)らひ或は邪神を信ず。
仏法を滅失すること大なるに似れども其の科(とが)尚浅きか。
今当世の悪王・悪比丘の仏法を滅失するは、小を以て大を打ち、権を以て実を失ふなり。
人心を削(けず)りて身を失はず、寺塔を焼き尽くさずして自然に之を喪(ほろ)ぼす。其の失前代に超過せるなり。

 我が門弟之を見て法華経を信用せよ。
目を瞋(いか)らして鏡に向かへ。
天の瞋るは人に失(とが)有ればなり。
二つの日並び出づるは一国に二(ふたり)の国王を並ぶる相なり。
王と王との闘諍(とうじょう)なり。
星の日月を犯(おか)すは臣の王を犯す相なり。
日と日と競(きそ)ひ出づるは四天下一同の諍論(じょうろん)なり。
明星並び出づるは太子と太子との諍論なり。
是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か。
(※ 「本門の三つの法門之を建立し」 御内証においては、既に三大秘法の構想が明確にあらせられた証拠)