<御相承箱の所在について>

―疑難は流言蜚語の典型―
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▼ ところが、この大切な相承箱が、今現在、本来あるべき日顕(上人)の手元にないというのだ。(略)では、いったい相承箱はどこにあるのか。ある僧侶は語る。「日達上人はかなり以前から、大宣寺の菅野(尊能師)に相承箱を預けていたといいます」(『法主詐称』)
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▲ 御相承箱が「日顕(上人)の手元にないという」などと、御相承箱の所在について、いいかげんな臆説(おくせつ)を伝聞の形で書いているが、これを称して流言蜚語(りゅうげんひご)というのだ。

● 15日午後6時12分、日淳上人の命により、御相承箱を守護して左記の6名、大講堂横より出発(略)16日午前6時 山門着、御大事(※相承箱)御宝蔵へ納(65世日淳上人から66世日達上人への御相承の儀式の記録『大日蓮』昭和34年12月号)
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この時の儀式の終了後、御相承箱は再び大石寺御宝蔵へ収納され、以来、今日まで変わることなく厳護されてきている。
この間、御相承箱を、たとえば「大宣寺」に移したとか、「預け」た、などという記録は全くないし、そのような証言も証拠も何1つないのである。

 そもそも、いったい何故、日達上人が御相承箱を大宣寺に預けられる必要があろうか。
御相承と一体不可分の関係にある戒壇大御本尊は大石寺に厳護されているのに、御相承箱については「かなり以前から大宣寺」に「預けていた」などという、たわけた話があるはずはないではないか。

 しかも、その根拠は、ただ「ある僧侶」とやら(おそらくは日蓮正宗から脱落した元僧侶であろうが、それは僧侶ではない)が、これまた伝聞の形で「預けていたといいます」と語った、というだけ。

結局、この話、どこまでいっても、流言蜚語でしかないのである。

 むろん、これについて日蓮正宗側では、
■「何の根拠もない妄説である
として明確に否定され、
一方の当事者とされた大宣寺・菅野尊能師も、
■「御相承箱を預かったなどという事実は全くない」旨、明言されている。

 このように、記録の上からも道理の上からも疑いがなく、また当事者双方も揃(そろ)って否定している以上、これにあくまでも疑義を挟(はさ)みたいなら、いつ、いかなる目的で、日達上人が御相承箱を大宣寺に預けたのか、明確な根拠を挙げて、自説を証明すべきであろう。
言い掛かりを付けた側に、その証明責任があるのは当然である。(『慧妙』H15.8.16)

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▼ 相承箱を手元に留(とど)め置いている菅野(尊能師)が「相承箱は大宣寺にあり、代が替われば本山に返す」と言っている(『続・法主詐称』)
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● しかして脱落僧らは、これらの論難が「菅野(尊能師)の口から、宗内の複数の僧侶に語られた」「菅野(尊能師)がごく近しい人間に語った話」だなどと、都合のいい説明をしているが、"当事者"にされてしまった菅野日龍尊能師、および役僧の方々は、平成15年7月22日の時点で、すでに
●「御相承箱を預かったなどという事実は全くない
●「かかる記述は全くの事実無根である」旨、明言されているのであるから、今さら何を言おうと、全く無意味。

 脱落僧らに残された道は、"菅野尊能師から聞いた"とする人物を登場させることだけだが、前書(※『法主詐称』)が発行され、これに徹底破折が加えられてから1年半が経(た)った今でも、まだそれを明かせないということは、脱落僧が自ら"相承箱疑惑は捏造(ねつぞう)でした"と告白しているようなものである。(『慧妙』H17.2.16)

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<「奪還作戦」は完全なデマ>
―自らも「信じ難い」と白状―
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▼>昭和56年1月13日、日顕上人のほか役僧4人が、御相承箱を奪(うば)い返すために大宣寺へ乗り込んだが、体(てい)よく追い返されてしまい失敗したという(『法主詐称』)
>にわかには信じたい話だが、相承箱が日顕(上人)の手元にないことだけは確実のようだ。(同)
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● 自らも「信じがたい話」なら、普通は書かないものだが、それがダイジェスト版のパンフになると、
 「このほど発覚した衝撃の新事実、『相承箱奪還作戦』」
という断定的表現に変わり、さらに、この悪書を紹介した『創価新報』(030716)になると、
 「やはり日顕(上人)には『相承箱』がなかった! 大宣寺に押し掛け菅野(住職)から奪い取ろうとして失敗」
などという大々的な見出し記事に仕立て上げられていく。

 まったく、あるジャーナリストの言葉ではないが、この手口は、デマの発生と肥大の様相を知るのに格好の教材といえよう。

 ともあれ、前述のように、御相承箱が大石寺御宝蔵に蔵されており、大宣寺に預けた等の事実がない以上、もとより「奪還作戦」などということも、あろうはずがない。
いみじくも脱落僧自らが「信じがたい話」と述べているように、これまた「という」類(たぐい)のいいかげんな与汰(よた)話にすぎないのである。

 ちなみに、本紙前号でも既報のとおり、この「奪還作戦」なる与汰話の中で実名を挙(あ)げられた、尊能師、役僧の方々は、これを事実無根の作り話として否定し、池田創価学会および脱落僧に対し、責任を追及する通告書を送り付けられている。(『慧妙』H15.8.16)

● 私としても昭和56年1月13日にそのようなことがあったなどと言われることは、まったく身に覚えのないことです。
第一、「御相承箱」が大宣寺にある訳がないのだから、それをあるなどと口にするはずはないんだよ。
それに大宣寺所属のある法華講信徒がこの日1日中、大宣寺の旧本堂で唱題をしており、そんな騒がしいことはまったくなかったと証言しています。

(菅野日龍御尊能化『大白法』H15.10.1)

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▼ 1台の乗用車に日顕上人以下5名の方が乗車されて大宣寺に向かった(同・取意)
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〈早瀬庶務部長〉大体、13日と言えば、総本山は宗祖日蓮大聖人様の御講の日だし、末寺も御講で忙しい日です。
それに彼らは1台の車に5人が乗ったとしているが、御法主上人が助手席に乗られることなど考えられないし、後席に3人掛けでお座りいただくことも、まずあり得ません。


〈阿部信彰御尊師〉私も前年の昭和55年9月に単身でブラジルヘ赴任しており、同年の暮れにいったん日本へ帰国したのですが、実はその頃、体調を崩しており、とても御法主上人をお乗せして運転できる状況ではありませんでした。

〈八木日照御尊能化〉そうだね。昭和56年1月というと、あの当時、御法主上人のお車の運転はたしか警備も兼ねて柳坂特道師(現マレーシア布教所責任者)や磯村如道師(現要行寺住職)が専任していたはずです。総本山からお出かけの場合、他の者が御法主上人専用車を運転することなどまず考えられないね。

〈菅野日龍御尊能化〉それと大宣寺には当時、数名の教師とかなりの数の所化が在勤しており、御法主上人が御下向され、しかもそんな騒動があれば、とっくの昔に宗門全体に話が広まっているはずです。本当にすぐ判ってしまうような嘘を、なぜつくんだろうな。(『大白法』H15.10.1)


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<「相承箱」の中身>
―日亨上人お言葉を捏造!―
―自らの影に吠えつく痴犬―
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▼ この相承箱の中身について、堀日亨上人は生前、「百六箇抄、本因妙抄、この両書に関するもの。
あとは授受の代々の法主が伝える1枚の紙切れ」と明かされている。「紙切れ」とは、いかにも堀上人らしい表現だが、「誰が誰に相承した」という系譜図のようなものといわれている。そこで、俄然、問題になるのが「誰が誰に相承した」と書き付けられた「紙切れ」に、果たして67世法主・阿部日顕(上人)の名前はあるのかという疑問である。(『法主詐称』)
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● あろうことか、「秘伝」の御相承箱の中身についてまで、勝手な臆測(おくそく)を述べたてている。
 まず、彼奴らが物知り顔で挙げている、59世日亨上人お言葉と称するものだが、このとおりの日亨上人お言葉はどこにも存在しない。

 そもそも、唯授一人相承に拘る「金紙(こんし)相承」という名目を、御当代日顕上人が平成4年に初めて明かされる以前、御歴代上人におかれては、これを伏せて、時に、天台法華宗等における「切紙相承」のようなもの、と表現されることはあった。
これを彼奴ら脱落僧が、勝手に「1枚の紙切れ」などと言い変えているのである。

 つまり彼奴らは、「切紙相承」と「紙切れ」の違いすらわからぬ、オソマツな似非(えせ)僧侶だということだ。

 また、それ(紙切れ)は「『誰が誰に相承した』という系譜図のようなものといわれている」などというのも、彼奴らの勝手な作り話であり、このような珍説が宗内一般に流れたことは、近代にも絶えてない。

 こうした自らの作り話に基づき、彼奴らは「(系譜図のような紙切れに)阿部日顕(上人)の名前は影も形もないに違いない」などと騒ぎ立てているのだが、これでは、まるで自分の影に吠えつく痴犬である。馬鹿馬鹿しくて、話にならぬではないか。(『慧妙』H15.8.16)


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―相伝書と御相承は別と御講義―

御相承の中には両巻抄(筆者注・『百六箇抄』と『本因妙抄』のこと)はない(第59世日亨上人御講義=昭和18年/大村寿道御尊師等による「聞書」)

富士の相承は必ずしも両巻抄に依るのではない(第59世日亨上人御講義=昭和18年/大村寿道御尊師等による「聞書」)
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 『百六箇抄』と『本因妙抄』が「血脈相承」に含まれてはいないと、彼らの大嘘とは正反対を述べられているのである。
 彼らは、御相承の内容は『御書全集』等にすべて公開されているかのように言うが、御相承を知らない者がどうこう言えるはずはなく、勝手な推測である。

 御相承が厳として存することは右の日亨上人の「聞書」の文からも明らかである。

『百六箇抄』や『本因妙抄』等は日蓮大聖人の文底下種仏法における広義の「血脈相承」に含まれる御法門の相伝書であることは当然ながら、いわゆる唯授一人の血脈の御相承書ではないのである。(『大白法』H15.11.1)