勤行要典の解説 講義資料

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上古の勤行の時に読誦していた方便品の箇所

088上-01(8-005B-24)
088下-01
妙法蓮華経方便品第二
爾の時に世尊、三昧より、安詳として起って、舎利弗に告げたまわく、
諸仏の智慧は、甚深無量なり。其の智慧の門は、難解難入なり。一切の声聞、辟支仏の知ること能わざる所なり。所以は何ん。仏曾て、百千万億無数の諸仏に親近し、尽く諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞えたまえり。甚深未曾有の法を成就して、宜しきに随って説きたもう所、意趣解し難し。
088下-01 かな
そのときにせそん、さんまいより、あんじょうとしてたって、しゃりほつにつげたまわく、しょぶつのちえは、じんじんむりょうなり。そのちえのもんは、なんげなんにゅうなり。いっさいのしょうもん、ひゃくしぶつのしることあたわざるところなり。ゆえはいかん。ほとけかつて、ひゃくせんまんのくむしゅのしょぶつにしんごんし、こどごとくしょぶつのむりょうのどうほうをぎょうじ、ゆうみょうしょうじんして、みょうしょうあまねくきこえたまえり。じんじんみぞうのほうをじょうじゅして、よろしきにしたがってときたもうところ、いしゅげしがたし。

舎利弗、吾成仏してより已来、種種の因縁、種種の譬喩をもって広く言教を演ベ、無数の方便をもって衆生を引導して、諸の著を離れしむ。所以は何ん。如来は方便、知見波羅蜜、皆已に具足せり。舎利弗、如来の知見は、広大深遠なり。無量、無礙、力、無所畏 、禅定、解脱、三昧あって、深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり。
舎利弗、如来は能く種種に分別し、巧に諸法を説き、言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ。舎利弗、要を取って之を言わば、無量無辺未曾有の法を、仏悉く成就したまえり。
止みなん、舎利弗。復説くべからず。所以は何ん。仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。
所謂諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり。
089下-01 かな
しゃりほつ、われじょうぶつしてよりこのかた、しゅじゅのいんねん、しゅじゅのひゆをもってひろくごんぎょうをのべ、むしゅのほうべんをもってじゅじょうをいんどうして、もろもろのじゃくをはなれしむ。ゆえはいかん。にょらいはほうべん、ちけんはらみつ、みなすでにぐそくせり。しゃりほつ、にょらいのちけんは、こうだいじんのんなり。むりょう、むげ、りき、むしょい、ぜんじょう、げだつ、さんまいあって、ふかくむさいにいり、いっさいみぞうのほうをじょうじゅせり。
しゃりほつ、にょらいはよくしゅじゅにふんべつし、たくみにしょほうをとき、ごんじにゅうなんにして、しゅのこころをえっかせしむ。しゃりほつ、ようをとってこれをいわば、むりょうむへんみぞうのほうを、ほとけことごとくじょうじゅしたまえり。
やみなん、しゃりほつ。またとくべからず。ゆえはいかん。ほとけのじょうじゅしたまえるところは、だいいちけうなんげのほうなり。ただほとけとほとけとのみ、いましよくしょほうのじっそうをくじんしたまえり。
いわゆるしょほうのにょぜそう、にょぜしょう、にょぜたい、にょぜりき、にょぜさ、にょぜいん、にょぜえん、にょぜか、にょぜほう、にょぜほんまつくきょうとうなり。


090下-03
爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく、
世雄は量るべからず 諸天及び世人
一切衆生の類 能く仏を知る者無し
仏の力と無所畏 解脱諸の三昧
及び仏の諸余の法は 能く測量する者無し
本無数の仏に従って 具足して諸の道を行じたまえり
甚深微妙の法は 見難く了すべきこと難し
無量億劫に於て 此の諸の道を行じ已って
道場にして果を成ずることを得て 我已に悉く知見す
090下-03 かな
そのときにせそん、かさねてこのぎをのべんとほっして、げをといてのたまわく、
せおうははかるべからず しょてんおよびせにん
いっさいしゅじょうのたぐい よくほとけをしるものなし
ほとけのりきとむしょい げだつもろもろのさんまい
およびほとけのしょよのほうは よくしきりょうするものなし
もとむしゅのほとけにしたがって ぐそくしてもろもろのどうをぎょうじたまえり
じんじんみみょうのほうは みがたくりょうすべきことかたし
むりょうおくこうにおいて このもろもろのどうをぎょうじおわって
どうじょうにしてかをじょうずることをえて われすでにことごとくちけんす

091下-01
是の如き大果報 種種の性相の義を
我及び十方の仏 乃し能く是の事を知ろしめせり
是の法は示すべからず 言辞の相寂滅せり
諸余の衆生類は 能く得解すること有ること無し
諸の菩薩衆の 信力堅固なる者をば除く
諸仏の弟子衆の 曽て諸仏を供養し
一切の漏已に尽して 是の最後身に住せる
是の如き諸人等 其の力堪えざる所なり
仮使世間に満てらん 皆舎利弗の如くにして
思を尽して共に度量すとも 仏智を測ること能わじ
正使十方に満てらん 皆舎利弗の如く
及び余の諸の弟子 亦十方の刹に満てらん
091下-01 かな
かくのごときだいかほう しゅじゅのしょうそうのぎを
われおよびじっぽうのほとけ いましよくこのじをしろしめせり
このほうはしめすべからず ごんじのそうじゃくめつせり
しょよのしゅじょうるいは よくとくげすることあることなし
もろもろのぼさつしゅの しんりきけんごなるものをばのぞく
しょぶつのでししゅの かつてしょぶつをくようし
いっさいのろすでにつくして そのさいごしんにじゅうせる
かくのごときしょにんら そのちからたえざるところなり
たといせけんにみてらん みなしゃりほつのごとくにして
おもいをつくしてともにたくりょうすとも ぶっちをはかることあたわじ
たといじっぽうにみてらん みなしゃりほつのごとく
およびよのもろもろのでし またじっぽうのくににみてらん

092下-01
思を尽して共に度量すとも 亦復知ること能わじ
辟支仏の利智にして 無漏の最後身なる
亦十方界に満ちて 其の数竹林の如くならん
斯等共に一心に 億無量劫に於て
仏の実智を思わんと欲すとも 能く小分をも知ること莫けん
新発意の菩薩の 無数の仏を供養し
諸の義趣を了達し 又能善く法を説かんもの
稲麻竹葦の如くにして 十方の刹に充満せん
一心に妙智を以て 恒河沙劫に於て
咸く皆共に思量すとも 仏智を知ること能わじ
不退の諸の菩薩 其の数恒沙の如くにして
一心に共に思求すとも 亦復知ること能わじ
092下-01 かな
おもいをつくしてともにたくりょうすとも またまたしることあたわじ
ひゃくしぶつのりちにして むろのさいごしんなる
またじっぽうかいにみちて そのかずちくりんのごとくならん
これらとともにいっしんに おくむりょうこうにおいて
ほとけのじっちをおもわんとほっすとも よくしょうぶんをもしることなけん
しんぼっちのぼさつの むしゅのほとけをくようし
もろもろのぎしゅをりょうだつし またよくほうをとかんもの
とうまちくいのごとくにして じっぽうのくににじゅうまんせん
いっしんにみょうちをもって ごうがしゃこうにおいて
ことごとくみなともにしりょうすとも ぶっちをしることあたわじ
ふたいのもろもろのぼさつ そのかずごうじゃのごとくにして
いっしんにともにしぐすとも またまたしることあたわじ

093下-01
又舎利弗に告ぐ 無漏不思議の
甚深微妙の法を 我今已に具え得たり
唯我のみ是の相を知れり 十方の仏も亦然なり
舎利弗当に知るべし 諸仏は語異ること無し
仏の所説の法に於て 当に大信力を生ずべし
世尊は法久しうして後 要ず当に真実を説きたもうべし
諸の声聞衆と 及び縁覚乗を求むるものに告ぐ
我苦縛を脱せしめ 涅槃を逮得したることは
仏方便力を以て 示すに三乗の教を以てす
衆生処処の著 之を引いて出ずることを得せしめんとなり
093下-01 かな
またしゃりほつにつぐ むろのふしぎの
じんじんみみょうのほうを われいますでにそなええたり
ただわれのみこのそうをしれり じっぽうのほとけもまたしかなり
しゃりほつまさにしるべし しょぶつはみことことなることなし
ほとけのしょせつのほうにおいて まさにだいしんりきをしょうずべし
せそんはほうひさしうしてのち かならずまさにしんじつをときたもうべし
もろもろのしょうもんしゅと およびえんがくじょうをもとむるものにつぐ
われくばくをだっせしめ ねはんをたいとくしたることは
ほとけほうべんりきをもって しめすにさんじょうのきょうをもってす
しゅじょうしょしょのじゃく これをひいていずることをえせしめんとなり

093下-11
爾の時に大衆の中に、諸の声聞、漏尽の阿羅漢、阿若O陳如等の千二百人、及び声聞、辟支仏の心を発せる比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷有り。各是の念を作さく、
今者世尊、何が故ぞ、慇懃に方便を称歎して、是の言を作したもう。仏の得たまえる所の法は、甚深にして解し難く、言説したもう所有るは、意趣知り難し。一切の声聞、辟支仏の及ぶこと能わざる所なり。
仏、一解脱の義を説きたまいしかば、我等も亦此の法を得て、涅槃に到れり。而るに今、是の義の所趣を知らず。
093下-11 かな
そのときにだいしゅなかに、もろもろのしょうもん、ろじんのあらかん、あにゃきょうじんにょとうのせんにひゃくにん、およびしょうもん、ひゃくしぶつのこころをおこせるびく、びくに、うばそく、うばいあり。おのおのこのねんをなさく、
いませそん、なにがゆえぞ、おんごんにほうべんをしょうたんして、このみことをなしたもう。ほとけのえたまえるところのほうは、じんじんにしてげしがたく、ごんせつしたもうところあるは、いしゅしりがたし。いっさいのしょうもん、ひゃくしぶつのおよぶことあたわざるところなり。
ほとけ、いちげだつのぎをときたまいしかば、われらもまたこのほうをえて、ねはんにいたれり。しかるにいま、このぎのしょしゅをしらず。

094下-08
爾の時に舎利弗、四衆の心の疑を知り、自らも亦未だ了せずして、仏に白して言さく、
世尊、何の因、何の縁あってか、慇懃に諸仏第一の方便、甚深微妙難解の法を称歎したもう。我昔より来、未だ曾て仏に従って是の如き説を聞きたてまつらず。今者、四衆咸く皆疑有り。唯願わくは世尊、斯の事を敷演したまえ。
世尊何か故ぞ、慇懃に甚深微妙難解の法を称歎したもう。
094下-08 かな
そのときにしゃりほつ、ししゅのこころのうたがいをしり、みずからもまたいまだりょうせずして、ほとけにもうしてもうさく、
せそん、なんのいん、なんのえんあってか、おんごんにしょぶつだいいちのほうべん、じんじんみみょうなんげのほうをしょうたんしたもう。われむかしよりこのかた、いまだかつてほとけにしたがってかくのごときせつをききたてまつらず。いま、ししゅことごとくみなうたがいあり。ただねがわくはせそん、このじをふえんしたまえ。
せそんなにがゆえぞ、おんごんにじんじんみみょうなんげのほうをしょうたんしたもう。

095下-03
爾の時に舎利弗、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言さく、
慧日大聖尊 久しくあって乃し是の法を説きたもう
自ら是の如き 力無畏三昧
禅定解脱等の 不可思議の法を得たりと説きたもう
道場所得の法は 能く問を発す者無し
我が意測るべきこと難し 亦能く問う者無し
問うこと無けれども而も自ら説いて 所行の道を称歎したもう
智慧甚だ微妙にして 諸仏の得たまえる所なり
無漏の諸の羅漢 及び涅槃を求むる者
095下-03 かな
そのときにしゃりほつ、かさねてこのぎをのべんとほっして、げをといてもうさく、
えにちだいしょうそん ひさしくあっていましこのほうをときたもう
みずからかくのごとき りきむいさんまい
ぜんじょうげだつとうの ふかしぎのほうをえたりとときたもう
どうじょうしょとくのほうは よくといをおこすものなし
わがこころはかるべきことかたし またよくとうものなし
とうことなけれどもしかもみずからといて しょぎょうのどうをしょうたんしたもう
ちえはなはだみみょうにして しょぶつのえたまえるところなり
むろのもろもろのらかん およびねはんをもとむるもの

096下-01
今皆疑網に堕しぬ 仏何が故ぞ是を説きたもう
其の縁覚を求むる者 比丘比丘尼
諸の天龍鬼神 及び乾闥婆等
相視て猶予を懐き 両足尊を瞻仰す
是の事云何なる為き 願わくは仏為に解説したまえ
諸の声聞衆に於て 仏我を第一なりと説きたもう
我今自ら智に於て 疑惑して了ること能わず
是れ究覚の法とや為ん 是れ所行の道とや為ん
仏口所生の子 合掌瞻仰して待ちたてまつる
願わくは微妙の音を出して 時に為に実の如く説きたまえ
諸の天龍神等 其の数恒沙の如し
仏を求むる諸の菩薩 大数八万有り
096下-01 かな
いまみなぎもうにだしぬ ほとけなにがゆえぞこれをときたもう
そのえんがくをもとむるもの びくびくに
もろもろのてんりゅうきじん およびけんだつばとう
あいみてゆよをいだき りょうそくそんをせんごうす
このじいかなるべき ねがわくはほとけためにげせつしたまえ
もろもろのしょうもんしゅにおいて ほとけわれをだいいちなりとときたもう
われいまみずからちにおいて ぎわくしてさとることあたわず
これくきょうのほうとやせん これしょぎょうのどうとやせん
ぶっくしょしょうのみこ がっしょうせんごうしてまちたてまつる
ねがわくはみみょうのみこえをいだして ときにためにじつのごとくときまたえ
もろもろのてんりゅうじんとう そのかずごうじゃのごとし
ほとけをもとむるもろもろのぼさつ だいしゅはちまんあり

097下-01
又諸の万億国の転輪聖王の至れる
合掌し敬心を以て 具足の道を聞きたてまつらんと欲す
爾の時に仏、舎利弗に告げたまわく、
止みなん、止みなん、復説くべからず。若し是の事を説かば、一切世間の諸天及ぴ人、皆当に驚疑すべし。
舎利弗、重ねて仏に白して言さく、
世尊、唯願わくは之を説きたまえ。唯願わくは之を説きたまえ。所以は何ん。是の会の無数百千万億阿僧祗の衆生は、曽て諸仏を見たてまつり、諸根猛利にして、智慧明了なり。仏の所説を聞きたてまつらば、則ち能く敬信せん。
097下-01 かな
またももろもろのまんのくこくの てんりんじょうおうのいたれる
がっしょうしきょうしんをもって ぐそくのどうをききたてまつらんとほっす
そのときにほとけ、しゃりほつにつげたまわく、
やみなん、やみなん、またとくべからず。もしこのじをとかば、いっさいせけんのしょてんおよびにん、みなまさにきょうぎすべし。
しゃりほつ、かさねてほとけにもうしてもうさく、
せそん、ただねがわくはこれをときたまえ。ただねがわくはこれをときたまえ。ゆえはいかん。このえのむしゅひゃくせんまんのくあそうぎのしゅじょうは、かつてしょぶつをみたてまつり、しょこんみょうりにして、ちえみょうりょうなり。ほとけのしょせつをききたてまつらば、すなわちよくきょうしんせん。

097下-11
爾の時に舎利弗、重ねて此の義を宣べんど欲して、偈を説いて言さく、
法王無上尊 唯説きたまえ願わくは慮したもうこと勿れ
是の会の無量の衆は 能く敬信すべき者有り
仏復、
止みなん舎利弗、若し是の事を説かば、一初世間の天、人、阿修羅、皆当に驚疑すべし。増上慢の比丘は、将に大坑に墜つべし。
爾の時に世尊、重ねて偈を説いて言わく、
止みなん止みなん説くべからず 我が法は妙にして思い難し諸の増上慢の者は聞て必ず敬信せじ
爾の時に舎利弗、重ねて仏に白して言さく、
世尊、唯願わくは之を説きたまえ。唯願わくは之を説きたまえ。今此の会中の我が如き等比、百千万億なるは、世世に已に曽て、仏に従いたてまつりて化を受けたり。此の如き人等、必ず能く敬信し、長夜安穏にして、饒益する所多からん。
097下-11 かな
そのときにしゃりほつ、かさねてこのぎをのべんとほっして、げをといてもうさく、
ほうおうむじょうそん ただときたまえねがわくはうらおもいしたもうことなかれ
このえのむりょうのしゅは よくきょうしんすべきものあり
ほとけまた、
やみなんしゃりほつ、もしこのじをとかば、いっさいせけんのてん、にん、あしゅら、みなまさにきょうぎすべし。ぞうじょうまんのびくは、まさにだいきょうにおつべし。
そのときにせそん、かさねてげをといてのたまわく、
やみなんやみなんとくべからず わがほうはみょうにしておもいがたし
もろもろのぞうじょうまんのものは きいてかならずきょうしんせじ
そのときにしゃりほつ、かさねてほとけにもうしてもうさく、
せそん、ただねがわくはこれをときたまえ。ただねがわくはこれをときたまえ。いまこのえちゅうのわがごときたぐい、ひゃくせんまんのくなるは、せせにすでにかつて、ほとけにしたがいたてまつりてけをうけたり。かくのごときにんとう、かならずよくきょうしんし、じょうやあんのんにして、にょうゃくするところおおからん。

099下-02
爾の時に舎利弗、重ねて此の義を宣べんど欲して、偈を説いて言さく、
無上両足尊 願わくは第一の法を説きたまえ
我は為れ仏の長子なり 唯分別して説くことを垂れたまえ
是の会の無量の衆は 能く此の法を敬信せん
仏已に曽て世世に 是の如き等を教化したまえり
皆一心に合掌して 仏語を聴受せんと欲す
我等千二百 及ぴ余の仏を求むる者あり
願わくは此の衆の為の故に 唯分別し説くことを垂れたまえ
是等此の法を聞きたてまつらば 則ち大歓喜を生ずべし
099下-02 かな
そのときにしゃりほつ、かさねてこのぎをのべんとほっして、げをといてもうさく、
むじょうりょうそくそん ねがわくはだいいちのほうをときたまえ
われはこれほとけのちょうしなり ただふんべつしてとくことをたれたまえ
このえのむりょうのしゅは よくこのほうをきょうしんせん
ほとけすでにかつてせせに かくのごときらをきょうけしたまえり
みないっしんにがっしょうして ぶつごをちょうじゅせんとほっす
われらせんにひゃく およびよのほとけをもとむるものあり
ねがわくはこのしゅのためのゆえに ただふんべつしとくことをたれたまえ
これらこのほうをききたてまつらば すなわちだいかんぎをしょうずべし

099下-12
爾の時に世尊、舎利弗に告げたまわく、
汝已に慇懃に三たび請じつ。豈説かざることを得んや。汝今諦かに聴き、善く之を思念せよ。吾当に汝が為に、分別し解説すべし。
此の語を説きたもう時、会中に比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、五千人等有り。即ち座より起って、仏を礼して退きぬ。所以は何ん。此の輩は罪根深重に、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり。此の如き失有り、是を以て住せず。世尊黙然として、制止したまわず。爾の時に仏、舎利弗に告げたまわく、
我が今此の衆は、復枝葉無く、純ら貞実のみ有り。舎利弗、是の如き増上慢の人は、退くも亦佳し。汝今善く聴け、当に汝が為に説くべし。
099下-12 かな
そのときにせそん、しゃりほつにつげたまわく、
なんじすでにおんごんにみたびしょうじつ。あにとかざることをえんや。なんじいまあきらかにきき、よくこれをしねんせよ。われまさになんじがために、ふんべつしげせつすべし。
このみことをときたもうとき、えちゅうにびく、びくに、うばそく、うばい、ごせんにんとうあり。すなわちざよりたって、ほとけをらいしてしりぞきぬ。ゆえはいかん。このともがらはざいこんじんじゅうに、およびぞうじょうまんにして、いまだえざるをえたりとおもい、いまだしょうせざるをしょうせりとおもえり。かくのごときとがあり、ここをもってじゅうせず。せそんもくねんとして、せいししたまわず。そのときにほとけ、しゃりほつにつげたまわく、
わがいまこのしゅは、またしようなく、もっぱらじょうじつのみあり。しゃりほつ、かくのごときぞうじょうまんのひとは、しりぞくもまたよし。なんじいまよくきけ、まさになんじがためにとくべし。

101下-01
舎利弗の言さく、
唯然、世尊。願楽わくは聞きたてまつらんと欲す。
仏、舎利弗に告げたまわく、
是の如き妙法は、諸仏如来、時に乃し之を説きたもう。優曇鉢華の時に一たび現ずるが如き耳。
舎利弗、汝等当に信ずべし。仏の所説は、言虚妄ならず。
舎利弗、諸仏の随宜の説法は、意趣解し難し。
所以は何ん。我、無数の方便、種種の因縁、譬喩、言辞を以て諸法を演説す。是の法は思量分別の能く解する所に非ず。唯諸仏のみ有して、乃し能く之を知ろしめせり。所以は何ん。諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう。
101下-01 かな
しゃりほつのもうさく、
ゆいねん、せそん。ねがわくはききたてまつらんとほっす。
ほとけ、しゃりほつにつげたまわく、
かくのごときみょうほうは、しょぶつにょらい、ときにいましこれをときたもう。うどんばつげのときにひとたびげんずるがごときのみ。
しゃりほつ、なんだちまさにしんずべし。ほとけのしょせつは、みことこもうならず。 しゃりほつ、しょぶつのずいぎのせっぽうは、いしゅげしがたし。
ゆえはいかん。われ、むしゅのほうべん、しゅじゅのいんねん、ひゆ、ごんじをもってしょほうをえんぜつす。このほうはしりょうふんべつのよくげするところにあらず。
ただしょぶのみましまして、いましよくこれをしろしめせり。ゆえはいかん。しょぶつせそんは、ただいちだいじのいんねんをもってのゆえによにしゅつげんしたもう。

101下-12
舎利弗、云何なるをか、諸仏世尊は唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもうと名づくる。諸仏世尊は、衆生をして、仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
舎利弗、是を諸仏は唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもうと為づく。
101下-12 かな
しゃりほつ、いかなるをか、しょぶつせそんはただいちだいじのいんねんをもってのゆえに、よにしゅつげんしたもうとなづくる。しょぶつせそんは、しゅじょうをして、ぶっちけんをひらかしめ、しょうじょうなることをえせしめんとほっするがゆえに、よにしゅつげんしたもう。しゅじょうにぶっちけんをしめさんとほっするがゆえに、よにしゅつげんしたもう。しゅじょうをして、ぶっちけんをさとらしめんとほっするがゆえに、よにしゅつげんしたもう。しゅじょうをして、ぶっちけんのどうにいらしめんとほっするがゆえに、よにしゅげんしたもう。
しゃりほつ、これをしょぶつはただいちだいじのいんねんをもってのゆえに、よにしゅつげんしたもうとなづく。

102下-09
仏、舎利弗に告げたまわく、
諸仏如来は但菩薩を教化したもう。諸の所作有るは常に一事の為なり。唯仏の知見を以て、衆生に示悟したまわんとなり。舎利弗、如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三有ること無し。舎利弗、一切十方の諸仏の法も亦是の如し。
102下-09 かな
ほとけ、しゃりほつにつげたまわく、
しょぶつにょらいはただぼさつをきょうけしたもう。もろもろのしょさあるはつねにいちじのためなり。ただほとけのちけんをもって、しゅじょうにじごしたまわんとなり。
しゃりほつ、にょらいはただいちぶつじょうをもってのゆえに、しゅじょうのためにほうをときたもう。よじょうのもしはに、もしはさんあることなし。しゃりほつ、いっさいじっぽうのしょぶつのほうもまたかくのごとし。

103下-04
舎利弗、過去の諸仏も、無量無数の方便、種種の因縁、譬喩、言辞を以て、衆生の為に諸法を演説したもう。是の法も皆、一仏乗の為の故なり。是の諸の衆生の、諸仏に従いたてまつりて法を聞きしも、究竟して皆、一切種智を得たり。
舎利弗、未来の諸仏の、当に世に出でたもうべきも、亦無量無数の方便、種種の因縁、譬喩、言辞を以て衆生の為に、諸法を演説したまわん。是の法も皆、一仏乗の為の故なり。是の諸の衆生の、仏に従いたてまつりて法を聞かんも、究竟して皆、一切種智を得べし。
103下-04 かな
しゃりほつ、かこのしょぶつも、むりょうむしゅのほうべん、しゅじゅのいんねん、ひゆ、ごんじをもって、しゅじょうのためにしょほうをえんぜつしたもう。このほうもみな、いちぶつじょうのためのゆえなり。このもろもろのしゅじょうの、しょぶつにしたがいたてまつりてほうをききしも、くきょうしてみな、いっさいしゅちをえたり。
しゃりほつ、みらいのしょぶつの、まさによにいでたもうべきも、またむりょうむしゅのほうべん、しゅじゅのいんねん、ひゆ、ごんじをもってしゅじょうのために、しょほうをえんぜつしたまわん。このほうもみな、いちぶつじょうのためのゆえなり。このもろもろのしゅじょうの、ほとけにしたがいたてまつりてほうをきかんも、くきょうしてみな、いっさいしゅちをうべし。

104下-01
舎利弗、現在十方の無量百千万億の仏土の中の諸仏世尊の、衆生を饒益し、安楽ならしめたもう所多し。是の諸仏も、亦無量無数の方便、種種の因縁、譬喩、言辞を以て、衆生の為に諸法を演説したもう。是の法も皆、一仏乗の為の故なり。是の諸の衆生の、仏に従いたてまつりて法を聞けるも、究竟して皆、一切種智を得。
舎利弗、是の諸仏は、但菩薩を教化したもう。仏の知見を以て衆生に示さんと欲するが故に、仏の知見を以て衆生に悟らしめんと欲するが故に、衆生をして仏の知見の道に入らしめんと欲するが故なり。
104下-01 かな
しゃりほつ、げんざいじっぽうのむりょうひゃくせんまんのくのぶつどのなかのしょぶつせそんの、しゅじょうをにょうやくし、あんらくならしめたもうところおおし。このしょぶつも、またむりょうむしゅのほうべん、しゅじゅのいんねん、ひゆ、ごんじをもって、しゅじょうのためにしょうほうをえんぜつしたもう。このほうもみな、いちぶつじょうのためのゆえなり。このもろもろのしゅじょうの、ほとけにしたがいたてまつりてほうをきけるも、くきょうしてみな、いっさいしゅちをう。
しゃりほつ、このしょぶつは、ただぼさつをきょうけしたもう。ほとけのちけんをもってしゅじょうにしめさんとほっするがゆえに、ほとはのちけんをもってしゅじょうにさとらしめんとほっするがゆえに、しゅじょうをしてほとけのちけんのどうにいらしめんとほっするがゆえなり。

104下-11
舎利弗、我も今亦復是の如し。諸の衆生に、種種の欲、深心の所著有ることを知って、其の本性に随って、種種の因縁、譬喩、言辞、方便力を以ての故に、而も為に法を説く。
舎利弗、此の如きは皆、一仏乗の一切種智を得せしめんが為の故なり。
舎利弗、十方世界の中には、尚二乗無し。何に況んや、三有らんや。
舎利弗、諸仏は五濁の悪世に出でたもう。所謂劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁なり。是の如し舎利弗、劫の濁乱の時は、衆生垢重く、慳貪嫉妬にして、諸の不善根を成就するが故に、諸仏方便力を以て、一仏乗に於て、分別して三と説きたもう。
104下-11 かな
しゃりほつ、われもいままたまたかくのごとし。もろもろのしゅじょうに、しゅじゅのよく、じんしんのしょじゃくあることをしって、そのほんしょうにしたがって、しゅじゅのいんねん、ひゆ、ごんじ、ほうべんりきをもってのゆえに、しかもためにほうをとく。
しゃりほつ、かくのごときはみな、いちぶつじょうのいっさいしゅちをえせしめんがためのゆえなり。
しゃりほつ、じっぽうせかいのなかには、なおにじょうなし。いかにいわんや、さんあらんや。
しゃりほつ、しょぶつはごじょくのあくせにいでたもう。いわゆるこうじょく・ぼんのうじょく・しゅじょうじょく・けんじょく・みょうじょくなり。かくのごとししゃりほつ、こうのじょくらんのときは、しゅじょうくおもく、けんどんしっとにして、もろもろのふぜんごんをじょうじゅするがゆえに、しょぶつほうべんりきをもって、いちぶつじょうにおいて、ふんべつしてさんとときたもう。

105下-11
舎利弗、若し我が弟子、自ら阿羅漢、辟支仏なりと謂わん者、諸仏如来の、但菩薩を教化したもう事を、聞かず知らずんば、此れ仏弟子に非ず、阿羅漢に非ず、辟支仏に非ず。又舎利弗、是の諸の比丘、比丘尼、自ら已に阿羅漢を得たり。是れ最後身なり、究竟の涅槃なりと謂いて、便ち復阿耨多羅三藐三菩提を志求せざらん。当に知るべし、此の輩は皆是れ増上慢の人なり。所以は何ん。若し比丘の、実に阿羅漢を得たる有って、若し此の法を信ぜずといわば、是の処有ること無けん。仏の滅度の後、現前に仏無からんをば除く。所以は何ん。仏の滅度の後に、是の如き等の経を、受持し、読誦し、其の義を解せん者、是の人得難ければなり。若し余仏に遇わば、此の法の中に於て、便ち決了することを得ん。
舎利弗、汝等当に一心に信解し、仏語を受持すべし。諸仏如来は言虚妄無し。余乗有ること無く、唯一仏乗のみなり。
105下-11 かな
しゃりほつ、もしわがでし、みずからあらかん、ひゃくしぶつなりとおもわんもの、しょぶつにょらいの、ただぼさつをきょうけしたもうじを、きかずしらずんば、これぶつでしにあらず、あらかんにあらず、ひゃくしぶつにあらず。またしゃりほつ、このもろもろのびく、びくに、みずからすでにあらかんをえたり。これさいごしんなり、くきょうのねはんなりとおもいて、すなわちまたあのくたらさんみゃくさんぼだいをしぐせざらん。まさにしるべし、このともがらはみなこれぞうじょうまんのひとなり。ゆえはいかん。もしびくの、じつにあらかんをえたるあって、もしこのほうをしんぜずといわば、このことわりあることなけん。ほとけのめつどののち、げんぜんにほとけなからんをばのぞく。ゆえはいかん。ほとけのめつどののちに、かくのごときらのきょうを、じゅじし、どくじゅし、そのぎをげせんもの、このひとえがたければなり。もしよぶつにあわば、このほうのなかにおいて、すなわちけつりょうすることをえん。
しゃりほつ、なんだちまさにいっしんにしんげし、ぶつごをじゅじすべし。しょぶつにょらいはみことこもうなし。よじょうあることなく、ただいちぶつじょうのみなり。

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当流行事抄

 大覚抄の中に「方便品の長行をも習い誦よむべし」と言うは即ち広開の長行を指すなり。其の間に偈頌(げじゅ)有りと雖も比丘偈(びくげ)の長篇に望むれば、其の前を通じて皆長行と名づくるなり。

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 『曽谷入道殿御返事』

方便品の長行書進せ候。先に進せ候し自我偈に相副て読みたまふべし(曽谷入道殿御返事 文永一二年三月  五四歳 0794)

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 『大石記』 (旧版『富士宗学要集』所載)と云ふ古写本に

日目上人は日興上人に仏法の御異見をばお申しありき。所謂方便品の開三計り遊ばして広開三をあそばさゞりけるを、日目、日興上人へ御申しある様は大聖人の御時已に遊ばされ候ひしに尤も読むべきにて候如何と、其時上人仰せに云く尤も爾るべく候へども新発意共が自我偈をだにも覚えざる程に之を略し候。
已後読み候べしと其より遊ばしけるなり

とある。意訳すれば

 日目上人が日興上人に対し奉り仏法の上の御忠告をなされたことがございます。いはゆる方便品の読誦のとき略開三(十如是)の所までしか読まれないで広開三 (長行)をお読みなさらなかったことについてでございます。日目上人が日興上人にどのやうに申上げたかと申しますと、大聖人の御在世には確かに方便品の長行をもお読みになられてゐたのに此頃はお読みになられませんが、この長行読誦にはとりはけ意味がございますのにどうしたわけでございませうとお尋ねになられたのでございます。その時、日興上人が答へて仰せられるには、確かにさうするのが本当であるが、この頃は新入りの弟子たちが自我偈さへ暗んずることができないので、つい省略してしまったのである。これからはもとのやうに読むことにしやうと云はれて、それからまた方便品の長行を読誦するやうになりました。

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注 『大石記』

日興上人滅後六十六年たった応永六年十一月に日時上人が助(不明也)という人に日興上人のことを語ったとされる内容の御文が、それから百九年を経て山城公日顕という人の所蔵本にあるのを永正五年六月、第十二世日鎮上人が書写されたのである。

更にそれから五十一年経て永録二年、二月に要山の日辰が日鎮上人の書写本を書き写されたものを同門の要山末日震蔵本にあり、それを唯信院日応という人が転写し、それを堀日亨上人が『富土宗学要集』の旧本(昭和十一年十月刊)に集録されたものである。

 又、日鎮上人本が書かれてから百六十九年たって『富士門家中見聞抄』(延宝五年七月)において日精上人は、「予雖未見此記文既日辰上人御引証也」(予、此の記文を未だ見ずと雖も、既に日辰上人が御引証なり」)として鎮師本の存在の有無が不明であり、而も「如此有相違故鎮記ハ難信用者也」(此の如く、相違有る故に、鎮記は信用し難き者なり)として史料価値の重要性を認めておられないのである。

そして堀上人に依れば、「現下大石寺には鎮師の写本無し」とのべられ、『大石記』を敢えて『富十宗学要集』の新本に載せられなかったのである。

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第廿六世目寛上人の『六巻抄』第五当流行事抄

問ふ、今当門流或は但十如を誦し、或は広開長行を誦す、其の謂如何。
答ふ、十如の文既に一念三千の出処なり。故に但之を誦すれば其の義則ち足りぬ。然りと雖も略開は正開顕に非ず。故に一念三千猶は未だ明了ならず。故に広開に至るなり。乃至、故に知んぬ、若し広開に至らずんば一念三千其の義仍ほ未だ分明ならず。故に広開長行を誦するなり。大覚抄の中に方便品の長行をも習ひ誦むべしと云ふは即ち広開の長行を指すなり。其の間に偈頌有りと雖も比丘偈の長篇に望むれば其の前は通じて皆長行と名づくるなり

方便品の十如是は一念三千の法門の出処であるから、そこまでを読めば一応の義は成り立つのであるが、それはあくまで略開であって広開ではない。丁度、門の半開きのやうなもので正式てはない。それゆゑ正開顕の長行を読むのである。

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灰汁の清水を助け

灰汁とは草木の灰を水に浸して得た汁。
衣服を洗濯する時にはまず、この汁に漬けて洗い、後に清水で洗うときれいになる、という。

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五座・三座の格式

大永三年(西暦1523)
『堂参御経次第』第十二世日鎮上人

「大永三年 壬未 五月一日 夜
  本堂へ十如是寿量品  一巻題目百返
  天御経へ十如是寿量品 一巻題目百返
  御影堂へ十如是寿量品 一巻題目百返
  又其後寿量品三巻 題目百返

 二日 朝
  御影堂にて  十如是寿量品 三巻題目三百返
  天御経へ参りて十如是 寿量品一巻題目 百返祈念申候
  大堂へ参りて 十如是寿量品 一巻題目一百返 祈願申候
  御影堂へ参りて 十如是寿量品 一巻題目百返 祈念申候
 以上 十二巻千二百返
     日 鎮(花押)

日達上人解説

(大堂とは本堂です。また二日は朝ですから「祈願し奉り候」とあります)

こうしてみると、まず一の五月一日の夜の方を見ても、本堂で本尊供養、次いで天御経は天拝(夜ですが天拝を行っています)、そして御影堂で二回御経をあげたのは、三師・歴代の供養と「其後寿量品」の方は広宣流布の(御祈念の)御経であると考えて良いと思います。

 また二日の朝も、同じく御堂に於て御経をあげるのは三師の供養、天御経は天拝、それから大堂(本堂)で御経をあげたのは本尊供養、最後に再び御堂に参って広宣流布の御経である。

そうすると、一般の回向は大坊に帰ってから六壷においてしたと考えられますから、五座の御経というのはこの時代に既にあったのだと言うことが明らかに分かります。各堂について、それぞれ御経をあげて廻ったのであります。また天拝(天御経)というのは天壇(台)を設けて御経をあげたことが分かります。

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四諦(したい)
仏教が説く4種の基本的な真理
苦諦、集諦、滅諦、道諦
苦集滅道

苦諦(くたい) - 迷いのこの世は一切が苦である
集諦(じったい) - 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執である
滅諦(めったい) - 苦の原因の滅。無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地である。
道諦(どうたい) - 悟りに導く実践。悟りに至るためには八正道によるべきである。

苦諦と集諦は、迷妄の世界の果と因とを示し、滅諦と道諦は、証悟の世界の果と因とを示す[5]。

四諦は概ね、十二縁起説の表す意味を教義的に組織したものであり、原始仏教の教義の大綱が示されているとされる。
原始仏教経典にかなり古くから説かれ、特に初期から中期にかけてのインド仏教において最も重要視され、その代表的教説とされた。
四諦はブッダが最初の説法で説いたとされている(初転法輪)。

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四諦という法、つまり「苦」と「集」と「滅」と「道」でありまして、これは真理として知るべき意味があります。
 「苦」は苦しみという結果であり、「集」は煩悩ということで、苦の原因となる我々の迷いの心であります。
それから「滅」は煩悩を滅して悟りを得たところの清浄な境界としての結果であり、それから「道」はその煩悩を滅していくための、また苦から離れるための原因となる道をいうのであります。
迷いの衆生の因が「集」で果が「苦」、これが世間の因果です。
悟りの上の因が「道」で果が「滅」、これが出世の因果、その四つをまとめたのが四諦です。

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四諦を説くというのは小乗で説かれておりますね。
苦集滅道(くじゅうめつどう)です。
諦ということは、絶対に誤りないところの真実の理ということ、そして苦集滅道の最初の苦とは、苦しみということです。
皆さんも生まれてから今までに種々苦しんだことがあると思います。
ごほんごほん咳が出たり、お腹が痛かったり病気になる。
やはりあれも苦しみの一つです。
他にもいろいろな苦しみがある。
それを四苦八苦と申します。
生老病死の四苦と愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとっく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)、四プラス四で八苦がある。
まだ他に無量無辺の苦しみが人間社会にはあるわけですね。
そういう苦しみがあるから、それが誤りないという意味で苦諦(くたい)ということをまずあげるのです。
その苦には原因がある。
苦そのものは結果です。
そして、その原因は集諦(しゅうたい)である。
すなわち、煩悩という迷いから苦しみがきておるということです。
この苦と集が世間法の迷いの因果です。
ですから、苦しみをなくすためには滅諦、諦の真理にもとづいて、まず道を修することによって苦しみをなくし、煩悩を消滅していくという形がある。
つまり出世間法における悟りの原因が道で、悟りの結果が滅諦です。
それが滅道という意味でありますね。

 この苦集滅道は、基本的には小乗仏教の形で説かれてあるわけです。
大乗的にみれば四諦の苦集滅道も大乗的な解釈と考え方、仏道及び人生観がそこに生じます。
けれども一応基本的な意味で、四諦は小乗仏教において説かれてあるわけです。

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●日顕上人 御講義 守護国家論(6)平成5年春季総登山の砌
平成05年03月28日
於 総本山・大講堂

四諦の法門であります。
つまり、苦諦、集諦、滅諦、道諦という四つの諦ですね。
苦諦は世の中のあらゆるものは実は楽しみと思っている人が多いが、本当は苦なのである。
今、人間の生活は苦楽相半ばしておるということもいえますが、やはり苦しみはいろいろな意味において存在するのでありまして、苦しみが本当に現われてくると、もう実に
大変な人生の悩み苦しみを感ずる人が多いのであります。

 今日、世界において様々な戦火があって、その中で食べる物もなく、痩せ細って死んでいく人達がいるという気の毒な状態が、毎日のようにテレビで報ぜられています。
今日、日本国内にあっても、いろいろな過去からの原因と結果、因縁の姿の中で悩み苦しんでおる人が多いわけです。
では、どのような苦しみがあるかと考えてみますと、病気の苦しみがあります。
重い病気になった人は、病とはこんなに苦しいものかと思います。
それが治ったら、また本当に良かったと思うんです。
まあ、これもいろいろな意味で良くなることがあるのですが、本当の仏法の因果の上からの功徳で病気が治る人もいる。
それから歳をとっていく苦しみ、いつのまにか歳をとって人からも相手にされなくなり、様々な人生の終末の苦しみを感じて、最後は死ぬという苦しみがあるという現実が確かにあります。
 それから、生活の上の苦しみとしては、求めて得られない苦しみ、求不得苦(ぐふとっく)があります。
いろいろ欲しいものがあり、求めてもそれを得ることができないという苦しみです。
それから憎い人、逢いたくない人とどうしても顔を合わせなければならない。
そういう苦しみを怨憎会苦(おんぞうえく)といいます。
それから、本当に愛すべき人、いつでも一緒にいたい人、そういう人と別れなければならない。
これを愛別離苦(あいべつりく)といいます。
で、その一番の元が、五陰盛苦(ごおんじょうく)で、我々の命、つまり色心(しきしん)の二法によって存するところの命が、次第に盛んになって欲望が心の中に燃え上がってくる。
そうすると、そこにおのずと苦しみが生じてきます。
 男女共に特に、青年になってくると様々な欲望が心の中からつきあげてきて苦しみを感ずる。
このような生老病死、求不得苦乃至五陰盛苦の苦しみが真実である故に苦諦といいます。
諦とは「つまびらか」という意で、仏の説く苦集滅道の四つは真実にして偽りのないことです。

 この苦諦も、人間界の苦しみは忍ぶことができるけれども、地獄界の苦しみ、餓鬼界の苦しみ、畜生界の苦しみ、といったらこんなものではないのです。
これもしかし、みんな通じ合っているのであって、我々もまた畜生界にも通じ、地獄界にも通じているということです。
地獄は本当に苦しいのですが、その苦しみにも間断があるんです。
ただ無間地獄だけは間断がなく、常時苦しみの連続だけれども、あとの七地獄は間断があるんです。
それでも実に切迫した苦しみがあるらしいです。

 皆さんも聞いたことがあるでしょうが、私は昔、ある信者の人に訪問されて、その人の息子が夜、家から出て川へ飛び込んだというのです。
それから、ある時は、葦(あし)を切る備え付けの大きな鎌で、自分で自分の舌を切ってしまったとか、異常な事態が続発して相談を受けました。
このように狂ってくるのは地獄の因縁からの苦しみですよ。

 その親父さんが夜、真暗な中でコタツへ入っていた。
そうしていたら、その人の前に赤ん坊を抱いて口がカーッと裂けた女の、それはすごい幽霊が出たそうですよ。
その幽霊が出た時に、傍(かたわ)らに寝ているその息子がワーッと苦しむそうです。
そうすると幽霊はスーッと向こうの隅へ行って消えてしまう。
また別な幽霊が出る。
まあ、その息子は前世においてよほど悪いことをしたんでしょうね。
これは地獄界の衆生の因縁によって出てくるわけですからね。
だからやはり、苦しんでいるわけです。
両方、お互いに地獄に入って苦しんでいる。
この人は、なにかの縁によって現在は人間界に生まれてきたけれども、やはりそのような苦しみを受ける過去の悪業があるんですね。
だから地獄、餓鬼、畜生の苦しみというのは、我々が今現在、苦しい、苦しいなどと言っているものよりも、なお大変なのです。

 そこで六道の苦しみといわれている中の地獄等の苦しみは、何によってきているかというと、これも所謂、苦諦のもととなる集諦という煩悩から来ておるのである。
 つまり欲望が正しく処理できない。
そういう煩悩、迷いが元になって苦しみが来ておる。
だから苦の元は集ですから、そこに集の因により苦の果があるわけです。
ですから仏教は世の中の姿を全部、因と果ということをもって厳密に説いている意味がある。
因果を離れて、世の中の筋道は何もないんです。
我々の命も生活も、貴賎苦楽等、みんな原因と結果によるのです。
その因は、煩悩、すなわち集諦により苦諦があるという法門は、迷いの因果を説いたものです。

これに対し、悟りの因果が滅諦と道諦です。
つまり煩悩を空理によって処理していく道諦、その道諦によって苦が滅して安穏を得る滅諦を説かれています。
ここでは小乗の意味ですね。

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「四諦」というのは、苦・集・滅・道の四つであります。
これは迷いの因果と悟りの因果との二つがあります。
「集」つまり煩悩は迷いの原因、「苦」とは四苦八苦で迷いの結果です。
これは我々の生活生命の中の因果を示しております。
これを全く無視して、考えていないのが、今の世間の人たちであります。
 因果を知らない、あるいはむしろ否定してかかる。
ですから悪いことをしても平気なのです。
うまくごまかしていけば何とかなるだろうという横着な狂った考えが、今の世の中に充満しております。
つまりあらゆる「苦」は、必ず「集」が原因として存在することを知りません。
それから悟り、幸せになるためにも因と果がある。
その因が「道」であり、その果が「滅」です。
「滅」とは、苦しみがなくなって安住する境界です。
つまり必ず「道」と「滅」という原因と結果が必要であるのです。
そういう迷いと悟りの因と果を並べて、その内容を説くのが四諦です。

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正林寺御住職指導(H29.3月 第158号)

 十二因縁とは、三界の欲界・色界・無色界と、六道の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天界の迷いの因果を無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死の十二種に分けて表したものです。

 @無明とは、無始以来もっている煩悩のこと。

 A行とは、過去の煩悩によってつくる善悪の行業のこと。

 B識とは、過去の行業によって現在の母胎に託する心のこと。

 C名色とは、身心が胎内で発育し、六根を形成するまでの五陰のこと。

 D六入とは、六根を具足して胎内から出生すること。

 E触とは、幼児の時は苦楽の分別がなく、物に触れて感ずること。

 F受とは、やや成長して、苦楽を識別して感受すること。

 G愛とは、事物や異性に愛欲を感ずること。

 H取とは、成人して事物に貪欲すること。

 I有とは、愛・取などの現在の因によって未来世の果を定めること。

 J生とは、未来世に生を受けること。

 K老死とは、未来世に老いて死ぬこと。

以上が十二因縁です。

 日蓮大聖人は『一念三千理事』に、
「十二因縁とは(中略)生老死を受くるを老死憂悲苦悩とは云ふなり。」(御書100)
と御書に倶舎論の詳細を御教示であります。さらに『色心二法抄』『十二因縁御書』『一代聖教大意』『顕謗法抄』等の御書に御指南であります。

 この十二の因縁が私達の過去・現在・未来といわれる三世を形成しております。大聖人が『一念三千理事』に、
「十二因縁を三世両重に分別する方如何。」(御書101)
と仰せであり、@無明とA行が過去二つの因となり、B識とC名色とD六入とE触とF受が現在の五果となります。G愛とH取とI有が現在の三因となり、J生とK老死が未来の両果となります。過去に二つ、現在に八つ、未来に二つという形成が三世に成されています。大聖人は『一念三千理事』に、
「私の略頌に云はく『過去の二因 無明・行 現在の五果 識・名色・六入・触・受 現在の三因 愛・取・有 未来の両果 生・老死』と。」(御書101)
と仰せであります。
 十二因縁の三世両重との深い関わりにより、宿業という業因業果にも関係されて順現受業(現世で報いを受ける)・順次受業(次世で報いを受ける)・順後受業(第三世以降での果報)という三時業に影響があります。

 私たちが生きている現実に、十二因縁を当てはめた場合、十二因縁のA行とB識の過去世から由来する違いによって父母が決まり、C名色において六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)が形成され、今世で生きていくための自分自身の容姿や性格などが作られていきます。個人差が生まれる理由には、十二因縁との深い関わりがあるわけです。人間が現在世で生きている過程を十二因縁に置きかえた場合、出生から始まるD六入・E触・F受・G愛・H取・I有に区分することができます。
 まさしく大聖人が『開目抄』に、
「心地観経に云はく『過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ』」(御書571)
と単刀直入に、三世の見つめ方を仰せであります。

 人の一生が、生まれてから死ぬまでで終わってしまうと思っている人は、十二因縁を知ることで、人の一生は今世だけではない過去世・現在世・未来世の三世があることを理解できるでしょう。

 第九世日有上人が『連陽房雑雑聞書』に、
「夫れ人間は隔生即忘して前世の事を知らず」(歴全1−379)
と仰せられるように、人がこの世に生まれ変わるとき、前世のことは忘れ去るということがあるために、生まれてから死ぬまでで終わってしまうと思うことも、致し方ないことかも知れません。

 しかし、例外として大聖人が『四信五品抄』に、
「忘るヽ者も若し知識に値へば宿善還って生ず」(御書1112)
と、天台大師の法華玄義に説かれる教えを仰せであります。ゆえに正法正師の善知識に値遇することであります。

 人生は一生で終わらないため、亡くなった後の未来世にも続いていくために、今生きている現実を一生懸命に前向きに生きていくことが大切になります。その生きていく力を、御本尊に御題目を唱えることによって命の中に生命力が蘇り、未来へのより良い生活と現当二世の後生善処へと月々日々に信心を持続することで実現していきます。

 現在の五果であるB識・C名色・D六入・E触・F受が、現在の三因となるG愛・H取・I有に、今世の生活にも大きく影響するため、御本尊への信心で転重軽受という妙法受持の功徳を頂きながら、過去遠々劫の罪障に紛動されないよう一生成仏を心がけて行くことが大切です。

 特に現在の五果と現在の三因が、善因善果とはならない、悪因悪果に類する要素となる場合や、過去遠々劫の罪障化した現象に惑わされないために、日々の勤行唱題によって御本尊から護法の功徳力を賜ることが大事であります。

 大聖人は『唱法華題目抄』に、
「悪知識と申すは甘くかたらひ詐り媚び言を巧みにして愚癡の人の心を取って善心を破るといふ事なり。」(御書224)
と仰せの悪因悪果、悪縁となる悪知識には用心しましょう。

 特に利根と通力に長けて寸善尺魔と化した「外面似菩薩 内心如夜叉」には用心したいところです。大聖人は『主師親御書』に、
「華厳経には『女人は地獄の使ひなり、能く仏の種子を断ず、外面(げめん)は菩薩に似て内心は夜叉(やしゃ)の如し』と。文の心は女人は地獄の使ひよく仏の種をたつ。外面は菩薩に似たれども内心は夜叉の如しと云へり。又云はく、一度女人を見る者はよく眼(まなこ)の功徳を失ふ」(御書51)
と、功徳を失わないように注意を促されております。

 さらには、善業を積むための信心修行も厚薄の違いによって功徳を積むために、御本尊からの果報の顕れ方にも個人差があり、十二因縁と深い関わりがあります。そこにまた、末法特有の本未有善が根底となる上根・中根・下根という機根の違いもあり、これらも過去世からの十二因縁が関係しています。そのために同じ信心をしている同志にも、個々人の違い@無明・A行・B識が起因する習気として歴然とあるわけです。

 大聖人は『法華初心成仏抄』に、
「人の地に依りて倒れたる者の、返って地をおさへて起つが如し。地獄には堕つれども、疾く浮かんで仏になるなり。当世の人何となくとも法華経に背く失に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説ききかすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり。」(御書1316)
と仰せの御言葉があります。過去世、法華経に背く失が原因となり、現在世では苦しい生活を余儀なくされる人もいるでしょう。また、毒鼓の縁・逆縁という因縁で、今世生まれた時に、機根が薫発して信心できるスタートラインに立てる人もいるでしょう。

 大聖人は『守護国家論』に、
「法華経流布の国に生れて此の経の題名を聞き、信を生ずるは宿善の深厚なるに依れり。設ひ今生は悪人無智なりと雖も必ず過去の宿善有るが故に、此の経の名を聞いて信を致す者なり。」(御書153)
と仰せのように、それぞれの過去世における仏縁により信心している人は、十人十色・千差万別であります。

 その過去世からの因縁を踏まえて大聖人は『聖愚問答抄』に、
「但し仏法は強ちに人の貴賎には依るべからず。只経文を先とすべし。身の賎きをもて其の法を軽んずる事なかれ。」(御書389)
と依法不依人を御教示であります。また『持妙法華問答抄』に、
「されば持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし。然らば則ち其の人を毀るは其の法を毀るなり。其の子を賤しむるは即ち其の親を賤しむなり。」(御書298)
と仰せの御書を心肝に染めていきたいものであり、異体同心する上で大事であります。

 この「持つ人随って第一なるべし」との御文は、『富木殿御返事』に、
「経に云はく『法華最第一なり』と。又云はく『能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是くの如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり』と」(御書1578)
の文証からの御教示と拝します。

 大聖人は、個々人による今世生まれてからのあらゆる出来事を、倶生神である同名・同生天が、少しも残さずに記録に留められることを『同生同名御書』に、
「人の身には同生同名と申す二のつか(使)ひを、天生まるゝ時よりつけさせ給ひて、影の身にしたがふがごとく須臾もはなれず、大罪・小罪・大功徳・小功徳すこしもおとさず、遥々天にのぼて申し候と仏説き給ふ。」(御書596)
と仰せであります。

 第六十七世日顕上人は「同生同名天」について、
「この元は華厳経に説かれておりますが、倶生神(くしょうじん)と言い、人と共に生まれる、左右の肩にいる神です。影の身に従うように人から離れず、左肩の同名天は善を記すこと小善も漏らさず、右肩の同生天は悪を記すこと小悪も漏らさず記すので、同生同名天と言います。この神は、またその人を守護しますが、人の心が正しく堅固であれば、守護も強くなります。」(妙法七字拝仰 下巻83)
と御教示であります。

 未来の両果であるJ生とK老死、順次受業・順後受業は、同生同名天が須臾もはなれずに、今世での身口意の三業にわたるすべての言動を逐一記録に留めている働きがあるからでしょう。その結果、現実の地球上を見渡した場合、日本をはじめ国を越えた十人十色・千差万別な人が存在しているといえます。

 十二因縁の三世両重が、信心で理解することができれば、「不老不死」「不生不滅」の一分を知ることができると拝します。

 大聖人が『経王殿御返事』に、
「法華経の功力を思ひやり候へば不老不死目前にあり。」(御書686)
と仰せの御言葉や、さらに『教行証御書』の、
「法華経第七薬王品に云はく『此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば病即ち消滅して不老不死ならん』」(御書1104)
と仰せの「不老不死」に関する御教示であります。
 また、十二因縁のJ生・K老死を信じることにより『四条金吾殿御返事』に説かれる、
「生死の当体不生不滅とさとるより外に生死即涅槃はなきなり。」(御書598)
と仰せの「不生不滅」の御教示が、現在世だけの観点から、過去世・未来世という十二因縁の三世両重を理解して、以信得入することができると拝します。

 その「不老不死」と「不生不滅」という究極の御姿が、「非滅現滅非生現生」の御振る舞い御本仏の宗祖日蓮大聖人であり、その御魂が一大秘法であるところの本門戒壇の大御本尊と拝します。

 大聖人は『義浄房御書』に、
「寿量品の自我偈に云はく『一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず』云云。日蓮が己心の仏果を此の文に依って顕はすなり。其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事此の経文なり、秘すべし秘すべし。」(御書669)

と仰せであります。

 その御境界から大聖人は『守護国家論』に、
「法華経第八に云はく『如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめ断絶せざらしむ』と。七の巻に云はく『広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無けん』と。涅槃経第九に云はく『此の大乗経典大涅槃経も亦復是くの如し。南方の諸の菩薩の為の故に当に広く流布すべし』已上経文。三千世界広しと雖も仏自ら法華・涅槃を以て南方流布の処と定む。南方の諸国の中に於ては日本国は殊に法華経の流布すべき処なり。」(御書154)
と文底下種仏法における、唯授一人の血脈相承において断絶することのない本門戒壇の大御本尊を中心とした、広宣流布について仰せであると拝します。

 総本山大石寺に在す本門戒壇の大御本尊は、十二因縁に纏わるすべての謗法と罪障を消滅させていただける有難い仏力と法力が具わっています。
 そのために大聖人は『四条金吾殿御返事』に、
「毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥はげむべし、はげむべし。」(御書1502)
と毎年何度も総本山へ登山して、罪障消滅をする大切さを仰せであります。
 さらに大聖人は『南条殿御返事』に、
「参詣遥かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨を企つべし。」(御書1569)
と仰せでもあります。総本山への参詣が長い間途絶えている人は、急いで参詣するようにされなさいと御指南です。

 十二因縁は、人として生を受けていれば、逃れることのできない決定した因縁であります。人生に不幸をもたらす因縁は、御題目を唱えることにより、護法の功徳力によって軽減され罪障消滅していきます。
 そして、幸福をもたらす幸せな因縁を呼びよせて頂くことができます。大聖人は『法華初心成仏抄』に、

「一度妙法蓮華経と唱ふれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕はし奉る功徳無量無辺なり。」(御書1320)
と仰せであります。

 そのためにも、御法主日如上人猊下が、
「大御本尊様に対する絶対的確信」(大日蓮 第850号)
と仰せになる、総本山大石寺に在す本門戒壇の大御本尊への絶対的確信が大切です。

 宗祖日蓮大聖人『佐渡御書』に曰く、
「いよいよ日蓮が先生・今生・先日の謗法おそろし。か(斯)ゝりける者の弟子と成りけん、か(斯)ゝる国に生まれけん、いか(如何)になるべしとも覚えず。般泥?経に云はく『善男子過去に無量の諸罪・種々の悪業を作らんに、是の諸の罪報或は軽易せられ、或は形状醜陋にして、衣服足らず、飲食麁疎にして、財を求めて利あらず、貧賤の家及び邪見の家に生まれ、或は王難に遭ふ』等云云。又云はく『及び余の種々の人間の苦報現世に軽く受くるは、斯れ護法の功徳力に由る故なり』等云云。此の経文は日蓮が身なくば、殆ど仏の妄語となりぬべし。一には『或は軽易せらる』、二には『或は形状醜陋』、三には『衣服足らず』、四には『飲食麁疎』、五には『財を求むるに利あらず』、六には『貧賤の家に生まる』、七には『及び邪見の家』、八には『或は王難に遭ふ』等云云。此の八句は只日蓮一人が身に感ぜり。高山に登る者は必ず下り、我人を軽しめば還って我が身人に軽易せられん。形状端厳をそし(謗)れば醜陋の報いを得。人の衣服飲食をうば(奪)へば必ず餓鬼となる。持戒尊貴を笑へば貧賤の家に生ず。正法の家をそし(謗)れば邪見の家に生ず。善戒を笑へば国土の民となり王難に値ふ。是は常の因果の定まれる法なり。
 日蓮は此の因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易せし故に、法華経は月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山に華山をかさね、玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を、或は上げ或は下して嘲哢せし故に、此の八種の大難に値へるなり。」(御書581)

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流転門の十二因縁と還滅門の十二因縁について示されている。

すでに、流転の十二因縁については、第一章で12の各項目と名前と意義とが明かされ、それぞれが次の項の原因となっていることを明かされた。

 本文でも

■「無明は行に縁たり行は識に縁たり識は名色に縁たり名色は六入に縁たり六入は触に縁たり触は受に縁たり受は愛に縁たり愛は取に縁たり取は有に縁たり有は生に縁たり生は老死憂悲苦悩に縁たり」

と仰せのように、無明に始まり行・識・名色と次第して老死に至る連鎖が流転の十二因縁である。
このように無明から始まる連鎖によって生死海に流転するのであり、また、この生死海において終わることなき生と死とを繰り返すゆえに凡夫なのである。

 したがって、還滅の十二因縁とは本文に

■「無明滅すれば則ち行滅す行滅すれば則ち識滅す識滅すれば則ち名色滅す名色滅すれば則ち六入滅す六入滅すれば則ち触滅す触滅すれば則ち受滅す受滅すれば則ち愛滅す愛滅すれば則ち取滅す取滅すれば則ち有滅す有滅すれば則ち生滅す生滅すれば則ち老死憂悲苦悩滅す」

と仰せのように、この十二因縁の流転の元である無明を滅することにより行が滅し、行を滅することにより識が滅し、というように次々に滅し、最後に生老憂悲苦悩が滅するのである。
ここに“還滅”とは本源の無明に還ってそこから滅していくことにより、生死を離れて涅槃に入ることをさしている。

■「無明は行に縁たり行は識に縁たり識は名色に縁たり名色は六入に縁たり六入は触に縁たり触は受に縁たり受は愛に縁たり愛は取に縁たり取は有に縁たり有は生に縁たり 生は老死憂悲苦悩に縁たり是れ其の生死海に流転する方なり此くの如くして凡夫とは成るなり」

 流転の十二因縁の連鎖が説かれているのである。

 十二因縁のそれぞれについて、順次に前のものが後のものを成立させる条件となっているのである。
例えば■「無明は行に縁たり」とある場合、前のものである“無明”が後のものである“行”を成立させる縁となっていることを表している。

 まず、過去世の愛欲の煩悩が因となって過去世のもろもろの善悪の行を起こし、そのもろもろの行為が因となって現在世に生を結ぶ識を成立させ、この識が因となって名色の心身を成り立たせ、名色が因となって六処が具わり、六処が具備されることにより母胎を出て外界に触れ、外界との接触が因となって対象によって楽・苦・不苦・不楽の感受を識別できるようになり、この感受が激しくなって愛欲が盛んになり、その強盛な愛欲が激しくなると、五境を求めて四方八方に貪り回って他人の物を盗み取るような取着心を生起させ、その取着心が因となって、未来世に生を受けるべき善悪のもろもろの行為を成立させる。
そして、このもろもろの行為が因となって来世の生を成立させ、この生によって未来の老死憂悲苦悩の生存が成立するのである。

■「是れ其の生死海に流転する方なり此くの如くして凡夫とは成るなり」

と述べられているように、無明から条件づけの連鎖が次第して、とどまることなく生死を繰り返していくのが凡夫なのである。

■「無明滅すれば則ち行滅す行滅すれば則ち識滅す識滅すれば則ち名色滅す名色滅すれば則ち六入滅す六入滅すれば則ち触滅す触滅すれば則ち受滅す受滅すれば則ち愛滅す愛滅すれば則ち取滅す取滅すれば則ち有滅す有滅すれば則ち生滅す生滅すれば則ち老死憂悲苦悩滅す、是れ其の還滅の様なり仏は還つて煩悩を失つて行く方なり」

 還滅の十二因縁の在り方が説かれている。
それは流転の十二因縁の連鎖にしたがって順次に、前のものを滅することにより後のものも滅していくという形となっているのである。

 まず、凡夫をして生死流転せしめる根本である無明を滅すると、その無明によって条件づけられて生起するもろもろの行為が滅するのである。
行が滅することによって行に条件づけられて生じた識が滅する。
識が滅すると、識に条件づけられて生じていた名色が滅する。
と、いうようにして最後に未来世の生死憂悲苦悩が滅するのである。

■「仏は還つて煩悩を失つて行く方なり」

と説かれているように、仏というのは生死流転の根本である無明の煩悩を滅失することにより次第に条件づけを脱却していく方向をとる、とおおせられている。

■「私に云く中有の人には十二因縁具に之無し又天上にも具には之無く又無色界にも具には之無し

 「私に云く」とは日蓮大聖人御自身の見解によれば、ということである。
 ただし、これについては?舎論巻九に次のような文が見えている。
すなわち、
■「此の中際の八は、一切の有情が此の一生の中に、皆具さに有するか不か。
皆具に有するには非ず。
若し爾らば何が故に、八支有りと説くか。
円満なる者に據る。
此の中の意の説かく、補徳伽羅あり、一切の位を歴るを、円満なる者と名づけ、諸の中夭、及び、色、無色には非ず。
但欲界の補特伽羅に據るなり。
大縁起経には『具に有り』と説くが故に」 と。

 ここで“中際の八”とは、十二因縁を前際・中際・後際の三際に分けたうち、中際の八因縁のことで、識・名色・六処・触・受・取・有をさしている。
更に、この八因縁は現在世に生を受けた有情なら、どの有情であっても皆ことごとく一生のうちに一つ一つ具体的に経過するかどうか、について問うている。
答えとして、有情のことごとくが八因縁を具体的に経過するわけではないとしたのに対して、それでは何ゆえに中際の現在世に八因縁あり、と説くのであるかと問うている。
その答えとして、それはあくまで円満なる者に限って、八因縁ありとしたのであると述べている。
円満なる者とは、三界のうち欲界の補特伽羅のみをさしており、色界や無色界の者ではないとしている。
また一生の途中において、夭折してしまう者も円満に八因縁を経過しない、としている。
 要するに、中途で夭折した欲界の補特伽羅と色界、無色界の者は八因縁を具体的には経過していないのである、というのが?舎論巻九の内容である。

 まず中夭の者、すなわち寿命を全うせずに中途で死亡する者のことである。
中夭の者はどの時点で死亡するかの相違はあっても、十二因縁の連鎖を経過しないことは明らかである。
例えば、母胎内で死亡する場合は、識・名色・六処の三因縁を経過するだけであり、14・5歳の時に死亡した場合は、過去世の無明・行に始まり、現在世の識・名色・六処・触・受の七因縁の連鎖を経過するだけである。

 また、色界の者は化生なので、生じた時にはすでに六根を最初から具えているとされているので、名色の因縁の頂がないことになる。

 更に無色界の有情は、色無くしてただ心のみあることになるから、六識のうち前五識がなくただ第六意識のみを有していることになり、名色・六処の二因縁を経過することがないことになる。

 以上のように、?舎論巻九に説かれた内容を取り入れられ、ご自身の釈とされたのである。
ただ、本文の■「中有の人には十二因縁具さに之無し」となっているが、おそらく後世のひとが中夭を中有と誤認して記したのいであろう。
もっとも、中有は死有の後、次の生有までにある中間的な存在であるが、これも諸天と同じ化生であるから、先の色界の者と同じことになって、十二因縁を具体的に経過しないことになる。

 また本文の■「天上にも具には之無く」とあるのは、天界の中の色界をさしていたものと考えられる。

参照 創価教学研究室 (Tommyのブログ) 稲枝創価学会  
創価学会稲枝支部・一壮年部が作成した御書講義・創価教学研鑽のためのブログです。

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因縁=ものごとの生ずる直接的原因を「因」といい、間接的原因を「縁」という。

知見波羅密
「知」は物事を知ること。
「見」は、物事を見つめること、本質を見抜くこと。
「波羅密」は梵語のハラミータの音写。日本語では、渡る・到達・完成の意。
したがって「知見波羅密」は、物事の本質を知り、見極め悟りの境界に到ること出来る智慧。
ここでは、全てを見極め、正しい方向に導くことの出来る能力、智慧を備えていることをいう。

無量=四無量心のこと。
四種類の量かりしれない心をおこし人々を覚りに導くこと。
@慈(人々に楽しみを与える心)
A悲(人々の悲しみ・苦しみを抜き去る心)
B喜(人々とともに喜ぶ心、ねたまない心)
C捨(上の三種を行ったからといってそのことに執われることのない心)。

正宗僧侶 法話

四無量心
1、慈心ー自分の生きている事により周囲の人の幸福を増す心。
2、悲心ー自分の存在により周囲の人の苦を除いてやる心。
3、喜心ー人の幸福を喜んであげる心。
4、捨心ー自分のした事で報いを求めてはいけない。

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ネット辞書 コトバンク

仏が4種の方面に心を限りなく配ること。
(1) あらゆる人に深い友愛の心を限りなく配ること (慈無量心) ,
(2) あらゆる人と苦しみをともにする
同感の心を限りなく起すこと (悲無量心) ,
(3) あらゆる人の喜びをみてみずからも喜ぶ心を限りなく起すこと (喜無量心) ,
(4) いずれにもかたよらない平静な心を限りなく起すこと (捨無量心) 。


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四無量心とは、慈・悲・喜・捨である。
慈とは、衆生(生けるもの)を愛しく念い、常にその利益を計って安穏で幸福であることを求めることである。
悲とは、(地獄・餓鬼・畜生・人・天の)五つの生存において(生まれ変わり死に変わりして)様々な肉体的・精神的苦しみを受けている衆生を愍むことである。
喜とは、衆生が安楽になるにしたがって歓喜させることである。
捨とは、衆生を憎みもせず、愛しもせずにただ念じ、(慈・悲・喜の)三種の心を捨てることである。

慈心を修めるのは衆生の中の怒りを除かんとするがためであり、
悲心を修めるのは衆生の中の悩みを除かんとするがためであり、
喜心を修めるのは(鬱鬱として)悦楽しない心を除かんとするがためであり、
捨心を修めるのは衆生の中の愛憎を除かんとするがためである。

龍樹菩薩『大智度論』巻廿 釋初品中四無量義第三十三(T25, P208c)
[現代語訳:沙門覺應]


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四無礙

仏・菩薩のもつ4種の自由自在な理解能力と表現能力を智慧の面から示した言葉。

教えに精通している 法無礙智、
教えの表す意味内容に精通している 義無礙智、
いろいろの言語に精通している 辞無礙智、
以上の3種をもって自在に説く 楽説無礙智。

理解力の面から四無礙解、
表現力の面から四無礙弁ともいう。

無礙=四無礙弁のこと。礙はさまたげる、差し障りがあること。これに無が付くことで、さまたげが無くなる、自在になる意。
@法無礙(説く法が自在であること)
A義無礙(説く法の内容・理解が自在であること。
B辞無礙(法を説く言葉が自在であること)
C楽説無礙(前の三種の無礙により人々のために教えを説くことが自在であること)


無所畏 =仏が法を説くにあたって恐れを感じない四種類の智慧と徳のこと。
@一切無畏。完全な悟りを得て衆生の中にあっても確信を持って法を説くにあたって畏れのないこと。
A漏尽無所畏。すべての煩悩を断尽したと言い切って畏れのないこと。
B説障道法無畏。仏道修行の妨げとなる法を破折をするに畏れのないこと。
C説尽苦道無畏。煩悩を断じ尽くす法を説くことに畏れのないこと。


禅定 =心を静めて精神を集中すること。

四禅(しぜん, Rupajhana)とは、初期仏教で説かれる禅定(ジャーナ)の4段階のこと。
三界の内の色界に相当し、この言葉は、禅定の段階に応じてこの色界を4分割した四禅天の略称としても用いられる[1]。

禅天の意味で用いる場合は、初禅天から三禅天まではそれぞれ三種の天をとり、四禅天については外道天などを含む九種の天をとって合計で十八禅天あるとする。
ただし、四禅天には諸説あって合計で十六禅天とすることもある。

初禅 pa?hama-jh?na (梵 prathamadhy?na)
諸欲・諸不善(すなわち欲界)を離れ、尋・伺(すなわち覚・観)を伴いながらも、離による喜・楽と共にある状態。

第二禅dutiya-jh?na (梵 dvit?yadhy?na)
尋・伺(すなわち覚・観)が止み、内清浄による喜・楽と共にある状態。

第三禅 tatiya-jh?na (梵 t?t?yadhy?na)
喜を捨し、正念・正見(すなわち念・慧)を得ながら、楽と共にある状態。

第四禅 catuttha-jh?na (梵 caturthadhy?na)
楽が止み、一切の受が捨てられた不苦不楽の状態。

四定 四無色定
物質の繋縛(けばく)を離れ、物質を滅した無色界の修行法である。

「空無辺処定」は、色界の第四禅を超えて、禅定の障害となる一切の想を滅し、「空間は無限大なり」と思惟する禅定。
「識無辺処定」は、空無辺処を超えて、「識は無限大なり」と思惟する禅定。
「無所有処定」は、識無辺処を超えて、「何ものもなし」と思惟する禅定。
「非想非非想処定」は、無所有処を超えて得られる極めて昧劣な想のみがあり、ほとんど無想に近い禅定。

解脱 =煩悩に縛られている心から脱して穏やかな心を得ること。

八解脱
はちげだつ/八解脱
八種類の解脱のこと。?a??au vimok???などの訳語。
『瑜伽論』一一によれば、
@有色観諸色解脱(不浄観を行って自らの貪が起こらなくなった境地)、
A内無色想観外諸色解脱(さらに進んで不浄観を行い、貪が確実に起こらなくなった境地)、
B浄解脱身作証具足住解脱(清浄なるものを見ても、貪が全く起こらなくなった境地)、
C空無辺処解脱(物質に対する想いを超えて、空無辺処を得た境地)、
空無辺処(くうむへんしょ)とは、無色界の(下から数えて)第1天。無量空処(むりょうくうしょ)とも言う。物質的存在がまったく無い空間の無限性についての三昧の境地。

物的存在たるこの肉体を厭い、無辺の虚空の自在を欣び、空無辺の理(ことわり)を解し、修行して生ずる処である。欲界と色界とにおける一切の物質的な形を離れ、一切の作意のない、無辺の空を観じる禅定。形のあるこの肉体を厭い、大空は無限であることを達観すること。無色界には空間的な場所はないが、果報の違いに依って感じるので「処」と名付ける。

D識無辺処解脱(空無辺処を超えて、識無辺処を得た境地)、
識無辺処(しきむへんしょ)とは、無色界の(下から数えて)第2天。認識作用の無辺性についての三昧の境地。

無色界の初天である空無辺処を越えて、その空の無辺なるを厭(いと)い、心を転じて識を縁じ、識と相応し心定りて動かず、三世(過去・現在・未来)の識が悉く、定中に現じて清浄寂静なる果報をいう。外の虚空の相を厭い、内なる識を観じて、識が無辺であると達観すること。

E無所有処解脱(識無辺処を超えて、無所有処を得た境地)、
無所有処
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無所有処(むしょうしょ)とは、無色界の(下から数えて)第3天。いかなるものもそこに存在しない三昧の境地。

空は無辺なりと観じて、空を破した人が、さらに識が三世(過去・現在・未来)にわたって無辺であるを厭(いと)い、所縁共に所有なしと観じ、この行力に依って生まるる処であるから、無所有処地という。何も存在しないと観察し達観する事。

F非想非非想処解脱(無所有処を超えて、非想非非想処を得た境地)、
有頂天(うちょうてん、サンスクリット語: ??????、Bhav?gra)は、仏教の世界観の1つであり、天上界における最高の天をいう。非想非非想天(ひそうひひそうてん)、あるいは非想非非想処(ひそうひひそうしょ)とも言う。俗語の有頂天の用法についても後述する。

有(Bhava=存在)の頂(agra)を意味している。下から欲界・色界・無色界の三界のうち、無色界の最高の処を指す。

『倶舎論』(くしゃろん)に於いて、三界の中で最上の場所である無色界の最高天、非想非非想天が、全ての世界の中で最上の場所にある(頂点に有る)ことから、有頂天と言う。非想非非想処天とは、この天に生じる者は、下地の如き麁想(そそう)なきを以て「非想」、または「非有想」といい、しかも、なお細想なきに非(あら)ざるを以て「非非想」、または「非無想」という。非有想なるが為に外道(仏教以外)は、この天処を以て真の涅槃処とし、非無想なるが為に内道を説く仏教において、なお、これを生死の境とする。

以下はかなり違うので、再調査が必要
なお、漢訳の『法華経』では、三界の第2位に位置する色界の第18最高の天である色究竟天(しきくきょうてん、サンスクリット語:Akanistha、音訳:阿迦尼?天、あかにた)を「有頂」と訳したことから、これを有頂天と混同し、上記の仏教一般の説とは異なる見解を生んだ。

G想受滅身作証具足住解脱(非想非非想処を超えて、想受滅、すなわち滅尽定を得た境地)
の八種の解脱のこと。
この八種の解脱は訳語にこそ若干の不一致がみられるが、多くの経論に説かれる。
また『観経』には「時に応じてすなわち阿羅漢道を得、三明六通さんみょうろくつうあって、八解脱を具す」(聖典一・三〇九/浄全一・四八)とあるが、この表現は阿羅漢になった者に対して用いられ、仏典に広く確認できるものである。

三昧 =目を閉じて靜に思いを巡らし、心を平静にして対象に向かうこと。

三解脱門
 悟りに至る三つの門戸のこと。
空・無相・無願の三つの三昧をいう。
これから「三三昧」とも言う。

空三昧とは、すべて存在、あるいは存在現象は空であると観ずること
無相三昧とは、空であるゆえ種々相はない、差別の相がないと観ずること
無願三昧とは、無相なるゆえ願求すべき欲望の対象でないと観ずること

問うて曰く、三解脱門に入らば、則ち涅槃に到る。今、云何が空・無相・無作を以て、能く声聞・辟支仏地を過ぐるや。答えて曰く、方便力無きが故に、三解脱門に入りて、直に涅槃を取るなり。若し方便力有れば、三解脱門に住して涅槃を見るも、慈悲心を以ての故に、能く心を転じて還起す。(後略)    〔大智度論巻36 T25-323a〕

 なお、三三昧は有漏(煩悩がある状態)のものと、無漏(煩悩を断じる智慧を発得する状態)のものとがあるが、解脱門(解脱にいたる門戸)というときは、後者の無漏の三三昧をいう。

分別 =対象を見て思考を巡らし、それが何ものであるかを識別すること。凡夫は過去の経験などから導かれた主観によって対象に向かうことになるから、ありのままの正しい判断を下すことはできない。凡夫の分別が妄分別といわれる所以である。対して、主観と客観の対立を超越した分別が、仏の分別であり真理を見極める智慧がある。これを無分別智という。

未曽有の法 =これまでになかった法。

言辞柔軟。悦可衆心 =柔らかく優しい言葉。聞く人を素直な心にさせる、不愉快な気持ちにさせないことばで、衆生の心を悦びで満たすこと。心がけたいものです。ただしお世辞を言うことではありません。

無量無辺未曽有の法 =形容のしがたい昔から今日までに顕されたことのない尊い法。

第一希有難解の法 =第一の、有ることが希な、理解がむつかしい教え。
☆一切未曽有 ・無量無辺未曽有の法・ 第一希有難解は何れも、文底の意から拝すると三大秘法の南無妙法蓮華経です。文底とは、大聖人様のお立場から、という意味です。

日蓮正宗向陽山佛乗寺

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(1)処非処智力とは「知実にすべての理と非理とを知る力」である。
(2)自業智力(業異熟智力)とは「知実に業とその報との因果関係を知る力」である。
(3)静慮解脱等持等至智力とは「如実にすべての禅定や三昧の順序や浅深を知る力」である。
(4)根勝劣智力(根上下智力)とは「如実に衆生の能力や性質の勝劣などを知る力」である。
(5)種種勝解智力とは「知実に衆生の了解断定を知る力」である。
(6)種種界智力とは,「知実に衆生の素性素質やその行為などを知る力」である。
(7)遍趣行智力とは「知実に人天等の諸の世界に趣く行の因果を知る力」である。
(8)宿住随念智力とは「如実に過去世の種々な事を憶いだし知悉する力」である。
(9)死生智力とは「如実に天眼をもって衆生の死生のl時や未来生の普・悪の世界などを知る力」 である。
(10)漏尽智力とは「自らすべての煩悩が尽きて,次の生存(後有)を受けないことを知り,また他のものが煩悩を断ずるのを誤らずに知る力」である。




大 智 度 論 入 門
巻第二十四(下)

大智度論初品十力釋論第三十九

1.是処不是処を知る智力 
『仏』は、『一切の諸法』の、『因縁、果報の定相』を、こう知っていられる、――是の、『因縁より!』、是のような、『果報』を、『生じる!』。是の、『因縁』は、是のような、『果報』を、『生じない!』、と。

2.業報を知る智力 
『業報を知る智力』とは、――『身、口の作す業』と、是の、『業より生じる!』、『無作(外に表れない!)の業』と、『受戒に係わる業』と、『悪業』と、『日夜の生活に随う業』と、『行動より生じる罪、福の業』とを、『知る!』、『智力である!』が、
『仏』は、是の、『業』を、こう略説された、――
『三処(身、口、意、又は過去、未来、現在)に摂して!』、是れを、『一切の業相』と、『呼ぶ!』、と。

3.禅定解脱三昧の浄垢を分別する智力

4.衆生の根の上、下を知る智力
5.衆生の種種欲を知る智力
6.種種の性を知る智力
7.一切の至処の道を知る智力
8.宿命を知る智力
9.生死を知る智力
10.漏尽を知る智力
11.十力総説