日亨上人の誤解




●此の文に本門の教主釈尊を本尊とすべし等と云へり「常途の本尊に違せり」、←厳然と十界文字曼荼羅本尊正意のお立場

●答へて云はく此の或る抄を見るに一偏にかける故に諸御書一貫せず、其の上三箇の秘法の時は唯二箇

となるの失あり今便に因みて略して之を出さん、其ノ中に

→これ以下の文を、日亨上人は日精上人の言として読み違えられたのである。

その証拠に、日寛上人は以下の如く、日辰の邪義を引用されていたことを示されている。↓

日寛上人「精師且(しばら)く他解を述ぶ。是れ即ち日辰の意なり。故に本意に非ざるなり。」(抜書雑雑集)

そして引用文が終わった後の日精上人の御記述

● 然るに三大秘法の義を取ること偏に取るが故に相違甚多なり此ノ故に

今之レを挙ケて以て支証とするなり。

ここは文法上から言っても動かせない事実。




大学匠日亨上人でも間違いはある。

一例を挙げれば、熱原法難で三烈士が命を落とした年月日を、『富士日興

上人詳伝』には、

●神四郎等兄弟三人の斬首および他の十七人の追放は、弘安三年四月八日

と定むるのが当然であらねばならぬことを主張する。(同書91頁)
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とあり、日亨上人は弘安3年4月としている。

しかし『富士年表』では種々検討した結果、弘安2年10月15日として

きた。

創価学会の『仏教哲学大辞典』(第3版)の「熱原法難」の項にも、

◆(※弘安二年)10月15日、神四郎・弥五郎・弥六郎の3人は事件の

発頭人というかどで斬罪に処せられ(同書33頁)
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と、日亨上人の説ではない、その後の宗門の説を踏襲している。

『大白蓮華』昭和53年12月号・池田大作の言

◆かつての堀日亨上人の文献によれば、三烈士の刑死の日は、熱原法難の

翌年にあたる弘安3年4月8日であるとの説であったが、猊下(※日達上

人)の御説法によって示された弘安2年10月15日というのが、私達も

本当にその通りであると思う。



いくら大学匠・日亨上人でも勘違いや誤解くらいはあるのである。

しかし、日精上人が造読家であったとして批判的であった日亨上人は、歴代

上人の血脈について以下の如くお考えだった。

●此仏と云ふも此菩薩と云ふも・共に久遠元初仏菩薩同体名字の本仏なり

、末法出現宗祖日蓮大聖の本体なり、猶一層端的に之を云へば・宗祖開山

已来血脈相承の法主是れなり、是即血脈の直系なり(第59世日亨上人・

有師化儀抄註解『富士宗学要集』1巻116・117頁)

「仏と云っても、菩薩と云っても、これは共に久遠元初の仏・菩薩 同体の

、名字即の御本仏である。
それは末法に御出現された日蓮大聖人の御本体である。

尚更に一層それを端的に言えば、日蓮大聖人・第二祖日興上人以来の血脈

相承を承けられた歴代の御法主上人のことである。歴代の上人こそが血脈

の直系の伝承者であるからである。」


つまり、日精上人をも

含む歴代上人への血脈の尊厳を、このように厳として主張されているので

ある。