大石寺第二十六世日寛上人 文底秘枕抄

 問う、有るが謂わく、凡そ身延山は蓮師の正墓なり、故に波木井抄三十三に云わく■「何国にて死に候とも、墓をば身延山の沢に立てさすべく候」等云々。
既に是れ御墓処なり、豈最勝の地に非ずや。

 答う、汝等法水の清濁を論ぜず。但御墓所の在無を論ず、是れ全身を軽んじて砕身を重んずるか。
而るに彼の御身骨は正しく興師離山の日之れを富山の下に移し、今に伝えて之れ有り、塔中の水精輪に盛ること殆ど升余に満つるなり。
而も開山上人御遺状有り、謂わく
「大石の寺は御堂と云い墓所と云い、日目之れを管領せよ」等云々。
既に戒壇の本尊を伝うるが故に御堂と云い、又蓮祖の身骨を付するが故に墓所と云うなり、故に蓮祖の正墓は今富山に在るなり

 問う、有るが謂わく、宗祖の云わく「未来際までも心は身延の山に住むべく候」云々。
故に祖師の御心常に延山に在り、故に知んぬ、是れ最勝の地なることを。

 答う、延山は本是れ清浄の霊地なり、所以に蓮師に此の言有り、而るに宗祖滅度の後地頭の謗法重畳せり、興師諌暁すれども止めず、蓮祖の御心寧ろ謗法の処に住せんや、故に彼の山を去り遂に富山に移り、倍先師の旧業を継ぎ更に一塵の汚れ有ること無し。
而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此こに移らざらんや、是の故に御心今は富士山に住したもうなり。

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両山問答

当山第五十二世日霑上人 と 重須本門寺日志 との書簡による往復問答

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重須本門寺日志 疑難

一、「大石寺は御堂と云い墓所と云い日目之を管領す修理を加へ勤行を致し広宣流布を待つ可きなり」
御骨を安置する故に墓所と云ふと云々。

今按ずるに波木井入道日円、興師へ贈れる状に云く

「無道に師匠の御墓をすて失なき日円を御不審候はんは争か仏意にかなはせ給べき」と

門徒存知抄に云く、

「甲斐国波木井郷身延山に麓に聖人の御廟あり而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細条々の事、彼の御廟の地頭南部六郎入道・法名は日円は日興最発心の弟子なり乃至已上四箇条の謗法を教訓する処日向之を許す云々、此の義に依て去る其の年月波木井入道の子孫と永く以て師弟の義絶し畢ぬ。仍ち御廟に相通ぜず、

所破抄に云く

身延の群徒猥に疑難して云く、富士の重科は専ら当所の離散に有り。縦ひ地頭非例を致すとも先師の遺跡を忍ぶべし。既に御墓に参詣せず。争か向背の過罪を循れんや云々、
日興云く、此の段、顛倒の至極なり。乃至身延一漸の余流未だ法水の清濁を分たず。強に御廟の参否を論ず。汝等将に砕身の舎利を信ぜんとす。何ぞ法華の持者と号せんや迷闇尤甚し」と、

日尊実録に云く

日興上人仰に云く、全身砕身二種の舎利あり、彼は砕骨なり、法門は大聖人の全身なり、砕身に依るべからず。
全身の法門正義ならば先聖必定正直の頭に居すべし云々、
又云く、大聖人御遺骨身延山に納め奉るの段、誰か疑貽有らんや と、

四文を以て照すに興目在世には大聖人御骨大石寺にあらざること皎(※こう=月の光が白く見えるさま。また、白くて清らかなさま。)として白日の如し、若夫しあれば日尊日順等何ぞ之を知らざるの理あらん、
今其現存する物は後世身延の墓をあばいて盗み出せるか。
蓋し将た作物して偽説するにすぎざるなり、
夫れ砕骨の如き必す墓所に納めて散乱せざるしむるを以て子弟の礼孝とす、曾(か)って霊宝等と称して宝蔵中に置くべき物にあらす、
凡そ身体骸骨を隠し納めし処なれば墓所と云う上に石塔を立てて永く子孫の孝福を行ふべき目表とす、
然るに其の墓所と白骨とを別処に置いて之れを愚民に衒売(※げんばい=実際以上によく見せかけて売ること。売り込むこと。)するは仏祖の意に叶はざるは必然の理なり、
身延に後世、掘出仕手(掘り出して)、玻璃塔に納め一蔵を構へて中央に置き以って愚に衒売するを羨む心より、此の正骨も出来して違状の一箇に加へられたるものならんか。

已上三段共に疑ひあり、請ふ真理を開示せよ。

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当山第五十二世日霑上人 返答 破折

(※以下 重須本門寺日志の邪難の要約)
 
一、文に云はく

「大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ等」云々。(※0)

教正師(※重須本門寺日志)云はく

今案ずるに波木井入道日円・興師へ贈れる状(※1)に云はく

「無道に師匠の御墓をすて失なき日円を等」と云々、

門徒存知抄に云く

「甲斐の国、波木井の郷、身延山の麓に聖人の御廟あり。而るに日興御廟に通ぜざる子細条々等」云々、

所破抄に云はく

「身延山の群、徒猥に疑難して云く、「富士の重科は専ら当所離散に在り。乃至、身延一沢の余流未だ法水の清濁を分たず。強に御廟の参否を論ぜば等」云々、

日尊実録に云く云々、

此の四文を以って之を照すに興目の在世には大聖人の御骨大石寺にあらざる事、皎として白日の如し、若し夫れあらば日尊日順等何ぞ是を知らざるの理あらん、今現存する者は後世身延の墓をあばいて盗み出せる者か、蓋し将た作物にして偽説するにすぎざる也」と云々。

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資料

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※0 日興跡条条事の御文。
そもそも、日興上人から日目上人への御譲り状にこのように明白に「(大聖人の)墓所」と仰せである。
→ 大石寺に大聖人の御正骨・墓所が存在していた文証。

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※1  波木井入道日円より日興上人への返状、祖滅八年、日円の正本西山本門寺に在り。

一日のびん(便)ぎ(宜)の御文くわしく(委)うけ給り候ひ了ぬ、さて(扨)は何事にて候とも御辺のおほせ(仰)をばたがへ(違)まいらせ(進)候はじと存じて候が、この(此)事にをき候てはかない(叶)がたく(難)候、いか(何)よう(様)にもたい(怠)じやう(状)申すべく候へども、かねて(兼)よりうらみ(怨)まいらするし(仔)さい(細)の候あいだ(間)おほせ(仰)にしたがひ(従)て、さ(然)うけ給はりぬと申す御事恐れ入り候。
まこと(実)に仏道なり(成)候とき(時)は、しやう(障)げ(碍)の候なれども、これ(此)はしやう(障)げ(碍)にはなる(成)べからず候、日円は故しやう(聖)人の御で(弟)し(子)にて候なり申せば老僧たち(達)もおなじ(同)どう(同)ぼう(胞)にてこそわたらせ(渡)給ひ候に、無道に師匠の御はか(墓)をすて(棄)まいらせてとが(咎)なき(無)日円を御ふ(不)しん(審)候はんはいか(何)で仏ち(意)にもあひ(相)かなは(叶)せ給ひ候べき、御経にこう(功)をいれ(入)まいらせ候、師匠の御あはれみ(愍)をかぶ(被)り候し事おそらく(恐)はおとり(劣)まいらせず候、ぜん(前)ご(後)のしや(差)べち(別)ばかり(計)こそ候へ、さ(然)れば仏道のさはり(障)になる(成)べしともおぼへ(覚)ず候なり。こまか(細)にはげ(見)ざん(参)にも申して候き、又ゑち(越)ぜん(前)殿くはしく(委)申さるべく候なり、恐々謹言。
  (正応二)六月五日  日円在り判。
  伯耆阿闍梨御房。

→ 「身延に大聖人の御墓があった」 ということ言いたいがための文証。→しかし、日興上人身延離山前のこと。
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※2 富士一跡門徒存知事   延慶二年 の文

一、甲斐の国波木井郷身延山の麓に聖人の御廟あり、而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細条々の事。

→ 五老僧が、日興上人身延離山後に、大聖人の御墓がある身延に墓参に参詣しないことを難じている箇所。
→ しかし、身延離山の際に日興上人は大聖人の御正骨を奉持されているのであるから、とんだお門違いの疑難。

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第五十二世日霑上人 破折

愚謂らく甚ひかな此の言や、興門一派の明鏡たる教正師にして此の暴言ある怪むべし、
興尊一たび延嶽を去り給ひし後、我が徒の微力、争か延嶽に嚮(むか)ひ、此の暴働をなす事を得べけん、況や円頂方袍(円頂方袍エンチョウホウホウ 円頂は坊主頭、方は四方、袍は上衣のことで、方袍は袈裟。=僧侶の意。)の徒の行ふべき業にはあらざるべし、

凡そ人心あるもの凡夫臭穢の枯骨を納め、大聖の仏骨と称し、宝瓶高臺に安奉し、自ら拝礼供養をなし、以って他を欺き、自を欺くに忍びんや、
設ひ一人、此の謀計をなす事あらんも、他人争か此の邪謀に与する者あるべき、
仮ひ一人二人与みする者あらんも一山与みすべからず、
一山与みすとも衆徒・檀越、争か之を許すべけん、
若し一僧一信檀越之を許さずんば、決して此の邪計を当時及ひ末世に施す事は叶ふべからず、

蓋し教正師の如きは、若し其の時にあらば依然として是に与みし給ふ意なるか。決して与し給ふまじ、
師若し与みするの意なくんば他人も亦爾るべし、
鳴呼、是れ羅漢に似たる一闡提の徒にあらざれば行ひがたきの謀計・我が興目の末流にして誰か是れに与みする者あるべき、
若し爾らば此の事決して後世の偽計りにあらざるや明けし、

蓋し宗祖の正墓延山に在って未来際迄も法魂を爰に止むべし。とは宗祖の遺命祖文に在って顕然なり、故に日円及び群徒等是れを以って訃、頻(しき)りに難を焉(これ)になす、
故に且らく仏者の正意は生法二身に於ては専ら法身の舍利に在って、生身の全砕に依るべからざるの義を示し、其の勝劣を明了にせんが為、切に此の理を述べて生身偏執の見を破責し、御墓不通の競難を強遮し給ふのみ、
此の時に臨んで何ぞ砕身の有無を論ずるに及ばん、故を以って且らく之れを黙し給ふのみ、爾りと雖も何ぞ必ずしも御骨を取収して当山に移し給はずと確言せんや、

抑も興尊の身延を離散し給ふは何故ぞ。
是れ偏に地頭の謗法を悪(にく)み、終には末代までも大謗法の魔境とならん事を恐慮し給ひし故にあらずや、
興尊自身をすら永く謗地に居せん事を厭(いと)はせ給ひながら、争(いか)で本師の御生骨を永く謗法魔境の土中に埋め置かん事を決とし給ふべき、

凡俗といへども父母の身骨を悪土に置く事を厭ひ、勝地を選んで改葬する者あり、
彼の土木氏の如き其の身法華の持者として領地も亦多し、其の領内の墓地に埋葬し、朝暮自手に香花を供し追孝を尽さんに何の不足かあるべき、
然れども後世領地替等に由り、永世謗法の土とならん事を慮りてや母骨を首に懸け遥々延嶽に詣られし事、載せて祖文にあり、是れ孝子の情なり。
故に宗祖深く之れを賞し給ふ、

況や興尊に於て今や身延一山謗法の地となり永世無間の土とならん事を慮り、御身すら爰(ここ)を去らんとし給ひ、余の霊宝・御本尊及び聖教重器に至るまで牛馬に駄し離散し給ふに臨み、僅(わずか)に一瓶に満たざる本師の遺骨を「砕身取るに足らず」と永く謗土に捨てて顧みざるの理あるべからず、

西伯文王は野に枯骨あるを見て厚く之れを葬り、華氏城の波羅門は髑髏の耳の孔達る者を買ひ是れに塔して礼拝供養せり、
仁人信士は他人の枯骨すら捨てず。況や本師の遺骨を捨て顧みざるの仏弟子はあるばからず、
何に況や吾が興尊に於てをや、
故に愚輩に於ては設ひ教正師百口を極めて疑難を設け之れを破らんと欲し給ふとも、此の一箇に於ては確乎たる信心決して退すべきにあらざる也、

蓋し当山瓶中に盛る処の者は全骨にはあらざず。僅に胸部より頭脳に至るまでの御骨にして其の余は身延に残し給へるか。其の情知るべからず。

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一、教正師云はく
「抑も聖賢の砕骨を玻璃塔に納めて宝庫に安置し衆人に礼拝せしむるとは何等の経論釈抄に候ぞや」と云々。

愚反詰して謂く
「抑も仏祖の砕骨を玻璃塔に納めて其信心の四衆に拝せしめ、弥よ断疑生信せしむべからず。」とは何れの経論釈抄に候ぞや、

宗祖曰く

「又身軽法重・死身弘法と申して候は身は軽ければ人打はり悪むとも法は重ければ必ず弘まるべし、法華経弘まるならば死かばね返って重かるべし、かばね重くなるならば此かばねは利生あるべし、利生あるならば今の八幡大菩薩といははるるやうに、いはうべし」と云々、

此の死かばねと者(は)生身の砕身にあらずして何ぞや、
所詮不信の人の前には金剛不壊の仏舍利も猶是れ瓦礫の如し、
所謂伝奕の悪言・韓愈の罵詈等是れなり、
況や末法下種の機の吾輩に於ては設ひ七宝宝塔に奉じ供養を延ぶとも、古暦昨食何の利益かあるべき、
若し吾が信者の前には示同凡夫の宗祖の砕骨猶是れ久遠本仏の御舍利にして彼の金剛不壊の仏舎利に勝るる事は百千万倍なり、
何ぞ是れに塔して礼拝供養をなさざるべけんや、

爾るを宗祖大聖の砕身に於て猶通途賢聖の臭骨に同視して此の難をなせるは、更に宗祖の内徳を尊信覚知せる教正明師の一言とは思うはれざるなり鳴呼。

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明治十二年一月             沙門 日霑 謹 誌霑師 

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日霑上人会答 

興尊本祖の遺命に違はず戒壇之本尊・御影を奉じ御遺骨をも分け納めて安々是れを吾が冨山の麓に移し奉るを得たるは是れ偏に大聖の遠鑑深慮に出ずる所、云々(富要7−126)


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富士大石寺明細誌 大石寺第四十八世 日量上人

一、日蓮聖人御身骨【玉瓶に入る升余】一瓶

武州池上に於て荼毘し奉る所の頭面の御舎利なり、粲(※さん=明らか・鮮やか)として円珠の如し。
右御本尊並に御骨等当山に安置する故に日興より日目への遺状に曰く、
「大石寺は御堂と云い墓所と云い日目之を管領し修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり」云云。

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大石寺第六十五世日淳上人 

「早川一三君の「富士日興上人身延離山の研究」を読んで其の蒙を啓く」

抜粋

 続いて大聖人の御灰骨を御搬出なされたか否かについての早川君の説を吟味して見やう。
此問題は早川君の本論全体に於て重大なる地位を占むるもので、その結論は一に此れを前提として祖山中心説なるものが立てられてをると思考せられるが、それだけに心を落ち着けて冷静に以下の所論を読んで貰ひたい。

 早川君は日興上人が身延御離山に際し大聖人の御灰骨は身延山にとゞめさせられて御搬出遊ばされなかつたと言てをるが、この論断の起る所以のものは、前掲の原殿抄の追伸の御文と日尊仰の文とにより更に門徒存知事と五人所破抄との文に次の如くあるが、それ等によつて判断するがためである。

一、甲斐国波木井郷身延山ノ麓二聖人ノ御廟アリ、而シテ日興彼御廟二通ゼザル子細条々ノ 事。
彼御廟ノ地頭南部六郎入道(法名日円)日興最初発心ノ弟子也、此因縁二依テ聖人御在所八 箇年帰依シ奉ル。
滅後其年月義絶スル条々ノ事(此下波木井の四箇の謗法を列挙して)此義 二依テ去ル其年月彼ノ波木井入道並二子孫ト永ク以テ師弟ノ義ヲ絶シ畢ヌ。
仍テ御廟二相通 ゼザルナリ。 (富士一跡門徒存知事)

身延ノ群徒猥リニ疑難シテ云ク富士ノ重科ハ専ラ当所ノ離散二アリ。縦ヒ地頭非例ヲ致スト モ、先師ノ遺跡ヲ忍ブ可キ二既二御墓二参詣セズ、争カ向背ノ過罪ヲ遁レン哉云々。  
 日興云ク此段「眞+頁」倒ノ至極ナリ、言語二及バズト雖モ未聞ノ族ヲ仰イデ毒鼓ノ縁ヲ結バン。其 レ身延興隆ノ元由ハ聖人御坐ノ尊貴ニ依ル。
地頭発心ノ根源ハ日興教化ノ力用二非ズ哉(此 下波木井入道の非義を責めその例証に叡山の慈覚智証のことを挙げて)先聖ハ慈覚ヲ指シテ 本師違背ノ仁ト称ス、若シ御廟ヲ守ルヲ正トナサバ円仁所破ノ段頗ル高祖ノ誤謬ナリ(此下 正直ニ正法ヲ守ルトコロニ大聖人ノ御住居ナサルヲイッテ)抑モ身延一沢ノ余流未ダ法水ノ 清濁ヲ分タズ。強イテ御廟ノ参否ヲ論ズルハ汝等将二砕身ノ舎利ヲ信ゼントス。何ゾ法華ノ 持者ト号センヤ、迷暗ノ尤モ甚シキ之レ二准ジテ知ルベシ。        (五人所破抄)

一、身延山参詣有ルベキヤ否ヤノ事、尊仰ニ云ク日興日向ノ対論ハ和光利物ノ一偏也。歿後 ノ今二於テハ既ニ三代二及ブ、二聖ハ同一浄土帰寂ニシテ曽テ鬱憤ヲ残シ給フ可カラザル也。 
何ゾ凡夫ノ迷情ヲ以テ歿後ニ至ルマデ争論ヲ成ン歟。
但シ日興上人仰ニ云ク全身砕身二種ノ 舎利アリ、彼ハ砕身ナリ法門ハ全身也。
砕身ニハ依ルベカラズ、全身ノ法門正義ナラバ先聖 必定シテ正直ノ頂ニ居シ玉フベシ云々。
彼モ存日一往ノ面ナリ再往本墓所御崇敬ノ義有之身 延沢御退出ノ刻公方聖教世事ノ雑具皆悉々御墓所ニ之レヲ置クベキ由、衆徒ニ相触レラレシ 時而々供奉ノ人々一紙半銭モ持チ出スコトナシ、爾レバ末弟等ノ中二身延参詣何ノ不可カア ラン云々。
将又大聖人ノ御遺骨身延山ニ納メ奉ルノ段誰カ疑貽ヲ致サンヤ。
広宣流布ノ時本 墓所ノ御沙汰之レ有ル時モ不参ノ立義然ル可カラザルカ。
此事ニヨリテ富士ノ正義乱スベカ ラズ。
所詮広宣流布ノ時分ヲ期シテ宜シク道理ノ正義ニ任スベキ故ナリ。(尊師仰日大筆録)

 以上がその文々であるが門徒存知事と五人所破抄とは日興上人に直々御縁のあるものであり、尊師仰といふ日尊師は日興上人の御弟子であり、身延山より日興上人の御供をして富士へ御移りなされた方であるから直接その間のことに携はれたと見るべき方である。

 此等の文献によつてだけ、殊に尊師仰によつて此の問題の消息を察すると、全く議論の余地なく大聖人の御遺骨は身延にあつて富士にはないと通途には考へられるから早川君の此れについての説は尤も妥当として何人も賛成するであろう。
然るに吾人に言はせるとこの尤もらしく聞へる事が実は全く反対でなければならないのである。
古文書の扱が如何に困難であるか。
而して四方八方の事情を睨んでをらないととんだ誤りを仕でかすといふ例には此れは適当してをる。

 早川君は上掲の諸文によつて日尊師の言葉を中心として此れを判断してをるが、猶未だ最も重要なる御記録を逸してをる。逸してをるのではなく故意に無視してをるのかも知れないが、その一の御記録こそ此の微妙なる問題を探る鍵である。それは即ち日興跡条条事である。

  日興跡条条事
 一、本門寺建立ノ時ハ新田卿阿闍梨日目ヲ座主トナシ、日本国乃至一閻浮提之内山寺等ニ於 テハ半分ハ日目ヲ嫡子分トシテ管領セシム可シ、残ル所ノ半分ハ自余ノ大衆等之レヲ領掌ス ベシ。
 一、日興ガ身ニ充テ給ハル所ノ弘安二年ノ大御本尊ハ日目ニ之レヲ授与ス。
 一、大石寺ハ御堂ト云ヒ墓所ト云ヒ日目之レヲ管領シ、修理ヲ加ヘ勤行ヲ致シ広宣流布ヲ待 ツベキナリ。
 右ハ日目十五之歳日興ニ値テ法華ヲ信ジテ已来七十三歳ノ老体ニ至ルマデ敢テ違失ノ儀ナシ。 十七之歳日蓮聖人ノ所(甲州身延山)ニ詣デ、御在生七年ノ間常随給仕シ御遷化之後弘安八 年ヨリ元徳二年ニ至ル五十年之間奏聞ノ功他ニ異ルニ依テ此ノ如ク書キ置ク所也仍テ後ノ為 証状如件
   十一月十日                      日  興  判

 此御文書は日興上人が日目上人へ大石寺を御譲り遊ばされた時の手継ぎの御書付である。
此中に大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひと仰せられてあるが、御堂といふは大聖人の板御本尊がまします故であり、墓所と云ひとは大聖人の御灰骨がましますが故である。そこで此の御文を以て本問題を判断すると又全く議論の余地なく大聖人の御遺骨は大石寺にましますといはなければならない。
従て日興上人は身延御離山に当つて御灰骨を御搬出遊ばされたといふ事実は疑ふ余地がない。
即ち吾人が早川君の論断は逆であつて事実は反対でなければならぬといふ理由は之れである。

 しかしこのことは唯之れだけでは早川君が尊師の言葉を中心として日興跡条条事を無視すると同じ論法であるから、片手落ちの非難を免れないであろうから早川君も承服する事はできないであろう。
それ故茲にもう一歩立ち入つて此等の文献を比較検討して何れが正しいかを論議してみやう。

 第一に此等文献の材料としての強弱性を考へて見ると日興跡条条事は先にも言った通り日興上人より日目上人への御譲り書であるからなんといつても最も確実であつて依拠として此れ以上有力なものはない。
次に門徒存知事と五人所破抄とは日興上人の御真蹟ではないが、それに準ずべきものであるから尊師仰より有力である。
尊師仰に至つては日興上人との御関係に於て、また本問題に関しては順師等にまさるといへばいへるが、文の性質からいつて尤も弱いものである。
何故かといふに前者は日興上人の御目通があつたと思はれる文献なるに比し、後者はそうでなく日大の筆録にすぎないし、尚前者を依拠としてをる点が見へるからである。既にかくの如くであれば文献として依憑するには、第一に日興跡条条事を挙げ他を第二第三にをき尊師仰は第四にをかなくてはならない。

 第二に此等文献の内容より検べると、やはりその価値は又第一の順序と同じになるのである。
日興跡条条事には明白に墓所と仰せられて議論の余地はないが門徒存知事と五人所破抄とは御廟といつてをる。
殊に五人所破抄には身延の群徒が富士流に対し墓所へ参詣しないのは不可として墓所といつてをるに対し、その所破の文には御廟の文字を用ひてをる。
故意か偶然か慎重に考ふべきところである。
いふまでもなく廟とはおたまやのことであつて、墓よりも広義になり而も墓の意は廟に於てはボケルのである。
而して又此両書の文は解釈の仕方でどちらへもとれるのであつて、早川君もその辺一応自分の立場に有利に解釈する様であるが、それよりむしろ此文に御灰骨を富士に移したと明白にいつてをらぬことをもつて不審の証としてをる。
此は結局此文がいづれへも解釈できる融通性があるからである。

吾人は門徒存知事の文は身延と絶縁の理由を述べる目的の記録として判断する、而して身延山の麓に聖人の御廟ありといふは当時大聖人の御入滅を昨日の如く思ひ奉り、御在世の身延の有様を思ひ浮ぶるものには聖人の御廟所として身延山を考へずに居られなかつたであろう。
日興上人も御在世のみならず御滅後七ヶ年の間御廟として御丹誠遊ばされたのであり、しかも大聖人の御遺言を御考へなさる時自ら別な御感想があらせられたことであろう。
日興上人が先立ちに御丹誠なされた御廟、それは富士へ御移りなされてもやはり御廟と御呼びなさるのは当然のことであらねばならない。
此は富士に御廟があるなしに拘らないことである。

五人所破抄の文に於ては身延山側が御墓に参詣しないのを非難してをるを挙げてをるから、身延山側が墓所のあるを信じてをつたことを察知できる。
而して此れに対する所破の文にはまた御廟の言葉をもつてしてをる。
しかしまた文中砕身云云といつてをるを見れば御墓所のことであると考へられるが、此は身延山側が大聖人の御一身からのみ見て富士を非難するのを法門の大道からその誤りを破したと見るべきであるから、強ちに此を以て本問題の真相を断定できない。
此は下にいふであろうところの情と照り合せて考ふべきものと思惟する。

尊師仰の文に於ては余程注意して見なければならない。
早川君のいふが如く日尊師が日興上人身延御離山に当つて御供申上げたといふことから考へると如何にもその言葉は信憑すべく有力であるが如くであるが、尊師の考へ方からいへばその信憑は甚だ減殺されねばならない。
日興上人は御離山の理由として波木井の謗法中神法門を挙げてをらるゝが、それにも拘はらずその後の日尊師の言動から見ると師は此のことを知らなかったといはねばならない(日目上人の与伊与公書参照のこと)。
しかし又今此尊師仰に於ても脱線的解釈の上に立て此言葉を述べてをる。
日尊師に従へば日興上人と日向上人とが不和であられたのは和光利物の一偏であつて御滅後は同一の浄土に円満にしてをられる、それを不和の如くいふのは凡夫の迷情であるとして、日興上人には再往身延を御崇敬なされてそのため聖教雑具をとゞめさせられたといつてをるが、之れは全く日尊師の勘違ひといふべきである。
日興上人が御滅後師と円満であられるといふことはそれこそ尊師の迷情である。
若し此の論法からいけば大聖人も御滅後は弘法や法然と同一所に円満にしてをられるといふことになるが、はたしてかくの如きことが考へられやうか。
而して又日興上人が身延崇敬の御心であられたといふも、それは御離山前の身延であつてその後の身延ではない。
殊にそのために聖教雑具を御残しなされたといふは甚だ見当違ひである。
日興上人は身延山側波木井氏と永く義絶したと仰せられ、日興跡条々事には大石寺を修理して広宣流布の時を待てと仰せられて波木井殿の手紙には「無道ニ師匠ノ御墓ヲ捨テマイラセテ」といつてをる、それやこれや思い合せると何処にも身延崇敬の御心は微塵もない(此ことは下結論を評する時に述べるであらう)かように勘違ひの上に立つ尊師の言葉はそのまゝ信憑する訳にいかない。

而して又尊師は此れに本墓所といつてをるが此の本の字は何を意味するであらうか。
此れは分に対する本であると見へるが、若しそうであれば尊師は御離山前の気持から身延中心の説にあつて本墓所といはれしもので、一方に分墓所を認めてをつたといへるそれならば此文は富士に於けるを否定したものではない。

本分は尊師の一意見である以上第一第二の両点よりその強弱性を見てきたが、なほこれだけではその依拠の軽重強弱であつてその間に包蔵せられる矛盾を解決するものでない。
こゝに於て更に然らば何故かくの如く富士系統に於て異説とも見へるものが起つたか、而してその真相は如何の点を推考して見る必要がある。


日興上人が身延山を御離れなされたは波木井の謗法によつて一山を清浄に護ることができないとの御考へであつたことは再三前に述べたところであるが、既に身延山を捨て去る上人には一度御離山遊ばさるゝや再び御戻りなさる御考へは毫頭あらせなかつたのである。
かく御決意の上人には御本尊は申す迄もなく御灰骨も捧持して御離山なさるべく御考へなさるのは当然である。

美作房御返事
「師を捨つべからずといふ法門を立てながら忽ちに本師を捨て奉り候はんこと大方世間の俗難も術なく覚へ候」
と仰せられた上人が、まして謗法の地として御自身さへ御離れなさるにどうして大聖人の御灰骨を残し給ふことがあろうか。

今日世間に於てさへ宗旨を改めると墓地をそのまゝ捨てをかず正法の地に移すのである。
これは信仰が深ければ深い程そうである。

嫡弟日興上人におかれて其のまゝ御立ち去るが如きは夢にも拝察申上げることができない。此辺早川君はどう考へるか。

しかしながら此の場合日興上人の御意中には波木井殿の態度が問題である。
それは大聖人より
「墓をば身延に建よ」
との御手紙が波木井殿にいつてをる。
縦ひそれが日興上人へ御付囑遊ばされての上であつても、波木井殿はその御手紙を以て御墓所に執着してをる。
若し公々然と御搬出遊ばされたならば必らず正面衝突はまぬかれない、
波木井殿は地頭であり武人であるからその帰趣は明らかである。
此処に於て唯一の道は御内密に御搬出なさることである。
而して御搬出後も御内密になされなければ富士と身延は僅かな道程であるから直ぐに波木井殿に聞へるは必定である。
此れがために富士に御移しの後も極めて僅かな方より外には御漏しがなかつたと思考せられる。
また富士の信仰はそれを表看板にする必要がなかつたのは今も昔も変りがなかつたのである。

門徒存知事、五人所破抄の文はかくの如き事情と筆者の富士に於ける地位とを考へて判断しないと誤解が起りやすい。
尊師仰の文に於ても同じ事情である。
而も尊師の言葉には三転して魯魚の誤りをなしたと察せられる節が多分にあるが、此は又尊師の富士に於ける地位から見て初めて了解せられるところである。

従来この問題について尊師等の言葉を金科玉条として推測判断し、却て日興跡条々事の御文を知らないか、或は偽書として無視するものが多いがそれがために重大なる錯誤に堕するのである。
早川君もこの跡を踏襲するものであつて、その埒外に一歩も出てをらない。
先づ此等御文書に対する態度から反省してかゝらねば真相にふれることはできない。
吾人の言を聞いて御文書をもう一度読んで見るがよい。
然らば大聖人の御灰骨が富士にましますことは歴然たることを知り得やう。

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    祖廟中心主義の論を破す  大石寺第六十五世日淳上人

世上に於て日蓮大聖人は身延山に御住居遊ばされ、久遠寺を建立し給ひ、尚墓所をば身延の沢に建つべしと仰せられてをるから大聖人御棲神の地は身延山であるとして日蓮門下に於ては身延山を中心としなければならぬといふ説がある。
此の説は身延山が大聖人の御旧蹟であるといふことから一般世人の耳に入りやすく近来稍々もすると此説に雷同するもののあるのを散見する。

 此等の説は一見人情の然らしむるところであつて深く問題視するには当らぬと考へられるが若し一歩立ち入つて考へるならば大聖人の教義の混濁は此処に原因するのであつて厳に批判して此の説を根絶しなくてはならない。
何故かなれば身延山を旧蹟として尊重するものはその山に於ける混濁した本尊と教義とを許容し賛同するものであつてその事が大聖人に違背し奉り謗法の第一歩となるからである。

 祖廟中心論の骨子を為すものは大聖人の御書中南条兵衛七郎殿御返事に身延山は日本の霊鷲山であると仰せられたことと波木井殿への手紙の中に「いづくにて死に候とも墓をば身延沢にせさせ候べく候」と仰せられたこととである。
一往此等の御文より拝すれば大聖人は身延山を尊重遊ばされたが如くであるが再往その前後より御思召を拝すれば身延山霊鷲山であると仰せられたのは大聖人が御住居遊ばされてをるからとの御意で乃ち人尊きが故に住処また尊しとの御思召によつて仰せられたのである。
また墓を身延の沢に建てようとはその上の御文によれば波木井殿が大聖人に帰依せられてその領地たる身延山に御住居遊ばされたといふいはゞ世の義理の上に仰せられたことは明らかである、此れに対して大聖人は三大秘法鈔に「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか」と仰せられ、その地を富士山と指示して二祖日興上人に御遺命遊ばされたのである。
戒壇は大聖人の御住居の道場である。
然らば霊山とは富士であり大聖人が永遠に御魂を逗め給ふは富士であることは明白である。
而して二祖日興上人の美作房への御返事の御手紙によれば「地頭不法ならんときは我れも住むまじき由御遺言には承り候へども」と仰せられて若し万一地頭波木井殿が信仰上不法なれば大聖人は御魂を身延の山に逗めずと御遺言遊ばされてをるのである。
此の御遺言こそ御一生の間邪法を破折し正法を建立遊ばされた大聖人の御言葉として門流に於ては絶待に尊重し奉らねばならぬところである。

或は論者は此の御遺言に疑義をさしはさみ波木井に対して後日作為されたものとして耳を蔽はんとするが、此御手紙が波木井が謗法を犯す以前にあつて日興上人が波木井を弁護なされし御手紙中の御文であるからそれ等の疑義は全く成立たないのである。

 かくの如き事情の下に於て果然地頭波木井は謗法に堕したのである。
然らば大聖人の御魂は此時限り身延の山に住し給はぬのである之れを以て爾来身延山は霊山ではなく唯の山であり不法の点に於て地獄の山といはなくてはならない。
之れについて論者はまた波木井は謗法であつても彼は既に過去の人である。
身延山が清浄でさへあれば差支へないではないかといふであらう。
しかし此の事は既に永遠の霊山浄土たる富士に御移り遊ばされた以後に於ては最早身延山は法の上には何等の意義はなく此の山に執着すべき理由は毛頭存在しない。
勿論彼山が清浄にして正法を建つるならば御旧蹟としての意義だけはあるといつてよい。

 以上のことは日蓮大聖人を信仰し奉るほどの者は必らず第一歩に心得ねばならない事柄である。

                         昭和二十五年二月(大日蓮)