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フェイクの駄難を破す

まずは平成2012年2月5日発行のフェイク全文を挙げよう。

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お粗末の極み! 邪宗門の誤本尊
日如が下手な字で模写した「似非本尊」 @
法華講員 「誤字が多く拝む気がしない」



ニセ法主・早瀬日如が平成十八年六月二十日に模写した「誤本尊」(写真)を見る機会があった。日顕宗の法華講員が怒り心頭で、ある僧に渡したもので「誤字だらけの本尊は拝む気がしない」というのが理由らしい。一瞥するに「御本尊」というには余りにも酷すぎる代物で、聞きしに勝るお粗末さに驚いた。

御本尊に似て非なる「似非本尊」であり、まず、気付くのは、おかしな文字が幾つも見受けられることである。なかでも「無邊行菩薩」の「邊」、浄行菩薩の「浄」、書写の「写」、仏滅の「滅」など、何かが変である。(邊、浄、滅は下の拡大文字を参照)。



これを見ても、日如が不相承のニセ法主であることが頷ける。

日如は誰かの本尊を見て書いたのだろうが、いい加減な模写と言わざるを得ない粗雑なものである。

いかに己の専権事項とはいっても、身勝手な書き方は許されるものではない。

ある中堅僧は、次のように鋭く指摘する。

「ご当代は漢字を知らないのです。知らない漢字を変に崩して誤魔化しているのは不誠実です」「これまで、さまざま悪筆を指摘されたにもかかわらず、同じ様な過ちを繰り返しており、実に無反省かつ悪質な態度といえる」「本尊書写において不誠実・無反省・悪筆というのは信心がゼロどころか、大聖人の仏法を愚弄し、法を下げる謗法行為だと思う」「本尊書写の以前に、その心構えも知らないのが分かります。ニセ法主であることは勿論、ニセ僧侶であり、ニセ聖職者、ニセ信仰者というしかない。

無信心ここに極まれり、という感がします」と実に手厳しい。(つづく)


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いつもながら一読噴飯ものの駄文だが、破折を加えて粉砕しておこう。

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フェイクが疑義として挙げた御文字について。

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まず、大聖人御真筆御本尊を検証する。

立正安国会 22番本尊
文永11年4月 佐渡 妙宣寺

淨行菩薩 の「淨」 通常の「淨」とはかなり違う字体

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30番本尊 建治元年12月 鎌倉 妙本寺

「仏滅後」の「滅」 通常の字体とは違う 日如上人の書写された御文字の字体と酷似

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52番本尊 年時 削損 佐賀 勝妙寺

「無邊行」 の 「邊」 日如上人の書写された御文字の字体と酷似

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66番本尊 弘安2年9月 和歌山 蓮心寺

「無邊行」 の 「邊」 日如上人の書写された御文字の字体と酷似

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66番本尊

「仏滅」 の 「滅」 通常の「滅」とは大きく違う字体

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70番本尊 弘安2年11月 千葉 随喜文庫

「仏滅」 の 「滅」 日如上人の書写された御文字の字体と酷似

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88番本尊 弘安3年4月 京都 本法寺

「無邊行」 の 「邊」 日如上人の書写された御文字の字体と酷似

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106番本尊 弘安4年4月17日 京都 本圀寺

「仏滅」 の 「滅」 通常の「滅」とは自体が違う

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107番本尊 弘安4年4月25日 京都 本満寺


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109番本尊 鎌倉 妙本寺

「仏滅」 の 「滅」 通常の字体と大きく違う

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112番本尊 弘安4年 10月

「淨行」 の 「淨」 通常の字体とは違う

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以上 検証してきたように、大聖人御真筆御本尊にも、通常の字体と違う御筆も多く見受けられる。
特に「邊」は、まさに日如上人が御書写された「邊」の字と酷似している。
フェイクは幼稚で不勉強なるが故に、かつて「邊」 の右は 「方」の上に「ハ」がない字体があったことを知らないのである。

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次に、「邊」の古い字体を検証する

これについては、上代金石((きんせきぶん)金属や石などに記された文字資料) 法隆寺金堂薬師如来像光背銘

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上代肉筆では 聖武天皇雑集

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上代肉筆 出典不読

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等に、まさに日如上人の運筆と同形の用例があり、何ら問題は認められない。
むしろ、フェイクが「辺」の旧字体において「邊」の字体しか知らなかったというただただ不勉強なだけで、幼稚・不見識の大恥を晒しただけ。

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「浄」 について これは旧字体 「淨」 を少々特徴のあるお認めをされたと拝する。

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「滅」 について これも、少々特徴のあるお認めであって、フェイクがいうような「誤字」とは認められない。
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「淨」「滅」 共に、上掲の大聖人御真筆における「淨」「滅」に通常の字体とかなり違うお認めが存在するのと同様である。

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要は「一水四見」で、謗法の悪果報で根性が濁り腐り切った者が、日蓮正宗に対して「何が何でもアラを探して論ってやろう。」との歪んで下衆な濁った眼で見るから、尊いものが曲がったようにしか見えないのである。

参照 「一水四見」
恒河の水を、餓鬼は火と見る、人間は水と見る、天人は甘露と見る、菩薩は無量の法門と見るということ。
一つの水でもその境界・果報によって受け方、感じ方が違うことを言う。

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そもそも、御本尊は御歴代御法主上人が戒壇の大御本尊様の御内証を「書写」されているのである。

日達上人

●相承を受けて、御本尊をお認(したた)めするのは、けっして面には「書写」と書いてあるけれども、(※経文をそのまま書き写す、というような)書写の行ではなくして、御本尊造立なのである。ただただ、その姿を、戒壇の大御本尊にちなんでお書きし奉るから「書写」と書くだけ(『日達上人全集』第2輯第1巻545頁)
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67世日顕上人
● 根本は申すまでもなく、本門戒壇の大御本尊でこざいます。
 その御本尊の内証を拝して御書写申し上げました御本尊が本日ここに入仏いたしました(第67世日顕上人 S56.4.18 教光寺落慶入仏法要の砌)
● 我が日蓮正宗の根本は、久遠元初本因妙の仏の御命を、法に人が具わる人法一箇の御当体そのまま末法御出現の大聖人の御境界、お振る舞いに顕わされたところの南無妙法蓮華経でございまして、さらに戒・定・慧の三つの法のうえから、その御内証が末法一切衆生総与の御本尊として顕示され、本門戒壇の大御本尊と呼称あそばされて伝えられておるのでございます。そして、その(※戒壇の大御本尊の)御内証を代々の法主が拝し奉り、御本尊を書写申し上げる次第であります。(日顕上人・正覚寺移転新築落慶入仏法要の砌・昭和五十七年十二月三日)
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56世日応上人も、『本門戒壇本尊縁由』

●当宗に於て授与する処の御本尊は、一切衆生に下し置れたる此の御本尊(※本門戒壇の大御本尊)の御内証を、代々の貫首職、一器の水を一器に写すが如く直授相伝の旨を以て之を写し奉り、授与せしむる (『日應上人全集』第1巻9頁)
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更に 堀日亨上人
●「本尊書写は、筆の巧拙にのみよるものでなく、一心浄念に身心一如になさるべき云々」 (『富士日興上人詳伝』404)

  ★ → つまり、御法主上人は、戒壇の大御本尊様の御内証を「書写」されれるのであるから、筆の巧拙の問題ではないのである。  
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日寛上人『観心本尊抄文段』
●「木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。(中略)
当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。
謹んで文字及び木画と謂(おも)うことなかれ云云」(文段集四七〇n)

  ★ → 今回のフェイクのような駄難をなす者、またこういう駄難に引っかかる愚か者は、そもそも御本尊様を、「文字」だけの見方しかできないから信心に迷惑するのである。
正当な御開眼をなされた御本尊様は、日寛上人の仰せの通り、まさに生身の日蓮大聖人様そのままであり、そのまま御仏と信じて拝して素直に南無妙法蓮華経と唱える時、初めて境地冥合・感応道交して真の功徳が成ずるのである。
「御本尊の文字がどうのこうの」と疑念する者どもは、未来永劫に成仏は叶わないであろう。
(あるいは毒鼓の縁で、永劫に無間地獄で獄苦に喘いだ後に、永遠の未来において救われる辺もあるか。)
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日蓮大聖人
■「日蓮の蓮字に点を一つ打ち給う事は、天目が点が一つ過ぎ候なりと申しつる間、亦一点を打ち給いて後の玉いけるは、予が法門に墨子(ふすべ)を一つ申し出だす可き者なり」(聖典380頁) 

大聖人御筆の御本尊を拝した弟子の天目が、

「蓮の字の点が一つ余分です」
と批判めいた発言をしたところ、大聖人はこれを退(しりぞ)けられて、さらに点をもう一つ加えられた、との仰せである。

 要するに、御文字を認めるのは凡身(凡夫即極の凡身)に握った御筆であっても、御筆をもって顕わされた御本尊は絶対無二の仏の御当体であって、これに対し衆生(たとえ弟子であっても)が差し出口をすることを、大聖人は断じてお許しになっておられないのである。
(※この天目は後に、迹門不読の邪義を構えて異流義の徒となっている)


 戒壇の大御本尊の御内証を唯一、相伝・伝持される御法主上人が書写される御本尊に対しても、その御文字や御相貌に対して、云々することは、まさに謗法に堕した天目同様の驕慢・浅識・計我・不信・疑惑・など十四誹謗の最たるものである。


 しかして、日蓮大聖人が謗法の輩の過去世を明かして、
■ 「法然(ほうねん)が一類、大日(だいにち)が一類、念仏宗・禅宗と号して、法華経に捨閉閣抛(しゃへいかくほう)の四字を副(そ)へて制止を加へて、権経の弥陀(みだ)称名(しょうみょう)計(ばか)りを取り立て、教外別伝(きょうげべつでん)と号して法華経を月をさす指、只文字をかぞ(数)ふるなんど笑ふ者は、六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし」(御書581頁) 

と仰せられている理に照らすならば、驕慢から異流義化した天目の末流の者共が、今日、池田創価学会の中に出来(しゅったい)して、またも御本尊の御文字に口を差し挟(はさ)んでいるのではないか、と思われるのである。まさに、過去世からの謗法のなせる業(わざ)というべきであろう。

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ついでに、駄文中の 「ある中堅僧」 とは誰だ?
名前も出せぬ者の証言など全く取るに足らない駄文。
適当に自分達に都合の良い"証言"として何とでも言える話。
そもそもフェイクがいかに捏造のオンパレードか、何度かその当事者になったので実体験している。
その代表的な出来事を挙げておこう。





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