御本尊模刻事件

昭和五十年一月一曰、池田大年は、学会本部に板本尊の入仏式を行なった。

当時の『聖教新聞』

  「入仏式は会長(池田)の唱導で方便品・自我偈の読経・唱題の声が和すなか、これまでの紙幅の御本尊は北条浩理事長、森田康夫本部事務総長らの手によって収納され、そのあと、板御本尊に参加者はお目通り。これにより『大法弘通慈折広宣流布大願成就』の常住御本尊は、永遠不滅の義を刻みつつ本部にご安置されたわけである。」 (『聖教新聞』昭和五十年一月四日付)

 「この学会本部常住の御本尊は『板御本尊』へと謹刻され、この日、早瀬総監の導師をえて代表幹部が参加し入仏法要が晴れやかに営まれたわけである。」(『聖教新聞』昭和五十年十月二十四日付)


通称「藤本メモ」藤本日潤総監のメモ

昭和四十九年九月二日の記録

 「7・本部三階の御本尊の件―板御本尊にしたい」

翌日の記録

 「7の件―OK」

藤本尊能化

 「この本部三階の御本尊というのは、六十四世日昇上人の昭和二十六年五月十九日お認めの『大法弘通慈折広宣流布大願成就』という為書(ためがき)のある紙幅御本尊であり、この御本尊が、永年、陽が当たって傷(いた)んできたので、もったいないから、板御本尊にしたいという、こういう願い出がありました。
 これを翌九月三日、日達上人に御報告申し上げ、日達上人は御承知あそばされたということであります。
 ここで大事なことは、日達上人は、学会の『板御本尊にしたい』という意味は、今までの日昇上人の紙幅御本尊はおしまいして、新たに日達上人に板御本尊の御下附を願い出るものと、このように思われて、そういう意味で御承知であったということでございます。日昇上人の御本尊そのものを板御本尊に模刻することを許可せられたのではないということであり、このことは、先程も出ましたが、菅野慈雲師の 『大日蓮』五七三号に発表されている手記 のなかで、日達上人のお言葉として、
 『板本尊にしてほしいという願いはあったが、その後、御本尊下附願いが正式に出てこないので、どうしたのかと思っていたら、すでに板本尊に直していたということを後から聞かされた』
と、こういう仰せからも明らかであります。」(『創価学会の偽造本尊義を破す』)

口頭による願いの後、正式な御本尊御下附願いを出すのが当然。

紙幅の御本尊を板御本尊に直していただくつもりで、日達上人に申し上げたとしても、その正式な願い出や御指示がない

紙幅の御本尊を写真に撮って模刻する行為であり、これでは一体の御本尊から二体の御本尊ができてしまうのであるから、御本尊の複製・偽造

「陽が当たって傷んできたから」
学会本部に安置されていて陽が御本尊に直接当たることなどありえない。

 要は、学会では、自ら自由に板御本尊を造りたかった、ということ。

御先師日達上上は、いちおう口頭で許可したことであるからと、この御本尊一体についてのみ、模刻を認められた。

昭和五十二年十一月七日、日達上人が正式に御允可あそばされ、学会創立四十七周年記念と併せ、あらためて開眼入仏法要を営まれ、決着をつけられた。
         (続く)