『御伝土代』 熱原法難記事の検討
――「日興上人と御本尊にあそばす」の文法・史料・伝承をめぐって――
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一 問題の所在
金原明彦氏は、『御伝土代』(『三師御伝土代』)に記された次の一文を取り上げている。
【原文】
「さてあつわらの法花宗二人ハくひをきられおハん、その時大聖人御かんあつて日興上人と御本尊にあそはすのみならす、興の御弟子日秀・日弁二人上人かうし給」
(『歴代法主全書』第一巻、二六六頁)
【読み下し】
「さて熱原の法華宗二人は頸を切られ畢んぬ。その時大聖人御感有って日興上人と御本尊にあそばすのみならず、興の御弟子日秀・日弁二人上人号し給う。大聖人の御弟子数百人僧俗斯くの如く頸を切りたるなし、又上人号なし」
(『富士宗学要集』第五巻、八頁)
これについて金原氏は、戒壇の大御本尊を絶対視する立場の一部が、「日興上人とともに御本尊を認められた」と解釈して戒壇の大御本尊を指すと主張している、と紹介したうえで、次のように述べる。
▼「文脈に沿って素直に読めば、『日興上人と御本尊にあそばす』とは、『「日興上人」と御本尊に認められた』と解釈するのが最も妥当な解釈である」
(金原明彦『日蓮と本尊伝承』一六〇頁)
確かに、現存する翻刻本文の「に」をそのまま採り、後続の「日秀・日弁二人上人号し給う」「又上人号なし」との平行関係を重視すれば、金原氏の文法解釈には相当の根拠がある。
しかし、それによって問題がすべて解決するわけではない。むしろ、次の新たな問題が生じる。
●- 授与書等に「日興上人」と記された現存御本尊は、現在確認できる範囲では知られていない。
●- 大聖人が日興上人・日秀・日弁の三人へ正式な「上人号」を授与したことを直接証明する同時代史料も、現在確認されていない。
●- 『御伝土代』は三人を同列に記さず、日興上人だけを先に取り出して「御本尊」と直接結びつけている。
以下、史料上確認できる事実と、そこから導き得る推論を区別しながら検討する。
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二 同時代史料に見る三人の呼称
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1 弘安二年十月十二日――『伯耆殿等御返事』
熱原法難のさなかに認められた大聖人の『伯耆殿等御返事』では、宛名が次のように記されている。
■「伯耆殿 日秀 日弁等」
ここでは、日興上人は「伯耆殿」、日秀・日弁は法名のみで記され、三人とも「上人」とは書かれていない。
ただし、この一通だけで「上人号の授与はなかった」と断定することはできない。
授与がこの書状より後であった可能性は、理論上残るからである。
ここから確認できるのは、少なくともこの時点では、三人に授与された固定的・公式的称号としての「上人」が書状上に現れていない、というところまでである。
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2 弘安二年十月――『滝泉寺申状』
『滝泉寺申状』の末尾には、次の署名がある。
■「弘安二年十月 日 沙門日秀日弁等上」
法難当時の対外的な公文書において、本人たちは「沙門日秀・日弁」と記され、「日秀上人」「日弁上人」とは記されていない。
もっとも、幕府側へ提出する申状において、自らを「上人」と称するかどうかは別の問題である。
したがって、この署名は上人号授与を否定する決定的証拠ではなく、当時の実際の呼称を示す補助的な材料として扱うべきである。
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3 弘安二年十一月二十五日――『富木殿女房尼御前御書』
熱原三烈士の処刑を十月十五日とする伝承に従えば、その約四十日後に当たる弘安二年十一月二十五日の大聖人真蹟『富木殿女房尼御前御書』には、次の御文がある。
■「さてはえち後房・しもつけ房と申す僧を、いよどのにつけて候ぞ」
「えち後房」は越後房日弁、「しもつけ房」は下野房日秀である。
すなわち熱原法難後にも、大聖人は二人を「越後房・下野房と申す僧」と呼ばれている。
この史料からも上人号授与の不存在そのものを断定することはできない。
しかし、仮に熱原法難を契機として正式な上人号が授与されたのであれば、それ以後、大聖人が二人を一貫して「上人」と呼ばれた形跡は確認できないことになる。
この点は、―「法難の日に正式な上人号が授与され、それ以後固定的称号として用いられた」―とする理解に疑問を投げかける。
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4 「日秀日弁」真蹟断簡
二〇〇七年に公開された獅子吼会所蔵の日蓮真蹟断簡について、都守基一氏は次のように判読している。
■「日秀日弁させる僧にはあらねども、浄行一分也」
岡田文弘氏も、二〇二〇年の『現代宗教研究』掲載論文「日蓮聖人の上行自覚」において、この断簡を熱原法難の日秀・日弁を評価した文として取り上げている。
この判読に従えば、大聖人は二人を「浄行一分」と評価しながら、「日秀上人」「日弁上人」とは書かず、「日秀日弁」と記している。
したがって、大聖人が弟子を賞嘆・評価された場合でも、必ず「上人」という敬称を付したわけではないことになる。
留意点
この史料は断簡であり、前後の文脈が欠けている。
また「させる」の語義や判読の細部には、なお検討の余地がある。
したがって、上記の現代語解釈を確定的なものとして用いるのではなく、判読者・論者を明示したうえで傍証として扱う。
参考:岡田文弘「日蓮聖人の上行自覚」
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5 日興上人の呼称
『富士一跡門徒存知事』が伝える弘安五年の六老僧の名には、次のようにある。
日昭 弁阿闍梨
日朗 大国阿闍梨
日興上人 白蓮阿闍梨
日向 佐渡阿闍梨……
大聖人在世期の一次・準一次史料において、日興上人には「伯耆房」「伯耆殿」「白蓮阿闍梨日興上人」等の呼称が確認される。
一方、―「日興上人」―が在世中から恒常的な公式称号として使用されていたことは、現在確認できる史料からは明らかでない。
したがって、『御伝土代』に現れる「日興上人」を、後世に整備された固定的な法階・公式称号とまったく同じ意味に理解することには慎重でなければならない。
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ここまでの史料的結論
―「熱原法難の日に、日興上人・日秀・日弁の三人へ正式な上人号が授与され、それ以後、その称号で呼ばれるようになった」―という事実は、現存する同時代史料からは確認できない。
史料上確実に言えるのは、―『御伝土代』の成立した時代には、熱原法難における三人の功績と「上人」という呼称を関連づける伝承が成立していた―、というところまでである。
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三 「聖人等」という呼称と上人号伝承
『聖人等御難事』の末尾には「聖人等御返事」とある。
この「聖人等」が大聖人自身の宛名表記に遡るのであれば、大聖人が熱原法難の関係者を、その信仰上の功績に即して一時的・賞嘆的に「聖人等」と呼ばれた可能性は認められる。
ただし、「聖人等」が具体的に日興上人・日秀・日弁の三人だけを指すのか、その他の熱原関係者を含む集合的呼称なのかは、慎重に検討しなければならない。
また「聖人」という称揚的呼称と、「上人」という固定的な法階・称号とは、直ちに同一視できない。
大聖人が在家の女性信徒を「日妙聖人」と称された例や、南条時光殿への宛名を一度「聖人」と記した後、その上から「賢人」と改めたとされる例(※竜門御書)も考慮すべきである。
これらは、「聖人」が僧侶の恒常的な法階だけを意味せず、信仰上の功績を称える呼称として在家者にも用いられ得たことを示唆する。
以上から、次のような伝承形成の可能性を考えることができる。
熱原法難に際し、大聖人が関係者を称揚的に「聖人等」と呼ばれた。
後世、その称揚的呼称が、日興上人・日秀・日弁の三人へ正式に「上人号」を授与したという伝承へ整理・発展し、『御伝土代』に記録された可能性がある。
これは伝承形成を説明する一つの仮説であり、上人号授与の不存在を直接証明するものではない。
しかし、在世中の呼称と『御伝土代』の記述との隔たりを説明し得る仮説ではある。
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四 「日興上人と御本尊に遊ばす」の文法
1 現存本文をそのまま読む場合
御本尊そのものを図顕・造立する意味であれば、通常は、
「日興上人と御本尊を遊ばす」
と目的格の「を」を用いる方が自然である。
この場合の「日興上人と」は、共同・相談・関与の相手を示す。
一方、現存翻刻どおり「御本尊に遊ばす」と読む場合、「に」は書き記す場所・対象を示し、「と」は書き記された内容を示す、と解することができる。
「『日興上人』と、御本尊に〔書き・認め〕遊ばす」
これは「太郎と札に書く」と同じ構造である。
さらに後続の、
「のみならず、興の御弟子日秀・日弁二人上人号し給う」
および、
「又上人号なし」
との間に、日興上人への上人号と、日秀・日弁への上人号という平行関係が成立する。
したがって、現存本文だけを文法・文章構造から読めば、金原氏の解釈が第一候補となることは認めなければならない。
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2 しかし金原説にも残る史料上の空白
金原氏の文法解釈が有力であるとしても、授与書等に「日興上人」と記された御本尊は、現在確認できる範囲では知られていない。
また、そのような御本尊の存在を直接記す上代文献も確認できない。
もちろん、これをもってその御本尊が絶対に存在しなかったと断定することはできない。
失われた可能性、未公開である可能性、あるいは別の表現で伝えられた可能性が残るからである。
しかし、金原説を歴史的事実として主張する側には、次の問いが残る。
●- 「日興上人」と認められた御本尊は、具体的にどの御本尊であったのか。
●- なぜその御本尊または授与書の伝承が、現在確認されていないのか。
●- なぜ日興上人だけが御本尊への書き入れという方法で上人号を与えられ、日秀・日弁とは異なる扱いになったのか。
したがって、金原氏の読みは文法上有力であるが、その読みだけで『御伝土代』の記事が史料的に説明し尽くされたわけではない。
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五 日興上人だけを「御本尊」と結びつけた非対称性
本記事の最大の着眼点は、三人が同列に記されていないことである。
人物 『御伝土代』における扱い 考え得る意味
| 日興上人 | 先に単独で取り出され、「御本尊」と直接結びつけられる。 | 日興上人と御本尊との特別な関係を示唆する可能性がある。 |
| 日秀・日弁 | 「のみならず」と続け、「二人上人号し給う」と記される。 | 熱原法難における功績に対する称揚・上人号伝承を表す。 |
もし三人に同一の上人号を授与したという事実だけを記すのであれば、
「日興・日秀・日弁三人、上人号し給う」
と記せば足りる。
ところが実際には、日興上人だけが先に取り出され、「御本尊」と結びつけられ、その後に「のみならず」として日秀・日弁が続く。
もちろん、金原氏側からは、「日興上人については御本尊への書き入れという方法で上人号を与え、日秀・日弁には別の方法で上人号を与えたので、構文が非対称になった」と反論することができる。
したがって、この非対称性だけで唯授一人の血脈相承や戒壇の大御本尊への密付嘱が証明されるわけではない。
しかし、この非対称性は、日興上人と御本尊との関係を、単なる三人への同一称号授与だけに還元してよいのか、という疑問を生じさせる。
少なくとも日道上人が『御伝土代』の当該箇所を、日興上人と日秀・日弁とをまったく同じ資格・意味で記したとは限らない。
(※ 御伝土代は日時上人の著作とする説もあるが、本稿ではあくまで日道上人著として拝する立場を取る)
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六 戒壇の大御本尊と密付嘱を説き込んだ可能性
熱原法難における日興上人・日秀・日弁の功績を、大聖人が深く賞嘆されたことは認められる。
その称揚的事実から、後世、「三人へ上人号を賜った」という伝承が成立した可能性がある。
そのうえで、日道上人が『御伝土代』の、この上人号授与伝承を記す文章の中へ、次の宗門上の秘事を重ね合わせたのではないか、という仮説が成立する。
熱原法難
↓
大聖人が時と機を感ぜられる
↓
戒壇の大御本尊を御図顕
↓
唯授一人の血脈相承を受ける日興上人へ密付嘱
この構図は、熱原法難を契機として日興上人・日秀・日弁の功績が顕彰されたという上人号授与伝承の構図と近似する。
日道上人は『御伝土代』の当該箇所で、その伝承の構図を借りながら、日興上人と特別な御本尊との関係を重ねて記したのではないか。
このように拝すれば、宗門において古来、
■「その時大聖人御感有って日興上人と御本尊にあそばす」
を、―「熱原法難を契機として、大聖人と日興上人との唯授一人の御境界における深い御談義のうえに、戒壇の大御本尊を御図顕遊ばされた」―と拝してきた理由も理解できる。
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この解釈の位置づけ
以上は、本文の表面的な文法だけから直接証明できる歴史的事実ではない。
富士門流における戒壇の大御本尊と唯授一人相承の秘伝性を前提として読む場合に成立する、宗門教学上の解釈仮説である。
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七 大聖人と日興上人との御談義
大聖人と日興上人が重要事項について御談義されたことを示す宗門上の例として、『富士一跡門徒存知事』には、次の文がある。
■「凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり。然れば駿河富士山は是日本第一の名山なり、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ」
この「奏聞し畢んぬ」について、日達上人は、日興上人が大聖人へ、富士山の地に本門寺を建立すべきことを申し上げた趣旨として御指南されている。
参照
「先師(※日蓮大聖人)はまだ所(※本門戒壇建立の地)を言わなかった。
そこで日興上人が、(富士門徒一跡門徒存知事 聖典五四二)
「駿河国・富士山は是れ日本第一の名山なり、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ」
この名勝の地に、本門寺をお建てになったらよろしゅうございましょうと、申し上げた。
そこでですね、一期弘法抄ができたんでしょう。」(日達上人 「戒壇」に関する御説法集 日蓮正宗宗務院)
日興上人が本門戒壇建立の地という重要事項を大聖人へ御進言されたのであれば、戒壇の大御本尊の御図顕についても、唯授一人の御境界において御談義があったと拝することは、宗門教学の師弟観から見て不自然ではない。
ただし、「本門寺建立地を御進言した」という事実から、「戒壇本尊の図顕についても相談した」という事実が論理的に必然となるわけではない。
前者は後者を理解するための宗門教学上の傍証であり、『御伝土代』本文が相談の事実を直接記したと断定するには、なお「に」の文法問題が残る。
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八 意図的に曖昧な構文とした可能性
現存本文の「に」を原文どおりと仮定した場合、表面的には―「『日興上人』と御本尊に認められた」―と読める。
一方、そのような授与書を有する御本尊の存在は、現在確認できない。
そこで、日道上人は『御伝土代』の当該箇所で、本来明示すべきでない戒壇の大御本尊の密付嘱を、上人号授与という表面上の主題の中へ、あえて婉曲的に説き込んだのではないか、という試論が考えられる。
もし―「日興上人と御談義あって御本尊を認められた」―と一読して理解できる文章であれば、―「明示せず秘かに暗示する」―ことにはならない。
密付嘱である戒壇の大御本尊へ衆目の関心が不用意に向くことを避けながら、後世の門下に日興上人と御本尊との特別な関係を残すため、上人号授与伝承と重ねた構文を用いた、と拝する余地はある。
あるいはまた当時から事実として―「日興上人」と授与書きのある御本尊―は存在しなかったとすれば、日道上人はあえてそのような御本尊が存在するとも解釈できる構文にして、後世の探求者に、その矛盾点からこの箇所を熟読熟慮検討させ、戒壇の大御本尊の日興上人への密付嘱の深義を想起させるための御配慮であったかもしれない。
(が、この点に関してはあくまで想像の範疇であり、資料から証明できる観点ではない。)
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九 『御伝土代』の文章と助詞誤写の可能性
問題の「御本尊「に」遊ばす」が、本来は「御本尊「を」遊ばす」であった可能性も検討しなければならない。
『御伝土代』は完成された論文というより、土代・草稿的性格をもつため、文章には省略・重複・圧縮が見られる。
たとえば、次のような表現である。
本文 検討
| 「子息飯沼の判官馬と乗、蟇目を以て一々に射けり」 | 原字・翻刻が確かに「馬と乗」であるならば、通常期待される「馬に乗」と格助詞が異なる。 助詞使用または書写・翻刻に混乱が生じた可能性を示す重要な例となる。 |
| 「伊東の浦より海上より白髪の翁来りて」 | 「より」が近接して重なるが、起点と経路を重層的に表した可能性もあり、直ちに誤記とは断定できない。 |
| 「五人は一同して、興上一人正義を立つ、鬱憤して不和の間」 | 主語・述語・接続関係が圧縮されているが、草稿的省略として説明できる可能性がある。 |
| 「日秀日弁二人、上人号し給ふ」 | 現代語としては省略的だが、「上人号す」という漢語的・名詞動詞的表現の可能性があり、単純な誤文とは断定できない。 |
上表のごとく 『御伝土代』に草稿的な構文の圧縮があることは認められるが、それらのすべてを「助詞の誤用」の証拠とすることはできない。
であるが、とりわけ「馬と乗」が原字どおりであれば、格助詞の異常を示す有力な例となる。
しかし、この一例だけから、問題箇所の「に」が必ず「を」の誤記・誤写であると断定することはできない。
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十 「に」「を」をめぐる四つの可能性
1. 原文自体が「に」であった可能性
この場合、文法上は「『日興上人』と御本尊に書き認めた」という読みが第一候補となる。
2. 原本または現存資料の字形を、日亨上人が「に」と判読した可能性
草書・変体仮名の字形や原資料の保存状態を確認する必要がある。
(※日亨上人が頭注に何箇所も誤字・誤用などを指摘されているので、この可能性は低いと思われるが、完全にその可能性無しとは言えない)
3. 日亨上人以前の伝写段階で、「を」が「に」へ変化した可能性
ただし、日亨上人が日道上人の自筆原本を直接翻刻したことが確実に立証されるならば、この中間誤写の可能性は小さくなる。
4. 活字翻刻の段階で誤植が生じた可能性
『歴代法主全書』と『富士宗学要集』がともに「に」であっても、両者が同じ日亨上人の判読・翻刻に依存するならば、独立した二つの証拠とはならない。
なお、日亨上人は熱原記事の人数等については注記・訂正を加えながら、「御本尊に遊ばす」を訂正していない。
このことは、少なくとも日亨上人自身が「に」という本文を認識し、直ちに単純な誤字とは扱わなかったらしいことを示す傍証となる。
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現段階での公平な結論は、次のとおりである。
「を」の誤字・誤写説は排除できない。
しかし、それを積極的に証明する材料もまだない。
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十一 板曼荼羅としての造立時期に関する試論
日亨上人は『富士日興上人詳伝』二一二頁において、身延離山時の御荷物について、次のように考察されている。
■「御荷物の中に『生御影』『御骨』はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる」(富士日興上人詳伝 212頁)
また、『御伝土代』当該箇所は、戒壇の大御本尊を明白に「板曼荼羅」として記してはいない。
現在確認できる範囲では、上代文献にも、弘安二年当時の戒壇の大御本尊が現状と同じ板曼荼羅であったことを明記する史料は見いだし難い。
ここから、弘安二年当初には紙幅の御本尊として図顕され、日興上人へ密付嘱された後、さらに後代に板曼荼羅として造立されたのではないか、という仮説を立てることは可能である。
しかし、文献に「板」と明記されていない理由としては、秘蔵されていた、門外不出であった、記録が失われた、当時は材質を特記する必要がなかった、等の複数の可能性がある。
また、日亨上人の「研究の余地」という言葉も、直接には身延離山時に板本尊をどのように奉持したかという問題への留保であり、それだけで板曼荼羅の成立時期を決定するものではない。
したがって、「紙幅で図顕され、後代に板曼荼羅化された」という可能性は試論として提示できるが、その時期を日道上人以後と限定する直接史料は、現段階では示すことができない。
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十二 総合結論
本検討から導かれる結論を、史料的確実性の順に整理すると、次のようになる。
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論点 評価
| 現存本文では、金原氏の「『日興上人』と御本尊に書き認めた」という読みが文法上有力である。 | 強い |
| その授与書をもつ御本尊は、現在確認できる範囲では知られていない。 | 強い。ただし不存在の証明ではない。 |
| 同時代史料では、三人への固定的・公式的な上人号授与を確認できない。 | 比較的強い。ただし授与の不存在までは断定できない。 |
| 日興上人だけが「御本尊」と直接結びつけられる非対称性がある。 | 本文上明確であり、重要な着眼点である。 |
| 問題の「に」が「を」の誤字・誤写・誤植があった。 | 排除できないが、現段階では未証明。 |
| 上人号伝承の中へ戒壇の大御本尊と密付嘱を説き込んだ。 | 宗門教学上成立し得る解釈仮説。 |
| 後世の者に気づかせるため、著者が意図的に曖昧な構文にした。 | 興味深いが、著者の内心を推定する信仰的・解釈学的試論。 |
| 戒壇の大御本尊が板曼荼羅化されたのは日道上人以後である。 | 現段階では直接証拠が不足している。 |
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最終結論
金原氏の読みは、現存本文の文法上、有力である。
しかし、それによって問題が解決するのではなく、むしろ「日興上人」と授与書きされた御本尊が具体的に何であったのか、なぜその御本尊または伝承が現在確認されないのか、という新たな史料上の問題が生じる。
また、『御伝土代』が日興上人だけを「御本尊」と直接結びつけ、日秀・日弁とは異なる構文で扱ったことは明らかである。
この非対称性は、日興上人と特別な御本尊との関係を示唆し、記事を単なる三人への同一称号授与だけで説明し尽くしてよいかという疑問を生じさせる。
この特別な関係を、熱原法難を契機とする戒壇の大御本尊の御図顕および日興上人への密付嘱の暗示と読むことは、宗門教学上、十分に可能である。
ただし、それは本文だけから歴史的事実として証明された結論ではなく、史料上の非対称性と富士門流の秘伝性を結びつけて理解する解釈仮説である。
したがって宗門伝統の読みは、単なる文法無視として退けることはできない。
同時に、その読みを歴史学上の確定事実として主張するためには、原本・書写本・異本の字形比較、筆者と成立時期の確定、ならびに上代の本尊伝承に関する一層の史料調査が必要である。
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※本稿は、『御伝土代』本文の文法・文章構造、同時代史料に見える呼称、後世の伝承形成を区別して検討した試論である。
現存する戒壇の大御本尊そのものの真偽・成立時期を、本文だけによって確定するものではない。