「誠心」(日顕上人御允可)  から引用


三十六、同志の謗法は直接戒めた上で師に

 同信の人に、信仰上、見過ごすことのできない重大な謗法行為があった場合、どのように対処すべきか、その正しい在り方についてであります。

@「【五十七条】、法華宗の大綱の義理を背く人をば謗法と申すなり、謗とは乖背の別名なる故なり、門徒の僧俗の中に加様の人有る時は・再三私にて教訓して用ひずんば師範の方へ披露すべきなり、其義無くんば与同罪遁れ難き故なり云云。」(第九世日有上人化儀抄・聖典九八三頁)

 「大綱の義理」とは、宗旨の根本として定まっている大筋のことで、たとえば、日蓮大聖人を御本仏と拝し、本門戒壇の大御本尊を根本の御本尊とし、日興上人以来の御歴代上人の血脈相承を信ずること、あるいは、一切の邪宗教に関わってはならないこと等、本宗の信仰の骨格として定まっている事柄であり、これに背くことを謗法というのであります。

 このような大きな謗法行為が信心をしている人の中にあった時、どうすればよいのかということですが、まず、自分自身がその人に直接「それは謗法ではないのでしょうか、直すべきだと思います」と注意すべきです。
 その結果、相手が直してくれれば問題はありませんが、再三注意しても聞き入れることなく改めないなら、今度はその人の師匠に、その事実を報告しなければならない、そうしないで黙っている者は与同罪になる、というのであります。

 師匠に叱られたら可哀想だとか、言いつけたら恨まれるのではないか等と考えて、報告を怠ってはならないのです。


A「門徒の僧俗の謗法罪を見隠し聞隠すべからず、与同罪遁れ難き故なり、内々教訓して用ひざらんは師範に披露を為すべきなり云云。」(第九世日有上人化儀抄・聖典九八九頁)

この御指南も、宗内の僧俗の謗法に気付いた時、どのように対処すべきかについて示されたものです。

まず「見隠し、聞き隠すべからず」、つまり、謗法を見て聞いて知っていながら、隠したり放置してはならない、それは与同罪になるからであります。

 では、どうすべきかというと、「内内教訓」すべきである、とされています。
 なぜ、内々に教訓すべきか、それは、知らずに謗法を犯してしまったのであれば、直接教えてあげることによって、相手も気付き、反省して直していける場合があります。

 それを、知らずにしてしまったことに対して、直接に指摘もせずに、「あの人は謗法をしている」などと吹聴して廻るなら、その人は立場を失い、正法の信仰そのものを退転してしまうことにもなりかねません。
そのようなことになったなら、小さな謗法を指弾したことで、もっと大きな謗法を犯させる結果となってしまいます。
 要は、謗法をやめさせることが大事なのですから、まずは内々に教訓すべきなのです。

 さらに、内々に教訓すべき、もう一つの理由として、自分は謗法だと思ったが、じつは謗法ではなかった″ということも往々にしてあるからです。
 自分の浅識や勘違いから、謗法でもないことを謗法だと思い込んで、同信の人を謗法呼ばわりし、周囲に言い触らしたなら、自分の方が破和合僧になって大重罪を作ってしまいます。
 ですから、まず本人に直接問いただすことが大切なのです。その結果、自分の誤解だった、ということが判って、自ら反省せざるをえない場合もあるでしょうし、相手が謗法に気付いて改める、という場合もあるでしょう。

 また、そのように再三教訓しても聞き入れてくれなければ、その時は、相手の師匠にきちんと申し上げなければならないのであります。


B「其の教訓も披露も共に異体同心の情熱の溢ふれたる結果にして、決して浮薄なる不親切なる嫉妬なる底の・表面計りの与同罪呼ばゝりにあらず、然るに他人に謗法の行為あることを見聞して、直に本条の御示しに依らず・再三再四は愚ろか一回の面談すら為さずして・濫に江湖に悪声を放ち朋党に私語を為すの類は異体同心行にあらず、又他人の行為に疑義あるときは此を朋党の茶話に止めず、謗法と認めなば直に本条所示の如く本人に勧告もすべきなり、但し謗法とも正行とも決せざるときは明師に決断を仰ぎ又は直に本人の意見を叩くが急務なり、決して多人の耳に軽々しく入るべきにあらず、然らざれば破和合茲に基いす慎むべし。」 (第五十九世旦号上人御指南・富要集一巻一四九頁)

 同心の僧俗の中で、相手の謗法を直接教訓する、あるいは、師匠に報告申し上げる、という行為は、その謗法を放置したら、その人にとって大変なことになる、何としても改めてもらわなくてはならないという異体同心の善意からなすべきであって、間違っても、軽率で不親切な気持ちや、相手に対する反発や妬みの心から行なってはなりません。

 ところが、往々にありがちなこととして、再三どころか一度として本人に教訓することなく、同信の徒の横のつながりの中で、「あれはおかしいと思う」「謗法だと思う」等と言い散らかしていくことがあります。
こうした姿は異体同心ではない、破和合僧はこういうところから起きるのだ、と戒められているのです。

 もし、本当に、同信の僧俗の行為の中に、仏法に違背している疑いがある、というのであれば、これを仲間うちで蔭口や茶飲み話にするのでなく、前述のとおり、直接、本人に教訓すべきです。

また、それが謗法なのか、どうか、よく判らないのであれば、よく解っている師にそれを伺うなり、本人に尋ねることが大切です。
 それを蔭で、「あれはおかしい」 「あれは謗法だと思う」などと言っていると、自分の信仰も破壊されますし、これを軽々しく他人の耳に入れることが、破和合僧・破和合講の基となるので、厳に慎まなくてはならないのであります。

 今日においても、寺院や講中、もしくは同信の先輩や仲間に対し、蔭に廻って批判を吹聴していながら、面と向かっては一言も言わない、という人がいます。
もし、自分のしている批判が、異体同心の心の上から、やむにやまれず行なっている正しい行為だというのなら、直接、堂々と「教訓」すべきであり、それで聞き届けてもらえなかったなら、師に御報告申し上げればよいのです。

 それを、面と向かっては語らないのに、蔭に廻って批判を繰り返し、自分に同調する者を増やそうとする―こういう行為が異体同心を被り、破和合講の基となり、ひいては広宣流布の進展の妨げになるのであります。

 このように考えて、講中の中を見渡してみた時に、破和合講の基になりそうな言動が、自分の身辺にもあったのではありませんか。
そういうことを放っておくと、本当に取り返しのつかない事態となる、ということを、よく肝に銘じておかなくてはなりません。