「誠心」(日顕上人御允可)から

同信の徒を謗るは重罪


「此の経の四の巻には「若しは在家にてもあれ、出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀(そし)る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直(ただ)ちに毀(そし)り奉る罪には勝れたり」と見へたり。或は「若実若不実(にゃくじつにゃくふじつ)」とも説かれたり。之を以て之を思ふに、忘れても法華経を持つ者をば互ひに毀るべからざるか。其の故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり。仏を毀りては罪を得るなり。」 (御書一〇四七責)
  
 大聖人は、”この御本尊を受持して信仰に励んでいる人を絶対に毀ってはならない、一言でも毀るなら、一劫つまり一千六百万年もの間、面と向かって釈尊を毀るよりも、もっと重い罪が形成されるとして厳しく戒められています。
                                       
 そして、 何があっても、この信心をしている者同士の中で互いに毀ってはならない、何故なら、御本尊を信仰している者は皆な仏である、仏を毀れば重罪となるのであると御注意くださっています。

 このように御金言に示されていても、直ちには信じられない人が多く、周りの同信の人達の欠点や落ち度を見て、「こんな人が仏様のはずはない」 と思い、「注意されて腹が立った」 とか 「あの人は非常識だから嫌いだ」 「あの人の物の言い方が腹立たしい」 「あの人がいるなら会合に行きたくない」 などと言い出すケース
があります。
それは、まだまだ本当に仏法がわかっていないのです。

 たとえ、現在の姿が欠点だらけでも、御本尊を信じ、仏道修行に励んでいる人は、その生命の奥底に確実に仏界が涌現し始めています。
そして、その仏界の働きによって、一年、三年、七年と経つうちに、次第に、悪人は人格者となり、仕事のできない人はできるようになり、険のある人は円満な性格となり、病人は健康体となっていくのです。

 しかるに、いまだ、その現在の姿が至らない、不完全だからといって、御本尊を信じる人を毀ることは、その人の生命の奥底に涌現し始めた仏界までも誹謗することになり、ひいては御本尊を否定することにもなって、必ず仏罰をこうむることになるのであります。

 しかも、「若実若不実」、つまり非難した内容が、事実であっても事実でなくても、重罪になるのだ、と示されています。
 たとえば、正法の信仰に入った者が窃盗をした、ということがあったとします。しかし、その人が正しく信心を持っているのであれば、悪事を行なったことが事実であったとしても(また事実でなければなおのことですが)、「あの人は信心しているくせに」などと顔をしかめて嫌ったり非難してはならない、というのです。

 というのは、その人自身、過去の宿業や罪障の故に、そうした悪事を犯す境涯に落ちており、そうした宿業や罪障を打開するために、現在、仏道修行に励んでいるのですから、やがては、胸中に涌現した仏界の働きによって、立派な人格者へと成長していくであろうことは、疑いありません。

 その御本尊の大功徳力を信じるならば、その人を嫌って非難するのでなく、むしろ、一日も早く罪障消滅ができるように、そして現在の悪いところが改まっていくように、いっそう信心を励まして功徳を積ませていかなければならないのです。

 そのようにして、互いに欠点を補い、励まし合って唱える題目にこそ、大功徳が生じることを確信すべきであります。