■ 癡人が疑って云はく、我等は南天を見て東西北の三空を見ず。彼の三方の空に此の日輪より外の別の日やましますらん。山を隔(へだ)て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提(いっせんだい)の人としるべし。生き盲にことならず。(報恩抄 建治二年七月二一日 五五歳 1001)

この御文はまさに、駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」のような、愚悪な者を痛烈に呵責せられている箇所なので、少し詳しく見ていきましょう。

愚かな者、道理に暝い者は、疑い深く邪心をもって執拗に訊いて来る。

「我々は南の空しか見ていない。その南の空には確かに「太陽」は一つだが、しかし、見ていない東西北の空にだって、「太陽」以外の別の「太陽」に匹敵する「日」があるのではないか?」

あるいは、

「山の向こう側から煙が昇るのを見て、「確かに煙は確認できるがしかし、現地に行って直にその元の「火」を見ない限りは、その煙が「火」から出ている、ということは信じない。」

このように言う者どもは一闡提人である。

→一闡提=仏の正法を信ぜず、誹謗をし、また、誹謗の重罪を悔い改めない不信、謗法の者のこと。(中略)今、末法においては、日蓮大聖人からの正統・正系の仏法相伝である日蓮正宗を信ぜず、誹謗をし、正統な御本尊を拝めない者。堕地獄の衆をさす。

まさに生き盲である。→つまり、道理が全く見えない者との意。


これ、まさに駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」そのままの姿である。
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大聖人は駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」のような道理が分からない、しかも執拗に無闇に文証を問う謗難者に、かくのごとく鮮やかに返されている。

■ 問ふ、天台大師の止観一部並びに一念三千・一心三観・己心証得の妙観(みょうかん)は、併(しかしなが)ら法華経に依ると云ふ証拠如何(いかん)。答ふ、予反詰(ほんきつ)して云はく、法華経に依らずと見えたる証文如何。人之を出だして云はく「此の止観は天台智者の己心中の所行の法門を説くなり」と。(立正観抄 文永一二年二月 五四歳 766)

駄犬にこの意を領することは難しかろうから簡単に説明すると、

問者が問う。

天台大師の「一念三千・一心三観・己心証得の妙観」は法華経に依拠する、法華経を根拠とする、とは、その証拠や文証とはどこにあるのか?

大聖人が、(その愚問に直接返答されずに)反対に詰問される。

では、訊くが法華経を依拠としない、根拠としない、との文証はあるのか?

(そして道理を御説きに為る。)

この摩訶止観は天台大師の己心の中での観念観法の修行の法門を説くのである。
(であるから、法華経の文上に直接の文証はないのは理の当然である。との意味が篭められている)


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法義の正当性の証明には

■ 「文証無きは悉く是れ邪の謂ひ」との如く、覚者である仏の教説による裏づけがなくてはならない。という面と、

■ 「仏法と申すは道理なり」という、道理=普遍妥当性のある正しい筋道に則った論理性による証明という面、

その両面が必要なのである。
そのことを明確にお示しになられたのが以下の御文である。

■ 内外典の詮を承るに道理には過ぎず。

→この御文は「道理」の面を強調されている。

■ 仏法と申すは道理なり

→この御文も、同様に、道理のという論理性の面を強調なされた御文である。

■ 問うて云はく、証文如何。答へて云はく、道理顕然なり。其の上次下の文に云はく 云々

→この御文は、問者が文証の明示を要求したの対して、大聖人が、「まず以ってその件については道理が明白ではないか。」と示され、その上で「文証においてもかくかくしかじか」である、と明証なされていく筋道を示された箇所である。

■ 只道理と経文とを本とすべし。

→この御文は、まさに、教義の証明には道理と文証双方を基本にしていくべきであることを示された箇所である。

まさに、大聖人は道理と文証の両面に於いて仏法の正義を検証すべきことを示されておられる。

駄犬はこの「道理と文証両面を基本としていけ。」という大聖人の御心を読めずして、ただ「文証」という一側面にのみ拘泥し、囚われているのである。
これも模造掛け軸曼荼羅の害毒によって、心が変形・歪曲・屈折してしまって、我見による間違った仏法解釈に執着して、正しい大聖人の御言葉が心に入らないのである。