法義の正当性の証明には

■「文証無きは悉く是れ邪の謂ひ」との如く、覚者である仏の教説による裏づけがなくてはならない。という面と、

■「仏法と申すは道理なり」という、道理=普遍妥当性のある正しい筋道に則った論理性による証明という面、

その両面が必要なのである。
そのことを明確にお示しになられたのが以下の御文である。

■内外典の詮を承るに道理には過ぎず。
→この御文は「道理」の面を強調されている。

■仏法と申すは道理なり
→この御文も、同様に、道理のという論理性の面を強調なされた御文である。

■問うて云はく、証文如何。答へて云はく、道理顕然なり。其の上次下の文に云はく 云々
→この御文は、問者が文証の明示を要求したの対して、大聖人が、まず以ってその件については道理が明白ではないか。と示され、その上で文証においてもかくかくしかじかである、と明証為されていく筋道を示された箇所である。

■只道理と経文とを本とすべし。
→この御文は、まさに、教義の証明には道理と文証双方を基本にしていくべきであることを示された箇所である。

まさに、大聖人は道理と文証の両面に於いて仏法の正義を検証すべきことを示されておられる。

駄犬はこの「道理と文証両面を基本としていけ。」という大聖人の御心を読めずして、ただ「文証」という一側面にのみ拘泥し、囚われているのである。
これもニセ本尊の害毒によって、心が変形・歪曲・屈折してしまって、我見による間違った仏法解釈に執着して、正しい大聖人の御言葉が心に入らないのである。

■法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、云々(土篭御書   文永八年一〇月九日  五〇歳)

という、様である。