▼ 立正安国論について

▼・鎌倉時代はそもそも内乱が多々あり「自界叛逆難」は仏でなくとも予見できるのではないでしょうか?
  鎌倉時代年表
  自界叛逆難は、経典にはどのように説かれているか
▼・天変地異も立正安国論を書かれる前からおきており予言ではなかったと思いますが如何でしょうか?
  鎌倉時代地震年表
▼・国土を守る諸天善神、八幡大菩薩、天照大神、鬼子母神、十羅利女、大梵天王、帝釈天王、大日天王、大月天王、大明星天王の中の八幡大菩薩、天照大神は法華経には説かれておらず日本人に分かりやすくするための方便の神なのでしょうか?
▼・他国侵逼難も元寇によりあたかも予言が的中しているように思えますが、実際はモンゴルが勢力を広げて他国への侵略を繰り返しており渡来僧や商人から得た見聞を元に当時の知識人であれば予想できた範囲でした。
▼・二度の元寇は結果としては鎌倉武士が勝利を収め亡国とはとはならなかったので予言が外れているのではないでしょうか?他宗では真言僧の祈祷で元寇に勝利と言われています。
▼・元寇に乗じて承久の乱の再来とはならず元寇に勝利してしまったのでウキペディアには「富城入道殿御返事」では、予想外の事態に困惑している様子がうかがえる。日蓮は門下に対して蒙古襲来について広く語るべきではないと厳しく戒めた」とありますが如何でしょうか?
▼・立正安国論では「くに」という漢字を書く際に「國」「?」「国」の三文字を使い分けていますが諸説あるので樋田さんの見解を教えてください。

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■ 龍ノ口の首の座

▼ 竜ノ口の光り物は種種御振舞御書に記載がありますが、これほど神がかり的なものがあったにも関わらず鎌倉幕府にその記述が全く残っていない事。また随行者の四条金吾にも何も書き残してない事は不自然だと思います。

▼ 日蓮大聖人は若い頃、臨済禅を学んだ事があり、前述した宋から来朝し鎌倉にある建長寺の蘭渓道隆を師としていました。
▼ 種種御振舞御書によると法難の翌日に、 連れて来られた本間邸で、 月に諌暁されると、 明星が降って来て、 梅の木に掛かったそうですが、これも信じがたいです。

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■ 戒壇の大御本尊

▼ 御本尊七箇相承には「仏滅後二千二百三十余年」ととあるのに、戒壇の大御本尊には「仏滅後二千二百二十余年」とあるのはなぜでしょうか?
▼ 現存する日興上人の書写曼荼羅はすべて「二千二百三十余年」で統一されているという文献を読みましたが、現在の御形木御本尊はどちらになっているのでしょうか?
▼ 戒壇の大御本尊は漆金箔と仄聞しておりますが、鎌倉時代にそのような技術があったのでしょうか?
▼ 大石寺四世日道上人は日蓮大聖人の伝記を書いておりますが、出世の本懐である板本尊図顕について、一言も触れていないのはなぜでしょうか?
▼ 宗祖日蓮大聖人・第二祖日興上人・第三祖日目上人は「祖」であり、第4世日道上人以降は「世」であるのは三祖で広宣流布の形ができたからだと樋田さんのYouTubeです拝見した事があります。しからば、もし日道上人以降に戒壇の大御本尊が造立されたならば大問題となると思いますがいかがでしょうか?



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 鎌倉時代年表

1191 建久 この年、栄西、南宋から帰国、臨済宗を伝える  この年、飛鳥・川原寺炎上する  
1192 源頼朝、征夷大将軍に任じられる  
1195 建久 頼朝、上洛し、東大寺再建供養会に臨む  
1198 83
土御門
土御門天皇即位 法然、「撰択本願念仏集}を著す   
1199 頼朝死去、子、頼家(母、北条政子)が二代目将軍を継ぐ  
1200 正治2 梶原景時の変(梶原氏一族の滅亡)   
1201 建仁 建仁の乱(城氏一族の反乱) 
1202 頼家、征夷大将軍となる 1202年第4回十字軍
1203  *比企能員の変 北条時政(政子の父)により比企能員、討たれる、比企一族が滅亡
*実朝、三代将軍となる 北条時政、幕府の執権となる
*運慶・快慶による東大寺南大門金剛力士像完成する
1204 頼家、暗殺される  
1205  元久 *畠山重忠の乱(畠山重忠、北条義時(父:時政)に討たれる)
*牧氏事件(将軍の後継者争い、北条時政・牧の方と北条義時・北条政子が対立、北条義時が勝利して執権となる

*藤原定家・家隆ら、「新古今和歌集」を編纂 
 
1213 建保 84
順徳
和田合戦(和田義盛の反乱)和田義盛、敗死  1209年ジンギス、モンゴル統一
1219  源実朝、公曉(源頼家の子)に殺される(源氏将軍断絶、執権政治が確立)
承久 北条政子、尼将軍となる
1221 4-5月、【承久の乱】後鳥羽上皇、鎌倉幕府倒幕軍挙兵するも敗北
6月、鎌倉幕府、朝廷監視のため六波羅探題を京都に置く
85
仲恭
 1221年ジンギス、ムスリム軍をインダス河畔で破る  
1224 貞応 86
後堀河
北条義時死去、北条泰時、執権となる
元仁 親鸞、浄土真宗を伝える
1225 7月、北条政子死去  
嘉禄 幕府に評定衆、設置 される  
1226  九条頼経、4代目将軍になる(摂家将軍の開始)
鎌倉幕府の鎮西奉行武藤資頼が太宰少弐を兼ね、太宰府は完全に武士の支配下に置かれる 
 
1227 安貞 道元、曹洞宗を伝える  
1231 寛喜 寛喜の飢饉  
1232  貞永 北条泰時、御成敗式目(貞永式目)を制定 (日本最初の武家法、これ以降江戸時代まで武家法の基本とされる)   
1235 文暦 87
四条
西大寺:真言僧の叡尊が入寺し、鎌倉幕府や院などの帰依の下に東塔をはじめとする伽藍を再興する  
嘉禎 藤原定家、私撰和歌集(小倉百人一首)を著す  
 1239  暦仁 後鳥羽上皇、隠岐で没する(60才)  
1242 仁治 88
後嵯峨
北条泰時死去 北条経時、執権となる  
1243 僧・忍性、北山十八間戸を建てる  
1244 寛元 唐招提寺:覚盛(かくじょう)上人、律学の復興に尽力するとともに、伽藍の修復整備にも力を注ぐ 
道元、永平寺を建立
 
1246 89
後深草
北条経時死去、北条時頼、執権となる  
1247  宝治合戦(北条氏と三浦氏の争い、三浦氏の滅亡、北条時宗の専制確立)  
1249 宝治  引付衆の設置  
1252 建長  宗尊親王、6代目将軍に就任(皇族将軍の開始)  鎌倉に鎌倉大仏できる
仏教説話集「十訓集」成立
 
1253  日蓮、法華宗を開く  
1260 正元 90
亀山
日蓮、「立正安国論」を著す 1260年フビライが即位元朝成立する 
1272


1274
文永 2.11 名越時章・名越教時 伏誅(罪人などが処罰にしたがうこと。罪をせめられ罰を加えられること。)
2.15 北条時輔 伏誅
文永の役】蒙古、九州に来襲
1276 建治 91
後宇多
元寇に備えて北九州沿岸に防塁を築く
1281 弘安 弘安の役】蒙古再来襲  北条時宗の専制化が顕著になる 御家人の衰退 悪党が増え治安悪化  
1285 霜月騒動(有力御内人(内管領:平頼綱)と有力御家人(安達泰盛)の争い。有力御家人の壊滅)  
1293  永仁 92
伏見
*鎌倉大地震起こる *平禅門の乱(北条貞時、平頼綱とその一族を討つ  
1297 永仁の徳政令】、発布される  
1300 正安2      
1317  正和 95花園 文保の和談(皇位継承を巡る幕府による和談)  
1318 文保 96
後醍醐
後醍醐天皇即位  
1321 元亨 後醍醐天皇、院政を廃し、親政を行う  記録所再興  
1324 正中 【正中の変】後醍醐天皇による鎌倉幕府統幕計画事前に発覚し、首謀者処分される  
1331 このころ、吉田兼好、随筆「徒然草」著す  
元弘 【元弘の変】(1331-1333)後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕挙兵  
1332 *後醍醐天皇、壱岐に配流される *護良親王ら挙兵  
1333 *京都六波羅探題、足利尊氏により壊滅
*太宰府鎮西探題、少弐貞経・大友貞宗・島津貞等により壊滅
*新田義貞、鎌倉に攻め込み北条一門滅亡させる*
*鎌倉幕府滅亡


 確かに、内乱=自界叛逆難の連続ですね。
では、そもそも経典にはどのように説かれているか。

 立正安国論から

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金光明(こんこうみょう)経に云はく
この経典の漢訳については、曇無讖412年から421年頃にかけて漢訳した『金光明経』4巻、宝貴などが597年に編纂した『合部金光明経』8巻、唐の義浄が自らインドから招来した経典を新たに漢訳した『金光明最勝王経』などがあり、「大正新脩大蔵経」経集部に所収されている。)

其(そ)の国土に於て此の経有りと雖(いえど)も未だ嘗(かつ)て流布(るふ)せしめず。
捨離(しゃり)の心を生じて聴聞(ちょうもん)せんことを楽(ねが)はず、
亦(また)供養し尊重(そんじゅう)し讃歎(さんだん)せず。
四部(しぶ)の衆(※比丘・比丘尼・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい))、持経(じきょう)の人を見るも、亦復(またまた)尊重し乃至(ないし)供養すること能(あた)はず。
遂に我等(われら)及び余の眷属(けんぞく)、無量の諸天をして此の甚深(じんじん)の妙法を聞くことを得ず、甘露の味(あじ)はひに背き正法の流れを失ひて、威光及以(および)勢力(せいりき)有ること無からしむ。
悪趣(あくしゅ)を増長(ぞうちょう)し、人天(にんでん)を損減して、生死(しょうじ)の河に堕(お)ちて涅槃の路(みち)に乖(そむ)かん。
世尊、我等四王(しおう)並びに諸(もろもろ)の眷属及び薬叉(やしゃ)等、斯(か)くの如き事(じ)を見て、其の国土を捨てゝ擁護(おうご)の心無けん。
但(ただ)我等のみ是(こ)の王を捨棄(しゃき)するに非ず、必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉(ことごと)く捨去(しゃこ)せん。
既(すで)に捨離し已(お)はりなば其の国当(まさ)に種々の災禍(さいか)有りて国位を喪失(そうしつ)すべし。
一切の人衆皆(みな)善心無く、但繋縛(けばく)・殺害(せつがい)・瞋諍(しんじょう)のみ有って、互ひに相讒諂(あいざんてん)して枉(ま※無実の罪))げて辜(つみ ※つみ・とが・重いつみ・はりつけ)無きに及ばん。
疫病(やくびょう)流行し、彗星数(しばしば)出で、両の日並び現じ、薄蝕恒(はくしょくつね)無く、黒白(こくびゃく)の二虹不祥(にこうふしょう)の相を表はし、星流れ地動き、井の内に声を発し、暴雨悪風時節に依らず、常に飢饉(ききん)に遭(あ)ひて苗実成(みょうじつみの)らず、
多く他方の怨賊(おんぞく)有りて国内を浸掠(しんりょう)せば、人民諸(もろもろ)の苦悩を受けて、土地として所楽(しょらく)の処(ところ)有ること無けん」已上。

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 大集経に云はく
(『大集経』(だいじっきょう、だいしゅうきょう、: Mah?sa?nip?ta-s?tra[1], マハーサンニパータ・スートラ)は、詳しくは『大方等大集経』(だいほうどうだいじっきょう)とは、中期大乗仏教経典の1つ。チベット語では「'dus pa chen po」と呼ばれている。[要出典]釈迦が、十方の菩薩を集めて大乗のを説いたもので、思想に加えて密教的要素が濃厚である。原題は、「マハー」が「大」(mah?)、「サンニパータ」(sa?nip?ta)が「集合」、「スートラ」(s?tra)が「経」、総じて「集合させた大きな経」の意。代に僧就(そうじゅ)が、北涼曇無讖訳の大集経二十九巻に加えて、隋の那連提耶舎(なれんだいやしゃ)訳の『月蔵経』十二巻、『日蔵経』十五巻などを合わせて一つの経典、六十巻としたものである。中国仏教では、『般若経』・『華厳経』・『涅槃経』・『大宝積経』と共に、大乗仏教五部経の1つに数えられ、大蔵経の構成にも影響を与えている。)


仏法実(じつ)に隠没(おんもつ)せば鬚髪爪(しゅほつそう)皆長く、諸法も亦忘失(もうしつ)せん。
時に当たって虚空(こくう)の中に大(おお)いなる声ありて地を震ひ、一切皆遍(あまね)く動ぜんこと猶水上輪(すいじょうりん)の如くならん。
城壁破れ落ち下り屋宇(おくう)悉くi拆(ひしゃく)し、樹林の根・枝・葉・華葉・菓・薬尽(つ)きん。
唯浄居天(じょうごてん)を除きて欲界一切処の七味・三精気(しょうけ)損減(そんげん)して、余り有ること無けん。
解脱(げだつ)の諸の善論時(とき)に当たって一切尽きん。
生ずる所の華菓の味はひ希少(きしょう)にして亦美(うま)からず。
諸有(しょう)の井泉池(せいせんち)一切尽く枯涸(こかつ)し、土地悉く鹹鹵(かんろ)し、剔裂(てきれつ)して丘澗(くけん)と成(な)らん。
諸山皆(みな)ェ然(しょうねん)して天竜も雨を降(くだ)さず。
苗稼(みょうけ)皆(みな)枯(か)れ死(し)し、生ずる者皆死(か)れ尽(つ)くして余草(よそう)更に生ぜず。
土を雨(ふ)らし皆昏闇(こんあん)にして日月も明(みょう)を現ぜず。
四方皆亢旱(こうかん)し、数(しばしば)諸(もろもろ)の悪端を現じ、十不善業道(ごうどう)・貪瞋癡(とんじんち)倍増して、衆生の父母に於ける、之を観ることャ鹿(しょうろく)の如くならん。
衆生及び寿命色力威楽(しきりきいらく)減(げん)じ、人天の楽を遠離(おんり)し、皆悉く悪道に堕せん。
是くの如き不善業(ふぜんごう)の悪王・悪比丘、我が正法(しょうぼう)を毀壊(きえ)し、天人の道(どう)を損減し、諸天善神・王の衆生を悲愍(ひみん)する者、此の濁悪(じょくあく)の国を棄てゝ皆悉く余方に向かはん」已上。

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 仁王(にんのう)経に云はく
《仁王護国般若波羅密経》の略称クマーラジーバ(鳩摩羅什)訳と唐の不空訳がある。諸種の般若経典終結をなす結経とされる。国土安穏,国家隆昌を仏教の本義から説くもので,《法華経》《金光明経》とともに鎮護国家の代表的経典である。上下2巻,8品よりなる。ただ,本経は古来,中国撰述,つまり偽経の疑いが指摘されている。魏晋南北朝期の仏教と道教,仏教と国家権力との複雑な交渉,さらに空思想が関係して中国で成立した可能性がある。
執筆者:
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↑ 日蓮大聖人のたまわく

金光明(こんこうみょう)経に云はく
一切世間の所有(しょう)の善論は皆此の経に因(よ)る」と。
法華経に云はく
若し俗間(ぞっけん)の経書(きょうしょ)、治世の語言、資生(ししょう)等を説かんも皆正法に順ぜん」と。(中略)
涅槃経に云はく
一切世間の外道の経書も皆是仏説にして外道の説に非ず」と。
止観(しかん)に云はく
若し深く世法を識(し)れば即ち是仏法なり」と。
弘決(ぐけつ)に云はく
「礼楽(れいがく)前(さき)に駈(は)せて真道後に啓(ひら)く」と。
(災難興起由来 正元二年二月上旬 三九歳 187)

→ インド→チベット→中国→韓国→日本 と大きな潮流として流れてきた仏教は、その間、あらゆる、世俗の善論や佳き風習なども全て飲み込んで、それらを大きく包み込み、発展・成長・塾生してきた。
熟脱仏法での大きな潮流の中から、下種仏法の視点で採るべき論はとり、捨てるべきものは捨てる。このような捉え方ではなかったか。
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国土乱(みだ)れん時は先(ま)づ鬼神乱る。鬼神乱るゝが故に万民乱る。
賊来たりて国を劫(おびや)かし、百姓亡喪(ひゃくせいもうそう)し、臣・君・太子・王子・百官共に是非を生ぜん。
天地怪異(けい)し二十八宿(しゅく)・星道(せいどう)・日月時(とき)を失ひ度を失ひ、多く賊の起こること有らん」

と。亦云はく

「我今(いま)五眼をもって明らかに三世を見るに、一切の国王は皆過去の世に五百の仏に侍(つか)へしに由(よ)って帝王の主と為(な)ることを得たり。
是を為(もっ)て一切の聖人羅漢(らかん)而(しか)も為(ため)に彼の国王の中に来生(らいしょう)して大利益(りやく)を作さん。
若し王の福尽きん時は一切の聖人皆捨去為(しゃこせ)ん。若し一切の聖人去らん時は七難必ず起こらん」已上。

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 薬師経に云はく
(薬師如来の十二大願が説かれる。梵語原典は1931年にインドカシミール地方のギルギットの仏塔の中から発見されている[1]。 チベット語訳(Toh No.504)がある[2]。 漢訳は玄奘訳と合わせて3種類がある。 大正新脩大蔵経では「経集部」に収録されている。)

「若(も)し刹帝利(せっていり※ (k?atriya の音訳) 古代インドにおける四姓の一つ。 最高の婆羅門族の次に位するもので、王族および士族の階級。 ))・潅頂王(かんちょうおう※ 灌頂を受けて即位した大王。)等の災難起こらん時、所謂
人衆疾疫(にんじゅしつえき)の難・他国侵逼(しんぴつ)の難・自界叛逆(ほんぎゃく)の難・星宿変化(せいしゅくへんげ)の難・日月薄蝕(にちがつはくしょく)の難・非時風雨の難・過時不雨の難あらん」已上。

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 仁王経に云はく
「大王、吾が今(いま)化する所の百億の須弥(しゅみ)、百億の日月、一々の須弥に四天下(してんげ)有り、
其の南閻浮提(なんえんぶだい)に十六の大国・五百の中国・十千(じゅっせん)の小国(しょうごく)有り。
其の国土の中に七つの畏(おそ)るべき難有り、一切の国王是を難と為(な)すが故に。云何(いか)なるを難と為す。
日月度を失ひ時節返逆(ほんぎゃく)し、或は赤日(しゃくじつ)出で、黒日出で、二三四五の日出(ひい)で、或は日蝕して光無く、或は日輪一重二三四五重輪現ずるを一の難と為すなり。
二十八宿度を失ひ、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・乱ッ(ちょうせい)・南斗(なんじゅ)・北斗(ほくと)・五鎮(ごちん)の大星・一切の国主星・三公星・百官星、是くの如き諸星(しょしょう)各々(おのおの)変現(へんげん)するを二の難と為すなり。
大火(たいか)国を焼き万姓焼尽(しょうじん)せん、或は鬼火・竜火・天火・山神火・人火(じんか)・樹木火・賊火あらん。是くの如く変怪(へんげ)するを三の難と為すなり。
大水百姓をo没(ひょうもつ)し、時節反逆して冬雨ふり、夏雪ふり、冬時(とうじ)に雷電霹ッ(へきれき)し、六月に氷霜雹(ひょうそうばく)を雨(ふ)らし、赤水(しゃくすい)・黒水・青水(しょうすい)を雨らし、土山(せん)・石山(しゃくせん)を雨らし、沙(しゃ)・礫(りゃく)・石(しゃく)を雨らす。江河逆(さか)しまに流れ、山を浮べ石を流す。是くの如く変ずる時を四の難と為すなり。
大風万姓を吹き殺し、国土山河樹木一時に滅没(めつもつ)し、非時(ひじ)の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風あらん、是くの如く変ずるを五の難と為すなり。
天地国土亢陽(こうよう)し、炎火洞燃(どうねん)として百草亢旱(こうかん)し、五穀登(みの)らず、土地赫燃(かくねん)して万姓滅尽せん。是くの如く変ずる時を六の難と為すなり。
四方の賊来たりて国を侵し、内外の賊起こり、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて百姓荒乱し、刀兵劫起(とうひょうこうき)せん。是くの如く怪(け)する時を七の難と為すなり」と。

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 大集経に云はく
「若(も)し国王有りて、無量世(むりょうせ)に於て施戒慧(せかいえ)を修すとも、我が法の滅せんを見て捨てゝ擁護(おうご)せずんば、是くの如く種(う)うる所の無量の善根悉く皆滅失(めっしつ)して、其の国当(まさ)に三(み)つの不祥の事(こと)有るべし。
一には穀貴(こっき)、二には兵革(ひょうかく)、三には疫病なり。
一切の善神悉く之を捨離(しゃり)せば、其の王教令(きょうりょう)すとも人随従(ずいじゅう)せず、
常に隣国の為に侵・(しんにょう)せられん。
暴火(ぼうか)横(よこしま)に起こり、悪風雨多く、暴水増長して、人民を吹o(すいひょう)せば、内外(ないげ)の親戚其れ共に謀叛(むほん)せん。
其の王久しからずして当に重病に遇(あ)ひ、寿終(じゅじゅう)の後大地獄の中に生ずべし。
乃至王の如く夫人(ぶにん)・太子・大臣・城主・柱師(ちゅうし)・郡守・宰官(さいかん)も亦復(またまた)是くの如くならん」

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↑ 立正安国論にて引文された以上の経典から総合的に読み取れる事は、
「国王乃至国家の為政者が正法を護持しないと(国民全体が邪法を信じ、正法を誹謗すると、諸天善神がその国を捨て去り、悪鬼乱入し、七難が競い起こる」ということ。
その状況は、末法が始まって既に200年間続いていた世相である。
であるから、自界叛逆(ほんぎゃく)の難は、既に起き、今起き、未来もまた起こる。という時代状況であった。
しかし、大聖人御在世では、

1221.5.14 承久の乱(天皇と幕府 天皇家を権力を凌駕した北条幕府))
   26年後
1247.6.5(聖寿26歳)の宝治合戦以降は、得宗専制政治が確立され、一往の平穏をたもっていた。
   13年後
1260.7.16(聖寿39歳)、に立正安国論奉呈
   12年後
1272年(聖寿51歳)、二月騒動

この時期の北条家は、得宗専制政治が確立されたが故に、権力基盤は安泰と思っていたことであろう。
その慢心し、油断した為政者の謗法を強く諌める意義もあり、この二月騒動を、一往「自界叛逆(ほんぎゃく)の難」の的中と、意義付けられたのではなかろうか。

より深刻な問題は、他国侵逼(しんぴつ)の難であり、この難は、日本開闢以来一度も起こっていない。
目前の自界叛逆(ほんぎゃく)の難の勃発を予言の的中と示す事で、より深刻な問題である、他国侵逼(しんぴつ)の難の興起に対しての警鐘を強く鳴らされ、為政者である北条家の邪教帰依・謗法からの覚醒を強く促されたのではなかろうか。

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 ・天変地異も立正安国論を書かれる前からおきており予言ではなかったと思いますが如何でしょうか?

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立正安国論   文応元年七月一六日  三九歳

 旅客来(き)たりて嘆(なげ)いて曰(いわ)く、
近年より近日に至るまで、
天変・地夭(ちよう)・飢饉(ききん)・疫癘(えきれい)遍(あまね)く天下に満ち、広く地上に迸(はびこ)る。


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●↑大聖人御誕生前後からの度重なる天変・地震などなど、様々な災害が、あまりに頻発している状況と、為政者の邪教帰依の姿、を鑑みられ、七難が悉く現出しており、残る大災難である、他国侵逼(しんぴつ)の難 自界叛逆(ほんぎゃく)の難が興起すること目前にあり、と警告し、その本義は為政者の邪教帰依を辞めさせることにある。

● 
天変地異だけを指している訳ではない。
末法以前は対象外→日本国で1092年以降の災害。
時を感じられた
単に地震の規模だけの問題ではなかったのでは。
為政者の邪教帰依との関連性

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牛馬巷(ちまた)に斃(たお)れ、骸骨(がいこつ)路(みち)に充(み)てり。
死を招くの輩(ともがら)既に大半に超(こ)え、之(これ)を悲しまざるの族(やから)敢(あ)へて一人も無し。
然(しか)る間、
或は利剣即是(りけんそくぜ)の文を専(もっぱ)らにして西土(さいど)教主の名を唱へ、
或は衆病悉除(しゅびょうしつじょ)の願(がん)を恃(たの)みて東方如来の経を誦(じゅ)し、
或は病即消滅不老不死の詞(ことば)を仰(あお)いで法華真実の妙文(みょうもん)を崇(あが)め、
或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀(ぎ)を調(ととの)へ、
有(あ)るは秘密真言の教(きょう)に因(よ)って五瓶(ごびょう)の水を灑(そそ)ぎ、
有るは坐禅入定の儀を全うして空観(くうがん)の月を澄まし、
若(も)しくは七鬼神の号(な)を書して千門に押し、
若しくは五大力の形を図して万戸(ばんこ)に懸(か)け、
若しくは天神地祗(ちぎ)を拝して四角四堺(しかい)の祭祀(さいし)を企て、
若しくは万民百姓(ひゃくせい)哀れみて国主国宰(こくさい)の徳政を行なふ。

然(しか)りと雖(いえど)も唯肝胆(ただかんたん)を摧(くだ)くのみにして弥(いよいよ)飢疫に逼(せま)り、乞客(こっかく)目に溢(あふ)れ死人眼(まなこ)に満てり。
臥(ふ)せる屍(しかばね)を観(ものみ)と為(な)し、並べる尸(かばね)を橋と作(な)す。
観(おもんみ)れば夫(それ)二離璧(じりたま)を合はせ、五緯珠(ごいたま)を連ぬ。
三宝(さんぼう)も世に在(いま)し、百王未(いま)だ窮(きわ)まらざるに、此の世(よ)早く衰へ、其の法何(なん)ぞ廃(すた)れたるや。
是(これ)何(いか)なる禍(わざわい)に依り、是何なる誤りに由(よ)るや。

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● 安国論御勘由来   文永五年四月五日  四七歳

正嘉(しょうか)元年太歳丁巳八月二十三日戌亥(いぬい)の時、前代に超えたる大地振(じしん)。
同二年戊午八月一日大風。
同三年己未大飢饉。
正元(しょうげん)元年己未大疫病(だいやくびょう)。
同二年庚申四季に亘りて大疫已(や)まず。
万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。
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正嘉地震(しょうかじしん)は、ユリウス暦1257年10月9日頃、日本関東地方南部で発生したと考えられている地震。震源地は相模湾とみられ[2]、規模はM7.0?7.5と推定されている[3][4]。この地震は、相模トラフ巨大地震の可能性が考えられ、その検討候補とされている[5][6]

概要[編集]

この地震は、鎌倉時代中期、正嘉元年8月23日に関東地方南部で発生し、大きな被害をもたらした。 鎌倉幕府が開かれて以降、鎌倉で地震が多発し、多くの被害があったことが、鎌倉幕府史書吾妻鏡』に記されている[7]。 その中でも、この地震を含め、仁治2年正応6年の地震などは特に大きかった。それらの地震の被害について記された文献も見つかっているが、鎌倉以外の他の地域および全体的な被害は詳しく分かっていない[8]

地震調査委員会(2014)は、歴史地震学的な検討を充分に行わず1291年の鎌倉大地震をM8級の相模トラフ沿いのプレート間地震と認定したが、本地震もセットで再検討したうえで結論を出す必要があるとされる[9]

被害[編集]

鎌倉では神社仏閣の被害が激しく[10]山崩れや家屋の転倒が多く発生し、一部の地点では地割れや水の噴出が発生し、液状化現象も起きた[9][11][12]。中下馬橋付近では、青い炎が出たという[12]。また、余震も多く発生した[12]

『吾妻鏡』には、大地震の様子が次のように記されている[13][14]

廿[にじゅう]三日乙巳[きのとみ]。晴。戌尅[いぬいのこく]に大いに地震う。音有り。神社仏閣一宇として全きは無し。山岳頽崩し、人屋顛倒し、築地皆悉く破損す。所々地裂け、水涌き出で、中下馬橋[なかのげばばし]の辺は地裂け破れ、其の中より火炎燃え出ず。色青し云云??「吾妻鏡」

これを現代語に訳すと次のようになる[15]

午後八時頃(戌の刻とは午後七時から九時までの間)、大地震が起きた。音が鳴った。神社・仏閣で無事なものは一つもなかった。山は崩れ、住居は倒壊し、土塀もすべて壊れ、所々で地面が裂け、水がわき出した。中下馬橋のあたりでは、地割れから炎が燃え上がった。色は青かったという。??「吾妻鏡」

この地震による惨状は、「立正安国論」を著される契機にもなった[13]

山奈宗真著の明治三陸津波報告書である『岩手県沿岸大海嘯取調書』の陸中国南九戸郡宇部村の項目に、本地震と同日に「野田海ト久慈ノ海ト津浪越ヘタリト云」と現野田村および久慈市など東北地方太平洋沿岸にも津波が襲来したという伝承が記されている[16][17][18][信頼性要検証]。『日本被害地震総覧』はこの津波を疑わしい[19]とするが、『吾妻鏡』とは独立の伝承かも知れず、この津波を無視しなければ房総沖の地震の可能性もあるかも知れないとされる[9]

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正嘉年間(1257〜1259)にも鎌倉は飢饉に襲われた。

 1257年(正嘉元年)には、大地震が起きるなど自然災害が頻発したことが『吾妻鏡』に記されている。

 また、翌年6月24日の条には「鎌倉の寒気はまるで冬天のようだ」と記している。

 8月には暴風雨によって「諸国の田園ことごとくもって損亡す」とあり、さまざまな天変地異の現象が起きていたことが窺える。

 その他、大流星の発生や北条政村の息女が比企能員の娘に祟られるという怪異現象も発生し、鳥にまつわる怪異も伝えられている(参考:蛇苦止堂と蛇苦止ノ井(妙本寺))。 
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世の鎌倉周辺の自然災害    
西暦 和暦 記                        事
1185 文治 1 6 20 鎌倉大地震
1202 建仁 2 1 28 鎌倉大地震
1204 元久 1 10 6 鎌倉大地震
1208 承元 2 1 6 鎌倉大地震
1211 建暦 1 1 27 鎌倉大地震、朝日無光陰
1211 建暦 1 7 3 鎌倉大地震、牛馬騒警
1213 建暦 3 1 1 鎌倉大地震、堂社破れ倒れる
1213 建保 1 5 21 鎌倉大地震、山崩れ地裂ける
1213 建保 1 7 7 鎌倉大地震
1213 建保 1 8 19 鎌倉大地震
1213 建保 1 9 17 鎌倉大地震
1213 建保 1 12 11 鎌倉大地震
1214 建保 2 2 1 鎌倉大地震
1214 建保 2 4 3 鎌倉大地震
1214 建保 2 9 21 鎌倉大地震
1214 建保 2 10 6 鎌倉大地震
1215 建保 3 9 6 鎌倉大地震
1216 建保 4 6 11 鎌倉大地震
1222 貞応 1 7 23 鎌倉大地震
1222 貞応 1 11 1 鎌倉大地震
1223 貞応 2 5 12 鎌倉大地震
1223 貞応 2 9 26 鎌倉大地震
1224 元仁 1 6 1 鎌倉大地震
1225 嘉禄 1 10 11 鎌倉大地震
1226 嘉禄 2 4 27 鎌倉大地震
1227 安貞 1 3 7 鎌倉大地震
1227 安貞 1 9 3 鎌倉大地震
1227 安貞 1 11 6 鎌倉大地震
1228 安貞 2 5 15 鎌倉大地震
1230 寛喜 1 12 19 鎌倉大地震
1231 寛喜 2 1 22 鎌倉大地震
1235 嘉禎 1 3 9 鎌倉大地震
1237 嘉禎 3 3 9 鎌倉大雨洪水
1237 嘉禎 3 8 4 鎌倉大地震
1239 歴任 1 11 1 鎌倉大地震
1239 歴任 1 11 12 鎌倉大地震
1241 仁治 2 2 7 鎌倉大地震
1241 仁治 2 4 3 鎌倉大地震。M=7.0。津波由比ヶ浜八幡宮の拝殿を壊す
1243 寛元 1 5 23 鎌倉大地震
1247 宝治 1 10 8 鎌倉大地震
1247 宝治 1 11 26 鎌倉大地震
1247 宝治 1 11   鎌倉大地震
1250 建長 2 7 18 鎌倉大地震
1251 建長 3 4 23 鎌倉大雨洪水
1253 建長 5 2 3 鎌倉大風雨
1253 建長 5 2 25 鎌倉大地震
1253 建長 5 6 3 鎌倉大地震
1253 建長 5 6 10 鎌倉大地震
1254 建長 6 7 1 鎌倉大風雨
1254 建長 6 7 18 鎌倉大地震
1256 康元 1     鎌倉大洪水、赤斑病流行
1257 正嘉 1 5 18 鎌倉大地震
1257 正嘉 1 8 1 鎌倉大地震
1257 正嘉 1 8 23 鎌倉大地震。推定M=7.0。震源=相模湾。鎌倉の神社仏閣全壊、家屋転倒被害多、山崩れ多
1258 正嘉 2 10 16 鎌倉大雨洪水民家流失、死者多数
1260 文応 1 6 1 鎌倉大洪水
1265 文永 2 6   鎌倉大雨、扇谷・亀谷の山が崩れ、死傷者を出す
1266 文永 3     鎌倉大地震
1270 文永 7 2 4 鎌倉大風雨
1289 正応 1 2 4 鎌倉大風雨
1291 正応 4 7 1 鎌倉大雨洪水、人家漂流する
1292 正応 5     鎌倉大地震
1293 永仁 1 4 13 鎌倉大地震、M=7.1震源鎌倉。建長寺炎上、寿福寺本殿転倒、大慈寺埋没死者推定23000人位
1305 嘉元 3 6 5 鎌倉大地震
1306 徳治 1 3 2 鎌倉大地震
1316 正和 5 7 23 鎌倉大地震
1323 元享 3 5 3 鎌倉大地震
1343 康永 2 4 15 鎌倉大地震
1343 康永 2 5 6 鎌倉大地震
1348 興国 2 3 8 鎌倉大地震
1419 応永26 10   関東大地震
1419 応永26 12   関東飢饉
1420 応永27 8 10 鎌倉大地震、次いで洪水
1433 永享 1 9 16 関東大地震。M=7.1 震源相模湾。鎌倉被害大。寺社損傷、極楽寺塔損傷。余震20日間
1437 永享 5 5 21 鎌倉大地震
1440 永享 8 9 18 鎌倉大地震
1454 享徳 3 12 10 鎌倉大地震
1463 寛正 4 6 24 鎌倉大風雨
1498 明応 7 8 25 巨大地震、推定M=8.6。津波により大仏殿破壊、溺死者200余人。「明応地震」富士に噴煙
1525 大永 5 5 23 鎌倉大地震(27日まで余震続く)

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・国土を守る諸天善神、八幡大菩薩、天照大神、鬼子母神、十羅利女、大梵天王、帝釈天王、大日天王、大月天王、大明星天王の中の八幡大菩薩、天照大神は法華経には説かれておらず日本人に分かりやすくするための方便の神なのでしょうか?
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● 釈尊は宇宙法界の一切を見通し悟られた中で、インド古来から民衆から崇められてきた神々の真の位置付けがなされた。
その原理はそのまま日本にも通じるものであり、日本固有に崇拝されてきた天照大神・八幡大菩薩等の真の立場と力用が顕かにされ、意義付けがなされた。

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・他国侵逼難も元寇によりあたかも予言が的中しているように思えますが、実際はモンゴルが勢力を広げて他国への侵略を繰り返しており渡来僧や商人から得た見聞を元に当時の知識人であれば予想できた範囲でした。

日蓮大聖人は南宋から日本へ渡来した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)とも面識がありそこからの情報を得ていたと言われておりますが如何でしょうか?
↑要出典

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●↑ 元寇が周辺国を攻めている社会情勢にあって、実際に攻め込んでくる可能性もあれば、攻め込まない可能性もある。
一国が邪教・謗法となって諸天の加護がなければ経典に示される如くに間違いなく攻められる。という警鐘。
立正安国論の真の意義は、そのような大災害を避けるためにも為政者が邪教・謗法を捨てて、正しい法華経に帰依すべきである。
そうすれば、天災・地災・飢饉・疫病などなどあらゆる災厄を払う事ができ、国家安泰となる。と諌暁されるところであって、災害が具体的にどう起こる云々という点に真の主眼がないことを知るべきである。

■「弘安四年五月以前には、日本の上下万人一人も蒙古の責めにあふべしともおぼさゞりしを、日本国に只日蓮一人許り、かゝる事此の国に出来すべしとしる」(新編一五六五頁)
と説かれ、「日蓮が申せし事はあたりたち、ばけ物のもの申す様にこそ候めれ」と、大聖人に対する当時の人々の有様をしるされている。(正伝)
 
↑ 今のように成果情勢が一刻万民に可視化された状況ではない。
ゆえに人々は、そのようなことはまさか起きないであろう、という、正常性バイアスが作用していた中で、日蓮大聖人お独り警鐘を鳴らされていたのではないか。
(せいじょうせいバイアス、: Normalcy bias)とは、認知バイアスの一種。社会心理学災害心理学などで使用されている心理学用語で[1]、自分にとって都合の悪い情報を無視したり過小評価したりするという認知の特性のこと。自然災害や火事、事故、事件などといった自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、それを正常な日常生活の延長上の出来事として捉えてしまい[2]、都合の悪い情報を無視したり、「前例がない」「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価するなどして、逃げ遅れの原因となる[3][2][4]。「正常化の偏見」[5]、「恒常性バイアス」とも言う。)



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・二度の元寇は結果としては鎌倉武士が勝利を収め亡国とはとはならなかったので予言が外れているのではないでしょうか?他宗では真言僧の祈祷で元寇に勝利と言われています。
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● 経典には、他国侵逼難が起こる、と説かれているのであって、国が負ける、とか、亡びる とか、そもそも説かれていない。
元寇は「鎌倉武士が勝利を収めた」のではなく、自然災害によって元寇軍が戦闘不能状態に陥ったのである。
この元寇によって疲弊した鎌倉幕府は結局滅亡へと向かうのである。
またこれが真の邪教謗法の果報としての「自界叛逆難」の報いではなかろうか。
2月騒動とか、霜月騒動などの眼前の小さい「自界叛逆難」が起きても目を覚まさなかった報いは、北条幕府滅亡へと突き進んだわけである。

予言の的中 という視点が強調されて喧伝されがちだが、大聖人の真義は「このまな邪教帰依していれば当然起こるべき他国侵逼難を、為政者の法華経帰依によって押し止めることができる。」という点であるのではないか。


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・元寇に乗じて承久の乱の再来とはならず元寇に勝利してしまったのでウキペディアには「富城入道殿御返事」では、予想外の事態に困惑している様子がうかがえる。日蓮は門下に対して蒙古襲来について広く語るべきではないと厳しく戒めた」とありますが如何でしょうか?
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● 当該記事 この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
→ 対論の根拠とする史料価値なし。
ざっと、流し読みしたが、根拠のない憶測伝聞のオンパレードの実に低劣な記事。
このような駄文を信じてそれを根拠に日蓮大聖人を云々すること自体、低劣な行為。

● 「富城入道殿御返事」そもそのそのような御書は存在しない。
文中で言わんとしている御書は以下の御文であり、対告衆は「人々御中」である。

● 「蒙古の大軍、博多に至る」の報を受けた大聖人は、『立正安国論』の予言の、悲しむべき的中と、事態の容易ならぬことを察し、六月十六日に書状を一門の人々にあててしたためられた。
 「小蒙古の人大日本国に寄せ来たるの事。我が門弟並びに檀那等の中に、若しは他人に向かひ、将又自ら言語に及ぶべからず。若し此の旨に違背せば門弟を離すべき等の由存知する所なり。此の旨を以て人々に示すべく候なり」(新編一五五九頁)
と、今は国家の一大事である。わが門弟および信徒は、他人に対してはもちろんのこと、私語のなかにも、けっして予言の的中を誇るようなことがあってはならない。今は予言の的中をうんぬんすべき時ではなく、一国をあげて国難に対処すべき時である。もし、これに違背する者があれば、即刻破門にするむねを厳しく誡告されている。

●  蒙古軍の敗走を聞くや、諸社・諸寺の神官・僧侶は初めて安堵の胸をなでおろし、しかも大暴風が吹いたことを神威によるものとして、祈祷の効果を強調し、それぞれ我がもの顔に誇示し始めた。

 伊勢の神官たちは、二宮の末社風宮の宝殿が七月二十七日から三日間鳴動し、二十九日の暁、神殿から赤雲を発して西方にたなびいたと朝廷に言上した。
高野山金剛峰寺の鎮守丹生社の神官は四月五日と十二日の二回にわたって丹生四所明神が神々をして蒙古への征討・出達発向を託宣した旨の申状を奏献した。
また、叡尊が奈良京都の僧五百六十余人とともに石清水八幡宮で閏七月一日に祈祷したとき、「東風をもって兵船を本国に吹き送り給へ」と祈る叡尊の祈祷にこたえて、叡尊の所持する愛染明王像の鏑矢が西国を目ざして飛んでいった、などという話まで生まれた。

 それに対し大聖人は『富城入道殿御返事』に

■ 「今亦彼の僧侶の御弟子達御祈祷承られて候げに候あひだ、いつもの事なれば、秋風に纔かの水に敵船賊船なんどの破損仕りて候を、大将軍生け取りたりなんど申し、祈り成就の由を申し候げに候なり。又蒙古の大王の頚の参りて候かと問ひ給ふべし。其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず」(新編一五七二頁)

と説かれているように、毎年やってくる台風のために敵船が破損しただけのことであって、諸山諸神の祈祷の結果などではないと仰せられている。

 大聖人の御心はむしろ、邪法乱国のおもむくところ他国侵逼の難によって、防塁のため経済苦に泣く人々、妻子と別れて異国警固役に征く人々、元に攻められた壱岐・対馬のありさま、また敵国蒙古の兵も実は元に滅ぼされた南宋・高麗の混成軍という悲しい現実、それら一切の民衆の悲しみ、苦しみの上に注がれていたのであった。

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・立正安国論では「くに」という漢字を書く際に「國」「?」「国」の三文字を使い分けていますが諸説あるので樋田さんの見解を教えてください。
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● 

「安国」とは、法華講による折伏広布の意なり
 国を安んずる「安国」ですが、この「国」という一字には、私たち一人ひとりの境界、家庭、住処の平和をいう身近な「一身の安堵」という意から、ひいては「三界は皆仏国」「十方は悉く宝土」を目指した一閻浮提・広宣流布という、実に深い意味があります。
 今、『立正安国論』の御真蹟を拝するとき、「国」という文字は全文で七十七字を見ることができます。
その中に「国」二十字、「?」五十七字を使われている深義からも、
@ 大聖人の仰せの国とは軍備で築かれた「國」、
A 一人の為政者・権力者によって造られた「国」に非ずして、
B 民衆の一人ひとりが三大秘法を信じて築き上げた果報の仏国土を願われた
ことが拝せます。
 その御聖意に思いを馳せるとき、大聖人の御理想たる『立正安国論』実現の主役とは、常に三秘の御本尊の果報に浴しておられる皆さん、法華講以外にはないのであります。


● 日蓮は、本論において「くに」という漢字を書く際に「國」「?」「国」の3字を使い分けた。
國はCountry領域)に、
?はNation国民)に、
国はState統治機構)にそれぞれ対応する、とする説がある
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安国論では「国」「國」そして「?」(口→中に「民」)の三種の字が用いられています。
「国」は「王」が領土の中にいることを示す字です。
「國」の字の中には「戈(ほこ)」という武器が記されています。武器で領土を守る姿を示したものとされます。

 しかし、安国論では約八割が「?」という字を用いられています。
民が集って国家を形成している。

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続いて竜の口の法難についてお尋ねします。

 竜ノ口の光り物は種種御振舞御書に記載がありますが、これほど神がかり的なものがあったにも関わらず鎌倉幕府にその記述が全く残っていない事。また随行者の四条金吾にも何も書き残してない事は不自然だと思います。
もし、何らかの一次資料があれば教えてください。
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● ▼「鎌倉幕府にその記述が全く残っていない」
吾妻鑑の記載は、文永3年(1266年)まで。
文永8年の出来事は当然記載されていない。
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● 仏道修行者は、虚偽・虚言を言ってはならない、という厳格な戒めを忠実に守るの当時の規範。
日蓮大聖人がこの発迹顕本というこれ程の一大事な事件について虚言をなされるとは到底考えられない。
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● 光物は龍ノ口の時だけではなく、相当数発現していた。
重要なことは、その発現と首の座の時刻の一致である。
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鎌倉時代には、鎌倉幕府編纂の歴史書といわれる「吾妻鏡」には「光物」の記述が9カ所あるが、その内6カ所を以下に列記する。

 @(1182年 寿永元年 6月20日)「戌の刻、鶴岡の辺光物有り。前浜の辺を指し飛行す。その光数丈に及び、暫く消えずと。」
 A(1213年 建歴3年 3月10日)「戌の刻、故右大将家法華堂の後山に光物有り。長一丈ばかり、遠近を照らし暫く消えずと。 」
 B(1213年 建歴3年8月18日)「丑の刻に及び、夢の如くして青女一人前庭を奔り融る。頻りにこれを問わしめ給うと雖も、遂に以て名謁らず。而るに漸く門外に至るの程、俄に光物有り。頗る松明の光の如し。」
 C(1247年 寛元5年1月30日)「越後入道勝圓の佐介亭の後山に光物飛行す。」
 D(1247年 宝治元年5月18日)「今夕光物有り。西方より東天に亘る。その光暫く消えず。」
 E(1256年 建長8年6月14日)「巳の刻光物見ゆ。長五尺余り、その躰初めは白鷺に似たり。後は赤火の如し。その跡白布を引くが如し。白昼の光物尤も奇特と謂うべし。本文の所見に有りと雖も、本朝に於いてその例無しと。また近国同時に見ると。」

鎌倉時代には吾妻鏡とは別に著明なUFOの記録が残っている。
 
 F(1271年 文永8年)「江のしまのかたより月のごとくひかりたる物、まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。十二日の夜のあけぐれ、人の面もみへざりしが、物のひかり月よのやうにて人々の面
もみなみゆ。太刀取目くらみたふれ臥し、兵共おぢ怖れ、けうさめて一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくまれるもあり。」(「種々御振舞御書」平成新編日蓮大聖人御書 p1060)
  (注釈)鎌倉竜の口の刑場で9月12日の未明に日蓮大聖人が首を切られようとした時に「月のように明るく光るものが、江ノ島(東南)の方向から北西の方向に飛んできて、人々の顔を照らし斬首刀取りは目がくらんで地に伏せてしまった。」

 室町時代(南北朝時代)としては、「太平記」には光り物の記述が10カ所程あるが、その内2カ所を以下参照する。

 G(1336年 建武3年)「八月二十八日の夜の事なれば道最暗して可行様も無りける処に、俄に春日山の上より金峯山の嶺まで、光物飛渡る勢ひに見へて、松明の如くなる光終夜天を耀し地を照しける間、行路分明に見へて程なく夜の曙に、大和国賀名生と云所へぞ落著せ給ける。」(第18巻 [先帝潜幸芳野事]章)
  (注釈)「奈良県にある春日山から真南35kmに位置する金峰山に向かって明るく光るものが飛び渡り」後醍醐天皇の吉野遷幸一行の道程を照らした。」
 H(1342年 歴応5年)「吉野の先帝崩御の後、様々の事共申せしが、車輪の如くなる光物都を差して夜々飛度り、種々の悪相共を現じける間、不思議哉と申に合せて、疾疫家々に満て貴賎苦む事甚し。」 (第23巻 [就直義病悩上皇御願書事]章)
  (注釈)「後醍醐天皇の崩御の後、車輪のような光るものが夜な夜な京都に向かって飛来した。」


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そうした怪異記事の中でも、われわれ電脳奇談編集部が注目するのが「光物(ひかりもの)」。『吾妻鏡』の本文中で12カ所の記述がある謎の発光現象のことだ。

 例えば、最初の「光物」記事は、寿永元年(1182)6月20日、「戌の刻。鶴岡の辺りに光物あり。前浜(注1)の辺りを目指して飛行す。その光数丈(注2)に及び、暫く消えず」とある。

注1/現在の由比ガ浜。鶴岡八幡宮から見て南方。注2/一丈は約3メートル

 戌の刻つまり夜の19時〜21時頃、数メートル〜十数メートルの大きさの光る謎の物体が南に向って飛行したというのだ。もう、はっきり言おう、UFO(未確認飛行物体)だ。最近の米政府にならうなら「未確認航空現象(UAP)」でもいい。源頼朝の頭上を謎の発光物体が飛んでいたのだ!

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● 四条金吾への御書内に光物の記述がない。だからどうした?という話。
同体験をした金吾へわざわざ「あの時は光物がでたよな〜」とあえて語る必要もなかっただけのこと。
それをもって「不自然」と感じるのはそれは自由。

● 大聖人は御書全編の中で、光物についての記述は「種々御振舞御書」内の一箇所だけ。
大不思議な現証ではあったが、それを殊更に取り上げて自らを神格化しようと全くされなかった。

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 私の調べた中では、日蓮大聖人は若い頃、臨済禅を学んだ事があり、前述した宋から来朝し鎌倉にある建長寺の蘭渓道隆を師としていました。
蘭渓道隆はかつての弟子であった日蓮大聖人が斬首の刑を幕府から宣告されていると聞き及び、何度も幕府重臣の邸に出向き、平身低頭して助命を願ったり、助命嘆願書を幕府に差し出したりしました。
蘭渓道隆のかつての弟子を思う心と幕府執権の北条時頼から師とされていた事に免じ幕府の重臣たちは協議の上、特別に死一等を減じ、佐渡に流罪を申し渡しました。
建長寺には日蓮上人が贈ったとされる御礼状・香炉などの仏具が残されているそうです。

建長寺の山号は地名の巨福呂(こぶろ)からとって巨福山建長寺となりました。
建長寺の御本尊は延命地蔵菩薩です。
巨福呂にはかつて処刑場があり、斬罪に処せられた罪人の髪の中に小さな地蔵菩薩像が入っていたために太刀が折れて斬られなかったと言う伝承があります。
首切り役人の太刀に落雷し、日蓮大聖人が助命されたと言う説は、この建長寺の伝承と蘭渓道隆の日蓮大聖人に関わるエピソードをヒントに創作された可能性が高いと思います。

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● ↑Yahoo知恵袋に挙がっていたコメントの丸写し。根拠になる文献もなく、全く信用に足らない駄見。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12145695857

● 蘭渓録 本書は、南宋時代の明州(今の浙江寧波)で刊行された『蘭渓和尚語録』(原文漢文)の現代日本語版である。
道隆が自分の意見なり経験なりをただ一方的に書いたものであり、その真偽の検証は全くなされていない。

● 日蓮大聖人 34歳の御時に既に 蓮盛抄〔禅宗問答抄〕建長七年  三四歳 を著され、禅宗を厳しく破折しておられる。
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● 0375
    建長寺道隆への御状   文永五年一〇月一一日  四七歳
 夫仏閣(ぶっかく)軒(のき)を並べ法門屋(いえ)ごとに拒(いた)る。仏法の繁栄は身毒(けんどく)・尸那(しな)にも超過し、僧宝の形儀(ぎょうぎ)は六通の羅漢の如し。然りと雖(いえど)も一代諸経に於て未だ勝劣浅深を知らず。併(しかしなが)ら禽獣(きんじゅう)に同じ、忽(たちま)ちに三徳の釈迦如来を抛(なげう)ちて他方の仏菩薩を信ず。是豈逆路伽耶陀(ぎゃくろかやだ)の者に非ずや。念仏は無間(むけん)地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説と云云。
 爰(ここ)に日蓮去ぬる文応元年の比(ころ)、勘へたるの書を立正安国論と名づけ、宿屋入道を以て故最明寺殿に奉りぬ。此の書の所詮は、念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に、天下に災難頻(しき)りに起こり、剰(あまつさ)へ他国より此の国を責めらるべきの由之を勘へたり。然るに去ぬる正月十八日牒状到来すと。日蓮が勘へたる所に之少しも違はず普合せしむ。
 諸寺諸山の祈祷の威力滅する故か。將又(はたまた)悪法の故成るか。鎌倉中の上下万人、道隆聖人をば仏の如く之を仰ぎ良聖上人をば羅漢の如く之を尊む。其の外寿福寺・多宝寺・浄光明寺・長楽寺・大仏殿の長老等は「我慢心充満(がまんしんじゅうまん)、未得謂為得(みとくいいとく)」の増上慢の大悪人なり。何ぞ蒙古国の大兵を調伏(じょうぶく)せしむべけんや。剰へ日本国中の上下万民悉く生け取りと成るべし。今生には国を亡ぼし、後世(ごしょう)には必ず無間に堕せん。日蓮が申す事を御用ひなくんば後悔之有るべし。此の趣きを鎌倉殿・宿屋入道殿・平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)殿等へ之を進状せしめ候。一処に寄り集まりて御評議有るべし。敢(あ)へて日蓮が私曲(しきょく)の義に非ず。只(ただ)経論の文に之を任す処なり。具(つぶさ)には紙面に載せ難し。併(しかしなが)ら対決の時を期(ご)す。書は言(ことば)を尽くさず。言は心を尽くさず。恐々謹言。
 文永五年戊辰十月十一日                  日蓮花押
進上 建長寺道隆聖人侍者御中
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これほど明確に道隆を痛烈に破折しているのに、上記の状況など起こり得るはずはない。 

● さりし程に念仏者・持斎(じさい)・真言師等、自身の智は及ばず、訴状も叶はざれば、上郎(じょうろう)尼ごぜんたちにとりつきて、種々にかま(構)へ申す。故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し、道隆(どうりゅう)上人・良観上人等を頚(くび)をはねよと申す。御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬがれがたし。但し上件(かみくだん)の事一定(いちじょう)申すかと、召し出だしてたづねらるべしとて召し出だされぬ。奉行人の云はく、上(かみ)へのをほ(仰)せかくのごとしと申せしかば、上件の事一言もたがはず申す。但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄といふ事はそらごとなり。此の法門は最明寺殿・極楽寺殿御存生の時より申せし事なり。(種々御振舞御書)

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 種種御振舞御書によると法難の翌日に、 連れて来られた本間邸で、 月に諌暁されると、 明星が降って来て、 梅の木に掛かったそうですが、これも信じがたいです。
もしこのような不思議な現象が続いて起これば左衛門尉頼綱とてたちまち改宗し幕府も動き、朝廷も平伏せ広宣流布が達成するしたと思いますがいかがでしょうか?

【参考・種種御振舞御書】
其の夜は十三日・兵士ども数十人・坊の辺り並びに大庭になみゐて候いき、九月十三日の夜なれば月・大に・はれてありしに夜中に大庭に立ち出でて月に向ひ奉りて・自我偈少少よみ奉り諸宗の勝劣・法華経の文あらあら申して抑今の月天は法華経の御座に列りまします名月天子ぞかし、宝塔品にして仏勅をうけ給い嘱累品にして仏に頂をなでられまいらせ「世尊の勅の如く当に具に奉行すべし」と誓状をたてし天ぞかし、仏前の誓は日蓮なくば虚くてこそをはすべけれ、今かかる事出来せばいそぎ悦びをなして法華経の行者にも・かはり仏勅をも・はたして誓言のしるしをばとげさせ給うべし、いかに今しるしのなきは不思議に候ものかな、何なる事も国になくしては鎌倉へもかへらんとも思はず、しるしこそなくとも・うれしがをにて澄渡らせ給うはいかに、大集経には「日月明を現ぜず」ととかれ、仁王経には「日月度を失う」とかかれ、最勝王経には「三十三天各瞋恨を生ず」とこそ見え侍るに・いかに月天いかに月天とせめしかば、其のしるしにや天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝に・かかりてありしかば・もののふども皆えんより・とびをり或は大庭にひれふし或は家のうしろへにげぬ、やがて即ち天かきくもりて大風吹き来りて江の島のなるとて空のひびく事・大なるつづみを打つがごとし。

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■「弘安四年五月以前には、日本の上下万人一人も蒙古の責めにあふべしともおぼさゞりしを、日本国に只日蓮一人許り、かゝる事此の国に出来すべしとしる」(新編一五六五頁)
と説かれ、「日蓮が申せし事はあたりたち、ばけ物のもの申す様にこそ候めれ」と、大聖人に対する当時の人々の有様をしるされている。

● 光物や、庭先の明星 などの奇瑞は、邪教に執着する為政者や民衆にとっては、むしろ、悪鬼魔神の仕業に違いない、と思ったことであろう。
その現証によって平左衛門尉らが、平伏するなどするわけもなく、いよいよ怪しんだであろう。

例えば、モーセがエジプト王に数々の奇跡を見せても、王はもモーゼに従わなかったようなものである。

● 光物 庭の明星を信じられないのはご自由に。こちらの責任ではない。

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▼ 戒壇の大御本尊についてお尋ねします。

御本尊七箇相承には「仏滅後二千二百三十余年」ととあるのに、戒壇の大御本尊には「仏滅後二千二百二十余年」とあるのはなぜでしょうか?
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仏 滅 年 代

御法主日顕上人御講義
 「万年救護本尊に関する妄説と宗祖大聖人究竟の本尊について」より抜粋 (大日蓮第548号 36〜51頁)
 
 次に仏滅年代について申し上げたいと思います。まず大聖人様が用いられた仏滅年代は、伝教大師の『末法灯明記』に仏滅年代を算定するために示されている二説の内の一説である、『周書異記』に記されている「周の穆王(ぼくおう)の五十三年」という説でありますが、それから算定すると、仏滅はBC九四九年ということになります。
 今日では、科学的研究という、仏滅年代にも色々な説がありまして、例えば『衆聖点記』の説、それから阿育王の「摩崖(まがい)法勅」から算定した説等がありますが、とにかくこの『立正安世論』の中で玉井は、「科学的な方法によって仏滅年代を計算すると大体、五百年のずれがある」ということを言っておりまして、三百年のずれという説もあるが、大体そんなものだと思います。つまり大聖人様の用いられた仏滅年代と現在の仏滅年代説とでは、ほぼ五百年のずれが出てくるわけです。
 例えば大聖人様は、文永十年八月の『波木井三郎殿御返事』において、
「仏滅後今に二千二百二十二年なり」(新編682頁)
と仰せになっている。それから建治二年の『報恩抄』に、
「仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず」(同1036頁)
という御文があります。それから『妙法比丘尼御返事』 に、
「而るに仏御入滅ありては既に二千二百二十七年なり」
                             (同1257頁)
とあります。この御書は年代は記されていないのですが、
「今又此山に五箇年あり」(同1264頁)
とあることから、弘安元年の御書であることは間違いないのです。
 ですから、文永十年(一二七三年)が仏滅後二千二百二十二年で、建治二年(一二七六年)が二千二百二十五年、弘安元年(一二七八年)が二千二百二十七年ということになりまして、大聖人が周の穆王の五十三年(BC九四九年)に釈尊が亡くなったとする説を採られて御算定されておることは間違いないし、また算定された各御書の数字もきちんとしておるのであります。
 この『周書異記』の説を採られているのは、大聖人様お一人ではないのです。当時の仏教界全体の算定方法だったのです。当時の仏教界すべてがこの算定方法に基づいておるわけです。つまり、大聖人様御在世当時には、一般論として誰も動かすことのできない仏滅年代が存在したということです。
 したがって玉井は、「御本尊様の讃文の仏滅後二千二百二十数年をそのまま拝すると、仏滅とは五百年のずれがある」と主張するわけです。これは実際にそのとおりであります。したがって、これは御本尊様のみならず、御書の中において常にお示しになっておる二千二百何年という記述も当然、実際には五百年の違いがあるということになります。
 ですから、説によっては多少の前後はありますが、実際の仏滅は、BC九四九年から五百年を引いたBC四四九年頃ということになります。
 このBC四四九年から算定すると、大聖人の御出現は正法千年、像法千年、その二千年よりも内になってしまうわけです。つまり仏滅が五百年、あとへずれることによって、末法に入る年も五百年あとになるわけですから、大聖人様が御出現の時はまだ像法の内であるということであります。
 これは近代において言われており、さらに当時、大乗非仏説という問題も絡んで、近年の科学的な研究成果に対し、鎌倉時代は既に末法であるということを基本として宗旨を立てた禅宗でも念仏宗でも日蓮宗でも、この解釈に非常に困ったということがある。
 特に日蓮門下を名乗る宗派においては、宗祖大聖人が仏滅後二千二百二十何年であるという立場から、その末法の姿において一切が白法隠没の姿を現し、様々な大難も起こり、その上から末法に出現の大法が弘宣されるということの旨帰をもって御書等にもお示しあそばされておるわけですから、法義の根幹にかかわることになってくるわけです。
 この玉井という者が非常に狡智、奸智に長けておると感じるのは、特にここのところの解釈であります。この仏滅後二千二百二十余年ということと大乗非仏説の両方を考慮して、大変におもしろい、我田引水の研究をいたしておるのです。
 玉井は、法華経の教えがまとめられた時期を、諸説はあるけれども、これも釈尊滅後五百年だというように考えているのです。このように法華経等の大乗の教えは、釈尊滅後直ちに経典になったのではなく、釈尊の説かれた内容が伝わって、それを後世の仏教家がまとめたものでありますから、大乗は、釈尊が説いた内容とは異なるものであり、仏説ではないというのが大乗非仏説の根幹をなすところであります。
 それについて玉井は、釈尊滅後五百年頃に法華経が出来たということは、そのまま、その時代、その地域において法華経が広宣流布をしたと考えることができる、だから薬王品の「後五百歳」は法華経が経典としてまとめられ、弘まったことの予言であるというのです。そして、そのように考えることよって、薬王品の後五百歳も大乗非仏説もクリアすることができるなどと書いております。
 すなわち、法華経がまとめられた仏滅後五百年が、すなわち薬王品で説かれる後五百歳ということになりますから、ここを起点として五箇の五百歳を考えると、大聖人様の仰せになった法華経の流布、また滅後末法という時代は、まさしく現代においてこれから始まるのであるということを主張しております。つまり、実際の仏滅は現代の研究によってBC四四九年頃であり、そして法華経の成立をその五百年後とし、そこを起点として算定すると、二千年の時を経た時代は現代であるから、まさしく今、第五の五百歳の時であるというのです。このようなことから、これからが真の法華経の流布であるということを主張しているのです。
 さらに、この万年救護本尊の讃文における「後五百歳」についても、これは大聖人滅後五百年のことであると言い出しておるのです。つまり、「仏智をもってこれを隠し留め、末代のためにこれを残す、後五百歳の時、上行菩薩、世に出現して始めてこれを弘宣す」とありますから、大聖人滅後五百年に大本尊が初めて現れ、あるいは弘宣されると解釈するのであります。
 そして玉井は、東京にある日蓮宗の領玄寺という寺の境内に、文政八年(一八二五年)に建てられた石塔に万年救護本尊が彫刻してあることから、これこそが大聖人滅後五百年に出現した大本尊なのだとこじつけるわけです。
 その石の大宝塔と称するものについては、私も行って見たことがあるわけではないので知らないけれども、ともかく、そういうものが現在も残っており、玉井が讃文を正しく読みほどいたところ、大聖人様がお示しの仏滅年代の二千二百二十何年ということだけでは、事実の仏滅年代とは合わないけれども、大聖人様はそこを御存知の上で二重の意味から後五百歳の文を示され、大本尊を隠し留められたのであるという主張の根拠としているのです。そして領玄寺の境内に石塔が建てられた文政八年は、実際の釈尊の入滅から算定すると、第五の五百年、いわゆる大集経に鋭かれた白法隠没の五百年の中であるから、これもまた、時に適っているというのです。
 したがって大聖人は、その石塔建立の時を讃文に示されて後五百歳と書かれたのであるから、大聖人滅後五百年に出現した石塔の本尊こそが弘宣すべき大本尊であり、さらにこの本尊の意義をよく掴んで、この御本尊を世に弘宣する者が上行菩薩でなければならない。「それが自分であるのかどうかは知らないが」と玉井は言っているのだけれども、どうも自分が上行菩薩であるかのような言い方をしております。
 とにかく、大聖人の御真筆の文字をあちらこちらから集めて作った裏書きの入った御本尊を偽造して、「隠されていた御本尊が、初めて世に出るのだ」という小野寺の主張よりも、大乗非仏説や仏滅年代という仏教者として考えなければならない問題に取り組んで、邪智を働かせて何とかつじつまを合わせている玉井のほうが一往、説得力があります。しかし所詮、凡眼邪智によるこじつけの新説にすぎません。
 
 ところで、この仏滅年代については、信心の上から我々もきちんとした正理を把握しておく必要がありますが、これは御本尊に関する相伝の上から、既に解決済みなのであります。
 つまり、先程も申し上げたように大聖人様は、BC九四九年仏滅という『周書異記』 の説を採られ、そこから算定して弘安元年が仏滅後二千二百二十七年であるとされておりますが、実際の仏滅がその五百年後であるならば、大聖人様の御出現の時はまだ仏滅後千七百年頃ということになり、まだ末法には入っていないということになるのです。
 しかるに大聖人様は、「仏滅度後二千二百二十余年乃至三十余年の間、一閻浮提の内、未曽有の大漫荼羅也」という讃文をほとんどの御本尊様にお示しであります。しかし、現代の仏滅年代に照らしてそれが間違っていると簡単に言われては、本宗の信仰自体をも否定されることになりますから、これについて少しばかり申し上げておきたいと思います。
 昨年の教師講習会の講義において、久保川の書いた、戒壇の大御本尊様などを誹謗する稚拙な論について破折した時にも申し上げましたが、私が以前から申し上げておったことに、大聖人様の御本尊讃文が弘安元年以降において「二千二百二十余年」と「三十余年」と二通りのお示しがあることについての日寛上人の御会通を、さらに私は私なりに拝して表現的に少し補足させていただいておりますが、このところから拝すれば、この「二千二百二十余年」等と表示された年代に執われて、だから大聖人様の仏滅讃文が間違いだと言うべき筋合いは全くなくなるのであります。
 まず、御本尊の讃文にお示しの仏滅年代についてですが、弘安二年十月の戒壇の大御本尊様は「二千二百二十余年」であります。そして弘安元年、二年、三年と、この三ヵ年の間においては、「二千二百二十余年」と「三十余年」の両方が出てくるのです。そして弘安四年、五年はすべて「三十余年」になります。それから、それ以前の建治年間までにしたためられた御本尊に示された仏滅年代は基本的には「二十余年」なのですが、年号が建治に改まる直前の文永十二年四月、改元は四月二十五日でしたから、あるいは建治元年四月という確率もありますが、この四月の五幅の御本尊が不思議にも「三十余年」になっております。
 しかし、先程も申し上げたように、大聖人は御書の中にはっきりと仏滅年代を示されているのです。すなわち、『波木井三郎殿御返事』が文永十年で仏滅後二千二百二十二年、それから建治二年が仏滅後二千二百二十五年、それから弘安元年が仏滅後二千二百二十七年というようにきちんとした形になっているのです。ですから弘安元年が二千二百二十七年であるとお考えになっておられたのは絶対に間違いないことなのです。
 それにもかかわらず、文永十二年四月の五幅と弘安元年以降の御本尊の讃文に「二千二百三十余年の間、一閻浮提の内、未曽有の大漫荼羅也」とお示しになり、また弘安元年の御書に、
「仏滅度後すでに二千二百三十余年になり候」(新編1249頁)
とお示しになられているのです。
 その所以について、昨年の講義で私が申し上げましたことは、文永十二年の御本尊の場合、大聖人様は、法華経の会座に出現した妙法の宝塔を拝されて「三十余年」と特にお示しになっておるということであります。これはやはり、その時詳しく申したように、年次計算の意義が弘安以後の場合と同じく合致します。
 つまり、釈尊は七十二歳より八年間にわたって法華経二十八品を説き、八十歳にして入滅されましたので、二十八品を八年で割りますと、1年間に大体、三品半ずつ説いたことになります。そして宝塔品は第十一ですから、三年目の終わりに説いたことになり、この時点は入滅の年より逆算して六年前になります。したがって、そこを起点とすると、大聖人様の基本算定として仏滅後二千二百二十四年となる文永十二年が二千二百三十年となります。それ以降、宝塔が住在するので、その深意を明鑑されためどをこの時におかれ、文永十二年の御本尊に「三十余年」とお書きになる趣意がそこに立つわけです。ただし、宝塔は法の開顕であり、その永遠の実在における人の開顕、すなわち寿量品がいまだ説かれていないので、それ以降の本尊が再び、二千二百「二十余年」に戻られたのであります。
 これは、日寛上人の『観心本尊抄文段』に弘安元年の御本尊の「三十余年」とある意義についての御指南に、文永十二年の場合をさらに補足したものであります。その弘安元年の場合も日寛上人様は、大聖人が寿量品から算定せられたから、二千二百二十七年に四年を足す故に「三十余年」とお書きになったということだけをおっしゃっておられます。しかし、ここに深い法義が秘められているのです。私は、この寿量品から算定したということは大変なことだと思うのです。
 ここで、改めて「仏滅」という語の意味を考えてみてください。仏滅というのは仏様が亡くなった年ということであります。そして、寿量品に説かれている仏様の姿は「非滅現滅 非生現生」です。「現有滅不滅」、すなわち滅を現じ、不滅を現じて、法・報・応三身の永遠常住の体と用を示されたということであります。すなわち、仏滅は通常、応身の滅であるが、法華円教の三身相即と、寿量品でその永遠常住の滅不滅を示す意味こそ、御本尊の示し給う妙法に共なる仏滅なのです。
 ですから、その寿量品を起点として算定された「仏滅後二千二百三十余年」を讃文に示されているということは、寿量品におけるところの滅不滅の意味においてお示しになったと拝さねばなりません。つまり、釈尊の肉身が滅したということよりも、むしろ肉身の元である三世常住の御本仏の滅不滅の上の仏滅年代であるということなのです。それを「二千二百三十余年」とお示しになったのです。
 日寛上人がこの意義をはっきりと仰せになっていないのは、後世の末弟子が時に応じた上から、その深義を拝するようにということだと信じます。
 そのように拝すれば、寿量品からの算定ということは、そのまま仏の常住の命を示されたということであり、またさらに大聖人様の付嘱の意義から拝するならば、寿量品の文上ではなく、さらに文底の仏の本有常住の滅不滅をお示しになったということであります。そこにこそ、弘安年間に入って「二千二百三十余年」とお書きあそばきれている意義があるわけです。
 しかし、確認の意味で申し上げておきますが、日寛上人は結論として、
「弘安元年已後、究竟の極説なり。」(日寛上人御書文段197頁)
とおっしゃっております。そこを間違えてはいけないのです。したがって、御本尊の讃文に「二十余年」と示されているから究竟でないとか、「三十余年」と示されているから究竟であると考えるのは大きな誤りです。弘安元年から深義の仏滅讃文をお示しになっているから、その弘安以降における大聖人の御境智に約して、本懐究竟であるということをおっしゃっているのです。
 だから弘安以降において「二千二百二十余年」と「三十余年」の御本尊がおわしますけれども、これは本懐究竟後の御本尊であるから、両方ともその意味で同じ意義があるのです。つまり、本懐究竟後においては、それが肉身すなわち応身からの算定である「二十余年」というお示しであっても、また報身からの「三十余年」の表示でも、共にそれは文底の上からの仏の境界における一身即三身・三身即一身の滅不滅の当体という意味を持つから、単にインド出現の釈尊がそのまま八十年の施化において亡くなったというような小乗仏の応身の滅度を意味するのではないのです。
 したがって、直ちに寿量品を拝することを表す意味での「三十余年」も、その御境界の上から示された三身相即中の応身、すなわち肉体が滅したという意味での「二十余年」もこれはどちらも文底常住の三身相即に約する仏身の御入滅ですから、それは滅にして不滅、不滅にして滅なのです。したがって弘安以降の御本尊様においては、「二千二百二十余年」とお示しの御本尊も「三十余年」とお示しの御本尊も常住の仏身に即する滅不滅をお示しになっていらっしゃるのでありますから、そこに勝劣はないのであります。
 そのような点から拝すると、三大秘法の内証は法身・報身・応身の三身相即の本門下種の本仏の常住であり、その御当体における三大秘法が末法に出現されるわけですから、それは釈尊の一代の化導のすべてを含み、乃至三世十方の諸仏の化導のすべても含んでおるのであります。
 したがって、釈尊の出現や化導はその仏様の中の一分でありますから、大乗非仏説のように釈尊を根本とすることは誤りであり、かえって、常住の本仏より釈尊の化導の位置が定まるのです。故に、非仏説などによって常住無始の寿量品の仏の根拠が崩れるようなことはないのです。むしろ寿量品の仏の用きの一分の中において、娑婆往来八千遍とも言われる一々の仏の出現が存するわけであります。
 そのような点からも、弘安以後の本尊中、「仏滅後二千二百二十余年」とお示しあそばされているから究竟の本尊ではないというようなことは、全くないのであります。さらにまた、この讃文は寿量品の仏の常住の仏身の上の御境界としての滅不滅をお示しになっていらっしゃるわけですから、釈尊が亡くなってから実際には千七百何年しか経っていないから、「仏滅後二千二百云云」と言うのは間違っている、などという議論は全く当てはまらないのです。皆さんもそこを肚に入れておいてもらいたいと思います。
 つまり、肉身の釈尊の入滅からだけ算定すると、大聖人の仏滅讃文は、近年の科学的実証研究による仏滅年代と比較して、たしかに違っているのです。ところが「三十余年」というめどにおいて示された寿量品の仏から算定するならば、三世常住における仏身の滅不滅が基本になるのです。すなわち、大聖人の仏滅讃文は滅不滅の仏を表したものである故に、近代研究における事実上の釈尊肉身の仏滅年代に影響されるということは絶対にないのであります。しかし、大聖人様が敢えて「二千二百」という数をお示しになったのは、当時の仏教界の仏滅年代の定説でありましたから、それに応じて化導をあそばされたという意味があるのです。
 さらに、これはやはり、「衆生に機あって仏を感ずる」という感応妙の問題でもあります。つまり、三災七難が次々に起こるという『立正安国論』の御指南の姿、末法の法滅の相ということから、衆生が仏と法を感じ、またその衆生に対して仏が立ってこれに応ずるという感応妙です。その姿と大聖人当時の仏滅年代の定説が一致しておったが故に、敢えてこの年代をもって化導されたのです。
 もちろん、大聖人の深い御本仏の御境界においては、『周書異記』に示されている仏滅に関する説が必ずしも真実ではないということは深く御承知であったと思います。
 また、この仏滅年代という問題は五綱教判の時綱に当たり、薬王品の後五百歳ということも、大集経の五箇の五百歳ということも、その時の法門が経典に示されて説かれておるわけです。しかし、大聖人の化導の中心は三大秘法を建立あそばすというところにあるわけですから、教・機・時・国・教法流布の先後等の五綱教判は、その建立のための足場のようなものです。ですから建物が出来れば足場は外してしまうのと同様に、三大秘法が建立されたならば、そのあとも五綱に執われてしまっていては駄目なのです。
 けれども、補修したりするときには足場も必要になりますから、全く要らなくなるわけではないし、色々と参考になる意味もあるでしょう。その意味で五綱はこれまた必要ですが、末法の衆生の即身成仏の要道は三秘にあるのです。とにかく、三秘が出来上がって弘宣されたならば、あとは五綱の一つひとつに執われる必要は全くないという意味があるのです。ですから、玉井の言っている、二重とか三重とかの後五百歳というようなことは、一往のたくらみとして素人向けにうまく組んであり、それなりの説得力もあるようですが、結局は、邪智・奸智の上からの誤った論であるということであります。
 さて、それについて話を戻しますと、東京・谷中の領玄寺という寺の石塔に万年救護の御本尊が彫られており、それを玉井が、「これこそが大聖人滅後五百年に出現すると讃文に予言された大本尊である」とこじつけているということを申しましたが、さらに玉井は、その石塔から拓本をとって、その拓本こそが弘宣すべき「始拓大本尊」であるというのです。とにかく、拓本を七枚とって、その七枚という理由は判りませんが、それを元にして、彼の説を信ずる人に配っているらしいのです。
 この拓本をとったのは昭和六十一年の十月らしいのですが、石塔が建立されたのは大聖人第五百五十遠忌の時、文政八年(一八二五年)といいます。そして、この石塔を建立した東山戸衛八富柳という人は五十歳ぐらいであっただろうと仮定して、大聖人滅後五百年に世に出現している、また実際の釈尊の入滅から算定すると、第五の五百年の期間に当たるとして、これはまさに万年救護本尊の讃文に予言されたとおりであるというのです。
 とにかく、私の説明では足りない部分もあるとは思いますが、このように時代算定を素人向きに合理化した会通をして、もっともらしい論を構えておる反面、大石寺の教旨を悪しざまに罵っているのであります。
 それから、『日蓮大聖人の正義』という本は、教義的な形だけで論じておるのであります。とにかく、最近、万年救護本尊が究竟の本尊であるとする本が三冊も出版されているということは、今後、このような論議がかなりかまびすしくなるかもしれないということを感ずるのであります。
※日蓮大聖人御書は平成新編に、日寛上人文段は大石寺版に致しました。
その他の事項目次へ
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 現存する日興上人の書写曼荼羅はすべて「二千二百三十余年」で統一されているという文献を読みましたが、現在の御形木御本尊はどちらになっているのでしょうか?
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● 二千二百三十余年です。
仮に歴代御法主上人の御書写の御本尊に「二十余年」があろうとも、上記の日顕上人の御指南から全く問題はありません。
そもそも、日蓮正宗の僧俗でない門外漢が御本尊の讃文について云々すること自体が不毛であり、不遜です。

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 戒壇の大御本尊は漆金箔と仄聞しておりますが、鎌倉時代にそのような技術があったのでしょうか?
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● 仏像を漆する技術 仏像に金箔を貼る技術など、もっと古代から定着しておる。

漆塗り いつから?
日本の漆の歴史は9000年前に遡り、既に縄文時代の遺跡から漆を塗った容器が出土しています。 飛鳥時代に大陸から仏教とともに漆工芸技術が伝えられると、日本の漆芸技術は大きな発展を遂げました。
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金箔の始まり

日本で最初の金・銀箔がいつごろ作られたのか、詳しいことは正確に解明されていません。古くは金箔が施された古墳時代のアクセサリーが発掘されています。また、金は古代から永遠、不変を象徴するとして、寺院建築や仏像彫刻に使われてきました。平安、室町、安土桃山と発展する日本の仏教文化の浸透とともに中国伝来の製箔技術がやがて日本独自のものとして定着し、今日へと発展してきたといえます。


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 大石寺四世日道上人は日蓮大聖人の伝記を書いておりますが、出世の本懐である板本尊図顕について、一言も触れていないのはなぜでしょうか?
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● 日道上人のお考え。
当時は完全な秘仏であり、よほどの者でなければその謂れを語ることはなかった。

■ 日興跡条々事    元弘二年一一月一〇日
 一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。


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 宗祖日蓮大聖人・第二祖日興上人・第三祖日目上人は「祖」であり、第4世日道上人以降は「世」であるのは三祖で広宣流布の形ができたからだと樋田さんのYouTubeです拝見した事があります。しからば、もし日道上人以降に戒壇の大御本尊が造立されたならば大問題となると思いますがいかがでしょうか?
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● 仮に万が一、日道上人以降に板曼荼羅としての戒壇の大御本尊が造立されたとしても、日蓮大聖人が紙墨であろうかどうかは分からないが、何らかの形を以って「戒壇の大御本尊」たるべき御本尊を遺されていた事は教義的に明白。
その「戒壇の大御本尊」を後の唯授一人・血脈相承の御法主上人が「板曼荼羅」とされたとしても、何ら問題はない。

■ 戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王(うとくおう)・覚徳比丘(かくとくびく)の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みぎょうしょ)を申し下して、霊山浄土(りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず、大梵天王(だいぼんてんのう)・帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏(ふ)み給ふべき戒壇なり。(三大秘法稟承事 弘安五年四月八日 六一歳 1595)