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富士学報16号

本宗の立場(文底独一本門)より大乗非仏説を論ぜよ 

細川明仁師


要点 まとめ (※印 補足)

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本論

一、聖典成立

釈尊の説いた教えは、その滅後、弟子たちによって集められ、後世に伝えられた。
当時すでに文字はあったが、聖典の伝持は専ら記憶にたよっていた時代である。
故に釈尊の説法も、それを聞いた人の記憶の中に保存せられていた。それ故、弟子のことを声聞と言う。




仏典結集

釈尊の滅後、弟子たちが相談し、中インドのマガダ国の首都、ラージャグリハ(王舎域) に五百人の弟子が集まり、釈尊が五十年間に説法した教法を蒐集することになった。即ち、各自が憶持していた教えを示し合い、教えの内容を確認し合ったのである。
これによって釈尊の教法が確定し、後世に伝わる基礎が出来た。これが第一結集である。
この会議は大迦葉が主宰した。
教法(ダルマ) の結集には記憶第一のアーナンダ(阿難)が中心となり、戒律(ヴィナヤ) の結集には律の研究第一と言われたウパリ(優波離)が中心となった。

このように、釈尊の教えは入滅の直後から教法と戒律とに分かれて伝持された。
その中で教法は、師から弟子へと口伝によって伝えられる聞に、次第に整理され、形式が整えられて「経」(スートラ)と呼ばれるようになった。
スートラとは「たて糸」の意味でもあり、教法を簡単な形に圧縮してまとめたものを言う。
こうすれば、記憶に便利だからである。

しかし、次第にこれに説明の文句が付加され、「如是我聞」の如き決り文句も加えられ、長文の経典も作られた。
かくして整備されたたくさんの経典は集大成され、後に律・論を加えて三蔵が成立した。

「如是我聞」で始まる経典の舒述の形式は第一結集の時から踏襲されていたと言える。
経典の形式は六つの条件が必要とされ、後に「大智度論」において整理され、左の如く「六事成就」と言われた。

「六事成就」

如是 このように 信成就
我聞 私は聞いた 聞成就
一時 あるとき 時成就
ほとけが 主成就
在某処 何処で 処成就
与某衆倶 誰々と 衆生成就


さて、仏教が各地に伝播弘通するようになると、教団の統率面において種々の問題が発生した。
即ち伝統的保守派と、進歩的自由派とが、釈尊の滅後百年頃、戒律に関する解釈をめぐって対立化し、その後ついに上座部と大衆部という二派に根本分裂した。

さらに両派が各々分裂し、ほほ紀元前後の頃までに十八又は二十ほどの部派が成立した。
部派の発生は学説の相違や指導的長老を中心としたものや、地理的に隔絶したものなどによる。
各部派はそれぞれ自派の正統性を主張し、自派独自の聖典を編纂して所有していた。

仏教の聖典は、第一回の結集以来、口伝によって暗譜されて伝えられたが、パーリ聖典は前一世紀の頃に、セイロンの上座部において初めて筆録せられたと言われている。

ところで、仏教のかような部派的展開は、必ずしも仏教の発展とは言い得ない。
分派することによって仏教は釈尊時代におけるような純粋性、ないしは情熱性、溌剌性を失い、律や経に対する解釈(アビダルマ) の学問が発達して、自然に僧院中心、出家中心の学問仏教と化し、大衆性を失ってゆく。
そしてその反面、低俗な迷信的信仰を盛んならしめることにもなった。

これに対して進歩的な大衆部の比丘たち、及び在家の信徒たちの間から仏教を本来のすがたに復帰せしめようとする大乗仏教運動が興起した。

小乗の上座部が保守的・伝統的・形式的・客観的であるのに対し、
大衆部は進歩的・創造的・実質的・主体的な立場の相違があった。

然るに上座部・大衆部の対立を発展的に総合した大乗仏教は、新しい要素を加えて新たに生まれ出たわけではない。

万有実有論・心不浄説等の非仏説的見解を持つに至った部派仏教が自ら反省し、釈尊の教法である縁起論への復帰を志願し、縁起論を継承させて、空・慈悲・六波羅密などの新しい教学を興こしたのである。

以上、大小乗の相違点を下図の如く表にした。

小乗・小聞乗(小人所乗) 大乗・菩薩乗(大人所乗)
目的 小涅槃(阿羅漢果) 大涅槃(成仏)
内容 四諦・十二因縁・八正道・生死の迷・
具体的・理性的・合理性・倫理性
中道実相・空理・菩薩道
義理玄遂
釈尊観 未来と過去に諸仏・現在の仏は唯釈尊 三世十方の無量無数の諸仏
対象 二乗 菩薩
対告衆 史乗の人物 史乗外の人物
伝播 四度の結集による 師資相承・口伝による
異本 少し 多し
中心者 部派上座部の直系 出家者中心 部派大衆部の系統 在家・出家
修道論 自行 自行化他 六波羅蜜
言語 パーリ語 サンスクリット・中世インド
アーリア語(パーリ語含む)方言多し


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二、口伝の重要性

古代インドにおいては、、ヴェーダ聖典も仏典も口伝により伝えられた。
祖師の説法は神聖ゆえ、その伝承は口伝によるべきだとされ、又それが、最も確かなものと言われた。

口伝は宗教の世界に普遍的にみられ、近代の文献主義にたつ学者からは評価されにくいが、伝承の正確さという点でその重要性・正確性・純粋性は見直されるべきである。
それは暗誦による伝承が宗教性の強い古代インド人だからこそ出来たのであろう。
また仏教徒においては不妄語戒は五戒の一つであり、当時の戒律遵守の態度からみて、口伝の内容を我見によって改変したり、ましてや無節操に大乗経典を乱造したとは考えられない。(※考えにくい。)



古来いわれてきた大乗仏説論・非仏説論の仏説の語は、正確にはブッダヴチャーナー (仏語) であるから、詳しく言えば

大乗経仏語論 ・ 非仏語論   と、
大乗教仏説論 ・ 非仏説論

とに分けてみるべきである。

従来の論義の 仏説論 は 「大乗教仏説論」 を指し、非仏説論は 「大乗経非仏語論」 を指している。

というのは、大乗経典を書き著わしているサンスクリット語は、言語学・歴史学的に見れば釈尊の時代にはなかったから、「大乗経仏語論」は成立しにくい。
(※サンスクリット語の起源は、紀元前5世紀〜紀元前4世紀と言われているので、存在していたが、ベェーダの記述に用いられていたため、その神聖を嫌う意味から、あえてパーリ語を使用した、との説が有力)

小乗経典の阿含経もパーリ語であり確実に仏語とは言い得ない。
そもそも釈尊が何語で説法したか、にわかに決し難い。
釈尊の活躍した土地がマガダとコーサラの二国を中心としていたので、一般にマガダ語の一方言であったとみられている。

また、パーリ語は純粋な統一言語ではなくて、数種の方言の混合語なので、セイロン仏教の伝説による「マガダ語はパーリ語」という説は、全面的には信じられていない

このような研究段階では、「仏語論」 も 「非仏語論」 も正確な論証はむずかしい。

したがって大乗経典は厳密で正確な「仏語」とは言えないかもしれないが、釈尊の本旨を継承した正統なる「仏説」であるとは言うことが出来る。(※否定できない)

又、原始仏教なるものは時代考証の面では資料不足で、今後も余程の研究が必要であり、安易に推論を駆使することは慎まねばならない。


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一、インドにおける非仏説論

大乗非仏説の主張は大乗側のいう小乗から出されたものであるが、現在知られる限りの小乗系論書には一つも見当たらない。
この問題については一方的に大乗側の資料から推測する他はない。
そのまとまった論述としては、次の五つの論典に非仏説論に対する反駁、すなわち大乗仏説論の開陳を主眼とする形で説かれている。

一、『大乗荘厳経論」第一章  仏説八因

二、世親『釈軌論』第四章(※参照

三、清弁『中観心論思択炎』第四章「声聞真実決択品」(※参照

四、『成唯識論』巻三、 一を要約引用、七因

五、『顕揚聖教論』(※参照)巻二十、大乗仏説の十因を挙げる。(一と二に関連)


大乗荘厳経論 第一成立大乗品の内容は、正に大乗が仏説であり道理に適う所以を説くことが主眼で、非仏説論自体については殆ど言及がない。
幸い安慧の釈が八因の一つ一つについて非仏説論を紹介しているので略説すると


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一、大乗は仏滅後に正に正法を衰滅させるために、般若経などで一切法の空無を主張しているものであるから、仏説ではない。

これに対して大乗側は、「一切智たる仏にそのような予言はなかったし、それは仏が無関心だったからではない。だから大乗は仏説である。」
(※ 三世を見通す覚者である釈尊が、将来仏法を滅亡させる偽典が出現するであろう、という予言がない。もし、大乗経典群が偽書ならば、釈尊は当然そのことを予見して警告されていたはず。との論証)


二、釈尊は入滅以前に大乗を説かれなかったから、仏説ではない。

答は、「同時にあったのだが、声聞乗は劣慧者のものに示されたもの。(彼らが大乗を知らなかっただけ)」
(※声聞(つまり自身の解脱のみを求める修行者)という機根未熟の者には、一切衆生を救うという大乗的な教えを聞きながら、その真意を感受できなかった。)


三、ある種の究理論者あるいは声聞乗以外の外道が作ったものだから仏説ではない。

答は、「外道にとって大乗はその領域でなく、外道の教えに、十地・六波羅密・不生不滅の教えなどはない。」
(※もし、外道が大乗経典を偽作したとするならば、外道の教義の中に既に大乗的思想が表出されていなければ合理性がない)


四、大乗は何人かが、十地・波羅密・不生不滅の義を悟って説いたものだから仏の教えではない。

答は「義を悟ったものこそ仏なのだから大乗は仏説。」(これは仏の意味の拡大)
(※釈尊の教えを実践して覚者となったのであるから、その覚者が顕した経典であるならば、その根本に釈尊の教えが在る。
大乗「経」=「経」自体は非「仏語」かも知れないが、大乗「教」=「教」そのものは「仏説」 という概念)


五、世尊が声聞・独覚・大乗の三乗を説いたと認めるとしても、声間乗こそが大乗である。「般若経」などが大乗なのではない。


六、世尊は三乗でなく、ただ一乗を説いた。それを勝れたものが修すれば仏となり、中のものが修すれば独覚となり、劣れるものが修せば声聞に終わる。
その一乗とは声聞乗である。


七、ある人の語るところに随って修習すれば煩悩を対治出来るものが仏説である。声聞乗こそはそれに適うが、大乗はそうではない。

答は、「大乗の修習によって無分別智が生じ無分別智によって煩悩は対治されるから、大乗は仏説。」


八、仏説には蘊界処等の法有りと説かれる。然るに大乗では一切法の無を説く。故に仏説ではない。

答は、「「一切法の無」というのは密意趣があって、
愚夫たちの遍計するような自性は無いという意味であり、依他、円成の自性が無いというわけではないから、ことば通りに理解すべきではない。

この最後の解答は、他の七項と異なり、瑜伽行派唯識説(三性説) の立場からのものである。

以上、大乗仏説の八因を非仏説と共に挙げた。




相互の論難の仕方は

「経中に説かれず、三蔵に含まれないから非仏説論」 という非仏説論。

それに対して相手の言う経文中にも相互矛盾や前後相違を指摘して仏説・非仏説の相対化をはかる。
また、その前後相違するものに 「了義不了義」 の判定規準を新設する仏説論。
共に部派相互間で用いられてきた論争の型である。(大毘婆沙論による)


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四、中国における非仏説論

仏教は紀元後六七年に伝わって道教との争いを引きおこしたが、仏教内外共に非仏説論は殆んどおきていない。

ただ、インドで数百年間に発展した仏教経論が短期間で、しかも国家的な規模で大量に訳出された為に、暫くは表面的な理解で消化して、教理研究がさかんになるにつれて権実・顕密の別が生じ、南三北七の十派に分裂した。

しかし仏教伝来当初は、大乗で説く空理を理解する思想的土壌も言葉もないために、老荘思想の無の思想をもって解釈した。
これが格義仏教と言われるもので、天台大師はこれを止観の中で批判して、

■ 名利を邀(もと)めて荘老を誇談し、仏法の義を以て偸んで邪典に安(お)き、高を押して下に就り、尊を摧いて卑に入れ、概して平等ならしむ (学林版七九七頁)

と言われた。

妙楽大師も弘決の中で、やはり 「摧尊入卑」 と批難されている。

したがって、空は本来何事にも執着しないという認識論的な解釈だが、中国の格義仏教では、万物が流転するという本体論的にのみ解釈されたのである。
いずれにしても、空の理解に重点をおくほど中国の民衆の機根は大乗であって、「大小」よりも「権実」の論争が行われ、最終的に実大乗の法華経が流布し、天台教学が主流となった。

これも仏の予言である正像末の三時の弘教の次第や、四重の興廃の通りになった訳である。


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五、日本における非仏説論

日本に紀元後五五二年に仏教が伝来して以来、崇仏、排仏の抗争などもあったが、聖徳太子により法華経などの大乗経を根本とした善政が敷かれ、平和国家の建設と鎮護国家を目標とした国家仏教として出発した。

古代より日本は大乗相応の地といわれ、その後も願調に実大乗・法華経は流布したが、同時に権実雑乱と天台の密教化をきたした。

鎌倉時代に御出現された大聖人は、この現状に対して法華一乗を叫ばれ、更に未曽有の即身成仏大法をあらわされたのである。

こうして江戸時代中期に至って、突如、富永仲基なる者が大蔵経を閲覧し「出定後語」二巻を著わして大乗非仏説を唱えるに至る。
その主張は「異部加上説」で、一切経は全て釈尊の直説ではなく、長年に亙って色々なものが加上され、潤飾されて成立したものと説く。

始めは阿含小乗経のみ結集されたが、その上に加上されて般若の説が成り、更に法華の説が成り、華厳の説が成り、涅槃の説が出来上ったものである。
また小乗の阿含も、仏説をそのまま表現したものではなく、幾百年にわたって口授伝承されていくうちに、幾多の加上があって現在の姿となったものであるという。

これらの説は仏教の近代的研究の先駆をなすと言われ、ヨーロッパのキリスト教に関する原典批判よりも約百年先んじている。

しかし、「出定後語」を読んでみよと、自分を出定如来と称す大変な慢心家であり、魔の所説である。
文献考証はともかく、仏教理解の無知明白である。
(※ 延亭2年(1745年)仏教思想の批判的研究書『出定後語』(しゅつじょうごご、しゅつじょうこうご)を刊行。[5]翌年32歳の若さで夭折した。)

「出定後語」に続いて、服部天遊の「赤裸々」などがあり、更に、平田篤胤の「出定笑語」に至っては、低俗野卑で話にならないが、社会思想に与えた影響は甚大であった。

これらの非仏説は始めから排仏の意図をもった国学者、神道学者によって唱えられたもので、仏の本意を探究しようというような求道心は微塵もない。

その後、明治維新の時には狂言的な排仏論者が政権の要路にいた為、仏教界の低迷とあいまって空前の廃仏をひきおこした。

本宗内では廃仏の記録は殆どないが、権実雑乱の仏教が時代の変革期に民衆を救う気力もなく、人心を離れて衰微していくのは、御仏智によるか、あるいは時のしからしむることだったのかもしれない。


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六、近代的研究における諸説

近代明治以後、この問題を論じた学者の説を列挙する。

まず、井上円丁は、「古来の論争の経過をみて非仏説の論拠が強固で仏説論者の弁護は不十分である」という。
そこで二つの仏説の証明を挙げている。

一、発達見解として、小乗の中にすでに大乗に発達すべき教義を内包している。故に小乗が仏説ならば大乗も当然に仏説である。

二、存立的考証として、大乗は仏が説いて後に、世に行われないで埋没していたが、馬鳴や竜樹は大乗こそ時機相応と知って、山間の僻村や海外の孤島から捜し出してきて広めたという。


姉崎正治は、歴史的方面から大乗仏説論を唱え、

村上専精は「大乗仏説論批判」で、

教理の上から見れば大乗は小乗よりも勝れて仏説である事間違いない。だが、歴史的に見れば仏説であることを証明する事は困難である。
欧米の人士は一般に大乗と言えば非仏説なりと即断するの傾向あり(取意)(同書二四O頁)

と言っている。

深浦正文は「大乗仏説非仏説の問題」の中で、

非仏説論者は、いずれも本題を歴史事項として攻撃せるに反し、仏説論者はいずれも教理事項として弁護せる事が認められる。

と言う。

伊藤義賢は「大乗非仏説論の批判」で、

歴史的、科学的に見れば大乗非仏説は定説であり常識となりつつある仏教界の現状を嘆いて反論している。

フランスの言語学者、シルパン・レヴィー博士らは、言語学的歴史学的見地から非仏説を爆弾的に発表した。
すなわち、大乗経典のサンスクリット文字は釈尊の時代のものではなかったのである。
(※ 釈尊の教説が口伝・暗誦などによって伝承されていき、後に経典として成立した。とすれば、大乗経典のサンスクリット文字が釈尊時代のものでなくとも不合理ではない)

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※ 参考文献  

バーミアンでの仏典発見

前田耕作

バーミヤンで最初に仏典が発見されたのは1930年、フランス考古学隊の発掘によってであった。
(中略)
この発掘の時、仏塔と仏堂の北側の壁との間、雨水の浸透が最も著しかった場所から「大量の仏典の写本」が見つかったのである。
凝固した写本をほぐすため、写本はパリに送られた。
パリでこれらの写本断片を調査したのは当時フランス・アジア協会の会長だったシルヴァン・レヴィであった。
彼は日仏会館の初代会長として来日し、わが国の仏教研究に大きな影響を与えた人である。

シルヴァン・レヴィはその調査の結果をフランス・アジア協会の機関誌『アジア学法報』(1932年)に
「バーミヤン(アフガニスタン)とギルギット(カシュミール)出土のサンスクリット写本についての覚え書き」
と題して発表し大きな反響を呼んだ。
ギルギット出土のサンスクリット写本はシトロイエン中央アジア探検隊によってもたらされたものである。

 のちのフランス隊がG洞と呼んだバーミヤンの仏堂より出土した写本の大半はブラーフミー(梵字)で書かれていた。
シルヴァン・レヴィによるとブラーフミー文字の断片は、紀元後三、四世紀のクシャーナ文字から七、八世紀の後期グプタ文字にわたっていたという。
そしてこれらの断片の大部分は教理(シャーストラ)や論書(アビダルマ)にかかわる内容のものであったが、「どの経、どの論のものと正確に特定することは難しい」としながら、それでもこれまで漢訳によってのみ知られていた『集異門足論』の断片や『摩訶僧祇律』の断片が含まれていることが判明した。

 G洞における仏典の出土は、バーミヤンの他の仏堂からも同様の、あるいはそれ以上の仏典の発見が期待されたが、仏堂内の床面の精査、遺跡地帯の発掘にまで至らず、仏典の出土を今日に至るまで見ることはなかったのである。

ところが、内戦中バーミヤンから出土したといわれる仏典写本が大量に国外に流出しているというニュースが1990年代の中頃に伝えられた。
そしてこれら「難民が運び出した」という写本は数人のディーラーの手を経てノルウェーの富豪の写本蒐集家のもとに落ち着いたというのだ。
いわゆるスコイエン・コレクションである。
写本の総量は小さな断片を含めて「一万点以上」に上るという。

 スコイエン・コレクションの調査・研究に従事している松田和信教授(仏教大学総合研究所)によれば、写本の種類としてカローシュティー文字、クシャーナ文字、グプタ文字、ギルギット・バーミヤン第1型文字、同第2型文字の写本が確認されているという。

先に触れたG洞出土の写本と同時代、七世紀頃のギルギット・バーミヤン第1型文字の断片の中にやはり『摩訶僧祇律』『法句経』『法華経』『金剛般若経』『薬師経』などのものも認められるという。

バーミヤンには、多様な文化交流の場にふさわしくさまざまな地方から集められた写本があったのであろう。
驚くべきことは漢訳だけではなくサンスクリットの知られていない経片、バクトリア文字の断片などが含まれていることである。

しかし、出土場所が明らかでないこの一大コレクションと、今回バーミヤンのFとMという記号をもつ二洞より発見された数十点の樺皮の仏教写本の断片がどのような関係を持つのか、これからの大きな問題である。

もしこの関係が明らかになれば、バーミヤン仏教の内実を解き明かすいとぐちを手にしたことになろう。

十月には地中に眠る大涅槃仏の探査も始まる。
バーミヤンは今再び往昔の輝きを放とうとしているのである。
(和光大学名誉教授・東京文化財研究所客員研究員)

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非仏説論者たちの主張は次の三点である。

一、簡単な思想から高級な思想に発展 (人間思想が複雑になったから)

二、言葉より発達したと言い、簡単な言葉が段々高級な意味の言葉に作り変えられた。

三、釈尊滅後の天才が仏の霊感によって作った。


以上の論義をふまえて金岡秀友は仏典の範囲を次のように規定している。

仏典、すなわち仏教の聖典とは、仏教の開祖である仏陀、及びその直接の後継者たちが、宗教的自覚と信仰の目的をもって仏教に関して著わした、さまざまな言語による典籍の総称である。(「仏典の読み方」二章二六頁)

ここでは仏説とは直説のみではなく末広がりに論師人師の説を包含して仏典の定義と範囲を拡大解釈している

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結論

仏教という宗名は「仏の教え」であり、また「仏となる為の教え」とも読める。
前者は一般的で、後者は大乗の立場から解釈したもので、端的に大乗の目的が成仏であることを示している。
いずれも仏説をよりどころにしている。

仏は衆生に人生最高の目的と使命を示された。
その修業(大乗菩薩道) は「上求菩提下化衆生」の如く、自行化他にわたって六波羅密などを修する。
これを非仏説と言い、空論と言うならば仏の本意とは何であろうか。

根本仏教時代より大乗は存在したが、機情に赴いて小乗の立場に傾いたものである。
四諦・八正道・十二因縁だけで原始仏教の全てとするのは、あまりにも末梢的である。(仏説八困の六に通ず)

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一、仏説論の要点


一、「大乗小乗の語は、大乗側から対立的に使用した褒貶(ほうへん)語であり、自ら小乗などとさげすんで呼ぶはずがない」と非仏説論者は言う。

しかし阿合経の中に、釈尊の、

仏土境界不可思議などのことは、小乗の知るところではない。

という経文があり、「小乗」の語は後代の造語ではない。


二、大乗経典には異本が多いことが疑問視されるが、かえって部派ごとに伝承されて、一人の天才がつくったのではない(※後人の偽作ではない)という反証である。
法華経にしても六訳三存と言われるほど異本があったのである。


三、第一回の仏典結集で成立した「増一阿含経第一・序品第一」の中に、

大乗経は遠大な理想を持った菩薩たちが用いるものであるから、これらは雑蔵しておこう。(大正一二五ー五五○C)

と、阿難が発言し、大衆も認めている。

これは小乗的思想よりも高度に優れた大乗的思想が根本仏教時代から存在し、小乗経典と別個に、口伝などによって伝えられていた事を示している。
釈尊の説法は同座の大衆がそれぞれ異解を生じるほど含蓄が深い。


四、「雑蔵」 の語自体が、大乗経は小乗経の発達したものではなく、根本仏教時代より共に行われた事を示している


五、非仏説論の源流は根本分裂にさかのぼり、部派間の論争にも類似している部分がある。
この事実は大乗教的要素が部派仏教時代を通じて存在した事を反証している。
(※根本分裂時代に既に大乗的な教義が存在していたが故に、小乗的思想家達との論争が生じた。
→ 大乗思想が後に偽作によって出現したのではない証拠)


六、口伝による伝承は不正確と見られがちだが、当時のインド人の暗誦による伝承が一般的であった事、不妄語戒の戒律が厳しかった事などを考えあわせると、伝承を改変したり無節操に空想をめぐらせて大乗経典を偽作するなど考えられない。


七、口伝は古代インドにおける令法久住の為の唯一の伝承方法である。
口伝の重要性・正確性・純粋性を見直すべきである。


八、二十余りの部派が分裂した原因は、地理的集団的理由の他に、大乗教思想をとり入れて新説を唱えた為でもある。
例えば大衆部一説部・説出世部・鶏胤部の四部が「大般涅槃経」などの大乗経典を依用した、などの例はかなりある。
これも大乗経が根本仏教時代からあった証拠になる。


九、更に小乗経典の中には、成仏や法性一如の縁起法門が断片的に説かれ (阿含経) ているが、非仏説論者はこれをどのように会通するだろうか。
(※ 阿含経だけが仏説とすれば、その教理には、「一切衆生成仏」 などの原理は基本的に説かれていないこととなるが、上記の教理が断片的にでも存在する事実は、大乗の教義が釈尊の教説の中に存在していた証明ではないか)


十、しかし、小乗経典には声聞乗の教えは豊富で詳しいが、菩薩乗(大乗)なるものは片鱗が説かれる程度である。
大乗仏教運動の興隆と共に、大乗教をまとめて体系的に説いた経典の必要性が生じた。
四十二章経などのように、阿含経と類似の文が多く小乗的であるが、一面、慈悲・忍辱・布施などの大乗的な要素を含む経典もある。


十一、大乗経の所伝が不明確 (六事成就の内容が史実からかけはなれている) なのは、成立過程から見て当然である。
(※ 長い口伝・伝承を経ての経典成立であるから、詳事においては不明瞭になるのは当然)



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