沖浦対樋田法論を検証する。7  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年 6月26日(火)18時52分20秒 p3048-ipbf205yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  以下の沖浦さんの主張に反論します。

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▼ どうも法華講諸氏は  投稿者:沖浦克治  投稿日:2007年 6月17日(日)23時22分28秒 softbank221104080129.bbtec.net    返信・引用
    大聖人様に対する尊敬の念に欠けますね。

 樋田さんは、山下さんと共に、蓮祖御真筆のご本尊様をプリントアウトしてひらひら振りかざして平気な顔をしていましたし、73さんは、寛師書写、蓮祖御図顕の御形木様を、魔札、と、呼んで平気です。

 毒気深入の姿ですよ。
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● ↑ 
1、当方は法論時に、ネット上にある、大聖人御真筆本尊集内の

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/105.html

にUPされている画像をそのままプリントアウトしたものを、沖浦さんの自説の矛盾を示す為に資料として提示した。
これだけのことですね。
別に謗法でも何でもないですね。
このプリントアウトしたものを「本尊」として拝む対象として扱えばそれは謗法です。

そもそも謗法の定義とは、

■天台大師の梵網経疏(ぼんもうきょうしょ)に云はく「謗は是乖背(けはい)の名なり。「糸偏に圭」(かい)を是(これ)解とせば理に称(かな)はず、言(ことば)実に当たらず、異解して説く者を皆名づけて謗と為(な)すなり。己が宗に乖(そむ)くが故に罪を得(う)」文。(十法界明因果抄   文応元年四月二一日  三九歳)

と大聖人が天台大師の言葉を引用せられて仰せの如く、謗法とは、正しい教理に背き、自分勝手に好き放題に自説を述べ立てる者のことを言うのですね。

「御本尊は誰が書いてもいい。」などと、全く大聖人・日興上人の仏法の道理・文証からはずれた沖浦さんの謗法の妄執・妄言を鋭く指摘する為に提示した今回の資料は何の問題もありません。
沖浦さんのその肺腑を深くえぐったためにあのように”過剰反応”しているでしょう。


2、また、現場での印象は、さくらさんが既に指摘している状況でしたね。

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【引用】(少々長いですが、実際の印象をよく伝えていますね)

「  たとえば百科事典に大聖人様の御本尊がのってたとします。それをコピーして資料として指し示したとしても、それが何か問題あるんですかね〜?
お見かけしたところ、かなりいい御歳の熟年男性ですが、あの姿は分別がないただの見境なくのぼせた説教オヤジと同じですね。

それに以前に掲示板でよく土産本尊の話は出てたでしょ。
私にはあなたがたの行動は
「きっと樋田が身延の土産本尊を持ってくる。
これを突きつけられて、
「これと、今学会で出している本尊とどう違うのか、御書の御文で証明して見せろ!」と言ってきたら反論できない。
どうする?
「 そうだ、とにかくどなりつけてごまかしちゃえ。
なんでも樋田を…“御本尊をコピーした御不敬者”に仕立て上げ、不信な輩の所業と叱り飛ばして、勝ったフンイキを演出しちゃえ。
内容なんてどうだっていい。
とにかく何か言い負かしたような感じが撮れれば。OK.」
と入念に見学者と打ち合わせて来た通りを、“台本”通りにやって見せた。としかみえませんでしたよ〜。
実に滑稽でした。
…でもって、すごく”芝居”がかってましたね。
でも“演技”は下手ですね。
直ぐに見破れましたもん。

よく他人に反論も出来ないような事を言われた時、慢心の強い人はタダ相手を“怒鳴りつけ”て、一方的に黙らせるでしょう。
それと全く同じにみえましたよ。
そぅでなかったらなぜきちんと反論しなかったのですか?
出来なかったのですか?
そぅ!!あなた方は“本尊論が目茶苦茶”だから反論さえできなかった。
だから罵声をとばした  それだけの事ですよ。

そして樋田さん達に怒鳴り声をあびせる事により、あたかも御不敬を印象付ける!

そんな事しか出来ないんですか!!
学会員の様々な“でっちあけ゛”の姿そのものを見せてもらいましたよ。
それも目の前て゛。

ですから、今日のカキコみてると「大勝利!!」なんて、ほんと、 呆れ果てたものですよ(^_^;)
全く本尊観がわからない姿を日本国にわざわざさらし、可愛そうなもんですね。
それが違うなら冷静に論理で反論してみたらいかがですか?

そんな”芝居”を演出して、「大勝利」なんて驕慢{←字ちがいますが携帯でないのです}謗法も甚だしい極みですね。」

引用以上
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3、「御本尊は誰が書いても一緒」と放言する沖浦さんにとっては、この”資料”も「本尊」となる理屈ですが、実際には「本尊ではない」と断言しています。
これなども自己矛盾の極みです。
それが説明つかないからとにかく怒鳴り飛ばして誤魔化してしまおう。との魂胆が見え隠れしていましたよ。
よく格闘技でも、組んだ者は相手の細かい心理が見える、そういう感触です。


4、それを親の写真などを引き合いに出して感情論で自分の激昂を正当化していましたが、

■「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(美作房御返事)

とあるがごとく、大聖人の御晩年には「謗法の地には御自分の御魂はお住まいにならない。」と弟子方に仰せでしたから、謗法にまみれた他宗他門に蔵される御真筆御本尊には、そもそも、大聖人の御魂はいらっしゃらないのですね。
その御魂が抜けられた御本尊は現時においては尊信の対象ではありません。
こういう正しい本尊観が信解できていないから、親の写真云々などという妄執論を放言できるわけです。


5、更に

■仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計(ばか)りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり。(聖人御難事    弘安二年一〇月一日  五八歳)

と仰せの如く、戒壇の大御本尊こそが大聖人様御出世の本懐であらせられるのですから、戒壇の大御本尊以外の御本尊は大聖人一期の御施化の中で、一機一縁の御本尊であり、直接我々一切衆生を救済される御本尊ではなく、方便・未究竟であるといましょう。

【結論】

ざっと、以上の論証で沖浦さんの上記の主張は、根拠のない、浅識・無知な浮言ですね。

■文証の所出を知らざる我意の浮言ならば之を用うべからず。(法華真言勝劣事   文永元年七月二九日  四三歳)

と大聖人様からそれこそ厳しく叱責を受ける姿であります。