痴犬へ鉄槌 93  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 628()000956 p3213-ipbf12yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

久しぶりに、少しずつ清掃していきますか。
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> ▼再往、下種仏法の立場でいえば、文底下種仏法の深意は「相伝」(唯授一人の血脈)によらなければ「知り難」いということである。
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> ●↑こんな勝手な樋田教は通用しないんよ。根拠を示しなさい。
> 相伝を受けている宗門が正しいと言うのならどうして七百年もの間、全然広宣流布出来なかったんだい?愚かなハゲの集まりでは何万年たっても広宣流布はでけへんよ。
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●樋田教?まさか「池田教」ではあるまいに、そんなものは存在しない。
当方の立論は全て御文証に依るのである。
それが理解できないのは、痴犬が極度の不信謗法者であり、極めて勉強不足なだけである。

日興上人は御相伝書の 「寿量品文底大事」に大聖人の御言葉としてこう記されておられる。
■問うて云はく、開目抄の上に云はく「一念三千の法門は寿量品の文の底に秘して沈めたまへり」と云ふ意趣如何。
 仰せに云はく、当流の相伝惟に谷まれり。口外すべからずと雖も末代の為に一筆之を残さん、敢へて聊爾の義有るべからず。

ここに■「当流の相伝惟に谷まれり」とあるがごとく、「「一念三千の法門は寿量品の文の底に秘して沈めたまへり」と云ふ意趣」は御相伝に依らなくては全く「知り難い」という御心である。

『此の経は相伝に有らざれば知り難し』
此の経→一往、法華経→再往、法華経本門寿量品→寿量文底秘沈の大法=三大秘法=一大秘法=戒壇の大御本尊
の御大事は、上記の御相伝書の御文に依っても、「相伝」に依らなくては知り得ないことは明々白々である。

次に、広宣流布云々について。
1、宗教が法律的に全く自由になったのは、戦後である。それまでは、何らかの政治的制約を大なり小なり受けており、本来の自由闊達な布教活動が出来なかった歴史的背景がある。

2、そんな中でも日蓮正宗僧俗による数多くの法難史が存在する。
千葉法難・金沢法難・讃岐法難・仙台法難・尾張法難・伊那法難・八戸法難・・・
弘教に励んでこられた証拠である。

3、■一、堂社僧坊は仏法に非ず又智慧才覚も仏法に非ず多人数も仏法に非ず・堂塔が仏法ならば三井寺・山門等仏法たるべし、又多人数仏法ならば市町皆仏法なるべし、智慧才覚が仏法ならば天台宗等に若干の智者あり是れ又仏法に非るなり、仍って信心無二して筋目を違へず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなりと已上。

■信心無二して筋目を違へず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなり
創価学会などこの御指南に全く反しているが故に、「広宣流布している」などとは天地が逆さになっても言えない。

■『日達上人全集』
    「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」(二―六―二九五n)
まさにこの御指南の通り、創価学会などが広めているものは人を、家庭を、地域を、国を、世界を地獄に突き落とすニセ本尊・魔・鬼の類であって、決して「広宣流布」などとは呼べないのである。