痴犬へ鉄槌 92  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 618()004059 p3213-ipbf12yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

もはや完全に絶句状態、フェイクの転載しか能がなくなった痴犬。
常勝関西男恥部の面目丸潰れ。
ではあるが、当方の掲示板へ吐き垂れていった”汚物”の処理はしないとね。
暇を見ては徐々に「清掃」していきますかね。

> DATE:  5月 3日(水)09時26分28秒
> TITLE: 馬鹿狸にテッチュイ〜ンA
> NAME: エロ如68号  MAIL:
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> ▼(日顕宗の言い逃れ)
> 御書は外用で、御法主上人の内証が根本。義によって文を判ずる、依義判文ということが分かっていない学会は邪義である。

> ▼(マサシくん云く)
> 真の「依義判文」とは、唯授一人・血脈相承の御相伝に於いて、全ての御文を判じていくことを言うのである。
> ▼宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。
> →当該御文(「此の経は・・・」)は、一往、権実相対についての御文であるが、再往、下種仏法の立場でいえば、文底下種仏法の深意は「相伝」(唯授一人の血脈)によらなければ「知り難」いということである。
> 「正依」たる日寛上人の「遺文」にも、このように法華経(御書)の依義判文は、唯授一人の血脈によらなければ分からないと誡められているのである。
> その意味では、歴代上人の御指南は皆、正依と同様に扱われるべきである。
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> ■問ふ、諸経の如きは或は菩薩の為、或は人天の為、或は声聞縁覚の為、機に随ひて法門もかわり益もかわる。此の経は何なる人の為ぞや。答ふ、此の経は相伝に有らざれば知り難し。悪人善人・有智無智・有戒無戒・男子女人・四衆八部、総じて十界の衆生の為なり。
>
> ●さすが馬鹿狸くん誤魔化しのお上手な事で これは「一代聖教大意」(御書全集398頁)の中に書かれてある御文だがこの御文の「この経」とは、五重の相対で言うと何相対の「経」になるかが全く分かっていないアンポンタンなりね。
> 教学力の無さや、この御文証の前後を全く読んでいないことが分かる。
>
> これは「実経」以前の「諸経」に対する「法華経」ですから権実相対の経。つまり「釈迦の法華経」を指している。
> ですから正しい意味は、天台家の五時八経等の相伝に依らなければ、この「法華経」が末法の衆生の為に説かれたことを知ることは難しい、と言われているに過ぎないんだよ。
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●まことに今更言うまでもないが法門未熟である。
が故にとうとう反論不能状態となった痴犬らしい。

1、佐前の御文は佐後、就中三秘御顕示より開会して拝するのである。

2、痴犬は一往・再往の読み方すら知らないのである。
一往、付文の辺では、権実相対に即して仰せの如くであるが、再往、元意の辺を拝すれば、まさに「此の経」とは「法華経=戒壇の大御本尊」と開会するのであり、その「法華経の深意=三大秘法=戒壇の大御本尊」は「相伝に有らざれば知り難し」なのである。
しかして、この「相伝」に内証深秘の法体相承があってこそ「法華経の相伝」の全体が有り得るのである。
日淳上人が
■「その相承に師資相承、経巻相承之れに内証相承、外用相承があって此れ等の相承が具はって完全に相承の義が成り立つのである。」
と仰せの如くである。
因みに相承=相伝であることは言うまでもない。
痴犬は一往・付文の辺にのみ捉われて、再往・開会された元意の辺が読めない、ただそれだけのことである。
目が開いてないのに、景色の是々非々を論ずることはできないのである。

3、痴犬の読み方が「全然ダメ!」である証拠は、
御文に■「此の経は何なる人の為ぞや」→「総じて十界の衆生の為なり」とあり、
「此の経」を単純に権実相対の辺の▼「「釈迦の法華経」を指している」と読むと、末法今時で「釈迦の法華経」が「十界の衆生の為」に必要であることになり、■「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし。」との御指南に背く、まさに邪宗日蓮宗並の邪義である。
随宜論の一部読誦どころの騒ぎではない。
まず自分の目の上の塵を払ってから、御歴代上人へものを言い給え。呵々

4、依義判文抄
■撰時抄の上に曰く「仏の滅後に迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・天台・伝教の未だ弘通しましまさぬ最大深秘の大法、経文の面に顕然なり。此の深法今末法の始め後五百歳に一閻浮提に広宣流布す」等云々。

 問う、夫れ正像未弘の大法、末法流布の正体、本門の三大秘法とは、一代諸経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、寿量品の中には但文底秘沈の大法なり。宗祖何ぞ「最大深秘の大法、経文の面に顕然なり」と言たもうや。

 答う、一代諸経は浅きより深きに至り、次第に之れを判ずれば実に所問の如し。若し此の経の謂れを知って立ち還って之れを見る則んば、爾前の諸経すら尚本地の本法を詮せずということ莫し。何に況んや今経の迹本二門をや。天台大師の玄文の第九に「皆本地の実因実果、種々の本法を用て諸の衆生の為に而も仏事を作す」と云うは是れなり。故に知んぬ、文底の義に依って今経の文を判ずるに三大秘法宛も日月の如し。故に「経文の面に顕然なり」と云うなり。

問う、此の経の謂れを知るとは其の謂れ如何。
 答う、宗祖の云わく「此の経は相伝に非ざれば知り難し」等云々。三重秘伝云々。」

と「此の経は相伝に非ざれば知り難し」との御文を引文され、「此の経の謂れを知る」とは法華経・本門寿量品・文底深秘の三大秘法へ至る三重秘伝の相伝のことを指しておられる。

このことを日達上人は更に分かりやすくこう仰せである。

■『日達上人全集』
    「信心といい、血脈といい、法水というところの法水は、どこから出てくるかということがもっとも大切であります。それは、我が日蓮正宗においては日蓮大聖人のご当体たる本門戒壇の大御本尊であります。ゆえに、大聖人の仏法を相伝しなければ、大聖人の仏法の法水は流れないのであります。大聖人は『一代聖教大意』に『此の経は相伝に有らざれば知り難し』と申されております。また日寛上人は『口伝にあらざれば知り難し、師資相承故あるかな』と申されております。師資相承とは師より弟子に相承することであります」(二―五―五九二n)

痴犬の邪難など、全く浅すぎる。幼稚・稚拙である。
もう少し勉強しなさい。