痴難→> ところが日寛上人は、末法相応抄で日辰や日精の要法寺のこうした邪義を完璧に破折されている。
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■「広宣流布の時には両尊を造るべきや、答う広布の時と雖も何ぞ之を造立せん」
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(通解:広宣流布の時には釈迦多宝の両尊を造るべきでしょうか。答える、広布の時といえどもどうして釈迦多宝像を造立することがあろうか、造立してはならないのである。)
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●痴犬お得意の切り文である。
この段全文。↓
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■問う、日尊実録に云わく、日興上人仰せに云わく、末法は濁乱なり三類の強敵之れ有り、爾るに木像等の色相荘厳の仏は崇敬憚り有り、香華灯明の供養も称うべからず、広宣流布の時まで大曼荼羅を安置し奉る可しと云云。若し此の文に准ぜば広宣流布の時には両尊等を造る可きや。
答う、広布の時と雖も何んぞ之れを造立せん。故に此の文亦事を三類の強敵等に寄せて広宣流布の時に譲り、而も其の意実には当時の造立を制止するなり。
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であり、まさに随宜論での善巧方便を駆使された後の結論的主張と意を同じくしているのである。
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痴難→> ■「此等の師の意・豈・仏像造立を広布の時に約するに非ずや、答う亦是れ当時の造立を制せんが為に且く事を広布の時に寄するか」
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(通解:三位日順師や日代師らの言っている意味が、どうして仏像造立を広布の時に約する(造立許可)のでないのでしょうか。答える、これは当時の釈迦多宝像の造立を止めさせるために、しばらくの間、その事を広布の時に寄せたのであろう。)
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●この段も誤解を招かないためにも全文掲載する。↓
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■問う、三位日順の心底抄に云わく、戒壇の方面は地形に依る可し、安置の仏像は本尊の図の如し云云。
又日代師日印に酬うる書簡に云わく、仏像造立の事、本門寺建立の時なり、未だ勅許有らず、国主御帰依の時三箇の大事一度に成就せしむべきの由の御本意なり、御本尊の図は其の為めなり、只今仏像造立過無くんば私の戒壇又建立せらる可く候か云云。此等の師の意豈仏像造立を広布の時に約するに非ずや。
答う、亦是れ当時の造立を制せんが為めに且く事を広布の時に寄するか。
応に知るべし、開山上人御弟子衆に対するの日仍お容預進退有り、是れ宗門最初の故に宜しく信者を将護すべき故なり。
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ここも、また前段と同様、随宜論での善巧方便を駆使された後の結論的主張と意を同じくしているのである。
しかも末法相応抄の冒頭には斯く↓あり、日寛上人よりやや前時代である日精上人に時代を含め、「吾(大石寺門流)に於て害無き」と仰せなのである。
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■客の曰わく、永禄の初め洛陽の辰、造読論を述べ専ら当流を難ず、爾来百有六十年なり、而して後門葉の学者四に蔓り其の間一人も之れに酬いざるは何んぞや。予謂えらく、当家の書生の彼の難を見ること闇中の礫の一も中ることを得ざるが如く、吾に於て害無きが故に酬ひざるか。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻138頁)
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『末法相応抄』は日辰の造読義を破折するための書である。
これまでに宗内において完全な破折がなかったのは「吾に於て害無きが故に酬ひざるか」と仰せである。
つまり、"これまでは宗内に、日辰の義による害がなかった"とされている。
「随宜論」をいかに痴犬でもが「造仏容認」と邪難しようが、「造仏。一部読誦について日辰の思想による悪影響がなかった」と日寛上人が仰せなのであるから、その善巧方便の意は、広く宗内に理解されていたということである。
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■客の曰わく、設い中らずと雖も而も亦遠からず、恐らくは後生の中に惑も生ずる者無きに非ず那んぞ之れを詳らかにして幼稚の資と為さざるや。二三子も亦復辞を同じうす。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻138頁)
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「後生の中に惑も生ずる者無きに非ず」とあるとおり、これまでは、日辰の義が宗内に害をもたらすことはなかったが、後の世のために書き残されたのが『末法相応抄』なのである。
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『随宜論』の善巧方便の部分の文義がそのままでは正義でないことは当然である。
だからこそ第31世日因上人も第59世日亨上人も、文面に表れた"邪義"を単純に破折されたのである。
しかし、繰り返すが当時の時代状況は、現代の安逸な政治形態での信仰生活を享受する我々には想像を絶する複雑さが存したのである。
日精上人は、当時要法寺との交流によって、大石寺の化儀に暗い要法寺系信徒の指導に苦慮された。
とくに敬台院は徳川家康の曾孫という大檀那であり、しかも要法寺出身でありながら大石寺への強い信仰心を有していたが故に、その善導に四悉檀を駆使された。
つまり、日精上人は"現場の責任者"として、信徒の善導と謗法厳戒の両立という困難な問題に直面し、その解決のための"苦肉の策"を模索されたと思われる。
また、檀家が寺から離れるのを禁じられた(寺請制度)のは、寛永15(1638)年頃である。
つまり、随宜論が出された寛永10年はその前夜である。
幕府が"自讃毀他"を禁止することに意思決定する時代状況にあった。
故に、謗法厳戒、破邪顕正を旨とする宗門は、他宗から"自讃毀他の宗門"として幕府に讒言される危険性は既に始まっていたと考えられる。
自讃毀他を禁止しようとする幕府の政策方向と、大石寺の折伏、大石寺の折伏を憎む邪宗の画策、化儀に暗い要法寺系信徒の善導、このような事情が複合的に絡み合っていたのが「随宜論」の時代背景である。
当然、表面きっての大上段に振りかぶった邪義破折が出来かねる厳しい状況であったわけである。
しかし、 第26世日寛上人は第17世日精上人と同時代の方であり、日寛上人が入信・出家を決められたのは日精上人の御説法聴聞が契機であった。
そのような日寛上人であれば当然、当時の状況を直接見聞されていたはずであり、法詔寺の造仏の経緯、それにともなう混乱、その混乱を歴代上人がいかに収拾されたかなどについては、現代の我々が乏しい文献から類推する以上に詳しく真実を御存知だったはずである。
では日寛上人の御指南から当時の造仏についての意義付けを見ていこう。
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■問う、日辰が記に云わく、唱法華題目抄に云わく、本尊は法華経八巻一巻或は題目を書きて本尊と定むべし、又堪えたらん人は釈迦・多宝を法華経の左右に書き作り立て奉るべし、又堪えたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をも書き造り奉るべし已上、此文の意は両尊四菩薩を法華経の左右に或は書き或は作り立て奉るべしと見えたり云々此義如何、
答う、此れは是れ佐渡已前文応元年の所述なり、故に題目を以って仍お或義と為す、本化の名目未だ曾って之れを出ださず、豈仏の爾前経に異ならんや。日辰若し此の文に依って本尊を造立せば須く本化を除くべし、何んぞ恣に四大菩薩を添加するや云云。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻158頁)
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問いの中味は造仏論であるが、中央の本尊が法華経または題目の場合である。
これについては「釈迦・多宝を法華経の左右に書き作り立て奉る」ことを否定されていない。
「豈仏の爾前経に異ならんや」とは、『唱法華題目抄』が所謂佐渡已前の御書だからである。
また、釈迦・多宝を脇士とすることを容認しつつも「本化を除くべし、何んぞ恣に四大菩薩を添加するや」と言われたのは、『唱法華題目抄』には「釈迦如来・多宝仏」「十方の諸仏・普賢菩薩等」とあって「四大菩薩」の名がないから、御文に忠実であるべきであるとされたのである。
そもそも『末法相応抄』の趣旨は本尊としての仏像を否定・破折するところにある。
だから、必ずしも正義ではないが中央に法華経(曼荼羅)を安置した場合の釈迦・多宝添加を一往容認されたのであろう。
このことと、■「吾に於て害無きが故に酬ひざるか」の語を考え合わせるとき、法詔寺の奉安形式もまた、中央本尊が曼荼羅であったことが分かるのである。
尚、『末法相応抄』には別の箇所においても「釈迦・多宝を作る可し」との問を構えられ、これを否定されている。
その理由は問の文証が『観心本尊抄』の曼荼羅の相貌を示す部分であったからである。
すなわち曼荼羅の中に「釈迦・多宝」が認められていることを示した文証をもって「釈迦・多宝を作る可し」としたことへの破折である。
だから曼荼羅の脇士に釈迦・多宝を安置することを示した上記の問とは異なるものである。
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■問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、
答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし(『唱法華題目抄』)
■開山上人御弟子衆に対するの日仍容預進退有り是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻177頁)
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日寛上人は大聖人・日興上人時代の造仏については「是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり」と容認されている。
その趣旨からいえば、「宗門最初」とはいえない日精上人の時代に仏像を本尊とすることは許されないであろう。
しかし、法詔寺の仏像は本尊としてではなく曼荼羅本尊の脇士として安置されていたのである。
その意味では、大聖人・日興上人時代の造仏容認とは次元が異なることを知るべきであろう。
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『当流行事抄』
■開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し、故に朝暮の勤行は但両品に限るなり(第26世日寛上人『当流行事抄』/『富士宗学要集』第3巻211頁)
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「四百余年全く蓮師の如し」とあるから当然、日精上人の時代も含まれる。
「開山已来」の「化儀」に造仏の有無、一部読誦の有無等が含まれることは当然である。
ここに、日寛上人は明確に日精上人の化儀・化法を全面的に肯定されているのである。
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『文底秘沈抄』
■而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し(『六巻抄』65頁)
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第26世日寛上人に至るまで血脈法水は清浄に相伝されていることを教示されている。
この清浄の法水を継承された御歴代上人の中に日精上人が在しますことは当然である。
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【日精上人に対する日寛上人の尊崇】
総本山久成坊、寂日坊の常住御本尊はともに日精上人お認めの御本尊を日寛上人が板御本尊に造立し、開眼遊ばされている。
久成坊の御本尊造立は亨保6年4月、寂日坊の御本尊造立は亨保7年5月のことであり、その時期は日寛上人が一度御退座されて日養上人が総本山の御当職であられた。
にもかかわらず、御隠尊の日寛上人が日精上人お認めの御本尊を自ら造立・開眼なされたことは、発心の師であり、功績莫大な日精上人に対して深く尊崇遊ばされていたことを示すものである。
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因みに、法門のイロハに暗い、痴犬どもに教えておきましょう。
―「方便」と「邪義」の違い―
同じ論であっても、日辰の場合は本心から述べたものであり謗法である。
他方『随宜論』は、日精上人が方便のために一時的・例外的に用いた義に過ぎない。
もし、『随宜論』を著したことを謗法というのであれば、日興上人の造仏容認も、大聖人の仏像開眼も、釈尊が爾前権経を説いたことも謗法になってしまう道理になる。
しかも日興上人の造仏容認や大聖人の仏像開眼は、実際に一時的化儀として広く行われたものである。
それに対して『随宜論』は本尊としての造仏を広布達成の時のこととして、婉曲的ではあるが制止されているのである。
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痴難→> ●このような明らかな邪義を唱えていた日精を弁護した日蓮正宗宗務院は、学会壮年部への反論文書を宗門機関誌大日蓮に掲載して、
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「これ(日精が最初は釈迦像建立や法華経一部読誦の邪義を実践していたという宗門の見解)は誤りであったので、日精上人は御登座以前から当家の正義に立たれていた、と訂正する。」と日精が一切誤りがなかったと開き直った上で、
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「要するに未来の本門寺建立の時に仏像を建立するのが正しいと言われているのである。すなわち、未来造像に寄せての、現在制止に本意があると拝せられる。」
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と、いよいよ日蓮正宗宗務院は、要法寺の邪義を受け入れることを全国に宣言してしまった。こうして学会員に責められて、日顕宗は着々と邪宗教としての姿を確かなものにしてきた。
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●以上詳細に論証してきたことで明確であるが、痴犬の邪難は悉く不可である。
いよいよ、顔を洗って出直して来な。である。が、もうその気力も知力も体力も能力も・・失せ果てたか。呵々
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