痴犬へ鉄槌 9  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 419()151621 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> DATE:  4月15日(土)16時42分47秒
> TITLE: 法主中毒マサシくんにテッチュイ!
> NAME: エロ如68号  MAIL:
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> (三宝論)
>
> 当方> ▼凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。
>>
>> まさにこの御文の如く、御僧侶である御法主上人を謗っているのであるからそれは”謗僧”であり、池田大作は”謗法”者である。
>
痴犬> ●三宝一体の三宝に全ての法主を君は入れるというのか?だから三宝破壊の日顕宗なので ある!
>
当方> ▼まったく理解力が無いというか、学習効果が挙がらない愚鈍というか・・・まあ、要するに、やはり、機根未熟というより、機根汚濁なのであろう。
> まず、三宝一体と一体三宝の違いすら分かっていないようだ。
> 莫迦相手にこれ以上くどく講義しても理解できないようだから、少し理解能力を試してみようか。
> 三宝一体の意味と
> 一体三宝の意味を
> その違いを明確に説明してみよ。
>
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痴犬> ●なにを訳のわからぬ質問しているんだい?
>  三宝論について理解力が無く逸脱しているのは君ではないか

●自分で考える力が無い痴犬はただ松岡某という脱落僧の駄文をただコピペをしているだけの能無しである。とまず呵責しておこう。
以下の駄文は全て松岡某の堕論である。

▼『大石寺門流の三宝論は日寛上人が確立したもので、「当流行事抄」に「久遠元初の三宝」として論じられ、「久遠元初の仏宝」は「蓮祖大聖人」、「久遠元初の法宝」は「本門の大本尊」、「久遠元初の僧宝」は「開山上人」、と規定されている。
そしてこの久遠元初の三宝は、末法今日に出現して衆生を利益する。
すなわち日寛上人はは、法華経本門の説相から導かれる「 在世の三宝」と区別すべき「末法出現の三宝」「末法下種の三宝」として、久遠元初自 受用身即日蓮(仏宝)・戒壇本尊(法宝)・血脈付法の二祖・日興(僧宝)の三を立てている。』

●まず、「大石寺門流の三宝論は日寛上人が確立したもの」との、この前提が全くの己義である。
さもなくば、古文を読めない学習能力不足の愚か者である。(これは痴犬のみならず松岡脱落僧にも共通している破折である。)
痴犬に宿題しておいた↓に対しての反論はまだか?
大聖人の御法門において、三宝の御義は顕されておられる。
http://toyoda.tv/tciken15.htm
↑から抜粋し若干の編集を加え再掲する。
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●痴犬には御書の御心が読めないのである。

■「次に僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云はく「五箇の五百歳の後に、無智無戒なる沙門を失ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明を滅せんと思へ」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。されば三宝の恩を報じ給ふべし。古の聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等、此等は皆我が身を鬼のうちがひとなし、身の血髄をうり、臂をたき、頭を捨て給ひき。然るに末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。」

1、四恩を報ずべきことを仰せになられた御文の中で、仏宝・法宝を並び列せられる文脈の中で、「僧の恩」との仰せであるから、当然「僧宝」についての御指南と拝するのである。

大聖人が三宝の大事について御指南の御書は類文繁多である。

■「地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事を閣いて三宝を供養し、後世菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし。無益の事には財宝をつくすにおしからず。仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事、これたゞごとにあらず、地獄の使ひのきをふものなり。寸善尺魔と申すは是なり。」

■「今御覧ぜよ。法華経誹謗の科と云ひ、日蓮をいやしみし罰と申し、経と仏と僧との三宝誹謗の大科によて、現生には此の国に修羅道を移し、後生には無間地獄へ行き給ふべし。」

■今身より仏身に至るまで、爾前の謗三宝罪を捨て、法華寿量品の久遠の不謗三宝戒を持つや不や、持つと 三返 。

■銭六貫文の内 一貫次郎よりの分 、白厚綿の小袖一領、四季にわたりて財を三宝に供養し給ふ。いづれもいづれも功徳にならざるはなし。

■邪見なれば三宝にもすてられたり。

■設ひ科有る者も三宝を信ぜば大難を脱れんか。

■此の功徳は定んで上は三宝より下梵天・帝釈・日月までもしろしめしぬらん。

■仏教の四恩とは、一には父母の恩を報ぜよ、二には国主の恩を報ぜよ、三には一切衆生の恩を報ぜよ、四には三宝の恩を報ぜよ。

■梵網経疏に云はく「第十に謗三宝戒。亦は謗菩薩戒と云ひ、或は邪見と云ふ。謗は是乖背の名なり。絓は是解、理に称はず。言は実に当たらずして異解して説く者を皆名づけて謗と為すなり」文。

2、仏宝・法宝は「僧」によって、永遠に存在できる。⇒「僧」がいなければ、存在し得ない。
痴犬は日興上人のみを「僧」と立てる。それでは日興上人御遷化の後は、仏宝・法宝は断絶するということになる。大矛盾である。
痴犬なるが故に、こういう当たり前な道理が分からないのである。

3、その道理は、譬えで更に明確である。
@火=仏宝・法宝 は 薪=僧宝 があるからはじめて存在し得るのである。
火は何も無いところで、空中でいきなり燃えることはない。
言い換えれば、薪=僧宝 がおわさなければ、火=仏宝・法宝は存在し得ないのである。
であるから、例えば、「歴代の何々上人は僧宝ではない。」などという馬鹿者は、「仏宝・法宝も消えた。」と言っているに等しい愚かさなのである。
ここの意を「三宝一体」と言うのである。
だから、如何なる理由があれ「僧宝」であられる歴代上人を謗ることは「仏法の大灯明を滅する行為」であり、まさに「謗法」なのである。

A次の譬えでも更に更に明確である。
大地=僧宝 がなければ 草木=仏宝・法宝 も存在し得ない。まさに道理である。
■仏法と申すは道理なり 道理が分からない者を 癡(おろか)というのである。
ニセ本尊を拝んでる者は、この「癡」が増して、道理が全く分からなくなるのである。だから人間の皮かぶった畜生以下であるから、痴犬 と呼ぶのである。

4、であるから、末法今時に、「無智無戒なる沙門(=御歴代上人・更には御法主上人に連なる御尊師等)を失ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明を滅」する大謗法行為である。

5、こういう道理が、痴犬のように見えなくなる者が多いから、「僧の恩を報じ難し」なのである。

6、そういう三宝一体義を分からず、僧宝を謗ればそれがそのまま仏宝・法宝を滅することになることも分からず、痴論を喚く痴犬どもがあまりに多いので、「末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。」との如く、成仏など思いの外、堕獄必定とお嘆きであり、お叱りなされているのである。
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大聖人・日興上人・日有上人等の三宝の意義についての御指南は次に。