痴犬→> ●釈迦像を建立し、生涯邪義を唱えた法主17世日精の邪義などが正依であるとはチャンチャラ可笑しい。阿保満開!
>
> 既に述べたとおり、歴代の言葉が正依ならば、あちこちの末寺に釈迦像や四菩薩像を建立した造仏読誦の謗法法主・第17世日精の書き残した言葉である※1「随宜論」や「日蓮聖人年譜」に書かれた「釈迦像・四菩薩像は広布の時に勅許を受けて一気に建立するのだ」とか「法華経一部読誦は正しい助行の実践だ」等という邪義も、日蓮正宗の正依だとでも言うんかい?
> 日精の書いた「家中抄」などは、堀上人が100カ所以上その誤りを天註で指摘し、その中には「本師造読家の故に誇大せるが如し惑ふなかれ」(富要5−176)
> (通解:日精は造読家だから誇大に表現しているようである。惑わされてはならない。)
> のように、明らかに日精の主張を邪義として破折した箇所がたくさんある。
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●また随分と使い古された邪難を持ち出すじゃないですか。
ほんと、京都辺りはテンポがのろいね。
今時こんなこと言っていると笑われるよ。
んじゃ、頭の回転ののろい痴犬へ細かく教えてあげましょうか。
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※1 ではまず「随宜論」の総論から。
「随宜論」は寛永10年の書である。
続家中抄には、日精上人が第16世日就上人より御相承を受けられたのは寛永9年であるが、御当座されたのは寛永14年とある。(この説は日亨上人も用いられている)
つまり随宜論は御当座以前の書である。
しかも、第14世日主上人時代から、大石寺と要法寺との通用が始まり、大石寺門下へ要法寺信徒が流入してきた時代である。
元要法寺信徒の中には釈尊像への執着が深い信徒達も相当数居た事は十分に推定できる。
その中での善巧方便による善導の意を含む書であることを汲み取らなくてはならない。
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■『随宜論』の目的と曼荼羅正意
<要法寺系の考え>
・久成釈尊造立は広布達成後が基本であるが、広布達成前であっても本尊としての造仏は許される
<大石寺系の考え>
・広布達成前であろうと後であろうと、仏像の安置自体が謗法
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<『随宜論』等による方便の善導>
・本尊としての造仏は広布達成後、現在は曼荼羅正意である。ただし、強執の徒のためには脇士としての造仏も止む無し
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詳細注釈
【要法寺の思想】
◆『末法相応抄』内の日辰の義↓
「真間供養抄三十七に云わく、釈迦御造仏の御事無始昿劫より已来未だ顕われ有さぬ己心の一念三千の仏を造り顕わし在すか、馳せ参りて拝み進らせ候わばや、欲令衆生開仏知見乃至我実成仏已来は是れなり云云 又四条金吾釈迦仏供養抄二十八に云わく、御日記の中に釈迦仏の木像一体と云々、乃至此の仏は生身の仏にて御座候へ云云。 又日眼女釈迦仏供養抄に云わく、三界の主教主釈尊一体三寸の木像之れを造立し奉る、檀那日眼女、現在には日々月々大小の難を払い、後生には必ず仏と成る可し云云(『富士宗学要集』第3巻158頁〜)
◆『末法相応抄』内の日辰の義↓
若し一機一縁ならば何んぞ真間・金吾・日眼の三人有るや。次ぎに継子一旦の寵愛とは宗祖所持の立像の釈尊なり、何んぞ当宗の本尊に同じからんや。(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻159頁)
◆興師の御筆の中に造仏制止の文全く之れ無き所なり云云(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻176頁)
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広蔵日辰は、大聖人が信徒に対し、「釈迦御造仏」を容認されていたことを盛んに挙げ、「興師の御筆の中に造仏制止の文全く之れ無き所なり」と述べている。このことからも日辰が広布達成前の本尊としての造仏を肯定していたことが分かる。
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◆日辰から第13世日院上人への状
尊師の内証を推するに造仏読誦は且は経釈書判の亀鏡に依憑し且は衆生済度の善巧を施設するか、願くは憐愍(れんみん)を垂れ通用の御一札を賜はば本末の芳契慈尊の暁に及ばん者なり(『富士宗学要集』第9巻64頁)
●第13世日院上人から日辰への返答
本因妙日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなり照り光の仏は迹門能説の教主なれば迹機の熟脱二法計り説き給ふなり(『富士宗学要集』第9巻65頁)
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この日辰と第13世日主上人との往還をみれば、日辰は日尊の造仏などについて擁護し、日院上人に「願くは憐愍(れんみん)を垂れ」と理解を求めている。その上で大石寺との「通用」を求めている。これに対して日院上人は「照り光の仏は迹門能説の教主」として破折されている。このことから、日辰は色相荘厳の仏に執着し、これを造立礼拝していたことが分かる。
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◆広蔵院日辰が貫首となる頃には、釈迦仏像を本尊とし、一部読誦(法華経一部八巻二十八品を全て読誦する修行)を行なうなど、大石寺と異なる教えも混在するようになったのである。
当然、法詔寺等の中の要法寺系信徒の中にも、本尊としての仏像に執着していた者がいたことは容易に推定できる。
日寛上人が『末法相応抄』において、日辰の造読義に限って破折されたのも、そのような背景事情があったものと推測される。
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【方便の義『随宜論』】
<広布達成前は曼陀羅正意>
『随宜論』から
◆日代上人の御書に云く、仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケの大事一度に成就せしめ給ふ可きの由御本意なり。御本尊の図は其の為なり文。此の文実録の内に興師の御義に符合す、然らば富山の立義は造らずして戒壇の勅許を待ちて而して後に三ケの大事一度に成就為す可きなり。(第17世日精上人『随宜論』)
◆日尊の本門寺建立の時に先きんじて仏像を造立して給ふは一箇の相違なり。(「相違」=正義に違うということ。)
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<本門寺には仏像(久成釈尊)を安置>
◆本堂には本尊の如く仏像を安置す可し。祖師堂には日蓮聖人の御影、垂迹堂には天照八幡尊像之有る可し。其の上戒壇堂を建立し、中に法華経一部を納め戒壇を築き板本尊を安置し奉る
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御当座前の日精上人は、『随宜論』において、釈尊像に執着する本尊としての造仏は広布達成後のこととして、これを制止されたのである。
しかも、以下の末文
■右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す、茲に因って門徒の真俗疑難を到す故に朦霧を散ぜんが為に廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり。 寛永十戊年霜月吉旦
から考えられることは、
1、法詔寺建立の願主は元要法寺信徒であった敬台院殿である。
2、建立当時(元和9年。御当座の寛永14年より15年前)は造仏はなかった。
3、御本尊がなく落慶法要が為されるはずもなく、その時は当然板曼荼羅本尊が本堂の御本尊であったと推定できる。
4、落慶1年後の造仏である。→願主敬台院殿の強い要望によって後から造立された可能性が濃厚である。
5、寛永8・9年から10年ごろまでに、造仏に対する疑問・非難が挙がったことが推測される。
6、日精上人は自ら造仏したわけではないが、敬台院殿を庇護されて「予法詔寺建立の翌年仏像を造立す」と仰せである。
7、造仏への執着が未だ残る要法寺からの僧俗群と、生粋の大石寺信仰の僧俗群とが混在していた複雑な時代状況の中で、大きく全ての僧俗を包み込んで善導するために用いられた善巧方便としての書が『随宜論』なのである。
細論はまた。
痴犬、楽しみに待っていてね。
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