痴犬へ鉄槌 82  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 6 7()160329 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

さて、悪吐屁君反論不能で「口が鼻の如し」であるから、久しぶりに京都の痴犬の破折といきますか。

> DATE:  5月 3日(水)08時09分9秒
> TITLE: 馬鹿狸にテッチュイ〜ン@
> NAME: エロ如68号  MAIL:
>
痴犬→> 馬鹿狸も人にコピペ、コピペというわりにはコピペやのぅ〜
> ↓
●久しぶりに読むと、本当に心底バカ犬ですね。
これは↓日顕上人の御指南であって、痴犬が引用する、どこいらの、邪難考案者の類のバカ犬の兄貴分とは全く立場が違うのである。
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> ▼「宗規」において、日興上人は別格として、御歴代上人中、日有上人と日寛上人のお二方の遺文のみを挙げているのは、一つには両上人の輝かしい御事跡、それから宗門において中興の祖として尊崇されるお立場から、その代表としておられるわけであります。
> したがって、本質的な意義の上から、日寛上人以後の御歴代においても、このことはまったく変わるものではありません。
> 大聖人以来、唯授一人の血脈を師弟相対して相伝し、末法万年に正法を伝持・弘通する歴代上人の御指南ならびに著作はすべて、基本的に正依となることは当然です。
> その証拠に、また、「宗規」第15条の5には、法主である管長の宗務として、
> 「教義に関し正否を裁定する。」
> と、唯授一人の血脈の意義において明確に」規定しておるのであります。
> ただ、それを「宗制宗規」の「正依」の所においては、代表してこのお二方を挙げておるというだけのことであります。
> (『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)
>
> 「宗規」第15条の5
> ▼(※法主は)教義に関し正否を裁定する。
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●以下長々とその邪難製作班の兄貴分の文を引用しているが、かったるいが少々お付き合いしますか。
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> ●↑これは極めて御粗末な誤魔化しである。
>  宗規は第1章に「宗綱(宗義の根本)」が定められています。この宗綱とは、たとえ管長(大石寺の事務上の責任者)と雖も守らねばならないものであることは当然なんだよ。「依法不依人」という仏法の大原則に照らせば、不文律として、あるいは憲法のように、より上位の法に位置しているのである。
>  この「宗綱(宗義の根本)」に基づいた教義の下で、第2章に「宗務規程」として宗門の事務管理上の規定が定められ、その第1節が管長の職務を定めた「第1節 管長」の規程なんだわ。
>  まさか、この宗教法人の事務管理上の規定を根拠にヌケガラ顕ちゃんの言葉が正依などという主張は不可能なんだよ。日蓮正宗の教義については、明確に第1章に定められているのだから、日蓮正宗という宗教法人の組織内においてのみ、管長は「宗綱」に定める「正依」に則って正しく裁定しなければならない裁判官のような役目を与えられているということなんだよ。
>  その証拠に、第15条本文には、「但し、本宗の宗規に規定する事項に関してはその規定による手続きを経なければならない」と、管長が勝手に教義を変えることが出来ないようになっているんだよ

> 正依について↓
> 宗規第1章に宗綱(宗義の根本)を定めているが、その第5条第2項には、「経釈章疏の所依」という表現で教義として採用する文証を定めている。その中でも根本とする文証である「正依(しょうえ=正しい依文)」として、法華経開結とともに「宗祖遺文」(御書)が挙げられている。
>  この「正依」について更に詳しく説明すれば、宗規では続けて「日興上人、日有上人、日寛上人遺文」が定められている。
> このことは、大聖人の御金言(御書)が根本で、その大聖人の言葉どおりに口伝を書き残し、法を伝えた日興上人(僧宝の中でも信仰の対象である「久遠元初の僧宝」)の言葉も正依、また、徹底して御書に基づき依義判文(えぎはんもん)して日蓮宗の他山の邪義を打ち破り、現在の日蓮正宗の教学を体系化した日寛上人の言葉も化法のうえでの正依とする。
>  したがって、日蓮正宗の教義とは、正確には「宗規第5条第2項に定める正依」のことになる。この正依に基づいて、宗規第2条から第5条第1項に定めるような「宗旨の三箇」等も定まり、三宝も明らかになる。
>  教義上の正邪を論じる際には、この正依によるものでなければ、それがたとえ法主の主張であっても、全く耳を傾ける必要はありまへん。なぜなら、歴代法主の言葉は正依ではないので、正依に背く法主の言葉は御書等の正依に基づいて誤りが明らかになるんですわ。
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●はい、ではその
「宗規」第2条に
●「日興上人が弘安5年9月及び10月に総別の付嘱状により血脈を相承して三祖日目上人、日道上人、日行上人と順次に伝えて現法主に至る。」
とある。
これは、唯授一人・血脈相承の規定と定義だが、痴犬はこれに素直に従わないのか?
「正依」との規定に拘泥するのならば、同等にこの「規定」も遵守すべきではないか?
この宗規第2条に従うのならば、現御法主上人に信を取る事、当然である。

■    日蓮一期弘法付嘱書   弘安五年九月  六一歳
 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
  弘安五年=壬午=九月 日                       日  蓮 花 押
                              血脈の次第 日蓮日興
■    身延山付嘱書   弘安五年一〇月一三日  六一歳
 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。
  弘安五年=壬午=十月十三日                  武州 池上
                                     日  蓮 花 押

この血脈相承を受けたる御方に背逆するものは、「背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。」であり、宗祖のお怒りを現身に、そして未来永劫に受けるのである。

この血脈相承の御大事は「正依」である日寛上人の御遺文にお示しである。
『文底秘沈抄』
■「答う、延山は本是れ清浄の霊地なり、所以に蓮師に此の言有り。而るに宗祖滅度の後地頭の謗法重畳せり、興師諌暁すれども止めず、蓮祖の御心寧ろ謗法の処に住せんや、故に彼の山を去り遂に富山に移り、倍先師の旧業を継ぎ更に一塵の汚れ有ること無し。而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや、是の故に御心今は富山に住したもうなり」(大石寺版六巻抄六五骰)

これまさに、富士大石寺にのみに存する血脈の伝承の文証ではないか。
痴犬は斯様な明確な古文すら読めないか?もしそうなら、まず古文の勉強からやり直せ。
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更に「正依」である『寿量品談義』には、
■「所詮宗祖大聖人の教の如く少も添ず削らず修行する則んば、本因の釈迦菩薩一迷先達して如百迷盲に教へ玉ふ如くぞと信じ奉る可き也。具に此の本因本果の法門を尋んと欲ば、今廿四代伝て大石の精舎にあり金口の御相承切紙相承其の外種々の御相伝有るげにありと云云」(富士宗学要集一〇−二五四骰)
と示されている。

そして『撰時抄愚記』には
●若し文底の謂れを知れば熟脱も即ちこれ文底の秘法なり(乃至)問う、若し爾らばその謂は如何。答う、宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。

と明らかにお示しであり、当該御文(「此の経は・・・」)は、一往、権実相対についての御文であるが、再往、下種仏法の立場でいえば、文底下種仏法の深意は「相伝」(唯授一人の血脈)によらなければ「知り難」いということである。
「正依」たる日寛上人の「遺文」にも、このように法華経(御書)の依義判文は、唯授一人の血脈によらなければ分からないと誡められているのである。
その意味では、歴代上人の御指南は皆、正依と同様に扱われるべきである。

痴犬が言う(・・実は別の狡狐の邪難を借用してきた文)ような血脈否定からくる歴代上人の御指南否定の邪義は、まさに日寛上人が否定あそばすところなのである。
痴犬、顔を洗って出直してきな。である。