痴犬へ鉄槌 70  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 519()125435 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

痴犬( IP=p8118-adsao03kyotmi-acca.kyoto.ocn.ne.jp(220.97.91.118)破折。
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痴論→> ■室町時代に十四歳で登座した、いわゆる“稚児(ちご)貫主”の十二世日鎮(にっちん)の時代である。日鎮は下野(いまの栃木県)の有力な一族の出身であると言われ、大石寺の僧俗は※1「日鎮を法主にすることで、その一族からの経済的な支援を期待したのである。」

@※1その文献的証拠を痴犬は正依しか用いないのであるから「正依」から挙げよ。
できなければ(できるはずもないが。呵々)謝罪。脱会。
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痴論→>  だが、十四歳の少年が法義を十分に体得し、宗内を統率することができるわけもなく、

A稚児貫首については既に完摧済み。↓

http://toyoda.tv/chiken.tetsui48.htm
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痴論→ 大石寺側は日有上人の「化儀抄」をまとめた南条日住や、京都・要法寺系から大石寺に流れ込んできた左京日教といった元老を日鎮の世話係に立てた。
>  その世話係の一人・左京日教は、※2「宗内から強い嫉妬や反発を受けていた稚児貫主」

B※2同上。その文献的証拠を痴犬は正依しか用いないのであるから「正依」から挙げよ。
できなければ(できるはずもないが。呵々)謝罪。脱会。
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痴論→ を※3「擁護するため」に、

C※3 またまた同上。その文献的証拠を痴犬は正依しか用いないのであるから「正依」から挙げよ。
できなければ(できるはずもないが。呵々)謝罪。脱会。
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痴論→ 次のような指令を出した。
>  「当代の法主の所に御本尊の躰有るべきなり。此の法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまう故に、生身の聖人に値遇結縁し師弟相対の題目を同声に唱え……当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ」と。つまり、※4「どんなに若くても」、※5「当代の法主こそ日蓮大聖人の生まれ変わりであり、生きた御本尊であるから師弟相対せよ」、というのである。

D●まず、痴論の姑息な欺瞞である、略した部分を全文挙げる。
■「しかるに日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次ギ其の次ギに仏法相属して当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり、此の法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ故に、生身の聖人に値遇結縁して師弟相対の題目を同声に唱へ奉り信心異他なく尋便来帰咸使見之す、何ぞ末代の我等三十二相八十種好の仏に値ひ奉るべき、当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ、」

1、※4などとはどこにも書いていない。痴犬が、先のBCの邪推をゴリ押しせんがために勝手に挿入した佞文である。

2、全文をよく読めば高校生ほど(もちろん劣等性ではだめだが。)の読解力があれば※5などの偏頗な結論にはならない。
仮に、この古文が大学入試に出題されたとして、その現代語訳としての回答が※5であるならば、全く点にならず、(甘くて50点か。呵々。だがどのみち)不合格である。
この御文の意は、「大聖人様の御内証には御「本尊の躰」がおわしまし、それを日興上人を首として歴代法主上人へ次第に唯授一人・血脈相承されて、御当代法主上人の御内証に御「本尊の躰」がおわす。依って御当代法主上人の御内証はまさに生身の日蓮大聖人様であるから、師弟相対した信心に徹するべきである。」と仰せなのである。
痴犬は「外用・内証」 「一往・再往」 等の法門の筋目が見えぬバカだから、こういう深旨微妙の御法門が全く領解できない、ただそれだけである。

3、この文は左京日教師の「類聚翰集私」の中の文であるが、この御文を日寛上人は「抜書雑々集」へそのまま転用されている。
それは内容において重要なるが故であり、まさに痴犬が拘る「正依」である。
痴犬、「正依」には素直に従うのではなかったか?呵々。
さ、この矛盾を万人に分かるように説明せよ。できなければ謝罪・脱会。宜しく。

4、痴犬の拘る「正依」である化儀抄と更に痴犬がよく引文する日亨上人の御指南に、

■化儀抄二十七条(要集一巻六四)
「信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違うべからざるなり、違わずんば血脈法水は違うべからず(中略)出世には師匠の心中を違へざるが血脈法水の直しきなり、高祖已来の信心を違えざる時は我等が色心・妙法蓮華経の色心なり。」
●59『有師化儀抄註解』日亨上人
信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通う有様は・人体に血液の循環する如きものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云うが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにはあらず・攪乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし、爰に強いて絶えずと云はば其は濁りたる乱れたる血脈法水なれば・猶仏法断絶なり、信心の動かざる所には・幾世を経ても正しき血脈系統を有し仏法の血液活溌に運行す、其は世間にて云えば子は親の心に違はす祖先の定めたる家憲を乱さぬが・其家の血統正しきが如く・仏法には師匠の意中に違はぬが血脈の正しき法水の清らかなるものなり、仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも踏み違えぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄の妙法蓮華経の色心となるなり此色心の転換も只偏に淳信篤行の要訣にあり、若し此の要訣を遵奉せずして・不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違う時は・法水の通路徒らに壅塞せられて・我等元の儘の粗凡夫の色心なれば・即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり。(富要一―一七六n)
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化儀抄
■「三世諸仏高祖開山も当住持の所もたげられたる所なる故に・事に仏法の志を高祖開山日目上人受け給ふ姿なり。」1-144
日亨上人 ■本山の住持の当職(末寺も此に准ず)は三世諸仏高祖開山三祖の唯一の代表者なれば・仏祖も殊に現住を敬重し給ふが故に供養の一切の酒を当住持が始らるゝは勿論の事にて・即宗開三祖が自ら受け給ふ姿なり 1-145
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化儀抄
■先師先師は過去して残る所は当住持計なる故なり、住持の見玉ふ処が諸仏聖者の見玉ふ所なり。1-146
日亨上人 ■住持の上人は高開三祖等次第に過去し給へる後の現存者なるを以て・現住即高開三の代表にして・現住の見る(施物を)所は仏聖人の見給ふ処なる故云々 1-146
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『化儀抄』(1-61)
■手続の師匠の所は、三世諸仏高祖以来代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし。また我が弟子も此くの如く我に信を取るべし、此の時何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云ふなり云々
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等々、まさに、今回の該文と同意の御指南がある。
痴犬は「正依」には素直に従うのであろう。ならば、正依の意の通り、御当代御法主上人へ師弟相対し、絶対信をとれ。
できなければそれは自家撞着であり、頭破七分であり、卑怯者であり、臆病者であり、ただの一闡提人である。
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E痴論→>  これが大石寺門流における「法主本仏論」の始まりと言われるが、

1、既述の通り、該文は、また宗門には古来から今まで「法主本仏論」などない。
痴犬が『「外用・内証」 「一往・再往」 等の法門の筋目が見えぬバカだから、こういう深旨微妙の御法門が全く領解できない、ただそれだけである。』

2、既述の通り正依の化儀抄にも同意の御文が多数ある。

3、更に上古から同意の文証は多々存在する。
これも理解できなとすれば痴犬が『「外用・内証」 「一往・再往」 等の法門の筋目が見えぬバカだから、こういう深旨微妙の御法門が全く領解できない、ただそれだけである。』

【百六箇抄】(1702)
■但し直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。

■身延山付嘱書    弘安五年一〇月一三日  六一歳
 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。
  弘安五年壬午十月十三日   武州 池上   日蓮花押 1675

■『御本尊七箇之相承』
「日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。師の曰わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典三七九n)

■『日興遺誡置文』
「衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事」(新編一八八五n)

等々。略。
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痴論→ この左京日教について日顕は登座前の教学部長時代に、「左京日教の文献は本宗では正式に用いてはならない」「この文を使うと貫主本仏論になってしまう」「法主といえども御本尊書写がその役目である」と、さんざん説教していたのである。

●ほう〜〜。当方不勉強であいすまない。ではその文献を全文提示してくれたまえ。
まず、改竄なしのその文献を拝見してから。破折は。
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痴論→>  だが、その日顕が登座するや、「相承を受けた法主は生身の釈迦日蓮」などと、まるっきり正反対のことを言い出すのだから、お笑いである。

●日顕上人の仰せは、内証が三宝一体との意である。
ここも『痴犬が「外用・内証」 「一往・再往」 等の法門の筋目が見えぬバカだから、こういう深旨微妙の御法門が全く領解できない、ただそれだけである。』
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痴論→>  所詮、日顕は「大聖人根本」「御書根本」ではなく「自分根本」だから、このように立場が違うと主張がコロコロ変わるのである。
> こんなホウボウハゲは正依じゃねーよ。

●はい。ここはただの法門が分からぬ幼稚で愚劣・愚昧のバカがいう悪口・雑言であるから取るにも足らぬ。

ただし、この雑言、主語を池田さんに替えればそのまま”永遠の仏法指導者”池田さんに当て嵌まるようである。
痴犬、頭破七分なので錯乱して盲滅法に撃った弾が自分の親分に当たる、の狂態である。呵々大笑。
曰く痴犬の名言。

★『池田センセ〜〜』は「大聖人根本」「御書根本」ではなく「自分根本」だから、このように立場が違うと主張がコロコロ変わるのである。
こんなホウボウ『デブ』は正依じゃねーよ。

重ねて、呵々大笑。