痴犬へ鉄槌 65  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 513()00302 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

痴犬→>  仏子である民衆を「みーちゃん、はーちゃん」と呼んだことで明らかになったものは、顕ちゃんが仏法を信じることが出来ない一闡提ちゅーこっちゃ!。

> 「一闡提とは天竺の語此には不信と翻ず不信とは一切衆生悉有仏性を信ぜざるは一闡提の人と見へたり」(P.455)
> (通解:一闡提とはインドの言葉で、ここでは不信と訳す。不信とは、一切衆生に仏性があることを信じない者は一闡提の人であるということである。)
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●痴犬の、この固着して十数年前から動きが止まった錆頭とまだ付き合うか。

破折文
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学会のあげ足とりをわらう
 創価学会が引用しているこれらのお言葉は、全国教師講習会における日顕上人の御講義の一部分ですが、学会は御講義のなかから日顕上人のイメージダウンにつながりそうな箇所を恣意的に挙げています。
 これらの言葉について、その真意を説明しておきます。
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「あのねー、ミーチャンハーチャンに分かるようにペコペコよ、頭下げて説いていたらよ、本当の法なんか説けやしないんだ」
 ↑これは仏法に無知な者や仏法に背く謗法者に迎合しては、真実の法を説くことができない旨をいわれたものです。
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【文 証】
『一代聖教大意』
    「末代の愚者は法華経は深理にしていみじけれども、我が機に叶はずと云ひて法を挙げ機を下して退する者を釈する文なり」(新編九三n)
『撰時抄』
    「機に随って法を説くと申すは大なる僻見なり」(新編八四六n)
『報恩抄送文』
    「法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ」(新編一〇三七n)
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●「一闡提云々」について。
上記の破折の通り、日顕上人は別に「一切衆生悉有仏性を信じていない」などとは全く仰せではない。
日本語が読めないバカには、こういう簡単な構文すら理解できないようである。

今回からそういうバカがどういう報いを受けて、後生はどういうところへ生まれるのか、検証していこう。
バカにはいい薬になろう。

 一 不可失本心の事
 仰せに云はく、此の本心と云ふは法華経(※戒壇の大御本尊)の信心の事なり。
失と申すは謗法の人(勤行10分、笠貫由美子を孕ませた、などなど、幾つもの”武勇伝”をお持ちの池田せんせ〜〜のこと)にすかされて、法華経(※戒壇の大御本尊)を捨つる心の出来するを云ふなり。
されば天台大師云はく「若し悪友(※池田センセ〜〜)に値へば則ち本心(※戒壇の大御本尊を身・口・意において純真に信仰す心)を失ふ」云云。
此の釈に悪友とは謗法の人の事(※池田センセ〜)なり。
本心とは法華経(※戒壇の大御本尊)なり。
法華経を本心と云ふ意は、諸法実相の御経なれば十界の衆生の心法を法華経とは申すなり。(※理の上ではかくの如くであるが、事実の上でこの理を顕現するには戒壇の大御本尊へのひたぶるな信仰によるのである)
而るに此の本心を引きかへて、迷妄の法(※創価学会の邪法)に著するが故に本心(※戒壇の大御本尊を信じる心)を失ふなり。
此の本心に於ては三五の下種の法門なり。
若し善友(※御法主上人及び日蓮正宗の正信の僧俗)に値ふ時は、失ふ所の本心(※戒壇の大御本尊を信じる心)を忽ちに見得するなり。
所謂迦葉・舎利弗等是なり。(※教相の辺)
善友とは釈迦如来(※文底では三大秘法を伝持される方=今時においては御法主上人)、悪友とは第六天の魔王(※池田センセ〜〜)・外道・婆羅門是なり。
所詮末法に入りて本心とは、日蓮弘通の南無妙法蓮華経是なり。(※戒壇の大御本尊)
悪友とは法然・弘法・慈覚・智証等是なり。(※戒壇の大御本尊への信仰を妨げる者ども=今時では池田センセ〜〜)
若し此の題目の本心(※戒壇の大御本尊への信)を失はんに於ては、又三五の塵点を経べきなり。(※永劫に近い年月地獄で喘ぐ)
但如是展転至無数劫なるべし。(※同上)
失とは無明の酒に酔ひたる事なり。(※即身成仏できないのでどこまでも無明であり、苦界で呻き悶えるのである)仍って本心を失ふと云ふなり。
此のえいをさますとは権教を捨てしむるを云ふなり云云。(※教相では権実相対の辺。観心の意は、創価学会のような邪義を捨てよとの意と拝する)