痴犬へ鉄槌 6  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 414()194517 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> (三宝論)
>
当方> ▼凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。
>
> まさにこの御文の如く、御僧侶である御法主上人を謗っているのであるからそれは”謗僧”であり、池田大作は”謗法”者である。
>
痴犬> ●三宝一体の三宝に全ての法主を君は入れるというのか?だから三宝破壊の日顕宗なので ある!

●まったく理解力が無いというか、学習効果が挙がらない愚鈍というか・・・まあ、要するに、やはり、機根未熟というより、機根汚濁なのであろう。
まず、三宝一体と一体三宝の違いすら分かっていないようだ。
莫迦相手にこれ以上くどく講義しても理解できないようだから、少し理解能力を試してみようか。
三宝一体の意味と
一体三宝の意味を
その違いを明確に説明してみよ。
これが理解できていなければ、これ以上先を講義しても全く無駄というものである。
しかし既に回答は詳述してあるだがね。
痴犬に理解できないだけなのだが?
ヒント
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#14

である。
こっそり調べてから回答してもいいぞ。
―――――――――――
痴犬> ●日蓮正宗教学部監修の仏哲には
> さんぽういったい【三宝一体】◆ 三宝は「さんぼう」とも読む。仏と法と僧の三宝が一体であること。末法の三宝についてみるならば、久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人である仏宝と事の一念三千の南無妙法蓮華経である法宝とが人法一箇であり、また日蓮大聖人と僧宝である日興上人とは師弟不二である。故に三宝一体である。
> と明確に僧宝は日興上人と書かれているがこれは間違いなのか?なぜここに日興上人のみ書かれているのだ!
>
> ●(祖道の恢復と真の正信確立の為に)より
> 日蓮正宗の根本義は本門戒壇の大御本尊(法宝)・宗祖大聖人(仏宝)御開山日興上人(僧宝)の三宝一体を信じ仰ぎ・・・ とここにも日興上人のみなのはなぜか?
>
> ●日蓮正宗宗規(H16.3.5改正、同年4.1施行)
>  本宗は大曼荼羅を法宝とし、宗祖日蓮大聖人を仏宝とし血脈附法の人
>  日興上人を僧宝とする。」とあるがこれは三宝一体の三宝ではないのか?なぜ日興上人 のみ書かれているのだ?
―――――――――――
●ここも、いい加減自分の莫迦・愚鈍・頑迷固陋・眇眼・幼稚・未熟・悩乱・混濁・・・に気がつきなさいね。

三宝論については最早言い尽くしている。

http://toyoda.tv/neirakuji.htm

痴犬はその中で提示された当方からの反駁に全く答えることができないまま、ただ破折されつくされている偏見・謬見を吼え散らかしているだけの痴態・狂態・醜態である。
吼えていないと、職業柄(会館職員として?)他の学会員に顔向けできないからか、自分の面子が保てないためか。
しかし、痴犬が今していることは、少し心ある学会員から見れば、まさにその学会員すら興醒めするような幼稚極まりない愚行である。

痴犬の引文に何故、僧宝を日興上人のみに表記されているか。
簡単である。
僧宝の代表として表現されているからである。
御本尊の御相貌に、十界の衆生が御認めであるが、十界の衆生全てを御顕しになられた訳でない。
その界々の代表を御認めされ、以ってその界全ての衆生・意義・力用等を篭められておられるのである。

この場合も意義としては同様に、僧宝を標記される時も、日興上人のみを僧宝随一として、僧宝の代表として表記される場合もあれば、僧宝の意義を詳しく表される場合もある。まず、これが一義である。

次、下種三宝を機根未熟の衆生に分かりやすく別って明示するため、仏・法・僧を別体三宝として表記する場合がある。
この時は、「僧宝は日興上人」と分かりやすく、表記するのである。
しかし、あくまでその日興上人に意義として「歴代の諸師」が摂せられている。

創価学会も、かつては次のように報じていた。

聖教新聞
☆「『僧宝』とは今日においては日興上人よりの唯授一人の法脈を受けられた御法主上人猊下であられる」(聖教新聞S五三・二・二六)

創価新報
☆「宗祖大聖人の御内証を二祖日興上人を経て、代々の御法主上人猊下に法水寫瓶して末法万年の未来へ限りなく伝承する金口嫡々・唯授一人の血脈相承こそは、戒壇の大御本尊と共に、信仰の根本中の根本であり、命脈中の命脈であることは論を待たない。これは日蓮正宗の信徒であるならば、だれでも知っていることである。この宗旨の根幹である金口嫡々唯授一人の血脈相承を平気な顔で否定する山口の頭はどうなっているのだろうか」(『創価新報』昭和五十八年二月二日付)

と、明確に、「唯授一人の血脈相承」と「戒壇の大御本尊」は「信仰の根本中の根本」「命脈中の命脈」と謳(うた)い、さらには、「信仰の根幹」とまで言い切り、「日蓮正宗の信徒であるならば、だれでも知っていること」だと明言している。

また池田大作センセ〜も
☆「仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出たことは、まことに悲しむべきことである。これは恐ろしき謗法であり、真の日蓮大聖人の仏法を信解していない証左(しょうさ)なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はありえないのである」(『広布と人生を語る』第三巻二九四頁)

と言っていた。

痴犬らはこの聖教新聞・創価新報の記述や池田センセ〜〜の指導は「邪説」とするのか?どうか?
さあ、明確に答えよ。

さらに、痴犬どもが全く反論不能になっている点。
以下の”飼い主”達のかつての発言を、痴犬は真っ向から否定していることになるが、矛盾なく明確に説明せよ。

☆ 「『僧宝』とは、正宗においては第二祖日興上人のことであり、また会長(池田会長)も発言しているごとく、唯授一人の血脈をうけられた御法主上人猊下であらせられる。」(昭和五十三年六月三十日付『聖教新聞』)

☆ 『大白蓮華』の昭和五十四年十一月号、及び昭和五十八年十月号
 「正法を正しく継承伝持あそばされた血脈付法の日興上人を随一として、歴代の御法主上人、広くは、御法主上人の法類である御僧侶の方々が僧宝なのです。」

さ、この難問を解いてから先に進もうね。
愚鈍な痴犬くん?
―――――――――――
>
痴犬> ●三宝一体の三宝と住持三宝とが同じと君はいうのか?

●三宝の中、僧宝の立て方には、

@日興上人のみを僧宝とする場合と、(注←痴犬はここにのみ囚われているのである。)
A御歴代上人を全て僧宝とする場合との二段階がある。

教道の上から論すれば、下種三宝の僧宝とは日興上人である。(注←痴犬はここにのみ囚われているのである。)
しかし、この別体三宝は一体(戒壇の大御本尊)三宝(仏・法・僧)に摂せられ、この三宝を含む一体=戒壇の大御本尊、の御内証を血脈相承されるがゆえに、証道で論じた場合、歴代御法主上人の御内証に一体三宝が坐すのである。
故に、御歴代の御内証において三宝一体と申し上げるのである。

痴犬、分かる?ちょっと難しいだろうね。
痴犬の頭ではきっと無理だろう。
が、自分で訊いて来たことだから、責任もって理解したまえよ。

で、ここのところを明解に
第三十一世日因上人は、金沢の信徒への御消息に、
■「日興上人已下の代々も亦た爾(しか)なり。内証に順ずるに則(すなわち)仏宝也。外用に依れば則(すなわち)僧宝也。故に末法下種の大導師日蓮聖人の尊仏に対すれば、則(すなわち)外用を存し以て僧宝と為るのみ。(中略)故に日蓮聖人の御身の上に本迹の両辺あり、仍(よっ)て迹に依れば則(すなわち)凡夫僧なり、内に依れば則(すなわち)妙覚極果の如来なり、日興上人日目上人も亦た爾(しか)なり」

と、御歴代上人の御内証の辺は仏宝と体一であらせられ、外用において僧宝と申し上げることを明らかにされ、日寛上人の御指南と全く同じ趣旨の御指南をされている。

さあ、少しは理解できたかな?
まあ、邪信を持って聞いても絶対に分からんよ。
―――――――――――
> ●(日蓮正宗要義)
> 広く論ずれば正法を受持信行し随力弘通の任に当たる本宗僧俗のすべてが、僧宝であるといえる。とあるがこの僧宝が三宝一体の僧宝とでも君はいうのか?
>
> 以上、君が言ってた事と全然違うがどういう事なのだ?

●おお、早速出たか。
前出の当方の投稿読んでいるのか?
ちょっと、不勉強だぞ。
こういう難しい問題を聞くときには、講義の前に予習しておきなさい。

引用

更に「広く論ずれば、正法を受持信行し、随力弘通の任に当たる本宗僧侶、更に信徒のすべてが僧宝であるといえる。」との文を掠め取って、
「我々在家も僧宝だ!だから、歴代上人が仮に「僧宝」だとしても我々と同等の立場であるから尊信の対象ではない!」と喚く愚昧な創価学会員には既に次の文言で止めを刺されている。
曰く「しかし尊信の対象としては、右に述べるごとく中心に要括すべきである。」
つまり、「日興上人を随一とする歴代の法主上人が僧宝である。」との意から、まさに「日興上人を随一とする歴代の法主上人」こそが、「尊信の対象」なのである。

2、日応上人の弁惑観心抄にはこう仰せである。
56『弁惑観心抄』日応上人211
■「唯授一人嫡々血脈相承にも別付総付の二箇あり其別付と者(は)則(すなわち)法体相承にして総付者(は)法門相承なり、而して法体別付を受け玉ひたる師を真の唯授一人正嫡血脈附法の大導師と云ふへし。又法門総付は宗祖開山の弟子旦那たりし者一人として之を受けさるはなし蓋し法門総付のみを受けたる者は遂には所信の法体に迷惑して己義を捏造し宗祖開山の正義に違背す」

■「吾大石寺は宗祖開山より唯授一人法体別付の血脈を紹継するを以て五十有余代の今日に至るも所信の法体確立して毫(いささか)も異議を構へたる者一人もなし。」

また以下の如く仰せでもある。
■「一、吾本山大石寺ハ血脈相承ナルモノハ元ヨリ唯授一人ニ限ルモノニシテ断シテ二三アルニアラス故ニ開山日興ハ是を日目ニ附シ日目ハ是ヲ日道ニ附シ金口嫡々附嘱相承シテ五十有余代ノ今日マテ毫末乱ルゝナシト為ス」(法之道・研究教学二七―三一n)

これらの御指南を拝するに、
■「法体別付を受け玉ひたる師を真の唯授一人正嫡血脈附法の大導師と云ふへし。」と仰せは、
上記の■「本門弘通の大導師とは僧宝なり」の意義に通じ、
「大導師」とは■「開山日興ハ是を日目ニ附シ日目ハ是ヲ日道ニ附シ金口嫡々附嘱相承シテ五十有余代ノ今日マテ毫末乱ルゝナシト為ス」であり、「日興上人を随一とする、歴代の法主上人」のことであることは、明々白々である。
―――――――――――
さらに復習の時間だ。
かなり疲れてきているだろうが、もう少し頑張ろうね。
―――――――――――
 日寛上人の『当流行事抄』には
▲「久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり」(六巻抄 三二五n)

と、日興上人が僧宝であることをお示しであるが、その前提として『百六箇抄』の「久遠元初の結要付属」の文を挙げて、

▲「結要付属豈僧宝に非ずや」(六巻抄三二三n)

と、大聖人よりの結要付嘱をもって、日興上人を僧宝と御指南である。また、

『三宝抄』にも、
▲「僧宝とは久遠元初結要付嘱の所受の人なり」(歴全 四―三六六)

と、僧宝が結要付嘱の所受のお方であることを示されている。この結要付嘱とは、法体の血脈相承のことである。

 付嘱には、周知のごとく嘱累品の総付嘱と、神力品の別付嘱がある。この総別の付嘱は共に、上行菩薩を上首として、釈尊より授けられる。しかして、結要付嘱とは別付嘱のことであり、上行菩薩のみに授けられるが、総付嘱は迹化の菩薩もその任を受ける。これは文上の談道である。

 さて、大聖人より日興上人への下種仏法の御付嘱も、この総別の二義がある。別しての結要付嘱、すなわち血脈相承をお受けになるのは、御法主上人ただお一人である。総付嘱は御法主上人を上首として、一般僧侶もその任を受ける。

 このように、僧宝の本義は別付嘱たる結要付嘱に存するのであって、厳密にいえば「僧宝」とは御法主上人お一人なのである。

故に、『曽谷殿御返事』の、
▲「総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思いもよらず輪廻生死のもといたらん」

との御指南のように、総別の二義、すなわち総付嘱と別付嘱とを混乱してはならないのである。したがって、総じての意味で僧宝というとも、御法主上人の僧宝の意義に対しては、天地雲泥の相違があることを、明確に認識しなければならない。

―――――――――――
以下またづづき
第三時限でやりましょう。
休憩時間に、その硬直しきった頭をゆっくり休めておきたまえ。