痴犬へ鉄槌 58  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 512()133457 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

痴犬の元ネタ、というよりそのまんまのパクリ。呵々
↓おやおや。長野法論で教義的に追い込まれ、狼狽、狂乱し、ニセ電話をかける醜態を晒し、更に当方とのメールの往還にも遁走した、あの懐かしい国家公務員・新階クンの恥論ではないか。
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大聖人が相伝の書で何と御指南されているかを示しましょう。重書中の重書である「御義口伝」には、

    『此の品の時最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆
    生に譲り給うなり八字とは当起遠迎当如敬仏の文なり乃至必ず仏の如くに法華経
    の行者を敬う可しと云う経文なり』(P.781)
    (通解:普賢品の時に最上第一の相伝がある。釈尊の八箇年の法華経を八字に留め
    て末代の衆生に譲られたのである。八字とは当起遠迎当如敬仏の文である。(中
    略)必ず仏に対するように法華経の行者《三類を呼び起こして妙法を広めた人》
    を敬わなければならない、という経文である。)

     要するに、末法に三類の強敵を呼び起こしながら妙法を広める「法華経の行
    者」を仏のように敬いなさい、と言うのが法華経の最上第一の相伝だと言われて
    いるのです。まさに今池田先生をリーダーとして、創価学会が昭和35年から丁
    度10年毎に、順番に俗衆増上慢(妙信講、言論問題)、道門増上慢(正信会問
    題)を呼び起こし、そして昭和63年頃から心あるメンバーが叫んでいたとお
    り、次の10年目の創立60周年には、見事に僣聖増上慢(日顕宗)を出現さ
    せ、経文どおり「法華経の行者」になったのです!
     この「法華経に行者」である池田先生と弟子の学会員をまさに仏の如く敬うこ
    とが法華経の最上第一の相伝であり、このことが理解できない宗門はすでに相伝
    の資格を失っていると言うことが出来ます。
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●これについては、前回でも少々引用させていただいたが、日顕上人が徹底的に破折されている全文があるのでそのまま掲載させていただく。
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 次は『御義口伝』の「当起遠迎当如敬仏」の文の御指南を引き、この文によって法華経の行者を敬わなければならないとし、その法華経の行者とは、昭和三十五年から十年ごとに、俗衆増上慢、道門増上慢、僣聖増上慢を呼び起こし、池田をリーダーとする創価学会が「経文どおり『法華経の行者』になった」などと嘯き、しかも、池田らを仏の如く敬うことが法華経の最上第一の相伝であり、このことを「理解できない宗門はすでに相伝の資格を失っている」と言っております。
 この途方もない図式こそ、彼等が邪智を練りに練って作り上げた、慢・増上慢の証明であります。第一に、「法華経の行者」も、御書の御指南から拝すれば、当然、総別の二義があるのであります。別して言えば、宗祖大聖人のみが末法唯一の法華経の行者であり、流罪、死罪、刀杖瓦石、数々見擯出の身読は空前絶後であります。池田大作が卑怯者として国会喚問にも怖じ恐れ、なんの大難の実証もない姿で、大聖人に比肩する法華経の行者だなどと言っておりますが、断固としてこの痴れ者を糾弾すべきであります。
 別しての法華経の行者とは、宗祖大聖人御一人であり、
  「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書一七七三骰)
と示される如くであります。このことは、人本尊開顕の『開目抄』の趣意よりしても明らかです。故に『御義口伝』の、
  「最上第一の相伝あり(乃至)法華経の行者を敬ふべし云云」(御書一七九四骰)
という文は大聖人御自身のことを仰せであり、当然、池田や創価学会の謗法団体のことではありません。
 次に、総じての法華経の行者とは、正しい信心修行の日蓮正宗の僧俗を意味しますが、正法の中心より悪逆の心をもって背いた創価学会は、行者となる功徳は消滅し、行者の資格はないのです。仏意仏勅による広布の根本宗団である日蓮正宗より派生しながら、いつしかその元を忘れ、自らを広宣流布の中心団体と誤り、妄想し、中心の団体を誹謗し続ける創価学会は、まさに仏勅破壊、仏敵・法敵の魔性団体であり、法華経を行ずる意義はないのであります。
 次に、彼等の言う、三類の強敵に関する図式はまことに手前勝手であり、この経過は、けっして池田や創価学会が法華経を行じてきた結果ではありません。
 初めの、俗衆増上慢に関する思い上がりの妙信講問題というのは、池田が正本堂の建立をもって『三大秘法抄』の戒壇としたいために、宗門にも様々な圧力をかけ、とどのつまり、その仏勅違背の不逞なる野望を全面的に押し通すことができなくなったことであります。こんな大それた本門戒壇に対する過ちを犯し、しかもそれに失敗したような事件で、宗門に要らぬ波風を立てた事例です。また、言論問題というのは、創価学会が、学会批判の言論出版を妨害したことにより非難を受け、池田が世間に謝罪した事件です。これらがどうして、法華経の行者の振る舞いに当たるのでしょうか。まさに法華背逆の所業であります。
 次の、道門増上慢に関する彼等の思い上がりとしての正信会問題は、その元の原因として、池田大作が創価仏法を標し、「学会主、宗門従」の反逆思想のもとに種々の偏見を説いたことに対する宗門の反発と指摘があり、このような流れのなかで起こったのであります。したがって、この件も内面的には全部、池田大作と創価学会の慢・我見に基づく思想および法義の誤りが根底にあるのですから、その行為に法華経の行者の意義など、薬にしたくも存在しないのです。
 当時、大作が自らの誤りを認め、日達上人や宗門に対して行った謝罪の主なものを挙げてみれば、昭和五十二年十二月、九州・定善寺における平身低頭してのいわゆる「御寛恕願い」、同五十三年十一月の通称「お詫び登山」における「お詫びと決意」、同五十四年四月、法華講総講頭および会長の「引責辞任の辞」、そして同五十五年四月の「恩師の二十三回忌に思う」の自己総括というように、毎年、お詫びと反省を繰り返したのです。
 これは、この問題の本質が、学会の言うような正信会問題などではなく、創価学会の謗法逸脱問題であったことを明白に示すとともに、池田大作の反省が、いかに心にもない上辺だけのものであったか、その二枚舌ぶりを露呈していると言えましょう。
 真実の「法華経の行者」にまします大聖人様は、誰人に対しても一度もお詫びなどされていないし、ましてや二枚舌の「法華経の行者」など、いるはずがないのです。
 次の、僣聖増上慢に関する思い上がりとして、彼等は「僣聖増上慢(日顕宗)を出現させ」た、と言いますが、これは創価学会と池田があらゆる面からの宗門支配の野望のもと、じりじりと迫害・包囲の輪を縮めて、特に衛星放送等を使って宗門と法主の軽視・蔑視の洗脳を全会員に徹底させ、法主を悪し様に罵る姿が続いたのであります。特に平成二年十一月十六日の池田のスピーチは、誹謗の言がはなはだしく、このすべてを録音したテープを、彼等の厳重な警戒のなかから届けてくれた複数の篤志者がありました。
 この内容について創価学会に尋ねましたところ、全くまじめな対応はなく、改竄テープだなどと言を左右にした挙げ句、かえってそれまでの宗門と学会のいきさつで、余りに創価学会が非道・無礼なため、柔かく注意をしたような問題を取り上げて宗門を攻撃し、答えるべき内容をスリ替えて、「お尋ね」に対する正規な返事はありませんでした。
 その後の文書応答においても全く誠意が見られず、創価学会の独善的な、宗門軽視、蔑視、背逆が明らかなため、かかる謗法者の池田が終身、総講頭の地位にあることは宗門の大不祥事惹起の原因とも思われましたので、平成二年、「宗規」のなかの法華講本部規約に関する条文の改正を行い、総講頭の任期を五年とし、また、新規則の改正により前規則で任命された本部の全役員、法華講連合会の大講頭も含む全員が、その資格を喪失しただけのことであります。
 また、池田らの正本堂の意義に執着する見解を糾したこともありました(着工大法要における『三大秘法抄』の文云々の池田の悪言を指摘。また、正本堂に関する学会の固定的、独善的見解を排除)。
 また、十年目ごとに、順番に三類が出たと言うが、これは池田らの根底に巣食う下種三宝背逆誹謗の罪業が、池田の会長就任より十年ごとに出たのだ、と指摘しておきます。
 さらに、池田や創価学会には、根本的に法華経の行者たる資格はない理由を示しましょう。法華経は正直の御経であり、『諌暁八幡抄』に、
  「正直の人の頂を以て栖と為し、諂曲の人の心を以て亭らず」(御書一五四二骰)
と、また、『御義口伝』に、
  「正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非ざるなり」(同一七二九骰)
と仰せであり、その他、信ずる者は正直たるべきことが御書に明らかであります。
 ここで、創価学会が不正直団体たる所以をまとめてみましたので申し上げます。
 第一に、創価学会は自分に都合のよいように、ウソで塗り固めた謀略情報を流して会員を洗脳し、組織を保っている不正直団体であります。平成二年、放置できない池田発言を厳しく糾し始めてから、宗門は池田学会の不正直極まりない体質とまともに対することになりました。創価学会は、昭和五十二年に目指した宗門支配は破綻し、失敗しましたが、再び野望達成のために準備を整え、平成二年から行動を開始したのであります。その内容は、まさに捏造、ウソ、スリ替えで、五十二年の反省を反故にし、宗門批判、法主をはじめ僧侶に対するすさまじい悪口中傷の個人攻撃でありました。もって会員の宗門離れ、組織防衛を図ったのであります。
 第二に、池田は「ウソも百遍繰り返せば真実になる」と、平気で人前で口にします。これは藤原行正という人の書いた『池田大作の素顔』(講談社刊、四二骰)に書いてあります。こういうウソつき男によって、自分達の目的のためなら、なんの罪悪感もなく平気で他人をだまし、ペテンにかける不正直集団・創価学会が出来上がったのでありますが、その元凶は池田であります。
 第三に、昭和五十二年路線反省の不正直。御本尊模刻、僧侶・寺院軽視、会館の寺院化等々、宗門支配をもくろんだ五十二年路線が、逆に宗門から破折・教導され、反省懺悔を表明して許されたのですが、平成二年の池田スピーチをはじめ、幹部の発言で、それは本心からではなく、ポーズだけで、宗門を欺くものであったことが判明した不正直が挙げられます。
 第四に、「山崎・八尋文書」「北条文書」発覚時反省の不正直。宗門支配、または独立を画策した昭和四十九年の内部機密文書が流出・発覚した昭和五十四年十一月、北条浩等の責任者が登山して、今後、永遠にそういうことは行ったり考えたりしないと詫びたのも、表面上のことでありました。これも不正直の姿であります。
 第五に、池田の「脱会は自由」との発言の不正直。今回の学会問題発生当初、某テレビ局の人間が空港で池田にマイクを向けた時、
  「いいじゃないですか、自由で。信教は自由ですから」
と、脱会は会員の自由意志であるという旨の答えをしたそうです。しかし、実際には「脱会者が自殺するまで追いつめろ」(福井県・田賀一成氏証言ー永島雪夫著『創価学会池田王国の崩壊』一九六骰から引用)と指令を下し、あらゆる手段を使って執拗に脱会者に迫害を加え、嫌がらせを行い、他の脱会を阻止しているのであります。それにもかかわらず「信教は自由」と、心にもないきれいごとがとっさに口から出る、根っからのウソつき、不正直者であります。
 第六に、学会関連の裁判例に見られる不正直。これは言わずもがなですが、クロウ事件、写真偽造事件をはじめ、様々な訴訟において、事実無根の事柄を事実の如くでっち上げ、はなはだしく宗門の名誉を毀損している不正直であります。
 第七に、僧侶への中傷誹謗に見られる、捏造の不正直。平成三年以来、学会が様々な機関紙や謀略文書を使って、法主をはじめ多くの僧侶に対して口を極めて罵詈讒謗を加えた事実は枚挙にいとまがありませんが、これも捏造、スリ替え、誇張であるという不正直があります。
 このように、池田および創価学会は、背信、卑劣なウソつき、不正直、謀略の反社会的存在であります。大聖人は、
  「法華経は正直の金言なり」(御書九〇八骰)
また、
  「日蓮一人計りこそ世間・出世正直の者にては候へ」(同四三五骰)
と、正直の尊さ、大切さをお示しであります。どうして、このような不正直極まる池田大作ならびに下劣な団体が、おこがましく「法華経の行者」などと言えるでしょうか。
 だいたい「法華経の行者」の義には、重々の深義が蔵されております。軽々に末法今時の凡夫が、自らをなぞらえて振り回すべき語ではないのです。増上慢にも程があります。
 池田は、大謗法を犯して宗門から信徒除名の処分に付された者であります。その際、せっかく弁疏の機会が与えられているのに一言の申し立てもできず、悄然と処分に服し、永久追放の憂き目に遭っております。また、国会喚問と騒ぎ立てられるたびごとに、法を弘めるための願ってもない好機と乗り込むどころか、コソコソと逃げ回り、あろうことか議員に何日間もピケを張ってもらって、やっと回避する始末であります。しかも、破廉恥罪の被告にされて世間の指弾を受けております。このような人間を大将に戴く団体が法華経の行者とは、聞いてあきれるではありませんか。