痴犬へ鉄槌 52  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 5 9()010151 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

痴犬⇒  御本仏の出世の本懐が、「芸者好きのエロジジイ」がいなければ完璧ではない、などという主張は、大御本尊が究竟中の究竟、本懐中の本懐ではない、ということになってしまうんでないかい?。それこそ天魔の邪義やがな。

●誰が「戒壇の大御本尊が猊下がいなければ完璧でない」だなどと言ったのか?
ほとほと日本語の語法に暝い愚か者である。
自分の低脳さで勝手に読み違えて妄想を作り上げ、それに向って吼えているのだから「処置なし」の愚行である。
まさに「バカに付ける薬なし」そのままである。

当方の主張は一貫して、尊極最上・久遠究竟・完全無欠の戒壇の大御本尊の「御内証」が歴代御法主上人に伝持される、と論証しているのである。
ここは邪心・邪解・顛倒・諂曲・不信・不解・浅識・慢心・・・の者共には、絶対に領解し得ない甚深の深旨である。

■日蓮一期弘法付嘱書    弘安五年九月  六一歳
 ※1「日蓮一期(いちご)の弘法」、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬 九月 日 日蓮花押
         ※2「血脈の次第 日蓮日興」  1675

1、※1「日蓮一期(いちご)の弘法」⇒別しては「戒壇の大御本尊」である。
※2「血脈の次第 日蓮日興」⇒戒壇の大御本尊において何らかの「血脈」が存在する文証である。
―――――――――――
2、■『本因妙抄』
「此の血脈並びに本尊の大事は※3「日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり」。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし」(新編一六八四n)

※3「日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり」とは、日興上人が大聖人の「金口相承」を日興上人の御境涯においてお書き留めなさった「金紙」と拝される。

参照 日顕上人御指南

■「金口嫡々の相承ということが、実は相承全体を包括した語であり、そのなかには、 身延・池上の二箇相承が金紙として存するとともに、さらに時代の経過とともに、金口の内容を金紙の上に書き移してきた意味があるのです。
(中略)
金口の内容において深い仏意の上から、文書としての金紙が存するのであります。
(中略)
この金紙は、簡単に申し上げれば、文献ということであります。しかし、当然、この文献とは、いわゆる『本因妙抄』『百六箇抄』ではありません。文献といっても、これは金口の文献でありますから、金口のなかにすべて含まれるのです。
(中略)
もちろん、大聖人様から日興上人様への相承は金口であります。しかし、日興上人様も大聖人様の御講義を『御義口伝』として記し置かれたように、やはり唯授一人の金口の内容を御自身の御境界においてお示しになったものが存するわけです。それが、すなわち金紙であります。したがって、金紙そのものが金口の意義を持っておるのです。」

因みに上記本因妙抄の御文が「後加文であるから用いられない」との疑難は全く不可である。

●65日淳上人
百六箇抄については香浦氏は「その成立を大聖人の時ではなく後世であるか」の如く評してをるが、(中略)しかし察していへば恐らく同抄の後尾に明らかに大聖人の御時でないことが書かれてをるからそれを理由に言ふのであらうと思ひます。若しそうであるならばそれは御相伝書の拝し方を知らないのによります。御相伝書は順次相ひ伝へるに従つて加筆があつてもそれは当然です。それが相伝書の相伝書たるところで僞作ででもあるかの如く考へるのは全く書物の読み方も知らないうつけ者です。そんなことでは仏法の筆受相承などのことを談ずる資格は遠くありません。顔を洗つて拝し直すことです。

▼3【池田指導】(百六箇抄講義)
本抄(百六箇抄)には歴代の法主上人が拝読されたおり、一種の「覚え書き」として挿入、付加された部分が織り込まれております。歴代の法主上人が、日蓮大聖人の血脈を受けられ、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝える意味もあって、「百六箇抄」の行間、本抄の前後、各項目の注釈等として書き込まれたものであります。故にこの部分も、私達が大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可決の記述といえましょう。(中略)百六箇抄の口伝はもとより、代々の法主上人が記述された箇所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたいと考えております。
―――――――――――
3、■日興跡条々事    元弘二年一一月一〇日
一、日興が※4「身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。

実に重要な御指南である。
※4「「身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」との御表現は如何に。
日興上人が戒壇の大御本尊を常に御身に背負われている訳はなく、つまりは戒壇の大御本尊の御内証が日興上人の御身に唯授一人・血脈相承され伝持され、しかもその御内証は日目上人へ御相伝されたという明確な御文証である。

以下、この原理鉄則を全うされてこられた御歴代の御指南の一端を示させていただく。

■総本山第十世日精上人
「当家甚深之相承之事。全く余仁に一言半句も申し聞かすこと之れなく、唯貫主一人の外は知る能わざるなり。(略)又本尊相伝唯授一人の相承の故に代々一人の外書写之れなし」(歴全二―三一四n)

■同日精上人『富士門家中見聞』
「御上洛の刻み、法を日道に付嘱す、所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり。総じて之れを謂えば内用外用金口の知識なり、別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり、甚深の血脈なり、其の器に非ざれば伝えず、此くの如き当家大事の法門既に日道に付嘱す。爰に知りぬ、大石寺を日道に付嘱することを。後来の衆徒疑滞を残す莫かれ」(聖典六九五n)

■総本山第二十六世日寛上人『撰時抄愚記』
「宗祖云く『此の経(※戒壇の大御本尊)は相伝に非ずんば知り難し』等云云。『塔中及び蓮・興・目』等云云」(文段集二七一n)

■同日寛上人『文底秘沈抄』
「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや」(六巻抄六六n)

■同日寛上人『抜書雑々集』(左京日教師「類聚翰集私」・富要二―三〇九頁の文を引用)
「日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次ギに仏法相属して当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり、」

■総本山第五十六世日応上人『弁惑観心抄』211
唯授一人嫡々血脈相承にも別付総付の二箇あり其別付と者則法体相承にして総付者法門相承なり、而して法体別付を受け玉ひたる師を真の唯授一人正嫡血脈附法の大導師と云ふへし。又法門総付は宗祖開山の弟子旦那たりし者一人として之を受けさるはなし蓋し法門総付のみを受けたる者は遂には所信の法体に迷惑して己義を捏造し宗祖開山の正義に違背す、(中略)
吾大石寺は宗祖開山より唯授一人法体別付の血脈を紹継するを以て五十有余代の今日に至るも所信の法体確立して毫も異議を構へたる者一人もなし。
而して別付の法体と者則吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是なり、故に開山上人より目師への付属書に云く「日興宛身所給弘安二年大本尊日目授与之」云々、此法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり此金口嫡々相承を受けされは決して本尊の書冩をなすこと能はす、(中略)

■此の金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝るものなり之を真の唯授一人と云ふ、(中略)故に予は断言す汝等か山は不相伝なり無血脈なりと宜しく猛省すへし。

■「一、吾本山大石寺ハ血脈相承ナルモノハ元ヨリ唯授一人ニ限ルモノニシテ断シテ二三アルニアラス故ニ開山日興ハ是を日目ニ附シ日目ハ是ヲ日道ニ附シ金口嫡々附嘱相承シテ五十有余代ノ今日マテ毫末乱ルゝナシト為ス」(法之道・研究教学二七―三一n)

■「此ノ金口ノ血脈コソ唯仏与仏ノ秘法ニシテ独リ時ノ貫首ノ掌握セル所ナリ是レニハ数種アリ又数箇ノ條目アリトイヘトモ其ノ中一種ノ金口血脈ニハ宗祖己心ノ秘妙ヲ垂示シ一切衆生成仏ヲ所期スル本尊ノ活眼タル極意ノ相伝アリ又師資相承ノ如キハ宗祖直授ノ禁誡ニシテ令法久住ノ基礎タリ是レ等ヲ此レ唯授一人金□嫡々血脈相承ト云フ也」「同四七四n」

■日応上人「本門戒壇本尊縁由 一九n」
「当宗に於て授与する処の御本尊は一切衆生に下し置かれたる此の御本尊の御内証を代々の貫主職一器の水を一器に写すが如く直授相伝の旨を以て之を写し奉り授与せしむる事なれば各のその持仏堂に向かっても「直ちに此の御本尊を拝し奉る事よ」と相心得へ受持信行する時にはその処直に戒壇の霊地、事の寂光土なる程に臨終の夕までも此の御本尊を忘れ奉らざる様に致さるべきなり、爾れば則ち即身成仏は決定疑ひなきなり。」

■『日顕上人御講義』
「その信心の形は、いわゆる大聖人様から日興上人、日目上人と血脈の上において正しく御本尊の深義が伝えられておるのであり、法体の相承、さらに言うなれば金口嫡々血脈相承という意義、さらに法門の相承、そしてそれらの上において信心の血脈における信心の成仏ということが存するのです。」(偽造本尊義を破す六七n)
―――――――――――
●痴犬などの卑しい根性の者には遠く信解が及ばない、尊極の御境地であられる。
さて、痴犬の「(中略)それこそ天魔の邪義やがな。」との痴れ言は完全に打ち砕かれたのであるから、もし↑全ての御指南に道理明確に反論出来ない場合は、またもや例の如く「謝罪・脱会」コースである。
またまた、「謝罪・脱会」の誓約書が増えるばかりだな。

因みに最近の痴犬の反論にもならない駄文は後ほどじっくり楽しみながら砕き潰すので、今のうちにその破折を予測して再反論の準備を入念にしておくことだね。
ざっと流し読みした限りでは、実に根拠薄弱の恥文の羅列である。
もう少し緻密に論を組み立てたまえ。
破折しがいがなくてつまらん。
もっとその弱い頭を酷使して少しは歯応えのある駄論を考えたまえ。
情けないぞ、京都青年部。
もっと頑張れ。髪が薄くなるほどに沈思し黙考せよ。呵々大笑。