痴犬へ鉄槌 41  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 5 1()20215 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

次に「破戒」の概念について日亨上人は↓のように分かりやすく仰せである。

■「宗祖の御化儀は聖僧であって、御開山の御化儀も聖僧であった事は、史実として見るべきであるが、もちろん小乗戒でも大乗戒でもない、有作数目に係(かか)はる戒でない。
本門無作の大戒であるから、戒目を挙げて或(あるい)は此(これ)を遮(しゃ)し、此を開する底(てい)の、窮屈な事例はあるべきでない。
然れども鎌倉時代に横溢(おういつ)する破壊無慙(むざん)の妖僧等に簡異(かんい)する為に、仮に断肉禁婬の聖僧を標せられたものであろう。
(中略)
妻孥(つまこ)に慰(なぐさ)められねば夜の明けぬと云ふ人も、仕方があるまい。
夫唱婦随、同心戮力(りくりょく)して、一家平和の好模範を檀信徒に示し、宗門のためにも、住持のためにも、国家のためにも、郷里のためにも、努力の効が顕著であったなら、帯妻の譏嫌(そしり)は償(つぐな)はるるであろう。
※⇒■『要するに、菜肉婬は用否ともに無頓着(むとんちゃく)であるべきである。』
菜肉妻に著(じゃく)せずして信仰に生くべきである。
弘法のためには死しても悔いなく憾(うら)なきを所期とするのが、宗徒の信念の第一義でなければならぬ。
然らざれば僧分は無論、在俗の方でも、宗祖開山の御慈光に漏れて現当の利益を失ふであろうと思う。
(中略)
二百五十戒や十重禁戒や四十八軽戒が、すでに七百年一千年の昔、無益であった事はいうまでもない。
日蓮大聖の御法の流れを酌む者は先刻御承知であるけれども、※⇒■徳川政府三百年間の干渉に拵(こしら)へあげられた一種異様な僧界の戒法は、今に社界一般に浸潤して老人方が僧風を品秩するの定規となっておる。
彼僧は魚肉を食ふたから生臭坊主だの、彼僧は女人と同衾(どうきん)したから破戒和尚だのと仰(おっしゃ)る。
幾分の理解あるような顔をしてる青年達までも、少し御機嫌に叶わぬ事があると、老人並の旧思想に逆転して無用の悪口を仰るそうじゃが、現代にそんな人のあるのは夢のような真実事(まこと)である。
もっとも禁欲齋戒を標榜(かんばん)にする宗門の坊さんなら、何と云われても身から出た錆(さび)で致し方もあるまいが、※⇒■六百有余年の昔に末法無戒を喝破した日蓮大聖人の門下には迷惑千万の至りじゃ。
いや、これは法華僧が、徳川政府の俗権に押し付けられて聖僧顔になって、肉食妻帯の真宗坊主などを虐(いじ)めた報いかも知れんが、※⇒■現代の者にはトンダ迷惑の事である。」(日亨上人著『魚鳥食開訓』)(痴犬を邪妄を破すために、大変恐縮であったが、ポイントに「※⇒■」を入れさせていただいた。)

さて、痴犬?何か反論してみなさい。
遠慮は要らない。