痴犬へ鉄槌 38  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 430()23400 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

当方> ▼しかもこの維摩経の「阿耨多羅三藐三菩提心を発せば」との心は、現時では戒壇の大御本尊に身口意の三業において渇仰・参詣・信敬することであり、日蓮正宗の僧俗以外に為しえないのである。
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痴犬> ●維摩経と戒壇の大御本尊をどのような関係になるのか日蓮正宗の正依に基づいて証明してーや!

●またもや本当にバカですね。
ここまでバカだと拍子抜けしますな。
まっしかし、全国の創価学会青年部のほぼ典型的なバカさ加減と言えるので、根気よくこれらの痴論を切り裂きますかね。

■此の経(※法華経)に云はく「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は皆此の経(※法華経=戒壇の大御本尊)に属せり」文。此の文の菩薩とは、九界の衆生、善人悪人女人男子、三蔵教の声聞・縁覚・菩薩、通教の三乗、別教の菩薩、爾前の円教の菩薩、皆此の経(※戒壇の大御本尊)の力に有らざれば仏に成るまじと申す文なり。

↑このように「阿耨多羅三藐三菩提」=成仏 を遂げることができるのは、戒壇の大御本尊を真に信じ仰ぐ信心に徹することにのみこそ、であり、戒壇の大御本尊を心から渇仰し、身口意の三業において参詣・信敬することこそ「阿耨多羅三藐三菩提の心⇒成仏を志す心」を「発」することである。

戒壇の大御本尊を心で渇仰しているだけでは、それは真の求道の姿とは言えず、成仏も叶わぬという教誨は以下の日寛上人の御指南に明確である。
(勿論、戒壇の大御本尊に参詣できる資格と立場を御本山から許されている方で、諸般の事情で参詣できない方々は、その信心の「志」を以って登山参詣の義を有することは言うまでも無い。
創価学会員はニセ本尊の垂れ流しとその受容により、また三宝誹謗の大重罪ほか諸々の謗法行為によって破門に処され、戒壇の大御本尊へのお目通りそれ自体を許されていない立場であるから、いくら心中に戒壇の大御本尊を渇仰して題目を唱えているといっても全く三大秘法が整足しない。つまり成仏できないことは肝に銘じるべきである)

●26『文底秘沈抄』(68)日寛上人
今謂わく、嗚呼我慢偏執抑何の益有りや、富士山を以て本山と仰ぐべきこと文理明白なり。
 一には富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり、故に本門寺根源と云うなり、弘の一の本十五に云わく「像末の四依、仏化を弘宣す、化を受け教を禀く、須く根源を討ぬべし、若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」云々。宗祖の云わく「本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」等云々。既に是れ広布の根源の所住なり、蓋(なん)ぞ本山と仰がざらんや。

●26『寿量品談義』日寛上人
「祖師より興師へ御付属亦是れ三大秘法なり。興師より目師へ御付属も亦是れなり。(中略)目師より代々今に於て、廿四代金口の相承と申して一器の水を一器に瀉すが如く三大秘法を付属なされて大石寺にのみ止まれり。未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則ば本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ。(中略)其の三大秘法の住する処こそ何国にてもあれよ霊山会場寂光の浄刹なるべし。」(富要一〇―一三一n)

こんな基本中の基本が痴犬には分からなかったのか。
まことに哀れむべき境涯である。
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痴犬> まぁ〜ボチボチいくわな ほなまたな。

●痴犬の、反論に窮している様をどう押し隠して強がってみても、ただ惨めさを増すだけである。

では「ボチボチ」鋭い反論でもしていただこうか?
まさか、連休で「遊戯雑談」しているのではあるまいな?
止暇断眠で頑張れ。どうした関西青年部。京都の学会魂を見せてくれ。呵々大笑。