痴犬へ鉄槌 36  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 429()231440 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

当方> ▼大聖人は下種仏法の「義」に依って、脱益仏法の「文」を判ずるのである。
>
痴犬> ●阿保っかぁ〜!徹底して御書に基づき依義判文(えぎはんもん)するんじゃい。

●もはやここまで バカ とは。
ほとほと恐れ入りました。

当方の文。

大聖人は←主語
下種仏法の「義」に依って、
脱益仏法の「文」を←目的語
判ずるのである。←述語

痴犬はこの日本語の構文が読めずに↑のようなバカな怪釈を喚く。
しかし、これは全くのピント外れ。
無智蒙昧、愚痴暗鈍、幼稚低劣、つまり やはり バカ である。

当方の文を読み違えた痴犬の痴文はこうなる。

大聖人は←主語
徹底して御書に基づき
依義判文(えぎはんもん)するんじゃい。←述語

大聖人が御自分で著された「御書」にどう「徹底して」「基づ」き、何を「依義判文」するというのか?呵々
痴犬は、まず人の文をよく読んでから顔を洗って出直してきたまえ。

さて、この読み違えを笑って許してあげるとして、次に哂えるのがやはり「義」において全く為っていない。

■真実の依文判義は本門に限るべし。
■文底の義に依って今経の文を判ずるに、云々
■十章抄に云わく「一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり」等云々。迹門は但文のみ有って其の義無し、
■爾前の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず、文をばかれども義をばけづりすてたるなり乃至諸経を引いて四種を立つれども心は必ず法華経なり」文。
 この文に依ってこれを思うに、法華経の義を成立せんが為に爾前の経文を読む、故に法華の文を読むになるなり。爾前の文義は倶に読むに非ず。文は爾前、義意は法華経なり。「爾前は迹門の依義判文」という。また「文は爾前に在れども義は法華に在り」等の意、これを思え。

との如く、依義判文の本義は法華経文底の本因妙の下種仏法の義に依って、文上の本果妙の脱益仏法の全ての文を判ずることである。

痴犬がこの「依義判文」の意義を全く理解していないという証拠は、↑の駄問で実によく分かる。
1、「御書」の中には、文上・文底、教相・観心、権教・実教、一往・再往、与・奪、などなど、あらゆる角度で文義が説かれている。
痴犬はその中の
@何を以って、
Aどの御文を、
Bどのように判ずるというのか。
全くもって曖昧にして、漠として、対象が定まっていない。
つまり、御書の中の、どの文を、何の義に依って、判ずるというのか。

2、■問う、此の経の謂れを知るとは其の謂れ如何。
 答う、宗祖の云わく「此の経は相伝に非ざれば知り難し」等云々。

この御指南の如くに、真の「依義判文」とは、唯授一人・血脈相承の御相伝に於いて、全ての御文を判じていくことを言うのである。

● 64総本山六十四世日昇上人
(日蓮正宗聖典「序」)
「由来法門上の異説異見は何によって起こるかといえば機根が猶お未だ熟さないうちに自らを省みず直ちに御書の一文一義に執して妄断するからである。即ち我見に任せて己義を立つるからである。古来仏法に於いて相承を尊び師伝を重んずるのは一に此の弊をなからしむるためである。聖祖は『法華経は相伝に非ずんば知り難し』と仰せられている。蓋し仏法の奥底は相伝によって正しく理解することが出来るからである」

痴犬などはまさにこの御指南で厳しく呵責されている未熟者の謗法者である。

●日淳上人 教義研鑽の態度 45
 日興上人の御遺誡に曰く、「御書を心肝に染め極理を師伝し、若し暇あらば台家を学ぶべきこと」と、此れ実に聖祖の教義研鑽の羅針盤たるなり。求道者にして若し此大途を踏みはづさば遂に祖教に体達するを得ざるなり。
御書を心肝に染めざれば聖祖の御霊格に親炙(しんしゃ)し奉るを得ず。而して極理を師伝せざれば我見に堕するを免れず。此二途を完うして智見初めて具はるを得る。然るに古来聖祖門下に於て御書を手にすることを知つて、極理の師伝を知らずこれを忽がせにするもののみを見る、此れが為に我見に堕して救ふべからざるに到る誠に嘆ずべきである。今日異流百出教学の紛乱殆んど収拾すべからざる状態にあり、此の趨勢益々盛にして止まるところを知らぬ有様なるはその依て起るところ此の用意を忘れ眇目を以て祖書を妄断し未得謂為得(未だ得ざるを得為りと謂う)となすが故である。

ここでも痴犬の馬鹿さ加減を日淳上人は痛烈に破折せられている。(ん?痴犬にはこの御指南が難しくて、意味が分からなかったか?)

●65日淳上人 159
世人は妙法蓮華経と日蓮大聖人の尊きをいふも漫然妙法蓮華経を読み大聖人の御書を拝読しをるがためにその御真意に正しく到達することができない様である。既に大聖人は「此経は相伝によらずんば知りがたし」と仰せられて相伝の鍵をもたずに此経の扉を開くことはできないとせられてをる。その鍵こそ日蓮大聖人の御教である。しかして又日蓮大聖人の御教に於てはその御教の扉を開くべき鍵がある。大聖人の御書四百数十篇此れ等の御書はそれぞれの機根に応じて御教示なされた法門であるが故に一律一様に拝することはできない。抑も大聖人は御一代の弘教に序正流通の三段を御立遊ばされ、その御説示には四悉檀を用ひて五重相対等の法門の上に随時御説き遊ばされたのである。それ故此れを拝するものにまたその心得がなくてはならない。しかし乍ら此れ等のことにいたつては末流のよく正当なる領解をなし得ることは困離である。ここに於て大聖人は御入滅に際し御弟子中日興上人を抜んでられて付弟となし給ひ御滅後の大導師たるべしと定めさせられ、若し此れに背くものは非法の衆たるべしと掟てせられたのである。

この御指南もまた、痴犬の思い上がりを徹底的に打ち砕かれておられる御指南である。

痴犬などがどう自分勝手に御書を読んでも、全く無駄。寧ろ害である。
猛省してたちどころに邪義・妄執を翻せ。