痴犬へ鉄槌 34  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 429()20072 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

当方> ■般泥洹経に云はく「当来の世、仮りに袈裟を被て我が法の中に於て出家学道し、懶惰懈怠にして此等の方等契経を誹謗すること有らん。当に知るべし、此等は皆是今日の諸の異道の輩なり」等云云。此の経文を見ん者自身をはづべし。今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは、是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり。法然が一類、大日が一類、念仏宗・禅宗と号して、法華経に捨閉閣抛の四字を副へて制止を加へて、権教の弥陀称名計りを取り立て、教外別伝と号して法華経を月をさす指、只文字をかぞふるなんど笑ふ者は、六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし。うれへなるかなや。
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> ▼では、ここも権実相対の辺において判じるのである。
「方等契経」=法華経「此の経文を見ん者自身をはづべし」=権教の邪僧へ対しての大聖人の破折
「今我等が出家して」=他の権宗の邪僧等と出家した者としては一往同等の立場を仰せになられたものである。
しかし、邪僧等とは全く別であるとの御心は「日蓮は聖人にあらざれども、法華経を説の如く受持すれば聖人の如し。」で明白である。
であるから、「出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なる」者は誰かといえば、「法然が一類、大日が一類、念仏宗・禅宗」の権宗の邪僧等を指しておられるのである。
であるから、痴犬の蛮声「おたくんとこの謗法ハゲが正法を滅するんだよ ハッハハハハハー!」は恥ずかしいだけで、全く不可である。
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痴犬> ●釈尊在世の時に外道のバラモンをやって、仏法を悪口罵詈していた連中が生まれ変わって大聖人を迫害した良観たちのようにそしてまた創価学会が出現し本格的な本尊流布が進められる時代にはそれらの連中が仏立宗の坊主どものような輩として生まれてきて広布を阻もうとしそしてこの連中ども権宗の邪僧等が死ぬと今度は日蓮正宗の中に生まれてくる。ようするに仏意仏勅の創価学会に対して宗門第一尊厳の化儀であったはずの本尊下付を停止し切り捨てたヌケガラ顕チャンはじめ日顕宗のハゲどもの事や。

●全く反論の体すら為していない痴論である。
「創価学会が出現し本格的な本尊流布が進められる時代」〜? は〜〜?
創価学会が広めているものなど、紙屑より何億倍も性質(たち)の悪い、魔性のニセ本尊である。

このゴミ以下の魔性掛け軸が広まれば広まるほど、国も人間も悪くなる一方である。
「世界に190カ国・・」 だなどと浮かれてほざいているが、その割には世界情勢は悪くなる一方である。
つまり、創価学会発売のニセ本尊こそ諸悪の根源である。
創価学会発売のニセ本尊が大謗法であることはかつて痴犬に詰問してある。
しかし痴犬は以下の詰問に未だ反論できていない。
およそ本尊とはその宗派の根本尊仰の対象であるから、絶対的でなければなない。
ということはあらゆる問難に対して明確に反論出来なければ、最勝絶対とは言えない。

再度、補足して詰問する。
痴犬はこの反論に成功しなければ、魔性入りの大謗法・ニセ本尊を創価学会が販売していることを認めたことになる。
それは自身の宗教行為も大謗法であることを否定できず、認めたことになる。
さ、その壊れた人格と、枯渇した邪智を振り絞って、全力で反論せよ。
できなければ、潔く創価学会販売のニセ本尊は大謗法と認め、潔く前非を悔い改め、謝罪し脱会せよ。

※詰問1
@「御本尊」⇒では身延のみやげ掛け軸も「本尊状」であるが、ここへ「南無妙法蓮華経」と唱えたら、正しいのか。
1、「はい」⇒では、身延のみやげ本尊は謗法ではないのだな?
以下の戸田氏(もしくは創価学会)の説に真っ向から違背するがその矛盾を説明せよ。


▼【折伏教典】(折伏教典三二三)
富士大石寺に背く謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがないのである。そこで、もし、このようにたしかなご真筆の御本尊を拝した場合は、大石寺の御法主上人の御手元に移し、改めて感得願いを申し上げて、大御本尊に直結した御本尊として御下げ渡し願えば良いのである。また信仰の対象として一切をささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山においてはご相伝により、代々の御法主猊下お一人が、おしたためあそばされるものであり、我等信者が云々すべきも恐れあることである。三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照らして拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることがはっきりわかるのである。これは不相伝なるが故に仏法の深義に迷うのであって不相伝家は皆本尊に迷うということが言えるのである。
それ(興尊が集めた大聖人御真筆本尊)にもれた一部のものが、ある人々に移り伝わって今日、ご真筆として勝手に信仰の対象とされているのである。ただし、これはちょうど電灯にたとえて考えてみると、(御本尊を電球にたとえることはもったいないことではあるが)ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光を発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光が出ないのである。御本尊が大聖人の御真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものは全て謗法である。

2、「いいえ」⇒創価学会販売のニセ掛け軸(状に見せかけた一枚印刷もの)の本尊もどきと、身延みやげ本尊⇒http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/105.html
はどこがどう違うのか。
教義的に明確に説明せよ。
(かつても同類の詰問を痴犬(他の創価学会員に・・例えば沖浦老耄人とか)にしているが、いまだ、明解がきたことが無い。
この詰問をクリアできなければ貴公ら創価学会員は大謗法のニセ魔仏を拝んでいることになる。
急ぎ急ぎ、身の潔白を証明してみせよ。)