痴犬へ鉄槌 29  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 427()214441 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

次はこれいきますか。

> DATE:  4月24日(月)01時59分32秒
> TITLE: マサシくんこれもヨロピク〜!
> NAME: エロ如68号  MAIL:
>
当方> (マサシくん云く)
> ■然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。又是には総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死のもとゐたらん。
> との御文に末法万年への妙法流伝のために大聖人滅後の「三宝一体」の「僧」の意義が説き置かれているのである。
> またこの義を別の御文では
> ■此の経は相伝に有らざれば知り難し。
> と仰せの通り、別しての血脈=唯授一人の御相伝を伝持された「僧」を通して=尊信して、始めて「総じての血脈=信心の血脈による功徳・領解等」が通い、拝受することが出来るのである。
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痴犬> ●だから〜君ねぇ〜曾谷殿御返事を用いるとは初歩すぎやっちゅーに!〜(笑)「又是れには総別の二義あり」の是れってなんなの?君は大聖人の仏法だというのかい?(爆笑)
> (本文)
> 然るに上行菩薩等末法の始めの五百年に出生して、此の境智の二法たる五字を弘めさせ給ふべしと見えたり。経文赫々たり、明々たり。誰か是れを論ぜん。日蓮は其の人にも非ず、又御使ひにもあらざれども、先づ序分にあらあら弘め候なり。既に上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて、末代悪世の枯槁の衆生に流れかよはし給ふ。是れ智恵の義なり。釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。又是れには総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死のもとゐたらん。例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は、全く弥陀・薬師に遇ひて成仏せず。譬へば大海の水を家内へくみ来たらんには、家内の者皆縁をふるべきなり。然れども汲み来たるところの大海の一滴を閣きて、又他方の大海の水を求めん事は大僻案なり、大愚痴なり。法華経の大海の智恵の水を受けたる根源の師を忘れて、余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはひなるべし。
> (通解)
> 上行菩薩を初めとした地涌の菩薩たちが、末法の初めの五百年にこの裟婆世界に生まれてきて、この境智二法である南無妙法蓮華経の題目を弘めることは経文にはっきりと記されている。誰人もこのことに言いがかりをつけることはできない。日蓮はここに説かれた上行菩薩ではない。またその使いでもないけれども日蓮はこの日本国に南無妙法蓮華経をあらあら弘めた。又この法の付嘱には総付嘱と別付嘱がある。これを弁えないと決して成仏する事はできない。この総付嘱と別付嘱を弁えることが、輪廻生死に成仏していく基本である。@例えば大通智勝仏の第六王子であった歴劫修行中の釈尊に法華経の下種を受けた釈尊在世の声聞たちは、阿弥陀仏や薬師如来に逢っても成仏することはできない。Aまた例えば、大海の水を家の中に汲んでくれば、家の者たちはその水で縁を濡らして潤うことが出来る。けれどもその汲んでくる大海の一滴をさしおいて、よその海の水を汲もうとするのは愚かである。法華経の大海の水を受けた根源の師である大聖人を忘れて、心を余所にうつすのは輪廻生死のわざわいである。
>
> @とAの譬えの意味はなんでっか? 縁のあるものをとって縁のないものを捨てよとの意であるが君は信心の血脈を捨てろと言うんでっか?君、終わってんなぁ〜
> このことは最初の降魔の板を閉鎖してよその板に行ってるときにも質問したはずである
> まだ返答ないよ!
>
> ●ヌケガラ顕ちゃん説法(S55年7月8日)於:札幌妙立寺)
> 「ただいま拝読したところの最初の御文は、法華経の文上において、別して法華経を要法に結んで地涌の菩薩に付嘱せられた「神力品」における「別付嘱」と「嘱累品」で示される「総付嘱」との二つの付嘱の違いがあることを仰せであります。」
> ↑こう言ってくれてるんやけどなぁ〜法華経の総付嘱と別付嘱のことや言ってまっせ〜 どうしてくれるんや?
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●やはりバカには文が読めないか。さもなくば、ニセ本尊の猛毒・三宝誹謗の大謗法の報いで、物事を覚えてられないのか?
総別の二義については完璧に粉砕している。

再掲

 学会の邪義

▼教義に基づいていえば、「総別の二義」についての『曾谷殿御返事』の御文は、「法華経の付嘱(ふぞく)には総別の二義がある」として、文上の付嘱についての総別を述べているもの。つまり、嘱累(ぞくるい)品における迹化の菩薩も含めた弟子への滅後流布の付嘱を総付嘱と呼び、神力(じんりき)品における本化の菩薩への付嘱を別付嘱と呼ぶ、ということであって、この文には法主への付嘱などという意味は一切ない。
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《破折》

確かに『曾谷殿御返事』の該文の前段に、
■「此の境智の二法は何物ぞ。但南無妙法蓮華経の五字なり。此の五字を地涌の大士を召し出だして結要付嘱せしめ給ふ。是を本化付嘱の法門
とは云ふなり。」とあり、日顕上人も一応そのような意義に於いての御指南もされたこともある。

しかし、日顕上人の御指南に有るが如く、再往、奪の意に於いては、やはり別付属である唯授一人・血脈相承に於いて総別の二義を立てる談道なのである。
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日顕上人御指南

■「「総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死のもとゐたらん」 (御書一〇三九骰)
とは、建治二年八月二日の『曽谷殿御返事』の御文です。
 これについては、以前に私がこの御書を講じたとき、冒頭よりの南無妙法蓮華経の付嘱に関する一連の文を受けている「総別の二義」の文を、通途の法華経本門の神力、嘱累の二品における総付嘱、別付嘱の関係に当てて、一往、解釈したことがあります。
 これは、地涌・上行菩薩への付嘱が神力結要を中心としつつ、かたわら嘱累総付嘱にもわたっていることと、その嘱累一経付嘱を内容とする迹化付嘱をも含むことから、意味を広く見たのです。
 すなわち、この御書の総別の関係を、与えて法華経の別付、総付に一往当てはめ、さらに進んで、別付の法体を寿量文底、すなわち種脱のけじめより、本仏大聖人の三大秘法として拝すべき趣意で述べたのであります(大日蓮 昭和五十六年七月号・五十七年四月号に掲載)。
 しかし、『曽谷殿御返事』の冒頭より、南無妙法蓮華経の七字の上行結要のみを説き給う御文と、これを受けて「又是には総別の二義あり」に続く文義・文脈を子細に拝するとき、この文の正意は神力結要のみであって、嘱累にわたる意は全くありません。
 したがって、この御文の正義は、奪の意をもって神力結要の一筋に絞って総別の二義の立て分けを拝するところにあります。
 故に、以前の解釈は経文上の全体より見た与の義でありましたが、これより拝考するところは、御文のとおり、神力別付の上の授与と弘通の御指南を元とする奪の義としての立て分けであることを、まず申しておきます。
 彼等は「総別の二義」という問題について、血脈伝承との関係において、まず「本来の意味と違うことを主張しておる切り文だ」との旨を言っておるのです。
 しかし、きちんと御書を拝せば、総別の二義とは、仏法の本筋たる一切衆生の成仏教導と、血脈付法の相承・相伝の上からの意義があり、そのように拝すべきであります。
 ところが、彼等はこれを絶対に否定したいのであり、そういうところから、この文を最初に持ってきておると推察されます。」

詳細は

http://toyoda.tv/neirakuji.htm#16
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#18

さあ、破折されつくされていることをくどくどと繰り返してないで、遠慮しないで新しい切り口で反論してみたまえ。