痴犬へ鉄槌 26  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 427()122817 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

痴犬>  つまり、日寛上人は法主本尊義を知って憂慮され、後世の宗徒が、
> かかる邪義に陥らぬよう正しい本尊義、三宝論を立てられたのであ
> る。「行者謹んで次第を超越する勿れ」(当家三衣抄)との日寛上
> 人の願いを、あろうことか、ヌケガラ顕ちゃんが踏みにじったんだよ 。
> じゃ〜またね〜。

●実に底の浅い、まさに愚昧な謗法者らしい恥論である。

痴犬は、この■「行者謹んで次第を超越する勿れ」との意味が、謗法の報いで脳髄腐敗の故にか、全く取り違えているざまが惨めでもあり、哀れさを誘う。
そもそも、『当家三衣抄』文は、
■南無仏・南無法・南無僧とは、若し当流の意は、(中略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師。此くの如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし云云。(六巻抄二二五頁)
と示されている。

↓詳述
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#9
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#10
↑にも痴犬からの道理においての明確な反論が未だ無い。
降参なら潔くそう言い給え。
そして深く謝罪の意を表し、脱会。いいな。)

したがってこの文は、本宗の信仰において三宝を念ずることを御教示されたものであり、中において、日興上人、日目上人以来の御歴代上人を僧宝として拝すべきことを明確に御指南されるとともに、行者即ち本宗僧俗は、仏法僧の三宝を拝するという「次第」を越えてはならないとの意である。
その「次第」を越えたならば、成仏の妨げとなる。
この■「行者謹んで次第を超越する勿れ」の御指南は、宗祖大聖人以来唯授一人の血脈を承継され、尊信すべき血脈付法の御法主上人を、能所の「次第」を越えて蔑ろにする痴犬らの邪義を厳しく誡められたものである。

また痴犬は、”日寛上人は法主本尊義を知って憂慮され”云々というが、
池田大作が、
▲「唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべきなのであります。」(聖教新聞昭和五十四年五月四日付)
と述べていたように、御法主上人の御内証は大聖人と一体であると拝すべきなのである。
ただし日顕上人が、
■「たしかに本宗信徒の立場からは、歴代法主の内証を大聖人様と拝することが、信仰上、大切でありますが、そこには三宝における内証と外用等の甚深の立て分け、筋道があるのです。
(中略)しかし、それと学会が論難する「法主即大聖人」や「法主本仏」などとは、筋道も意義も異なるのであり、そのようなことは全く宗門には存在しておりません。
存在していないにもかかわらず、さも存在している如く誣告するのが、創価学会の卑劣なやり方であります。(創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す二四五頁)」
と御指南されるように、法主即日蓮∞法主信仰≠ネどと、あたかも御法主上人個人が信仰の対象であるかのように述べる痴犬らの義は、もとより本宗には存在しない。
したがって日寛上人が「法主信仰」を∞否定され≠驍アとなど、あり得ないのである。